第6話
彼には多くの仲間がいた――。
彼には多くの民達がいた――。
彼には一人の愛する女性がいた――。
戦士として戦い、王として国を治め、男として側に居続けた。
幸せだった――何もかもに満ち溢れ、ただの一つにも不満を抱くことはなかった。与えられた物ではなく、自らの力で手に入れた物で心を満たし、分け与え、新たな命を守り育んできた。
彼はそれで満足だった。満足しないわけがなかった。これが望んでいた幸せ、もうそれ以上必要無い、これ以上の幸せはまだ持っていない者達に全て与えていたほどだ。
だが――そんな幸せは最後まで続かないのが世の常だ。必ず何処かで最大の苦難が訪れて幸せを崩しにかかる。その苦難を何度も乗り越えてきたからこそ、次も乗り越えられると確信していた。
そんなもの――在りはしないと言うのに。
彼は全てを失った。たった一夜にしてだ。彼の持つ力を以てしても、訪れた絶望には太刀打ちできなかった。
ある概神が彼等の前に現れた。それは森羅万象に終わりを与える者であり、彼等に終わりを与えにやって来た。
彼等は抗った。抗ったつもりだった。だがそれは概神にとってさして気にも留めないものだった。彼の仲間は奪われ、民達も奪われ、愛する女性も目の前で奪われた。
最後に残ったのは彼だけ。人も国も希望も何もかもを奪われ、彼は慟哭するしかなかった。そして概神は最後の仕上げだと彼に終わりを授ける。
けれども彼は、何かが狂ったのか終われなかった。終わることのない終わりの苦しみを身に宿すことになり、己が何者かもわからなくなり、何も残らなかった地に独り残されることになった。
彼は――戦士は――男は――レンヴァルトは――。
誰かに見付けられるまで世界を彷徨う。その誰かと出会うまで――。
★
「――」
夢から醒めたレンヴァルトは、綺咲人が心配そうな顔で覗き込んできているのに気が付く。
今は深夜で、焚き火を囲んで野宿をしている。先に寝たはずの綺咲人が起きているのを見て、どうやら起こしてしまったらしいと察する。
「すまない、起こしたか」
「……おじさん、魘されていた」
綺咲人にそう言われ、レンヴァルトは先程の悪夢を思い出す。それで魘されて綺咲人を起こしてしまったらしい。
レンヴァルトは綺咲人に「大丈夫だ」と言い、木にもたれ掛かっていた身体を起こす。変な体勢で寝ていた所為か、節々がポキポキと音を鳴らす。小さくなっている焚き火に枯れ木を放り込み、火の暖かさでまだ少し寝ぼけている頭をスッキリさせていく。
綺咲人もすぐに眠り直すことはせず、レンヴァルトの隣にピトリとくっ付くように腰を下ろす。完全に目を覚まさせてしまったかなと、少しばかりの罪悪感を抱くレンヴァルト。少しの間、二人には沈黙が流れたが、ふと、綺咲人からレンヴァルトに問いを投げ掛ける。
「おじさん、どんな夢を見てたんだ?」
怖ず怖ずといった声色に、レンヴァルトは小さく笑う。
「遠い……遠い昔のことだ」
「……おじさんの昔って、どんなのだ?」
答えてくれたことに安堵したのか、綺咲人はもう少し踏み入る。レンヴァルトも教えて良いかと、躊躇いなく、少しだけ昔を懐かしむように話し出す。
「そうだな……俺はとある国の戦士だった」
「せんし?」
「天原でいう武士さ。天原よりも過酷な国でな。どの部族が国を治めるのかずっと戦が続いてた。俺もその端くれで、戦っては飲んで、戦っては食って、戦っては遊んで。楽しい国だった」
綺咲人は初めてレンヴァルトが穏やかに笑っている顔を見た。今まで優しく微笑んでくれたことはあったが、そんなものよりももっと暖かくて眩しい微笑みを浮かべている。
