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紙のクラゲは夜空で踊る

作者: 春階響羽


「申し訳ありません、一般の方は事前予約がないと入館できないんです」


 受付でそう告げられ、俺は呆然と立ち尽くした。周囲ではやけにうるさく蝉の鳴き声が響いている。夏のある日のことだった。

 ここはとある大学の附属水族館で、地元でも有名な観光スポットだ。いわゆる「()え」を押し出すコンセプトではなく、学術的に価値のある施設である。全国的に見ても珍しい海洋学部を(よう)するこの大学には、毎年県外からも多くの受験生が進学してくるらしい。


「そんな。前は普通に入館できたと思うんですけど」

「近年の老朽化の影響で、一般公開を終了したんですよ。現在は大学か、附属高校の在学生でないと自由な出入りはできないんです」


 全然知らなかった。俺は自らの無知を恥じる。

 俺の家はそれほど裕福というわけではなく、私立である附属高校を受験することは叶わなかった。申し訳なさそうにする両親を責めるわけにもいかず、俺は近所の公立高校に進学した。

 けれどどうしても海への憧れを捨てきることはできず、今は大学の海洋学部に特待生として入学するために一生懸命勉学に励んでいる。それに暮らしのためにバイトを詰め込んでいるので、今日はようやく憧れの水族館を鑑賞できる貴重なタイミングだった。


「そうですか……」


 肩を落として水族館に背を向け、帰ろうとしたそのときだった。いつの間に俺の真後ろに立っていたらしい人物とぶつかった。


「わっ、すみませ……」


 言いながらぶつかった相手を見る。そして俺は驚いた。


「あっ……! 海月(みつき)!?」


 その人物は俺よりいくらか小柄な女の子だった。夏の制服から伸びたすらりと細い手足は妙に生白く、真っ黒なロングヘアとのコントラストが眩しい。


「あれ、千洋(ちひろ)じゃーん久しぶり! どしたの? ここになにか用事?」


 少し高くやわらかい声色で屈託なく訊ねられると、安心するようなドキドキするような、不思議な感覚に陥る。


「実は……」


 俺は今までの流れをかいつまんで説明する。


「なるほどね。そういうことなら海月お姉さんにお任せあれ!」

「えっ?」

「私、ここの附属高校の生徒で――って制服着てたら分かりますよね、えへ。私が同伴するので、入館させてあげてもいいですか?」

「それでしたら大丈夫です」


 受付のスタッフはあっさりと承諾し、一般入館料を提示する。俺が割って入る隙もなく、海月はさっさと俺の分の入館料を支払ってしまった。


「えっえっ、そんな悪いよ」

「はいこれチケットね」


 慌てる俺に動じることもなく、海月は入館チケットを渡してきた。


「お金貯めてるんでしょ? お姉さんに甘えちゃいなさい」

「でも……」


 なお食い下がると、海月は受付を通ってすぐのところに設置された自販機を指した。


「じゃああれ(おご)って!」


 海月にねだられるまま、爽やかな青いラベルのスポーツドリンクを買ってあげた。入館料の三分の一以下の値段のそれを受け取り、海月は嬉しそうに蓋を開けた。


「ちょうど喉が乾いてたんだ! ありがと」

「お礼を言うのはこっちの方だよ……ていうか帰ってきてたんだな、海月」


 海月は俺のご近所さんで、小さい頃からのひとつ年上の幼馴染だ。ずっと家族ぐるみで仲が良く、高校進学で別々の学校に離れてもことあるごとに会って交流していた。

 その海月も去年からしばらく東京に行っていたのだが、どうも地元に戻ってきたらしい。


「んー? まあね」

「東京に行ってたんじゃなかったのか?」

「うん~」


 海月はスポーツドリンクを飲みながらなので曖昧な返事をする。クマノミが泳ぐ水槽のガラスに反射する海月は、なんだか複雑な顔をしていた。


「ほらほら、千洋の好きな深海生物だよ~」

「あ、うん」


 あからさまに話を逸らすような調子で海月は深海生物の標本のコーナーを指し示す。


「ここの展示、いいよね~。青くてきれい」

「小学生みたいな感想……」


 標本のコーナーといっても味気ないものではなく、青い壁面を後ろからライトで照らしているのでちょっと雰囲気がある。これなら学術的な関心がない一般客でも楽しめそうだ、と思った。


