04
燃え盛る炎が、慣れ親しんだ教会を覆い尽くす様を、ルビーは愕然と見上げた。
『……神父様!!神父さまああああっ!!!』
『おい!嬢ちゃん!!お前さんまで燃えちまうぞ!!』
遠巻きに見ていた男に腕を掴まれ引き留められたが、ルビーはそれを振り払い、躊躇いなく教会を包む大火の中に飛び込んだ。
火によって酸素が奪い尽くされ、灼熱の温度の中を魔力によってなんとか耐えながら進む。猛然と高い天井に向かって黒い煙が巻き上がっていく様を見つめ、愕然とした。急いで、いつも神父が寝泊まりしていた部屋へ駆け込んだ。
この教会は――神父の傍は、ルビーの人生で初めて、息がしやすいと思えた場所だった。
ルビーがいなくなっても、ルビーのような貧しい生まれの子供は今でも山ほどいる。これからもずっと、優しい神父はそんな子供たちの拠り所になっていくんだろう。そう思っていた。
誰かのために、正しく優しく使う。
それが、始祖の魔法―――。
『……、……しんぷ……さま』
血の海の中に、神父は既に事切れていた。
首元を刃物のようなもので切り裂かれている。うつろになった目玉が眼窩に浮かび、ちりちりと焦がされていく。それをまばたきもせず受け入れる姿が、否応なしに彼が決定的に変わってしまった事実を伝えてくる。
涙と共に、胸の奥から激しい感情が湧き上がってくるのが、抑えられない。
『あ、あ……あああああ、ああああああ』
魔力の流出が抑えきれない。
コントロールしがたい力の流れが、空気中の元素に結び付いて、つぎつぎに姿を変えていくのが分かった。
――次の瞬間、ずっと頭上で大きな塊がはじけ、どおっ、と大波のような音がした。
「しんぷさま……」
頬を伝う自分の涙の冷たさに目が覚めて、これが悪夢だと気付く。
瞼を開けると、既に雨は上がり、穏やかな朝日が部屋に差し込んでいた。
そのタイミングで、ちょうど部屋のドアをノックする音が聞こえた。ぐっと涙をぬぐい、「どうぞ」と返事する。
入ってきたのはミルテと、数人の侍女だった。
「おはようございます。ルビー様」
「……おはよう、ミルテ」
「皇后陛下が、朝食に同席してほしいと御仰せです。私どもで身支度をお手伝いいたします」
「おはようございます、陛下」
ルビーは、侍女の用意した鮮やかなブルーのドレスに身を包んで朝食の場に姿を現した。
歴戦の侍女たちの技術と皇室御用達の高級化粧品の力によって、薄汚いドラ猫から野良上がりの飼い猫程度の仕上がりにはなっただろう。
「少し見栄えがするようになったわね」
「こんなによくしていただいて、本当にありがとうございます」
足元まで伸びていたルビーの髪は、上質な香油と侍女たちの努力の末、絡まりがほどけ、腰ほどまでに切り揃えられた。日の光を浴びず、ろくな食事も取っていなかったせいで艶はなく、軋みが酷いため、綺麗に髪を結わえることはできず、髪結いがカチューシャを勧めてくれた。
ヴァージニアの傍の席に座るよう促され、二人で朝食を食べる。玉ねぎのリゾットとスープ。ヴァージニアの食べているものとは別のメニューで、胃が弱っているルビーのためにわざわざ用意されたものだとすぐに分かった。
緊張で強張っていた身体から力が抜けていく気がした。
こんなに温かく美味しい食事は久しぶりで、手が止まらない。肉の旨味が染み出たスープの優しい塩味に、涙が出そうになる。
「すごく……すごくすごく美味しいです……」
「……そう、食べられるだけ食べなさい」
がっついていると思われないか不安だったが、杞憂だったようだ。
あまりの美味しさにリゾットを二杯も平らげたところで、ミルテがヴァージニアに、立派な装丁の古く分厚い本を二冊差し出した。
「ルビー、これをおまえに」
「……これは」
「皇室に伝わる魔法書よ。この魔法を習得してきなさい」
ヴァージニアが手ずから開いたページに記されていたのは、自分自身にかける実用魔法だ。自分に干渉する魔法は、自分以外の物質に干渉する魔法よりもうんと難易度が低いので、ルビーも一度、大公家の地下で似た魔法を試したことがある。
「これは……変装魔法でしょうか?」
「そうよ。赤毛の令嬢が出入りしていると噂になればオーガスタに気付かれるかもしれないから、魔法で髪の色を変えてみなさい。そうね、青の魔女は金髪の女性が多かったと聞くから、可能なら金髪で。長い間維持できるのが望ましいわ」
「金髪……」
本を見ながら、以前と似た要領で頭へ魔力を込めると、うねった赤毛が風に巻き上がるように宙に漂い、見る間に稲穂のような輝く金色に変わる。
鳩が豆鉄砲を喰ったような顔でその光景を見ていたヴァージニアは、こほん、と一つ咳払いをした。
