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02




 その日、焼けただれた背中に残る火傷の痛みに耐えながら、降りしきる雨の中、足にまとわりつくメイド服の裾を抱え、ルビーは満身創痍の己を必死に鼓舞しながら走った。火傷の痕に染みる雨水が辛い。強い痛みは思った以上に体力を持って行かれてしまう。

 途中、帝都方面へ向かう荷馬車を見つけては、荷台の後ろに虫のように張り付き、隙を見て飛び降りるのを繰り返して、時間と体力を稼ぐ。

 やがて見えてきたのは、大公家の屋敷よりも小さな敷地に建つ皇后宮。


 自分の人生を賭けた、一世一代の大博打だ。上手くいくと確信を持てることは一つもない。けれど、頬を焦がしたあの炎の熱さだけが、ルビーの激情を駆り立てた。

 祈るような気持ちで、ルビーはアドリエル家門の双頭の蛇(アンフィスバエナ)が刻印されたメイド用のブローチを、門番へ差し出した。


「私は、ヘンデク・アドリエル大公が娘、ルビー・アドリエルです!どうか皇后陛下にお目通りを!」


 こんなみすぼらしい姿では、まっとうな方法で申し込んでも、皇后への謁見が叶うとは思えなかった。門前払いされた時は、死ぬまでここに居座ろうと決めていたのだが、――拍子抜けするほど簡単に、謁見は叶った。


「まさか、私のもとを大公の娘が訪ねてくるとはね」


 兵士に見張られながら、ルビーは客間に通され、彼女の御前に跪いた。

 手入れの行き届いたフォーンの髪をシニヨンにまとめた、気難しそうな雰囲気の女性。細身ですらりと背が高く、冴え冴えとした切れ長の目元と、それを縁取る長い睫毛が印象的で、そこに立っているだけで威圧感がある。

 ヴァージニア・グランディディエ。このグランディディエ帝国の月――皇帝の唯一の正妻、国母、つまり皇后。帝国で最も高貴な女性。


「本当に、見事な赤毛だこと。顔つきも、あの女に似てドラ猫のようじゃない。娘だというのは嘘じゃなさそうね」

「オーガスタ・アドリエルは間違いなく私の母です!」


 叫ぶと、兵士はルビーの首根っこを掴んだ。

 ウッ、と喉が締められる感覚にうめく。

 皇后が「おやめ」と一言発すると、途端に急に入り込んだ空気にむせ、せき込んだ。

 ルビーの母――オーガスタ・アドリエルは、鮮血のような赤毛と悪魔的な美貌で知られる伝説の娼婦だ。帝国貴族の男で彼女の名を聞いたことがない者はいないとも言われ、その蠱惑に取り憑かれ、身を滅ぼした男は数知れない。

 そんな母も歳をとり、結婚相手として最良の条件の男を見つけ出した。それが先妻を亡くしたばかりの、ヘンデク・アドリエル大公だった。平民出身の娼婦としては最高の成り上がり、夢のような玉の輿だった。