「千洋は小さい頃から海の生き物好きだったよね」

「まぁ、こんな近くに海があると興味も出てくるというか……」


 ここはいわゆる海の見える町というやつで、すぐ近くに港湾がある。海洋生物を研究するのにはうってつけの立地というわけだ。


「たまにしか来れないし、写真撮っておこうかな。ここって撮影OKだよな?」

「いいけど、そのうちいつでも来れるようになるでしょ」

「え?」


 海月はにこっと笑って見せる。


「だって、千洋は受験勉強頑張ってるもんね。きっと特待生で入学できるよ」

「……そうだといいんだけどな」


 それから俺たちはゆっくりと時間をかけて館内を鑑賞した。ひとつひとつの水槽の前で逐一立ち止まっては観察する俺に呆れることもせず、海月は一緒になって水槽を覗き込んでくれた。いくつかの展示の前で海月は写真を撮ってほしいとお願いしてきたので、ツーショットなんかを撮ったりした。


「ちょっと休憩してもいい?」


 頷くと、海月は大水槽の前のベンチに腰掛けた。俺もその隣に並んで座る。この大水槽は館内でもメインの展示で、外部向けのパンフレットには必ず写真が載っている。ターコイズブルーのゆらめきの中には、シロワニやギンガメアジ、スズメダイなどたくさんの生物が泳いでいる。いつまでも見ていられそうな景色だった。

 俺が大水槽に夢中になっていると、不意に海月は立ち上がって近くの別の水槽の前に近づいていった。さすがに飽きてしまったのだろうか……と申し訳なく思いながら俺も海月が見ている水槽を覗き込んだ。それは、大水槽の真後ろにあるクラゲの展示だった。


「海月はクラゲが好きなの?」

「うん。ふわふわひらひらしてて、ドレスみたいでかわいいよね」

「そうかな……」


 そういうかわいらしい感想を持ったことがなかったので、ちょっと新鮮な視点だと思った。なにせ俺は同じクラゲを観察しながら、ゼラチン質やからだに張り巡らされた神経に思いを馳せていたのだから。


「千洋は私の名前の漢字って覚えてる?」

「海の月って書いて、ミツキだろ? ……あっ」


 言いながら思い至り、俺と海月の目が合って微笑み合う。


「そう。海の月って書いて、クラゲとも読むんだよね。だからちょっとシンパシー感じたりして……」


 そのようなことを話して、しばらくクラゲの水槽を眺めていた。無言が続いた後、不意に海月(みつき)は口を開いた。


「あのね。実は私、もう余命わずかなんだ」

「……」


 そういう話なんじゃないか、と覚悟はしていた。けれど実際海月の口から語られると、絶望せずにはいられなかった。


「東京のおっきな病院で治療してたんだけどね。まだ治療法も確立されていない難病で。もう先は長くないんだって。だから最期の時間を、大好きな家族や千洋と一緒に過ごそうと思って、こっちに戻ってきたんだ」

「……うん……」


 海月が病気の治療のために東京に行った、という話は風の噂で知っていた。だからさっき偶然の再会を果たしたとき、驚きや嬉しさと同時に、痩せ細った身体を痛々しく感じていたのだ。


「ごめん、せっかく念願の水族館に来れた千洋にこんな話しちゃって。雰囲気ぶち壊しだよね」

「そんな言い方するなよ。……今は身体、しんどくないの?」

「大丈夫、意識は保ってられるくらいだから」

「そう、か……」


 ガラスを隔てた海月の隣で、クラゲがふわふわと揺れている。


「……そんな顔しないで。私、最期にたくさん楽しい思い出作るんだから! 千洋も協力してよ?」

「……うん」

「今日はもう帰ろ? 千洋は明日はバイト?」

「うん。でも、学校終わってからバイトまでわりと時間あるから……」

「じゃあ放課後遊びに来てよ! うちの神社、場所分かるよね?」

「分からないわけないじゃん」

「うんうん! それなら、また明日ね!」


 海月の白く細い小指と指切りを交わし、その日はお開きになった。




 翌日、俺は約束通り千段階段を登頂して神社の境内にやってきた。海月はこの神社の一人娘なのだ。額の汗を拭いながら石畳をまっすぐ歩き進めると、竹箒で掃除をする海月と出くわした。真っ赤な巫女装束がよく似合っている。