「……わざわざ教えるまでもなかったわね」
「いいえ、初めて見る魔法でしたので……用意して下さりありがとうございます。でも、どうして赤ではなく青の魔女に……」
「おまえの赤毛は目立つわ。大公家から逃げ出したことが分かれば、おまえの身元はすぐにバレるでしょう。髪色を変え、ほとぼりが冷めるのを待つ必要がある。……それに、少し確かめたいこともあるしね」
「……それは、その、どういう」
「おまえ、水魔法は使える?」
唐突な質問に首を傾げる。
「はい。魔法を勉強し始めた時に覚えました」
「炎魔法は?」
「……あまり得意ではないのですが、簡単な魔法であれば使えます」
「……! そう……」
ヴァージニアは一瞬驚いたように目を見張り、逡巡するように口を噤み、やがてルビーに向き直った。
「私はおまえが再来した魔女だと、いずれ世間に発表するつもりよ。でもキテラだと名乗ると、オーガスタや大公に万が一バレた時に面倒なことになる可能性がある。ミーズの魔女として爵位を与えるわ。金色の髪と青い瞳があれば、始祖の青の魔女の伝説と近い容姿になるから、誰も怪しまないでしょう」
「承知いたしました」
「人前では必ず金髪を保ち、魔法は使わないようにすること。来るべき時まで、魔女だとバレないように過ごしなさい」
「はい」
「それに加えて、おまえに新しい名前を授けましょう」
そうね、と呟き、皇后は美しい薔薇の意匠のティーカップで紅茶を口に含んだ。
「サファイアはどうかしら。サファイア・ミーズ」
「……サファイア?」
「そうよ。新たな青の魔女に相応しいでしょう。すぐに覚えられるよう、体に叩き込むのよ」
「……承知いたしました。美しい名前を賜り、恐悦至極に存じます」
頭を下げ、白磁の陶器の中に小さくまとまった、美しい琥珀色の水面を眺めていると、ふと皇后が切り出した。
「聞いてもいいかしら」
「はい、私にお答えできることなら何なりと」
「おまえ、アドリエルの屋敷でどう過ごしていたの?」
「メイドの端くれのようなことをしておりました。とはいえ、できるだけ大公の視界に入るなと母から厳命されていましたので、大公が外出している間しか働いていませんでしたが。そのせいか、他のメイドからは嫌われてしまいました」
「……アエロは、おまえがこれまで過ごした場所はろくな衛生環境じゃなかったはずだと言っていたわ」
「確かに他のメイドと違って部屋がもらえていたわけではないですが、食事も多少もらえてましたし、湯浴みも一か月に一度程度は、母が入浴した後の捨て湯を使ってできていたので、大公家に来る前よりはマシだったと思います」
「……部屋がもらえてなかったって、どこで寝泊まりしていたの?」
「地下の書斎です。大公は執務室しか使わず、古い本が保管されているだけの書斎には一切来なかったので。そこで日がな本を読んで過ごしていました。そこで気付いたんです。私が魔女なのではないかと」
「……」
ヘンデク大公の曾祖母が魔法に興味があったらしく、関連する貴重な本が山のように書斎に保管されていた。ルビーにとっては大変な幸運だった。
「……昔、神通力を使える方から、君は魔力が多いようだと言われたことがあって。魔法の使い方の本があったので、物の試しにやってみることにしたんです。そうしたら、そのうち魔法が使えるようになりました」
「そこから魔法を勉強していったというわけね」
「はい」
「さっきも思ったけれど、おまえ、スラム出身なのに本が読めるのね」
「……はい。スラムにあった教会に通っていて、そこで読み書きを教わりました。私の周りの子どもたちも、神父様のお陰で最低限の読み書きができる子が多かったです」
「そう……」
皇后が薄く微笑む。
何か喜んでいる、ように見える。
「昨日、きちんと確認していなかったわね。おまえは私に庇護を受けて、何がしたいの?」
「大公を断頭台へ送りたいです」
「……それがあなたの目的?」
「はい」
「魔女になったのなら、自ら手を下すこともできたのではなくて?」
「それではダメなんです。あの冷酷無比な男の罪を白日の下に晒し、多くの人たちから死んで当然の邪悪な罪人だと、軽蔑されながら死んでもらわなければ気が済まない」
「……そうすれば、おまえの母も死ぬかもしれない。それでも構わないのね」
そう言われ、はっとした。
確かに貴族である大公が裁かれれば、当然一族揃って裁かれることになり、それによって母や妹をも断頭台に送ることになるかもしれないのだ。
正直、母のことはあまり好きではなかった。でも、死んでもいいとまでは思っていない。
「よく……わかりません」
「オーガスタは、おまえに苦行を強いたのに?」
