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03


 このグランディディエ帝国の月――国母たるヴァージニア皇后が、嫁いですぐに病に侵されてしまい、子供を産むことができない身体になってしまった"悲運の皇后"であることは、帝国民なら誰でも知っている周知の事実である。


 皇后の実家であるフローライト辺境伯家は、古くから未開の地であった大陸の南側を開拓し、国土を広げることに大きく貢献したことで知られ、他の貴族の管轄の領地のほぼ全てと同等の領土を持つ、帝国きっての名家である。

 他国との境界に面する領土の多くを辺境伯家が所持していることもあり、元々軍事に優れている帝国の中でも、指折りの兵団を従える国防の要でもあった。


 そう言った事情から、辺境伯家は皇家に仕えているものの、当主である辺境伯は皇帝にほぼ対等の立場でものが言える。血の気が多く残忍なことで知られる現在の皇帝――エイデン・ジャン・グランディディエでも、政に関する重要な決定を行う時は、辺境伯の顔色を窺わざるを得ないほどだ。

 つまり、例え皇后が石女になったとしても、それを理由に辺境伯家の長女である皇后を切り捨てることは不可能であり、皇后は政治的な対面のためだけに皇室に残り続けることになった。


 側室を山ほど抱えた皇帝に冷遇され、質素な離宮で一人暮らしている彼女は、あまり表に立たないものの、その悲劇的な境遇や、一般的な皇族や貴族に比べて遥かにつましい暮らしぶりから、国民から人気のある皇族の一人でもあり、そのことで他の貴族からはやっかみを受けることもあったが、どんなに不遇な立場にあっても毅然とし、己の品位と、高貴な人間としての責任を忘れない彼女の気高さは、高慢でもあり、高潔でもあった。





 ルビーが通されたのは、大公の屋敷でオーガスタが暮らしている部屋よりもっと広くて美しい寝室だった。

 天蓋のついたふかふかのベッド。足が沈むような感覚のある厚手の絨毯。

 一人で過ごすには広すぎる部屋には、いつの時代のものだろう、繊細な絵付けのされた壺や絵画がずらりと並んでいるが、かといってただきらびやかなだけではなく、成金趣味だとは感じない。