「海月。待たせた?」

「平気だよ。千段階段お疲れ様、大変だったでしょ?」

「まぁね……」

「そこにお休み処があるから、よかったら使って。私もここの掃き掃除終わったら行くね」


 お言葉に甘えてお休み処のベンチに腰掛ける。ちょうどいい高さのテーブルが備え付けてあるので、海月の掃除を待ちながら問題集を解き進めた。


「はい、麦茶」


 掃除を終えた海月に麦茶のグラスを差し出される。テーブルの上に置くと、カランと氷同士がぶつかる涼しげな音を立てた。


「ありがとう。なんかもてなしてもらっちゃって悪いな」

「いいんだよ。勉強の進み具合はどう?」

「まぁまぁ順調かな」

「がんばれ~。キリのいいとこまでやったらお話ししようね」


 いつの間に用意したのか、海月は和紙でできた何かの束をテーブルの上に広げて作業を始めた。受験勉強は進めたいけれど海月とも話したい……俺は集中してなるべく早く問題集を解き終わった。


「今日はここまで」

「ストイックだねぇ。千洋はえらいね~」

「へへ……そう言ってもらえると頑張れそうだよ。海月はなにしてたの?」


 俺はずっと気になっていた和紙の束を指して問う。


「これはね、例大祭の準備だよ」

「例大祭……もうそんな時期か」


 例大祭というのは、この神社で毎年九月に行われる大規模なお祭りのことだ。たくさんの屋台が立ち並び、多くの人で賑わう。例大祭の日になると、もうすぐ秋が訪れるのか、と実感するのだ。


「じゃあこれは『紙くらげ』の準備?」

「その通り! すんごいたくさん作らないといけないから家族みんなで取り掛かるんだよ~。例大祭限定で巫女さんやってくれる短期バイトさんたちも手伝ってくれてるんだけど、なかなか終わらなくてね~」


 『紙くらげ』は例大祭の夜に行われる行事だ。和紙でできた天灯(ランタン)を夜空に向かって飛ばし、先祖や亡き人の魂の安寧を願うのだという。天灯の裾に細長く切った和紙を貼ることで、くらげの姿を再現している。見ている分には綺麗だなぁで済むのだが、作るのは大変だろう。


「俺も手伝おうか? ちょっとだけだけど……」

「いいの? ありがと!」


 紙くらげを二人で作りながら、色々な話をした。海月が東京に行っていた間の俺の日常の話。海月が病名を宣告されてからどんな日々を送っていたのか。今は明るく振る舞っている海月も、当時は人生のどん底に突き落とされたような絶望の中に居たらしい。それでも現実を受け止めて、できるだけ後悔を少なくできるように楽しく日々を暮らすことに決めたのだと。海月は極めて穏やかな語り口でそう話してくれた。