「母は……確かに全く良い母親ではありません。でも、私が魔女の血統なのは母のお陰でもあります。母が大公家に嫁がなければ、私は自分の価値に一生気付くことなく終わっていたでしょう」
「価値……ね」
呟き、ヴァージニアは腕を組んだ。
「正直なところ、私はおまえの魔法の力そのものにはさほど興味はないの」
「……そうなんですか?」
「むしろ感謝しているのは、おまえが魔法という大義名分を持って、私に庇護を求めに来たことよ。私は生粋の帝国貴族の令嬢を抱き込むのだけは嫌だったし、魔法は平民のおまえに爵位を与えるための格好の理由になる」
それはそうだろうな、と思った。
帝国貴族は、亡き皇妃を野蛮な劣等種として忌み嫌っているから。
やはり、皇妃と皇后の噂は本当のことなのだろう。
「魔法がたまたま決め手になっただけで、似たような条件が揃っているならば、別におまえでなくてもよかったの」
「……それは」
「分かった?おまえの言う己の価値とやらが、少なくとも私の前では大した意味を持たないということが」
冷たく言い放ったヴァージニアだが、それがルビーを――サファイアを嘲っているわけではないことは分かった。
――それでも私が皇后に選ばれたのだから、私が勝った。そう思っている。
だが、サファイアにとっての己の価値の高さが、誰からも評価されるわけではない。そう言いたいのだろう。
「自分の価値は自分で生きながら決めることよ。役に立つとか立たないとか、貴賤や立場だとか、父親と母親がどこの誰だとか、そういうものは他人が勝手におまえに貼るレッテルでしかない。魔法が使えるのがおまえだけなのだってたまたまよ。いつか他に現れるかもしれないでしょう?」
「……」
「家柄や容姿、生まれ持った能力、無責任な他人からの評価、そういうものに自分の心や命のすべてを預けてはいけない。私たちはただ神の導きによって、生まれる場所も時代も両親も、おおよそ決められてこの世に生み出され、何一つ自分の意志で選んでいないのだから。確かにおまえはとても貴重な人間だけれど、そうやって偶然齎されただけの血を根拠に、自分が価値ある人間だと驕るのはやめなさい」
それはただむやみに高慢なだけよ、と言う皇后の言葉が、重く背に圧し掛かった。
だがサファイアは、己の血だけをよすがにここまでやって来た。それに頼るなと諭されると、最早どうすればいいのか分からない。
「……では、魔女の血統以外に胸を張って誇れるもののない私は、一体何のために生きれば良いのでしょうか?」
「誇り、というのは血そのものが与えてくれるものではないわ。おまえの頭で自ら選び、成し遂げ、勝ち取ったことにこそおまえの価値があるのよ」
それでも悩むのなら、と皇后は呟き、立ち上がってサファイアのソファの背に腰を下ろし、白魚のような手をサファイアの頬に滑らせた。
「おまえが私に価値を感じて私を選んだように、おまえに価値があると思った、私のために生きなさい」
「……!」
「おまえの思うおまえの価値は、その中で探せばいいわ」
朝日が昇り、それが神のお告げのようにサファイアの心にまっすぐに差し込んだ。
――おまえはこのお方のために魔女に生まれたのだ。
全身の細胞が震え、強く確信した。
皇后宮に逃げ込んだ時から決めていた。この命を、皇后に預けようと。打算的な理由だった。この大陸唯一と思われる魔女である私が生き延び、復讐を成し遂げるには、それが最善だと思ったからに過ぎなかった。
――けれど、彼女が――民草の上に立つに相応しい、気高く、美しく、慈悲深く、孤高なこのお方が、血以外の価値を見つけ出せると思って下さるのなら。自分のために生きてみよと仰るのなら。
サファイアは込み上げる歓びに打ち震えながら、頬に添えられた皇后の手をそっと支えた。
「承知いたしました。――私の主君」
必ず、このお方の反撃の刃となってみせる。
このお方の価値を不当に低く見ている愚かな者どもに、目に物を見せてやる。
それが私の憎しみを晴らす、最短の道でもある。
「さて、最初の仕事よ。おまえには、復讐以外にも重要な使命がある」
「……使命、ですか?」
「おまえの魔女の血はここで絶やしていいものではない。おまえの血は、皇室の青い血なんかよりも遥かに帝国にとって重要なもの。新たな始祖の魔女となり、できるだけ多くの子を産み、育て、魔法使いを増やすのがおまえの責務と言ってもいい。……私が言えることではないけれどね」
「とんでもございません、陛下」
「そのために、おまえは子の父親として最もふさわしい男と結ばれなければならない」
「私の――息子。帝国唯一の皇子である、ノエル・ジャン・グランディディエとね」