 皇后の趣味なのだろうか、色味は落ち着いたトーンでまとめられていて、上品な雰囲気の部屋だった。

 とはいえ、ルビーが今まで暮らしていたスラムや屋敷の地下室よりもずっと美しくて清潔な空間に慣れず、少しばかり落ち着かなかった。


「ルビー様、ようこそ皇后宮へ。ミルテと申します。この皇后宮の侍女長を務めさせていただいております」


 恐る恐るベッドに腰掛けたルビーに向かって恭しく頭を下げたそばかすの侍女は、柔らかそうな栗色の巻き毛に、足元まである長くて黒いエプロンドレスを身に纏っていた。

 年は十八歳ぐらいだろうか。侍女長にしては若い。身体は小柄で童顔だけれど、いかにも仕事が出来そうな見た目をしていて、その口調は少し無機質で淡々としていた。


「ミルテさん。初めまして」

「私はルビー様にお仕えする身。敬語をお使いになる必要はございません。ミルテ、とお呼びください」

「……分かった」

「本日は私と数人で支度をさせていただきますが、今後は私の方で選んだメイド数人で、ルビー様の身の回りのお世話をさせていただきます」

「うん」

「まず、そのお怪我のお手当をさせていただきたく思います。アエロ様」


 ミルテが外へ向かって声をかけると、スラムの修道院に居た神父様に似た格好をした、優しそうな白髪の老女がゆったりとした足取りで入ってきた。


「初めまして、ルビー様。グランディディエ大神殿で神官を務めております、アエロと申します」

「アエロ様は大神殿の高位神官であらせられます。神通力でその火傷を治していただきましょう。お召し物を脱いでいただいてもよろしいでしょうか?」

「はい、大丈夫、です」


 ―――神通力。

 神に選ばれた人のみが授かる、主に出家した教会の神父やシスター、神殿に仕えている神官が持っている力で、特に治癒力に長けているという不思議な力。

 炎を浴びた時に熔けてしまい、皮膚に張り付いた布を剥がす痛みに顔をしかめつつ、ミルテに手伝ってもらいながらワンピースを脱いだ。


「……っ」


 ミルテがルビーの裸体を見て息を呑む。

 痩せて肋骨の浮いた上半身。そして焼けただれた肌に醜い顔、痣や傷にまみれた身体。

 ここしばらくの間、頭を洗うどころか身体を拭くことも出来ていなかった。雨の中走って来たので服は泥まみれで、髪も身体も臭うだろう。

 対照的に、アエロは動じることなく穏やかな表情で見つめていた。神官様なら、このぐらいの傷は見慣れているのかもしれない。


「痛くありませんから、楽にしてくださいね」

「はい」


 アエロがルビーの背中に手を翳す。すると―――。


「っ!」

「あっ、アエロ様!」


 バチン、と風船が割れるような音がして、アエロの手が何かに弾かれた。

 ミルテが慌ててアエロに駆け寄る。


「まあ―――」

「お怪我はありませんか!?」

「……あ、ええ、私は大丈夫ですよ」


 驚いて目を丸くするアエロを見て、血の気が引く。

 青くなってアエロとミルテの顔を交互に見ていると、アエロがそっとルビーの肩に手を置いて微笑みかけてくれた。


「心配しなくて大丈夫ですよ。怪我もしておりませんし、痛い思いもしておりませんわ」

「でも、今――」

「私がちょっと失敗してしまっただけです。気にしないで頂戴ね。おっほっほ」


 もう一度よろしいかしら、と問いかけられ、ルビーは不安に思いながらも頷いた。

 先ほどと同じように、アエロが背中に手を翳す。

 ふわ、と柔らかい光と、人肌ほどの暖かさがルビーの身体を包み込んだ。

 手足に残った擦り傷や痣が、みるみるうちに消えていく。背中の大きな火傷も、まるで時を早戻ししたようにかさぶたができ、あっという間に塞がっていった。傷跡は残っているけれど、ひりつくような痛みはもうほとんど残っていない。


「すごい……」

「……ふう、これぐらいが限界かしら。どうでしょう、もう痛くありませんか?」

「はい、えっと、まだ身体を動かすと少し痛いけど、大丈夫です」

「ええ、私の力で傷は塞げましたが、完治はしていません。治りきるまでは暫く安静にしてくださいましね」

「ありがとうございます……」

「そうそう、それから、少しだけ診察をさせてください」

「診察ですか?」

「ええ、ルビー様の身体に悪いところがないか診させていただきたいの」


 断る理由はない。

 ルビーは頷き、アエロの指示通り胸を見せたり、手足を見せたり、質問に答えたりして診察を受けた。


「はい、おしまいですよ。ありがとうございました」

「ルビー様、次は湯浴みに参りましょう。お連れいたしますので、こちらへどうぞ」


 一息つく間もなく、ミルテに連れられ部屋を出る。

 嘘のように痛みが無くなり、楽になった身体に感動する。

 とてつもなく広い皇后宮の中、ルビーは目が回りそうになりながらも、足の速いミルテの後をなんとか着いていった。






「……しかし、いまだに信じられません。大公夫人が、赤の魔女の子孫だなんて」


 皇后の私室に戻ってきたミルテは、疲労を滲ませていた。

 ルビーの身支度は、ただ湯浴みをさせるだけでは済まない。伸び放題で鳥の巣のようになっていた髪にこびりついた汚れを落とし、櫛を通して長さを整えるところからだ。ミルテも、湯番の侍女も相当に苦労しただろう。見たところ、ルビーは数年はまともに風呂に入っていなかった。


「大公夫人は元平民なので知らなくて当然ですが、一緒に暮らしているはずの大公閣下まで全くルビー様の能力に気付かないなんて……」

「今時、髪が濃い赤毛だというぐらいで、魔女の末裔だなんていちいち思ったりしないわ。大神殿にでも連れて行かない限り気付かないでしょうね」

「……ですが、虐待されていたからこそ無気力になり、親の言うことに逆らえないということも考えられませんか?」

「いいえ。あの子が魔法を使えることを知っているなら、あの大公があの子をむざむざ私のもとへ寄越したりするはずないわ。あの子が私の前で魔法を見せたのが何よりの証拠よ」


