風変りな屋敷
ちっちゃいころ、少女漫画がすきだった。
ピアノの先生をしていた母の部屋にはいつもたくさんの本があって、それを読んで、胸をときめかせていた。
僕もいろんなかっこいい人に奪い合いされたいな。そしていつか、泥沼のような愛憎劇の末に、白馬に乗った王子様と出会うけど、その人には想い人がいて、悲しみで海に身を投げて、いろんな人に悲しまれながら一生を終えたい。
だって、ハッピーエンドなんてつまんないだけだし、どんなものにも賞味期限があるものだから。どうせなら、若くてきれいな内にこの世からおさらばしたいものだ。
そのためには、魅力的な殿方を射止める乙女になるためには・・・
そして考え付いたのがスパイになることだった。
国のお抱えのスパイになれば、いちおう国家公務員という扱いだし、ほかの国のえらくて頭がいい人にも多分いっぱい会える。
でもそんなことは全部、ロシスだけの秘密だ。
ないしょはすべて、秘密のあんごうでノートに書きつけてある。
ロシスの幼馴染はすこしめんどくさいやつで、カギをかけた日記帳もどうやってかこっそり読んで、ロシスの親とかにチクりまくる、困ったさんだったので、誰も解読できない文字を習得することにしたのだ。
その文字は悪魔語と言われていると知ったのは、ロシスがもっと大きくなってからだ。
忌み嫌われる悪魔が使う言葉で、それに関する本は、本来なら一切発行を認められていない。
でもそのことを知らなかったロシスは、その風変りな言葉を気に入ってた。
ロシスの16歳の誕生日に、母親が買い忘れた生クリームを買いにお使いにいったきり、彼は姿をくらませた。
それは、ずっとずっと前から計画していたことだった。
そして森のかたすみにあるスパイ養成学校に入り、きびしい研修を受け、3年後、仮のスパイとして無事卒業したのだ。
いま、ロシスは電車に揺られていた。
人気のほとんどない電車。
卒業式の日、彼は教官から、はじめての任務がかかれた書類を手渡された。
「これははじめての任務ですが、それと同時に、正式なスパイとして認めるための、修了試験でもあります。」
教官の整った顔を思い出す。
髪を後ろになでつけた端正な顔の教官は、ロシスがすっぽり隠れてしまうほどの体格があり、ロシスが入学してから卒業するまで、そのお面のような表情を一度も乱すことがなかった。
ログマ教官。
彼の顔を思い浮かべるだけで体がぞわっとした。
ロシスは今日から、ただの平凡な少年でも、スパイの卵でもなく、田舎からやってきた貧しい少年だ。
彼はそっとひみつのノートを開いた。
そこには、大事なことと、やるべきことが書いてある。
ロシスの人生の道しるべになるものだ。
ノートをそっと閉じ、ロシスは物思いにふけった。
電車がとまり、駅を出た。
そこは潮風の心地よい、郊外の小さな町だった。
少しだけ故郷を思い出したが、それも一瞬のことだった。
感情を制御する訓練をいっぱいしてきたたまものだ。
ポケットからとりだした地図を見ながら、屋敷を探す。
森のようにうっそうと茂った庭にうもれるようにして、その大きな大きなお屋敷はあった。
ここが今日からロシスが働く場所だ。
ツタがからんだ白い壁にそなえつけられた呼び鈴を鳴らした。
すると、しばらくしてから屋敷の人がやってきた。
使用人らしいそのおじいさんは、丁寧にロシスに挨拶をし、屋敷に招き入れた。
「こちらがご主人さまのお部屋になります。
今日からあなたの養父となり、あなたの勉学を支えてくださるお方です。」
屋敷の中をひととおり紹介されながら歩き回り、最後に通されたのは、そこだけ切り取られたような不思議な雰囲気のある扉の前だった。
なんでも、改装したお屋敷のうち、どこも変えていない唯一の場所だそうだ。
緊張なんて感情は忘れた。
あるのは・・・強い意志だけだ。
金のドアの取っ手を開ける。
その瞬間、強い風が部屋の奥から吹いて、おもわず目をつむってしまう。
つぎに目を開けた時、とびこんできたのはきれいな男の人の姿だった。
屋敷の主人は予想に反しうら若く、せいぜい30代前半にみえた。
「こんにちは。ロシスと申します。ご挨拶がおくれまして、申し訳ございません。」
「いや、待ってないから構わない。」
主人はその名をカイ・イカルスといった。
カイ様は寛大でお優しかったが、その奥になにかが隠れているような気がした。
学校でたたきこまれた危険予知だ。
その正体はまだわからないが・・・
カイはすこしぎこちない笑みをうかべて、ロシスを歓迎した。