「このくらい進めばかなり上々だよ。千洋、ありがとね!」

「お役に立ててよかった」

「手に(のり)がついちゃったでしょ、洗いに行こ」


 海月の後ろについてゆくと、木陰の中に水道があった。蛇口をひねると冷たい水が出てくる。


「真夏にこんな冷たい水が出るなんてちょっとびっくり」

「湧き水を引いてるからね~」


 手についた糊を落としてハンカチで拭く。深緑の葉が風に揺れてざわめくと、海月に落ちる木漏れ日もきらきらと揺らめいた。


「そういえば、今日は三つ編みなんだな」


 たった今気がついたかのような口ぶりでそう言ってみる。実のところ最初に声をかけたときから気づいていたのだが、髪型について言及するのが少し照れくさかったのだ。


「お掃除や作業するのにまとめてた方が動きやすいからねー。どう? 似合ってる?」

「別に……」


 そう言いかけて、やっぱり本当のことを言うことにした。


「……いや、似合ってる。かわいいなって思ってた」


 俺がぎこちなくもそう伝えると、海月の顔は予想外の言葉に驚き、そして赤くなった。


「えへへ……嬉しい。ありがと」


 なんとなく次に言うべき言葉が見つからずに黙ってしまう。すると海月は耳たぶの下から垂直に垂れるふた(ふさ)の三つ編みの片方を解いた。


「よかったら、千洋も編んでみる?」


 なんでそうなる……と突っ込むこともできたのだが、俺は頷いていた。


「三つ編みってやったことないな」

「教えてあげる。まず毛束を均等に三つに分けて……こうやって真ん中に向かって順番に編んでいくの」


 教えてもらいながら編んでゆく。海月の髪は結構長いので、ドキドキする時間はなかなか終わらなかった。


「私ね、もし例大祭まで生きてたら、奉納の演舞をやりたいんだ〜」

「あぁ……巫女さんが舞台の上で踊るやつ?」

「そう。まだ練習中だったんだけど、最後なんだしやらせてもらえるよね?」

「そりゃ、海月がやりたいって言えばな」


 緊張で震えそうになる指先で海月の髪をすくっては編む。指通りのいいさらさらな手触りだ。


「あのさ、海月……」


 毛先の近くまで編み終わり、ヘアゴムで結びながら意を決して切り出した。


「俺、海月のこと好きなんだ」


 じっと見つめていた毛先から視線を上げ、海月を見る。


「うん。私も千洋のこと好きだよ」


 海月の髪から手を離すと、空いた手は海月の手のひらで握られる。


「……ずっと、そう思ってたんだ。言わなくても伝わってる気がして、口に出すことから逃げてた。……でも、ちゃんと言葉にして伝えなきゃって思ったんだ……今更でごめん……」

「ううん、すごく嬉しい。ありがとう、千洋……大好きだよ」


 両手を広げて促す海月を抱きしめる。我ながらぎこちない動きだったと思う。だけど、海月の体温を全身で受け止めながら抱き合っていると、心から満たされた。もう先は長くないと分かっていても、このときばかりは幸せだった。真夏の暑さなんてどうでもよくなるくらい、いま生きている海月の存在を感じていたかった。




 夏休みの間は毎日海月に会った。あるときは神社の境内で他愛もないことを話し、あるときは図書館で勉強会をした。


「明日は久しぶりに一日予定空けられそうなんだけど、海月は行きたいところとかある?」


 図書館の帰りに自転車を押しながら訊ねると、海月は即答した。


「海!」

「海なんて毎日見てるけど……いいの?」


 なにせ今も夕日が沈む水平線を横目に海岸沿いの歩道を歩いているのだ。もっと遠くまで出かけてもいいのだが。


「うん。あとちょっとで完成しそうなものがあってね、そのために海に行きたいの」

「そう……? じゃあ明日は千段階段の下で待ち合わせでいい?」

「よろしく! 一日付き合ってもらうからそのつもりで!」

「はは……今日は早めに寝ることにするよ」


 その日は宣言通り早めに就寝し、翌日のデートに備えた。




 明くる日の待ち合わせ時刻に千段階段の前へ到着すると、海月は先に待っていた。まぁ実質海月の家の玄関先のようなものだから当然かもしれない。


「おはよ、海月」

「千洋! おはよっ、昨日はちゃんと寝れた?」

「かなり熟睡した。今日かわいい服着てるね」


 海月は白いワンピースに身を包んでいた。女の子のファッションには詳しい方ではないけれど、よく似合っているということは分かる。


「ありがと! 千洋に褒めてもらえるのがいちばん嬉しいな〜。あいにく麦わら帽子は持ってないけどね?」

「麦わら帽子? なんで?」

「よくあるでしょ、黒髪ロングに白ワンピと麦わら帽子の女の子と田舎で夏を過ごすみたいなやつ」

「よくあるかなぁ……?」

「まぁいっか。じゃあ行こっ!」


 海月はさっと俺の手を握って歩き出す。かわいい彼女と手を繋いでデート……こんなに幸せなことがあっていいんだ、なんだか夢を見ているみたいだと思った。だけど女の子なら誰でもいいわけじゃない。ここに居てくれるのが海月だから嬉しいんだ。


「今日は何しに海へ?」

「えっとね、シーグラスを拾いに」


 砂浜までやってくると海月はお行儀よくワンピースの裾を膝の内側に折りたたんでしゃがむ。


「シーグラス……って、ビーチグラス? 海に流された瓶の破片とかが角が取れて丸くなったやつ……」

「なにそれ、辞書の説明文の読み上げみたいだね。青いシーグラスを集めてるんだよね〜」

「好きなの?」

「わりと好きだね。あのね、写真立てのフレームにシーグラスを貼り付けて飾るんだ。それをいくつか作っててね、家族の分はもう作り終わって配ったんだよ。だから今日は千洋にあげる分の写真立てを作ろうと思って」