だが疑問に思うことがある。戦というものは綺咲人も知っている。人と人の殺し合いであり、決して楽しいものではないはずだ。だというのにレンヴァルトは楽しいと確かに口にした。殺しが楽しいと宣うような狂人とは思えない。
「戦が楽しかったのか?」
「……そこは価値観、文化の違いだな。俺の国では戦こそが生きる意味だった」
「まぁ、武士も似たようなところがある。母上の話と今まで見てきた武士から学んだことだが」
「そんな国で俺は育った。まぁ、もう無くなっちまったがな。あぁ、それから飯は美味い。天原の飯も美味いが、俺からすれば薄味だ。俺の好物は――」
「……【あーなす】とは、何だ?」
「ッ――!?」
レンヴァルトの口が乗ってきたその時、綺咲人が口にした言葉に固まる。目を見開き、どうしてそれを知っているのかと驚愕の表情に染まっていた。綺咲人は訊いてはいけなかったことかと思い小さな口を手で押さえる。
レンヴァルトは少しだけ怖いと思える顔で、ゆっくりと綺咲人へと顔を向ける。
「……どうしてその名を知ってる?」
「う、魘されてる時に……何度も口にしていた」
「……」
顔を手で覆い、やってしまったと言わんばかりに項垂れる。
名――レンヴァルトはそう言った。つまりは【アーナス】という名前だ。その人物がレンヴァルトにとって何なのかはわからないが、悪夢の中に出て来るということは、彼の人生に大きな変化を齎した人物なのだろう。少なくとも、良い影響ではないのは確かだと言える。
思わぬ名前を綺咲人から聞かされたレンヴァルトは、怯えている綺咲人の頭に手をポンッと置き、諦めたように溜息を吐く。綺咲人はやはり訊いては拙かったことかと罪悪感を抱く。
「すまぬ……」
「いや、怖がらせたな。お前は悪くない」
「……」
綺咲人の頭を優しく撫でながら、レンヴァルトはもう一度深く息をする。そして考える。ここではぐらかしたり誤魔化したり、何も言わないでいるというのも変な話だ。一度口にしてしまったのなら、いっそのことある程度吐き出してしまった方が楽なのかもしれない。魘されて名前を口にしているのなら尚のこと。相手が子供といえど、誰かに胸の内を曝け出すのは必要なのかもしれない。
レンヴァルトはもう一度だけ深く息をする。
「アーナスってのは……死別した俺の妻だ」
「嫁が居ったのか?」
「ああ……。良い女だった。誰よりも強く、誰よりも美人で、誰よりも気高い最高の女だった。俺達はいつもあらゆる腕を競い合って絆を深めていてな。二人でなら何でも乗り越えられた。いつか倅もできて家族を持てると思ってた……」
と、ここでレンヴァルトの表情に影が差す。寂しそうで悲しそう、辛そうで苦しそうな、そんな感情が綺咲人に伝わってくる。ピトリとくっ付いている身体からも僅かに震えが伝わってくる。辛いならそれ以上話さなくてもいいと綺咲人は伝えようとしたが、「いや、話させてくれ」と懇願するようにレンヴァルトが遮る。
「ある日のことだ。とある概神が俺達の国に現れた。そいつは俺達の国を滅ぼした。俺の仲間も、友も、民も……アーナスも全員俺の前から居なくなっちまった」
「……」
レンヴァルトの手に力が籠もる。その手から伝わってくるのは冷たいモノだった。『絶悪』の神子だからなのか、彼の内にある神域エネルギーから悪感情を強く感じてしまう。
レンヴァルトは遠くの夜空を睨み付けながら、心の奥底に眠る憎悪を呼び覚ますように語り続ける。
「奴は俺も終わらせようとした。だが何の因果か、俺は終わることができなかった。終わることができない身体になり、一時は自分が誰かもわからないまま世界を彷徨い続けた……」
