2話 出発の時
結婚の話が決まってからはあっという間に時間が通り過ぎていった。
サラール国の文化や歴史、言語をひたすらに学ぶ生活だった。それに加え、引越しのための準備や婚礼の儀に必要な衣装などの用意、契約書に書かれていた貿易で使う物産品も持ち込まなければならないため、それの用意も必要だった。
特に、言語を習得するのが大変だった。自分の国にはない発音に苦労し、慣れない文法のせいで文章を書くことにも苦労した。
流石に言語を学ばずに嫁ぐわけにはいかないので必死に勉強をしたが、これが現地で通用するのかはわからない。でも、できる限りのことはしたと思う。
クロエもなんとか日常での簡単な会話に困らないくらいには覚えることができたらしい。彼女は、私ほど覚えなくていいとはいえ異国の言語を覚えるのは苦労しただろう。侍女としての仕事がある中で覚えるのは大変だったに違いない。
でも言語が多い分、歴史は浅くて学ぶ量が少なかったのは正直助かった。これで歴史の長い国だったらどこかは削らなければならなかっただろう。
(これで、少しでも受け入れてもらえるといいのだけど)
契約結婚とはいえ、私の存在を受け入れてくれるかはわからない。
嫌な顔をする人だっているだろうし、そもそも自分の夫となるアール王に受け入れてもらえるのかも不安だ。
私はこの結婚に好意的かどうかと聞かれれば、もちろん好意的だ。
自国はもちろん、相手の国も豊かになって繁栄していくのであればそれだけでも結婚をする価値はある。
でも、そう思っているのは私だけかもしれない。
国のためとはいえ、結婚は仕方なく受け入れた可能性だってある。
報告をしてくれたお父様の様子を思い出せば、結婚に喜んでいた。結婚を条件にこの契約を持ち込んでいるお父様の姿は容易に想像ができる。
あちらが結婚という条件を飲み込んだのにも理由はあるのだろうが、それでも私自身を受け入れてもらえるのかはわからない。形だけの花嫁で、私という人間は能力的に必要がない可能性は高い。
何はともあれ、自分にできることはやった。
あとはあちらで生きていくだけ……。
(……国のための、犠牲)
わかっている。自分は王族で、自由に生きることができない身であることはわかっているし、理解もしている。
自分の国が良くなるなら結婚をするのだって構わない。
でも、本当の意思はどこにあるのだろう。
自国のために嫁ぐというのに、自国の人間ではなくなる。
矛盾だ。
嫁げばこちらに戻ってくることはほとんどない。
今は自分の国と言っているが、それも変わる。私はテイル王国民からサラール国民になり、結婚と同時にサラール国の王妃にもなる。その責任も背負わなければならない。
わかっていたことだけど、嫁げばテイル王国を自国と言えなくなる。そのことに無性に心の奥が狭くなるような気がした。
’前世’の私はよく「どこかの国の姫にでもなって素敵な結婚がしたーい」と言っていたが、望まない結婚だとしても彼女は素敵な結婚だと言って受け入れるのだろうか。私の’前世’である彼女が望んだ結果、このような生き方にでもなっているのだろうか。まぁ、どの生まれでも人生には苦労が伴うだろうし、あれが嫌でこれも嫌だと言うと思う。結局は本人次第で、人生の全てに満足がいく人はほとんどいないだろう。
「お嬢様、そろそろ……」
前世の自分を思い出すという、現実離れをした考えをしていると、そばにいたクロエが心配そうな顔で声をかけてきた。
時間を確認すれば、もうそろそろで家を出なければならない時間だった。
「わかったわ、行きましょう」
手荷物を持ち、自室を出る。
ドアの前に立ち、自分の部屋をあらためて見ればすでに殺風景だった。部屋には大きな家具や持っていく必要のないものだけが置かれている。
名残惜しいという気持ちのままドアを閉め、玄関ホールへと向かった。
「イラベル」
静かに名前を呼んだのは、お母様だった。
表情は明るく見えるが、目にはうっすらと涙が見える。