 千年以上前、この大陸には、人類で初めて魔王から魔力を授かった、始祖の魔女と呼ばれる二人の魔女がいた。

 彼女たちはそれぞれ家門を築き、そしてその家門の者はみな一様に魔力を持っていた。始祖の魔女の子孫たちはこのグランディディエ帝国の文明の繁栄に貢献し、やがて功績を称えられ爵位を授かった。


 そんな始祖の魔女の家系であるキテラ家とミーズ家が、赤と青の魔法使いと呼ばれるのには由来がある。


 魔力は血によってのみ遺伝する。

 キテラ家の人間は始祖の血が濃ければ濃いほど髪がピジョンブラッドのような深い紅色となり、ミーズ家の人間は瞳は南の海の如き鮮やかなブルーになるとされているのだ。


 二つの家が最も栄えていた時代、彼らはその色を濃く保とうと近親婚を繰り返し、やがて子が生まれにくくなっていった。

 学問としての魔法をまともに受け継いでいくことができなくなった両家は、やがて爵位を剥奪され、残された数少ない子孫も、外部との婚姻により魔力が次第に薄れ、ごく普通の平民として散り散りになっていった。


 両家の血が絶たれて久しい近代においては、その原因は帝国の変遷についての教育を受けた一部の貴族や、歴史学者にしか知られていない。帝国民の間では、始祖の魔女は帝国の繁栄の礎となった伝説として聞き伝えられているに過ぎない、ほとんど架空に近い存在だ。


 更に、赤毛も青い瞳も、魔力を持たない庶民にもごく普通に存在するカラーであり、さして珍しいわけでもない。

 つまり、オーガスタや大公がルビーの価値を知る機会はなかったということだ。


「私はね。憎む対象を間違えるほど愚かではないのよ」

「……もちろんです、陛下」

「既に滅んだとされていた魔法使いよ。存在そのものが、大陸全体への強力な抑止力になる。それを分かった上で、あの子は助けを求める先として、皇帝ではなくあえて私を選んだ」

「それは……そうなのでしょうか?」

「私が個人的にやっていることを知っていて、同情を煽るためにあの格好で来たのよ。私が皇帝だけでなく、大公を憎んでいる理由も、おそらく知っている」

「まさか……!」


 エイデン皇帝は野心家だ。

 現在の十九代目皇帝が即位し、現在に至るわずか三十年の間に、五つもの近隣の小国を軍事力によって吸収し、今の帝国がある。

 そのため、領土拡大に大きく貢献し、皇帝の加護厚い帝国騎士団は、政治的にも強い影響力を持っている。

 彼らに何の後ろ盾もない、みすぼらしいままの魔女ルビーが差し出されれば、軍事利用は免れないだろう。


 とはいえ、曲がりなりにも皇后であるヴァージニアの息がかかった令嬢となれば話は別だ。

 火急の戦力が必要でない今、帝国騎士団で皇后の可愛がっている少女の身柄を強引に拘束する大義名分はなく、迂闊に手は出せない。


「何より、慮らなければならないのは彼女の血よ。オーガスタは年齢的に、もう大公との間にも次の子は望めない可能性が高い。でもルビーなら、新たな始祖の魔女になれるかもしれない。そうすれば魔法使いの一族を、私たちの元に抱え込むことができる」


 子を成すことが出来ない身体になったことを引き合いに出され、蔑まれる屈辱は、この世の誰より知っている。

 ルビーはヴァージニアにとって、これまでにない強靱な復讐の刃となる。


「ルビーはまだ若いとはいえ、ムルムでもない帝国人の女。そう何十人も子を産むことは出来ない。とてつもなく貴重な胎なのよ。……生まれてくる子のことを考えれば、子種は選ばなければならないわ」