「俺のためだったんだ」


 海月は砂の中から拾ったシーグラスを持参した袋に入れていく。手持ち無沙汰なので、俺も同じようにしゃがんで砂の中を探り始めた。


「一緒に探すよ」

「えー? 千洋にあげるものなのに?」

「一緒に探したって思い出が欲しいんだよ」

「……そっかぁ」


 青か水色かエメラルドグリーン……色の制約があるとなかなか集まらない。確かにこれは一日コースになりそうだった。

 しばらくそうやってシーグラスを集めていると、だんだんお腹がすいてきた。それに喉も乾いている。いつの間に正午を過ぎていた。


「海月、休憩しないか?」

「私もちょうどそう思ってたとこ~」


 意見が一致して砂浜から離れ、近くの売店に入った。海を一望できる窓際の席に並んで座り、注文の品が届くまで冷たい水で喉を潤す。


「はぁー、生き返ったって感じ」

「こんなにカラカラになってたとは……」

「午後はペットボトルの飲み物調達してから再開しようね」

「賛成」


 ほどなくして二人分の焼きそばが運ばれてくる。あんまりおしゃれな食べ物じゃなくて申し訳ないけれど、俺の財布事情にはちょうどいい。


「海辺で焼きそばって海水浴みたいだね」

「海の家的な?」

「千洋は海水浴に行ったりする?」

「あんまり。このへんは泳いで遊ぶ感じの海じゃないんだよな。潜水士の資格の勉強はぼちぼち進めてるから、18歳になったら受験するつもり」

「18歳か~。私より年上になっちゃうね」

「…………」

「ごめん、辛気臭くなっちゃった。今のなし」

「いや……話振ったの俺の方だし……」


 二人とも誕生日が遅いので、高校二年の俺は16歳でひとつ年上の海月は17歳。三月生まれの海月は……18歳の誕生日を迎えることはないだろう。


「焼きそば冷めちゃうよ。あったかいうちに食べよ?」

「うん」

「これ富士宮焼きそばだよね。好きだけど、富士宮で食べたことないな~」

「確かに。行ってみる?」

「ここで食べられるならいいや~」


 海月はそうやって話題を変えた。元に戻す理由もないので、俺も乗っかって楽しい話を続けた。

 腹ごなしを終えてまたシーグラス捜索に取り掛かる。場所を変えて探し回り、ようやく袋がいっぱいになった頃にはもう日が傾き始めていた。


「はい、どうぞ」


 ベンチに腰掛け、ぬるくなったペットボトルの水を飲んでいると海月からいちごソフトのカップを差し出された。この辺りは石垣栽培のいちごも名物なのだ。


「ありがと。これめっちゃ美味しいね」

「でしょ? 千洋に食べさせてあげようと思ってたんだ~。はい、あーん」

「……あーん」

「ふふ、照れちゃってかわいい~」

「もう、お前なぁ……」


 太陽はゆっくりと海へ溶けてゆく。黄金色(こがねいろ)の夕暮れが美しかった。


 隣に座った海月はずい、とこちらに顔を寄せる。そのまま唇にキスされた。


「えへへ。ファーストキスはいちごの味~」

「……そこはレモンじゃないのかよ……」

「嫌だった?」

「嫌じゃない」


 すぐに答えて、二度目は俺から唇を重ねた。




 帰り道、夜の闇に溶けた水平線を眺めながら並んで歩いていた。


「かなりどっさり拾えたね〜」

「頑張ったもんな」

「これならいい感じに仕上げられそうだよ」


 千段階段の前までやってくると、海月は繋いだ手を離そうとした。とっさに強く握り、それを引き止める。


「まだ一緒に居たい……」


 情けないかもしれない。けれど本音だった。それはもちろん、二つの意味で。


「んもー! 勉強で忙しいんじゃないの? 千洋は甘えんぼさんだな~」


 海月は呆れたような言葉を口にするけれど、その声色は嬉しそうだった。


「お願い」

「しょうがないなぁ。頂上までエスコートお願いできる?」

「うん」


 お参りが大変だと評判の千段階段も、このときばかりは長い道のりであることに感謝できた。ずっと海月と一緒に居たい。まだまだ話し足りない。一緒に行きたい場所がたくさんある。一緒に見たいものがたくさんある。