「どうか、元気でね。落ち着いたら手紙を送ってちょうだい……あなたは立派なサラール国の王妃になると思っているわ。本当に、自慢の娘よ」
「お母様……」
お母様に強く抱きしめられる。それを抱きしめ返せば、お母様が鼻を啜った音がした。
「ありがとうございます。必ずや、立派な王妃となりサラール国の貢献に努めます」
後ろで見ていたお父様にも声をかけられる。
「急な結婚の話で戸惑っただろう。この結婚で、我が国は繁栄して今よりも良い国になる。お前には感謝してもしきれん……私の力のみでこの国を成長させることができず、申し訳ない」
「謝らないでください。お父様やお母様、そして国を離れることはとても寂しいですが、テイル王国が成長することは私の願っていることでもあります」
嘘ではない。
それでも、涙が静かに溢れてきてしまうのはどうすれば良いのだろう。
「……絶対に、立派な王妃となってどちらの国も繁栄させます」
もう一度、お母様に強く抱きしめられる。
大きく深呼吸をしてから、そっとお母様の腕を自分から離した。
「イラベル様、馬車の用意ができました」
いよいよ出発だ。
馬車に乗って港へと行き、船に乗って旅をする。
長旅になるだろうが、一週間もあれば寂しいという気持ちも徐々に薄まるだろう。
「お父様、お母様。今までの十八年間、大変お世話になりました。私、イラベル・テイルは国民にも恵まれ、この国の王女としてとても幸せでした。本当に、ありがとうございました」
ドレスの裾を持ち上げ、最大限の敬意と感謝の意をもってカーテシーをした。
その姿を見て、両親とも礼を返してくれた。
玄関をくぐり、用意されている馬車に乗り込んだ。
一緒に乗ってきたクロエはひどく涙ぐんでいる。
「……クロエ、大丈夫?」
「す、すみません。お嬢様が、本当に、立派になられたと感動してしまって……!」
この調子で大丈夫だろうかと心配にもなるが、クロエがこの様子だから自分は冷静になれているのかもしれない。
御者の掛け声と同時に、馬車が動き出す。窓を覗き込めばお母様が手を振ってお見送りをしてくれていた。それに自分も手を振り、馬車は城の敷地から出た。
街を走っていると、国民のみんなが手を振って「いってらっしゃいませ!」と言いながら名前を呼んでくれていた。
快く見送ってくれる国民たちには感謝しかない。中には別の国に嫁ぐことでテイル王国を捨てたと思う人物もいるだろうが、大半は祝福をしてくれている。
実際、私の結婚が決まった新聞が発行された時は祝福の手紙が多く届いた。とても幸せなことだ。
だからこそ、この国を離れることが寂しい。
一時間ほど馬車を走らせると、少しづつ海が見えてきた。
港にも多くの人が集まっていて、馬車を見つけるとわっと歓声が湧いた。
「イラベル様、おめでとうございます!」
「いってらっしゃいませー!」
「お幸せにー!」
港に到着し、馬車から降りると多くの人がたくさん声をかけてくれた。
王女として、国民にここまで声をかけてもらえることは幸せだ。
「皆様、お見送りに来てくださり本当にありがとうございます。国民にも恵まれ、私、イラベルはこの国に王女として本当に幸せでした。今回の結婚で、テイル王国をもっと繁栄させることをここに約束します!」
宣言をすると、民衆は歓声を上げた。
中には涙を流す者もいる。
こんなにも祝福の声を伝えてくれることに嬉しく思う。そして、自分生き方は間違っていなかったのだと実感する。
いよいよ船に乗り込む時間がやってきた。これに乗れば、もう後戻りはできない。
ゆっくりと、最後の地面を噛み締めるように歩みを進める。
タラップに足を乗せ、最後までゆっくりと歩きを進めた。船に乗り込み、振り返ると国民が手を振ってくれていた。自分も手を振っていると、船が動き出した。
私は後ろ髪を引かれる思いに気づかないよう、彼らの姿が小さく見えなくなるまで手を振った。
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