「まさか……」


 ミルテは青い顔で皇后を見上げた。

 皇后は現在皇帝とは疎遠であり、普段はこの皇后宮でひっそりと暮らしている。

 皇帝が訪ねてきたのはここ数年で一度もなく、この宮で娘一人匿ったところで、皇帝が気に留めることもない。

 そこまでルビーは知っていて、判断材料にしたのかもしれない。


「まだ十四歳のご令嬢が、政治的背景を鑑み、ご自身の価値を測った上で、拠り所として皇后陛下が最適と判断したなんて……」

「一体大公家で何を見聞きしてきたのかしらね。末恐ろしいことだわ」


 皇后の言葉に、ミルテはとうとう口を噤んだ。


 静寂を割くように、背後からドアをノックする音。「失礼いたします陛下、神官様がお見えになりました」という使用人に、「入りなさい」と一声かけると、ゆっくりとドアが開かれた。


「帝国の月にお目にかかります。神の僕、アエロにございます」


 白髪の年老いた女性神官は、眼鏡の奥で穏やかに微笑み、穏やかな口調で名乗った。

 アエロの出身はヴァージニアの実家である辺境伯領で、ヴァージニアが皇后になる前――アエロが高位神官になる前から付き合いがあった。


「よく来てくれたわね」

「とんでもございません、陛下」

「ルビーの様子はどう?」


 あんな身体で走り回って、疲労困憊だったのだろう。風呂で寝付いてしまったルビーを使用人たちが部屋へ運び、着替えさせた後、アエロにもう一度彼女の傷の完治を試みるよう指示していた。


「はい……多少の傷や痣は神通力で多少治せましたが、背中の大きな火傷は私の力でも塞ぐのが精一杯でした。やはり魔力との相性が悪く、強い神通力は弾き返されてしまいます」


 神通力は魔力のように血によって遺伝する力ではなく、神に選ばれた者――素質がある者に無差別にもたらされる、いわば才能の一つであり、絶えることなく世界に生まれ続けている。


 その中でも神官は試験により特に神通力に優れていると認められた者が、修行を経て神殿に仕える神職の者を差す。

 アエロは神官の中で特に治癒力に優れた、神通力の強い高位神官である。

 先の戦争では、戦地病院でルビーよりも酷い大怪我をした兵士の救護を担ったこともある。


「高位神官の力ですら弾き飛ばすなんて……」

「ごく普通の平民の方にも、遠くの先祖に魔法使いがいれば微量の魔力を保持していることもあり、そういう方にも多少効きが悪いことはあります。しかし、ルビー様はその比になりません。五十年神殿にお仕えしておりますが、私が外傷を完治させることが出来なかったのは初めてのことです」


 魔力はその名の通り、その力の根源が魔の者に由来するため、神に由来する神通力とは相反する力だ。

 そのため、魔力の強い者と神通力の強い者が触れ合うと、力の反発力が強まり、力の弱い方が弾かれてしまうことがある。


 ルビーが強い魔力を持っている可能性を事前に伝えていたが、アエロほどの百戦錬磨の神官でも完治させることができないとは。


「……他は?」

「あれほど酷い火傷だったにも関わらず、幸いにも感染症などの深刻な病はございませんでした。ですが栄養不足は否めません。痩せすぎなせいか、初潮もまだのようです。滋養のあるものをよく召し上がれば、お身体が成長してじきに月の物が来るようになるでしょう。まともな食事をしばらくしていないようでしたので、少しずつ消化の良い物から召し上がり、胃を慣らしていくのがよろしいかと」

「そう。ミルテ」

「はい。料理人にはそのように申し伝えておきます」


 食事や寝床については全く心配はしていない。

 冷遇されているとはいえ、ここは帝国の皇后の宮なのだ。慕ってくれている者も多く、抱えている料理人達もみんな一流だ。


「……ミルテ、ノエルに近々宮に来るように伝えて。それから、アエロと一緒に大公家に密偵を送って頂戴」

「密偵でこざいますか」

「ええ、……アエロ」

「はい、陛下」


 それよりも、早急に確認しておかなければならないことは。 


「―――アドリエルの家門に神の祝福を授けておいでなさい」





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