06
「あなたを愛してる」
帝国の月となるため、いずれ皇帝となる男に嫁ぐためだけに育てられた辺境伯家の長女、ヴァージニア・フローライトがその人生で唯一愛し、欲したのは、異民族の血を引く天真爛漫な男爵令嬢、ナージャ・ウィスカートただ一人だけだった。
「私もジニーのことが大好き!」
けれど、ヴァージニアがナージャに欲した愛情と、ナージャが無邪気に返した好意は、種類が違っていた、と思う。
「……ありがとう。とても嬉しいわ」
「へへっ、なんか照れちゃうな。ジニーがいつか皇后様になっても、ずっと私と友達でいてね!」
「……勿論よ。ずっとそばにいさせてちょうだい」
その違いを明確に口に出し、ナージャに愛を告げることは、神の理に反した禁忌だと分かっていた。
女のヴァージニアには、ナージャを本当の意味で自分のものにする手段がなかった。せいぜい、侍女にして傍に置くことぐらいだ。それだって簡単なことではなかった。皇后候補の令嬢の侍女ともなれば、選抜にもある程度守るべき規則があり、誰でも好きに選ぶことができるわけではない。ヴァージニアの人生は、ヴァージニア自身で選び取れたことはほとんどないに等しかった。
自分以外に山ほどの側室を囲っていたにも関わらず、男児に恵まれないことに焦った皇帝――エイデンが、結婚してから十年も経って、突然ナージャを娶ったのは青天の霹靂だった。
「陛下!なぜ……なぜ、ウィスカート嬢を!?」
「なんだ、今更側室の一人を気にする玉か?皇后」
「そうではありません、あの子は既に子爵令息と婚約が決まっていたはず!」
「あの程度の貴族との婚約など破棄させたに決まっている」
「なっ……!」
近々ナージャと結婚することになっていたのは、辺境伯領の近くに居を構える子爵家の三男坊のリックで、朴訥として垢抜けない、絵に描いたような田舎貴族ではあるが、誠実で心優しく、領民からも慕われている好青年で、政略結婚ではあったものの、ナージャとも仲睦まじかった。
ヴァージニアも、彼ならばきっと彼女を幸せにしてくれるだろうと思っていた。
「あの娘の血は私に男児を齎す最後の希望だ。皇后が、側室たちが能無しなばかりに、とうとう得体の知れない異民族の血まで皇室に入れなければならなくなった」
ムルム族をそれほど汚らわしく思っているなら、ナージャを選ぶ必然性などない。十人でも二十人でも適当な貴族令嬢を側室を迎え、子供を産ませればきっとそのうち男児だって産まれる。
――なぜナージャなの。あの子をこんな血なまぐさい場所へ迎え入れたら、必ず不幸になる。万が一あの子が、本当に男児を生んだらどうなる。必ずあのハイエナのような側室たちや、高位貴族どもの餌食になる。
「どうかそれだけはお辞めください!」
「……そうか、あの娘はお前と付き合いが長いんだったな。だが皇后、これはお前の無能が齎した結果でもあるのだ」
情に訴えたところでどうにもならない。
皇帝はそんなことを聞き入れるような甘い男ではない。
「それでも!……ムルム族の血が、選ばれた青き血のみで形作られた皇室の血脈の中に入るなんて!周囲も、生まれてくる子も不幸になる!どうかお考え直し下さい!」
「皇后陛下!」
執事の声で、ハッとした。
……彼の傍で震えながらカーテシーをしてみせたのは、見慣れない豪奢なドレスに身を包んだナージャだった。
「……あ、あの……て、帝国の太陽と月、皇帝陛下と皇后陛下に拝謁いたします」
全身からの血の気が引いた。
――一番聞かれたくなかった人に、聞かれた。
暴言を吐き捨てる、帝国貴族のような醜い姿を――。
あんな酷いことを言ってしまったのに、ナージャはヴァージニアの訪問を拒まなかった。
「ジニー、来てくれたんだね」
「ナージャ……」
ベッドに横になったナージャは、悪阻が酷く、あまり食べられていないという。ナージャの桃色の丸っこく愛らしかった頬は、痩せこけて青白く、かつての健康的な少女の姿は見る影もなかった。
「本当に……ごめんなさい……」
なんのことか分かったのだろう。
ナージャは柔らかく微笑んだ。
「謝らないで。私のために言ってくれたんだって分かってるわ。ジニーが本心からそんなこと思うはずないもの」
「ナージャ……!」
ヴァージニアはナージャの寝かされた豪奢なベッドに駆け寄り、その手を取って声を上げて泣いた。
「私……本当は、こんな地獄のようなところにあなたに来てほしくなかったの!本当ならあなたは今頃、子爵領でポートマン令息と幸せに暮らしているはずだったのに!」
