05
息子とはいっても、ノエル皇子はヴァージニアが産んだ子ではない。
皇子の実の母親であるナージャ妃は、皇后の母方の曽祖父である、当時のフローライト辺境伯が発見した未開の地の原住民、ムルム族をルーツに持つ。
彼らの文化は帝国ほど発展はしておらず、雨の少ない荒原に複数の集落を作って暮らしている。帝国人に比べて比較的色黒なことが特徴の民族だ。
ムルムの女は生まれ落ちた時より母――そんな言い伝えがあるほど子沢山で、男女ともに非常に身体が丈夫であり、それが一因となり常に困窮していたという。
それを打開すべく、当時の族長が帝国の文化を取り入れ、暮らしを豊かにする決断をしたことで、辺境伯は彼らとの交流を行い、数多くのムルム族の若者を労働力として雇い入れたことにより、辺境伯領の発展に寄与したと言われている。
ナージャ妃は、ある男爵に見初められたムルム族出身の男爵夫人、その孫にあたる。
異人でありながら、当時の辺境伯妃――つまり、皇后の曾祖母の侍女にまで上り詰めた、聡明な女性だったという。彼女は十五人、ナージャ妃の母となるその娘は十三人もの子宝に恵まれたものの、ナージャ妃とその母以外は全員男で、地元でも有名な男系一族だった。
それを風の噂で耳にした皇帝は、男児を産ませるためにナージャ妃を半ば強引に娶った。
現行の帝国法では、女性は君主になれない。皇帝は当時、病で石女となった皇后以外に八人もの側室を抱えていたものの、彼女たちの間に生まれた十一人の子は、全員女児だった。
現皇帝は即位にあたり、兄弟姉妹を軒並み暗殺していたため、ここで男系の皇族が断絶することだけは、どうしても避けねばならなかった。
皇家の血を継ぐ男児の誕生は、帝国にとって――皇帝にとって、悲願だった。
凄まじい重圧に耐え、ナージャ妃は立派に役目を果たした。見事、帝国待望の第一皇子を産むことに成功したのだ。
しかし、彼女は小柄な女性だったこともあり、過酷な出産に耐え切れず、皇子の誕生と引き換えに命を落とした――と、世間ではそう言われている。
側室の息子であるノエルが、本来であれば毛嫌いされてもおかしくないヴァージニア皇后の庇護下にある理由は、ナージャ妃がヴァージニア皇后の古くからの親友だったからだ。
ナージャ妃の母親である男爵夫人は、結婚するまで辺境伯妃の侍女として屋敷に出入りしていたため、二人は姉妹のように親しかった。ナージャ妃を看取ったのも、皇帝ではなく皇后だったという。
ノエルはそれ以降、皇帝の息のかかった乳母や、教育係に厳格に育てられてきた。
ヴァージニア皇后は表立っては気難しい国母を演じながら、ノエルを密かに見守り、そっと庇い、角が立たないように気を配りながら、息苦しい宮廷での生活を手助けしていた。そのことに幼い頃から気付いていたノエルは、皇后をもう一人の母として慕っているのだ。
ノエルが帝国で唯一無二の皇子という、多くの期待とあらゆる悪意を一身に背負う過酷な環境で、実母の支えや後ろ盾もない中、まっすぐ育つことができたのは皇后の存在が大きかった。
ヴァージニアに呼び出され、王宮からやって来たノエルに会わせるため、ミルテたち侍女が手によりをかけてサファイアを全身磨き上げた。
急ぎ用意された豪奢なドレスを身に纏い、皇后宮の応接間に二人きりで押し込まれた。
「帝国の星、皇子殿下にご挨拶申し上げます」
「はじめまして、アドリエル嬢。話は皇后陛下から伺っているよ」
「話、ですか」
「きみが魔女だってこと」
そうだったのか。てっきり、ノエルには話さない方がいいものだと思っていたが、ヴァージニア自らが事情を説明してくれていたらしい。
だが、それなら話は早い。
「生きているうちに始祖の魔女の再来に立ち会えるなんて感激だ。ぜひその力、帝国民のために――」
「恐れながら殿下。突然ではございますが、」
「うん?」
「私にはヴァージニア皇后陛下から命じられた、人生をかけて成し遂げなければならない使命がございます」
そう言うと、緩んでいたノエルの口元が引き締まる。
「私の中に流れる魔女の血を絶やさず、魔法使いを増やし続け、この帝国の繁栄の一助となることです」
「……そうだね」
「ですから殿下、私と子供を作っていただけませんか」
「……、…………………はぁ!?」
とはいえ、少しばかり一足飛びに話し過ぎたか。
「……アドリエル嬢、きみは自分が何を言っているのか分かってる?」
眉を顰め、皇子は眼鏡のブリッジを押し上げながら、苦々しく呟いた。
「もちろんです。キテラ家とミーズ家の血を絶やさぬためには、私が産む子の父親として、殿下ほど相応しいお方はいらっしゃいません。ムルム族の血を引く殿下と私であれば、きっと多くの魔力に優れた子を残し、帝国に再び魔法の恩恵をもたらせることでしょう」
ムルム族は大半が多産婦となる女性が有名だが、男性側の生殖能力も帝国人よりも優れていると本で読んだ。
それがなくともノエルが父親に最も相応しいと思っていたが、子作りに際しても一番都合がいいと来れば、一石二鳥だ。
「……君は、愛する人と結婚したいと思わないのかい?」
「……私は特に、今のところは。ですから殿下にそういったご希望がないのであれば、私たち二人にとって、私たちの間で子を成すのが最善ではないかと自負しております。私はとめどなく子を産み続けたいので、子沢山で知られるムルム族の血を引かれる殿下のお力があれば、たくさんの子を産むことができそうですし……」