「……おじさんの力は、その概神にか?」
「そうだ……。どうやっても死ねない、老いることもできない身体、命ある者が触れれば必ず死ぬ神域エネルギー……。お前に言わせてみれば、俺もその概神の神子ってところだ」
そう言って、レンヴァルトは自分の右脇腹を見せる。そこには角と翼のような黒い痣が浮かんでいた。綺咲人の内股にある痣と似たものだ。
レンヴァルトの口から己も神子だと聞かされ、綺咲人は驚きと同時に嬉しさと感激が胸の内から込み上がってくるのを感じた。今まで自分は誰とも違う孤独な存在だと思っていた。誰にも気持ちを理解されないのだと、人の輪に入ることができないのだと思っていた。
しかし、綺咲人の目の前にいる男は違う。彼は同じ――己と同じ存在なのだ。成り立ちは違えど、同じ特別な存在。悲しい過去を話してくれているレンヴァルトには申し訳なさを抱きながらも、綺咲人は親近感という暖かい感情を胸に生んでいた。
それを知ってか知らずか、レンヴァルトはフッと笑いの息を漏らし、綺咲人の頭をワシャワシャと撫でる。
「世界には俺やお前以外にも特別な奴がいる。だから寂しくはないさ」
その言葉は果たして綺咲人に向けたものなのだろうか。それとも死ねない身体になり周りに置いて行かれてしまう己に向けたものだろうか。真意はレンヴァルトしかわからないが、綺咲人は今の言葉をしっかりと胸に刻んだ。
最後に、綺咲人はもう一つ気になることを訊ねる。
「おじさん、四明と戦ってる時の言葉……刃で殺さないとか、何とか。あれは?」
「ん? よく聞こえてたな。『我は刃で殺さぬ。我は魂で殺す。それが汝への手向けなり』――アーナスがよく口にしていた心情でな。相手の命を奪う時、その行為と命の重みをしっかりと背負う覚悟を表す言葉だ。まぁ、平たく言えば『これから手前が行うことをしっかりと考えろ』ってことさ」
「ふ~ん……」
パチッ、と焚き火が弾ける。少し長く話しすぎたと、レンヴァルトは綺咲人を寝かしつける。胡座をかいている脚を枕代わりにし、掛け布団にしていた替えの着物を肩まで掛けてやる。
「おじさん」
「ん?」
「今日は眠れると良いな」
「……おやすみ」
綺咲人は頷いて目を閉じ、少ししたら寝息を立て始めた。
その寝顔を眺めながら、レンヴァルトは堪忍したような何とも言えない表情を浮かべる。
――気付かれてた、か。
レンヴァルトは己の不甲斐なさに呆れる。
綺咲人は気が付いていたのだ。レンヴァルトが毎晩眠れていないことに。綺咲人を寝かせた後、レンヴァルトは眠ろうという動作をするも、結局は一睡もできずにいた。時折眠れたとなれば悪夢に魘されてすぐに起きてしまう。もう最後に眠れたのがいつなのか思い出せない程に長い間眠れていない。
それなのに普通に生活を送れているのは、先程レンヴァルトが口にした死ねない身体に関係する。レンヴァルトの身体は傷だけではなく、身体の不調といったものも治してしまうのだ。その所為で睡眠不足で倒れることも、例え食事ができずとも栄養失調にはならず、毒や病原菌が体内に入っても解毒してしまうのだ。
何も知らない欲深い人間が知ればその体質を羨むだろう。だがこれは神の祝福ではなく呪いなのだ。苦しいのに死ねない、痛いのに死ねない、熱いのに死ねない、どんなに激しい苦痛の最中でも死という終わりを得られないのは、果たして幸せなことなのだろうか。
そして親しい人間ができたとしても、必ず先立たれるという絶望。そんなのが祝福のわけがない。少なくとも、レンヴァルトはそう考えている。