「そんなこと言わないで……リックに、もう一度会いたいのは本当だけれど、この子に会えたのはここに来たからだとも思ってるわ」
ナージャは、まだ大きくなっていない腹をそっと撫でた。
「ジニーにだけ教えてあげるね。……この子、きっと男の子よ」
「……どうしてわかるの?」
「ムルムの女は、どんな赤ちゃんが生まれてくるか、お腹にいる時から分かるの……私にも分かる……賢くて優しい男の子が……ここにいるって……」
我が子をあやすように、ナージャがリズムを取るように、指先で優しくお腹を叩く。
「皇子様だもの……きっと苦労の多い人生だと思う。たくさん辛くて悲しい思いもするでしょう。でも、あなたを愛してくれる人が必ず見つかるわ。心の底から信頼し合える、私にとってのジニーやリックのような人を見つけて、笑顔でいっぱいの人生を過ごしてほしい。私の赤ちゃん……」
「ナージャ……」
「ああ、でも……この子の傍で、この子が立派になるのを……見守れないのは……結構、悔しいかも……」
「何を言ってるの!?助産婦は安全に産めるよう最善を尽くすと言ったわ、絶対に大丈夫よ!産んだ後だって、私があなたとその子を守ってみせる、必ず!」
ナージャは、ヴァージニアの言葉に曖昧に微笑んだ。
「……あのね、ジニー。お願いがあるの。この子の名前はジニーが付けてくれないかな」
「私に?」
「皇帝陛下にお許しを頂いたの。私が男の子を産めたら、その時は名付け親を皇后陛下にしてほしいって」
「……!」
「ジニーは、この子のもう一人のお母さんだよ」
……堰を切ったように大粒の涙が溢れ出し、ヴァージニアはナージャの胸に崩れ落ちた。
ヴァージニアの崩れた髪を撫で、ナージャの頬にも涙が伝う。
「ずっとずっと大好きだよジニー。自分勝手でごめんね。私の皇子様のこと、よろしくね」
ムルム族の言い伝えは本当なのだろう。
ナージャが産んだ子は本当に男の子だった。
皇帝は狂喜し、国中で皇子の誕生を祝う盛大な祭りが開かれた。約束を守り、皇帝はヴァージニアに名付けの権利を与え、ヴァージニアは皇子に"ノエル(誕生)"と名付けた。
しかし、その祭りの最中も、産後のナージャは体力が戻るどころか、どんどん弱っていった。皇室のお抱えの医者でも明確な原因が分からないまま、ノエルが生まれて一か月と経たないうちに、ナージャは十九歳という若さでこの世を去った。
皇帝は、ノエルが生まれた直後以来、一度もナージャの元を訪れることはなかった。死の淵でさえ。
何もかも、ナージャがヴァージニアに言ったとおりになった。
ノエルの誕生を祝う祭りに反して、ナージャの国葬は皇子を産んだ側室としては驚くほど小規模に行われた。参列者に帝都貴族は少なく、ほとんどがフローライト辺境伯領とその近隣の貴族、そしてムルム族の重鎮で占められていた。
リックが棺にしがみついて身も世もなく泣いているのを見て、ヴァージニアはあらゆる罪悪感で消えてしまいたいと思った。
国母として、人前で泣くわけにはいかない。
教会から外に出ると、帽子を目深に被った小柄な老人に声をかけられた。
「どうも、皇后様」
その男は、ムルム族の医者だった。
ヴァージニアは、どうしても皇室のお抱えの医者は信用できず、ムルム族の医者をナージャの母経由で紹介してもらい、その死の具体的な理由について調べるように依頼していた。
医者を皇后宮の客間に通すと、医者は真っ先に「出産が理由ではない」と断言した。
「どうしてそう断言できるの?女性が出産に耐えられず亡くなる事故は、貴族平民問わず時折あることよ」
「……ムルムの血を引く女が出産で命を落とすなんてことは聞いたことがない。お前さんら帝国人とは体のつくりが違うんじゃ。双子や三つ子で難産だったならともかく、大して大きくもない赤子一人、するりと産んだ程度で死ぬものか」
「けれど、実際あの子は死んだわ!」
「……当時の症状の書き止めを見るに、おそらく妊娠中、何度か毒を飲んでおる」
「……えっ?」
思いもよらない言葉に、ヴァージニアは耳を疑った。
「毒って……そんなことがあれば、出産を待たずに死んでしまうじゃない!ノエルだってただじゃ済まないわ!でもあの子は健康そのものよ!?」
「ムルムの女の身体は、子供を産むのに最適化されておる。母体の食事の栄養素を胎盤へ送り込む前に、子供に悪影響のある成分を、自分の身体を使って濾過することができるんじゃ」
「……なんですって?」
自分の身体を使って、濾過?