「名前は?」

「……ルビー・アドリエルと申します。十四歳です」

「公には数か月前に生まれたばかりの娘が第一子と聞いているけれど?」

「それは私の妹です。私は大公の実子ではありませんので」

「成る程。それで、そんなひどい格好で逃げてきたというわけね」


 ルビーの話を聞いた皇后は、どこかうすら寒い笑いを浮かべた。

 屋敷で着せられていた中古のメイド服は既に擦り切れ、汚れでボロボロだったものが、雨の中走って来たこともあって泥だらけ。とても高貴な方の謁見に相応しい風体ではない。

 けれどそれを恥だと思う気概も、申し訳ないと思う余裕も今のルビーにはなかった。


「どうして私の宮に来たの?」

「どうか私を大公から匿っていただけませんか。そうしていただけたら、この命尽きるまで、陛下にお仕えすると誓います」

「……みすぼらしいただの子供のおまえがそうしたとして、私になんのメリットがあるの?」

「……陛下に」


 兵士に抑え込まれながらも、ルビーは必死に首を持ち上げた。

 ひどく汚い赤毛の間から覗く青い双眸で、皇后をまっすぐに見据える。



「陛下にお見せしたいものがございます」



 そう口にした途端、ずうん、と重たい音を立てて、宮が闇に包まれた。



「な――」



 宮中の人間が驚愕に目を見開いた。

 部屋どころではない。宮の建物全体が一瞬で夜よりも更に濃い闇に沈んでいる。

 皇后の傍に立っていた侍女や、ルビーを取り囲んでいた兵士も絶句し、また皇后も言葉なく、光が一切届かなくなった間を見回している。

 ルビーはそっと右手を持ち上げ、手のひらから光を吐き出した。

 炎でも、宝石でもない、ただの光を放つ塊。

 それをそっと皇后に向けて差し出す。

 煌々と発光する球はふわりと浮き上がり、暗い部屋に瞬く間に広がり、まるで大きな宮の中に太陽が生まれたよう――。



「私は魔女です」



 そう言うと、皇后はいよいよ目を丸くした。


「ま……魔女?」

「嘘をつくな!」


 ルビーの首元へ剣を向けた兵士が大声で怒鳴りつける。


「魔法使いの家はどちらもずっと昔に滅んだ!こ、こ、こんな手の込んだ手品などで陛下を欺こうとするとは――」

「馬鹿者!手品でどのように宮をここまで闇に染められようか!」


 一喝したのは、皇后だった。

 皇后は立ち上がり、漂う光の中をゆっくりと進み、ルビーの傍へ歩み寄ってきた。

 私の伏せた頭を見下ろし、その赤毛、とつぶやく。


「……まさか、オーガスタ、あの女は……」

「キテラの末裔でございます、陛下」

「まさか!」


 陛下よりも大声で侍女が叫ぶ。


「……オーガスタも、おまえと同じように魔法が使えるのかしら」

「いいえ、おそらく、自分がキテラ家の血筋の者だとも知りません」

「オーガスタも大公も、おまえが魔女だと知っているの?」

「いいえ。二人とも知りません」

「おまえにオーガスタや大公の息がかかっていないという保証は?」

「……ありません。けれど、私が貴族の娘らしい扱いを受けていないことは、この身体を見て頂ければ」

「おやめ。レディーが無暗に人前で服を脱ぐものではありません」


 ワンピースの裾に手をかけたルビーを咎め、皇后は踵を返した。


「宮を丸ごと闇に包み込めるような魔力を持つ者は、私が読んだ歴史書に記されているどんな魔法使いにもいなかった」

「…………」

「面を上げなさい」


 凛とした声に命じられ、大理石の床に敷かれた豪奢なカーペットから顔を上げる。

 枝のように痩せ細った身体、着古したみすぼらしいワンピースは、雨水や泥で更に汚れ、固く乾いていた。

 そしてそこから伸びた、痣の残ったなま白い手足。伸びきり、鳥の巣のようになった赤毛。

 その貧民の如き薄汚さを、一介の貴族令嬢として恥ずかしがるほどの自尊心も、誇りも、余裕も――最初からルビーにはなかった。


「ルビーと言ったわね」

「……はい、陛下」

「それで、おまえはどうして私を選んだのかしら?皇帝陛下でも、皇子でも、神殿でも、帝国軍でもなく、私を選んだ理由は?」

「……皇后陛下と私の目的が同じだからです。皇后陛下であれば、必ず私を必要としてくださると思いました」

「……私の目的ですって?」

「はい。私を皇后陛下の懐刀にしてくださるのであれば」


 緊張を緩めるように、ルビーは深く息を吐き、ルビーは迷わず一番強い言葉を選んだ。


「必ず愚かな大公と皇帝を断頭台に送って差し上げます」

「……!」

「なんという……!不敬な!!」


 兵士が顔を真っ赤にして剣を構える。今すぐ不敬罪で首を撥ねられても文句は言えない。

 しかし、ルビーには強い確信があった。

 ――皇后は、必ず私を欲する。

 

「……ルビー。ルビー、ね」


 皇后はじろじろとルビーの顔を眺め、そして少し考え込むようにしてから、ふふ、と薄く微笑んだ。


「薄汚い仔猫のようなおまえの髪にぴったりね。そして、『勇気』『情熱』『不滅』の石でもある。素晴らしい。誰よりもおまえにこそ相応しい名前だわ。名付けた者はとても聡明で愛に溢れた人物なのでしょうね」


 それは皇后の皮肉であることは言うまでもなかった。

 彼女はやけに冴え冴えとした表情を浮かべ、目元や額に寄った皺は、彼女の途方もない苦労の年数を感じさせた。


「いいでしょう。おまえを拾ってあげる。魔女ルビー」

「恐悦至極に存じます、陛下」


 ルビーは泥にまみれたワンピースのスカートを持ち上げ、恭しくカーテシーをした。

 怯えた様子でこちらを見つめる侍女たちの視線も気にならなかった。

 他の誰かなど知ったことではない。

 このお方さえ――この命を預けた皇后陛下さえ、ルビーを見限らなければそれでいい。




「まず、その格好をどうにかしなければね」


 すっかり明るく元通りになった謁見の間で、陛下はルビーから離れるよう兵士に命じ、傍に仕えていた侍女に命を飛ばした。


「ミルテ、彼女に部屋を与えなさい。入浴させて、貴族令嬢らしい身なりに整えさせて頂戴。それから、アエロを呼んで。確かめたいことがある」

「……かしこまりました」


 ミルテと呼ばれた陛下の傍についていた、切りそろえられたおかっぱ頭のそばかすの侍女に連れられ、ルビーは応接間を出た。

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