それに、と続けようとちらりと皇子の顔を見たが、あまりに明け透けな言い草に唖然としていた。
「魔女の血は強大な力を持つ反面、色々と面倒を生みますから、できるだけ高貴な方の元で生まれ育った方がいいと思います。私や私の子の力は、常に命を狙われ続ける危険なお立場にある殿下にとっても、必ずお力となります」
「いずれ君にも、誰か大切な人が見つかるかもしれない。その時に、今の自分の決断を後悔するかもしれないよ」
「未来のことは誰にも分かりません。少なくとも今の私にとって、子供を多く産むこと以上に大切なことはありません」
「……」
正直なところ、帝国の繁栄そのものには大して興味はないが、サファイアの主君はこの国を愛している。この国の民が幸せになることを祈っている。
それに協力する手段が、サファイアにとっては子供を産み育てることであっただけに過ぎない。
「いや……たとえ皇后陛下からそう言われたとしても、そもそも好きでもない男の子供を産むのは嫌だろう?」
「……? 子どもを作るのに、必ず相手を愛する必要はありません。人に限らず生き物とは、感情など伴わなくても、交われば子を成して命を繋いでいくものです。私だってそうやって生まれましたし、殿下だってそうなのでは?」
「……っ」
オーガスタが娼婦の仕事の末に愛してもない男の子供を産んだことと、ナージャ妃が皇家の都合のために、愛してもない皇帝の子を産まされたことに、一体何の差がある。
思ったままを口にしたが、ノエルは渋い顔をして黙り込んだ。
「……お気を悪くされたのなら申し訳ありません。どうも私はそういう機微に疎いようで……」
「……いや。思うところが無いとは言わないが、きみの言うとおりではある」
「あの、できるだけ早い方が望ましいのはそうなのですが、今すぐにとは申しません。私の身体が貧弱で、まだ月のものが調子よく来ていないようでして。体調が整いましたらすぐにお伝えいたしますので」
「待った!分かった、それ以上言わないでくれ!」
サファイアの口元を押さえ、大声で叫ぶ。
「……コホン。アドリエル嬢、きみの理屈は分かった。でも、きみは尊重されるべきレディーだ。むやみに男性の前で自分の性を安売りするようなことを言ってはいけないよ」
「……むやみに、は申しておりません。殿下にだけです」
「それがむやみにだと言ってるんだ」
「"女"の寿命は短いので、できるだけ早い方がいいんです。ですから……」
「……そんな悲しいことを言わないでくれ。きみは子供が産めない女性は死んだも同然と思っているのか?」
ヴァージニアのことを言っているのだ。
流石にそう分かった。
「……いいえ、違います。申し訳ありません、失言でした。でも、今の私にとっては、皇后陛下の命に応じられる期間が私の寿命も同然です」
「きみがそうでも僕にとっては違う」
きっぱりと、堂々と、ノエルは言った。
帝王学の賜物か、毅然とした口調は、とてもまだ十五歳の少年のものとは思えなかった。
「きみも僕の大切な我が国の民の一人だ。それだけで僕にとっては価値がある。能力も、貴賤も、性別も、年齢も関係ない。僕が護り、幸福にすべき人間の一人だ。だからきみが自分の血や腹にしか価値がないと思うのなら、それがきみの不幸を招く間違いである以上、僕は正さなければならない。たとえそう言ったのが皇后陛下だとしても」
ノエルはサファイアを諭すように、一息にそう言い切った。
『――おまえに価値があると思った、私のために生きなさい』
貴族社会に汚れた者が聞けば、綺麗事だと一蹴されてもおかしくない。けれど本気で言っているのだと分かった。
母国や国民への愛情深く、そして皇子としての責務を理解し、果たそうとする志。
血は繋がっていなくとも、まぎれもなく彼は、誇り高き我が主君の子――。
「……申し訳ありませんでした」
「いや、構わないよ。それに、きみが言うように、僕たちが結婚した方が、きみにも僕にもメリットが多いことは否定できない。メリットという点できみに勝る結婚相手は大陸中探しても見つからないだろう。とはいえ、僕には皇帝陛下が決めた婚約者もいる。彼女や、彼女の家に不義理はできない。正式に取り交わされた婚約を取り消すのであれば、それなりの理由が必要だ」
「はい」
「だから、お友達から始めようか。アドリエル嬢」
人好きのする微笑みを浮かべ、ノエルは白い手袋に包まれた大きな手を、サファイアに差し出した。
一点の汚れもないその白さに少しためらいながらも、サファイアはそっとノエルの掌に自分の指先を重ねた。
「恐れながら殿下、もう一つお願いが」
「なんだい?」
「私はアドリエルから逃げ果せた身。……よろしければ、皇后陛下に賜った新しい名前でお呼びくださいませんか」
「構わないよ」
「どうぞ、サファイア・ミーズと」
「……なるほど、いいね。きみに似合っている。サフィー」
垂れた目尻を崩して微笑む姿は、子供離れした君主の器から少し離れた、年相応の少年のように見えた。当然のように愛称で呼びかけられて、少し困惑する。けれど、嫌じゃない。
サファイア。……本当に、私に似合うだろうか。
母と同じ、ピジョンブラッドのような毒々しい真っ赤な髪。それは私の名前と立場を示す記号のようなもので、いつだってそればかりが目立っていたような気がするのに。