「飢えを凌ぐために、荒原で手に入るものはなんでも口にしていた時代の名残じゃな。じゃが濾過した成分は母体に残る。母体側で分解できる許容量も限界がある。そのせいで弱っておったのだろう。無事に皇子を産めたのは、ナージャがムルム族の血を引いておったことと、あの子の気力と執念の賜物としか言いようがない」
皇子を身籠っている可能性のある側室は厳重に管理され、常に護衛騎士が傍についている。食事も必ず毒見係がついていたし、医師も三人常駐し、高位神官が二人日替わりで来て、代わる代わる母体に問題がないかをチェックされる。ナージャとて例外ではない。
それらの何重もの障害を突破し、ナージャの口に毒が入っていたことに、ヴァージニアは愕然とした。
ナージャは、自分の食事に毒が盛られていることを分かっていながら、素知らぬ顔で過ごしていたのだ。
毒が盛られていることに気付いても、大々的に声を上げたりすれば、今度は妊娠中に毒以外の方法で殺されかねない。暗殺を試みたのは、あらゆる警備を掻い潜って側室の食事に毒を盛ることすら可能な相手だ。本気になればそれも可能だろう。
けれど単なる毒ならば、ナージャが身を挺せばノエルを守れると、そう分かっていたから。
――ムルムの女は、生まれ落ちた時より母。
ああ、私は。
あれだけナージャを守ると息巻いておきながら、このざまなのか。
ナージャは、皇后であるヴァージニアの立場を鑑み、何も言わないでいたのだろう。
道化のような己の愚かさに茫然自失とし、頭から血の気が引いたのか、気が遠くなり、どさりとソファに倒れ込んだヴァージニアに医師が駆け寄る。
「皇后!」
「私は……わたくしはっ……なんて……なんて愚かなの!?最期の瞬間までずっと、ずっとあの子の傍にいたのに……!!」
「あまりご自分を責めなさるな!ナージャが皇帝に目を付けられたのも、毒を喰う羽目になったのもお前さんのせいではない!」
「いいえ!いいえ……私のせいよ!私が……っ!!」
紅茶の入った白磁のカップを弾き落とし、躊躇なくその破片を掴んだヴァージニアを見て、医者が大声を上げた。
「やめろ!!」
何事かと部屋に飛び込んできた騎士が、鋭く尖った破片を首に宛がう姿を見て、血相を変えて両腕を取り押さえる。
「皇后陛下!!どうかお気を確かに!!」
「いやっ、離して!ナージャ、私を殺して!!私もあなたのところへ逝かせて!!ナージャ、ナージャあ……あああああああああああ!!!」
ナージャ。何もかも醜く見えたこの世でただ一人、彼女を愛していた。
子を持てない身体になった、国母の責務も全うできない価値のない女を、石女と罵倒することも、無能と蔑むこともなく、母になる機会さえ与えてくれた。ヴァージニアの天使。
ヴァージニアの人生は、ドレスも、侍女も、結婚相手も、死ぬことさえも自由に選べない。
苦しみに塗れた人生に舞い降りた救いの天使が、ヴァージニアに預けた最後のよすが。それがノエルだ。
誰が何と言おうと、ノエルはヴァージニアとナージャの子だ。何があろうと、醜く強欲な貴族どもから、命を懸けて守ってみせる。
この子をこの国の玉座に、必ず座らせてみせる。
そのための切り札が、ついに今、ヴァージニアの手札の中に飛び込んできたのだ。
「皇室の血なんて、心底どうでもいい。青い血の濃さなんて取るに足らないわ。異民族の血を継ぐ皇子と、娼婦の娘である魔女、二人がこの国の頂点に君臨した瞬間こそ、この国のくだらない純血主義が終わるときよ」
両親たちが辺境伯家の画家に描かせた、フローライトとウィスカート、二つの家族の肖像画。ナージャとヴァージニアは、宗教画の天使のように幼く、無垢だった。
「見ていて、ナージャ」