 頂上までたどり着いてしまうと、俺はたまらなくなって海月を抱きしめた。


「なぁに? 今日の千洋はくっつきモード?」

「……ちょっとくらい、いいだろ……」


 折れてしまいそうなほど華奢な身体を両腕で包み込むようにして抱き寄せる。海月の心臓はまだ動いている。体温だって、こんなに温かい。


「……千洋。好きだよ」

「俺も海月のこと好き……」


 初めて伝えた日から、繰り返し交わしてきた想い。何度言っても足りないほどだった。海月を好きという気持ちが、失いたくないという気持ちが溢れてしまって仕方なかった。


「……例大祭の日、私の演舞見に来てね」

「うん」

「屋台の焼きそば食べようね」

「うん」

「あと、キンキンに冷えたラムネも飲んで、りんご飴も食べようね」

「うん」

「そしたら、一緒に紙くらげを見ようね」

「うん……」

「約束!」


 海月は笑顔でそう言ってくれた。だから俺もなるべく笑顔で居ようと思って、笑って頷き返した。




 けれど、海月はあっけなくこの世を去ってしまった。海に出かけた、二日後のことだった。

 血縁関係もなく、結婚しているわけでもない俺が病室に入ることは許されず、最期を看取ることは叶わなかった。

 葬儀の日、海月の家族から二つのものを渡された。一つはシーグラスをいっぱいに敷き詰めた写真立てで、もう一つは海月からの手紙だった。海月からの最期のメッセージ。しかし、手紙の封を切ることはひどく恐ろしいことのように思えた。これを開けて読んでしまったら海月は過去の人になってしまうのではないか。それが怖くて、俺は手紙をデスクの引き出しにしまい込んだ。




 夏休みの終わりが近づいてきた頃、今度はしっかり予約をとって大学附属水族館を訪れた。ここは海月との思い出の場所だった。海月と見たクマノミの水槽。深海生物の標本。大水槽……ターコイズブルーのゆらめきの中に、シロワニ、ギンガメアジ、スズメダイ。――揺蕩(たゆた)うクラゲの水槽。


「ずいぶん熱心に見てますね」


 何時間もそうしていたので、スタッフに声をかけられた。


「はい。俺、ここが好きで」

「いいですよね、貸し切りの水族館って。今日はぜんぶ独り占めですね」

「……そう、ですね……」


 突然俺が泣き出したので、そのスタッフを困らせてしまった。

 もう、海月は居ないんだ。俺の隣で笑ってくれる海月は――居なくなってしまった。




***




 例大祭の夜、俺は早めに勉強を終わらせて出かける支度をしていた。財布やスマホなどをリュックに詰める。デスクの上には、シーグラスの写真立てが飾られている。中に収められているのは、水族館で撮った海月とのツーショット写真だった。そこで海月は笑っている。

 部屋を出ようとして、俺はふとデスクの引き出しを開けていた。その中にしまい込んでいたものを取り出し、リュックに入れて家を出発した。

 夜の海岸線をひとり歩いてゆく。神社の(ふもと)が近づいてくると、人通りが増えてきた。通い慣れた千段階段を浴衣姿の人々が登ってゆく。俺もその人混みに紛れて一歩一歩踏みしめるように登っていった。

 本殿の前には屋台が立ち並び、大勢の人で賑わっていた。甘ったるい飴の匂い、ソースが焦げた香ばしい匂い……そんな空気の中に居ると、祭りの最中なのだと実感する。

 社務所に立ち寄ると、海月の家族が忙しそうに仕事をこなしていた。この盛況ぶりだと嬉しい悲鳴だろう。


「こんばんは」


 俺が声をかけると、社務所の中の女性がにこっと微笑んでくれた。この人は海月のお母さんだ。笑った顔に面影がある。


「こんばんは、千洋くん! 来てくれてありがとうね。きっと海月も喜ぶわ」

「そうだといいんですけど」

「はいこれ、千洋くんの分の紙くらげ」

「ありがとうございます」


 海月と一緒に作った紙くらげ。大事に抱えて見晴らしのいいところにやってきた。既に空に飛ばされた紙くらげたちが、橙色の温かい光を宿して空を泳いでいる。

 俺は自分の分の紙くらげを広げてみた。クラゲの触角を模した細長い和紙の飾りがついている。その束を破れないようにそっと手に取り、交互に編んだ。海月の三つ編みを思い浮かべながら。

 そうして内側に明かりを灯し、紙くらげを空へと放つ。三つ編みのクラゲはそよ風に揺られながらくるくると舞い、ゆっくりと天へ昇ってゆく。

 俺はリュックの中から手紙を取り出した。これだけ明かりに包まれていれば、夜のさなかに居ても手紙の文字は読めそうだった。封を切って便箋を広げる。




『千洋へ


おはよう、こんにちは、こんばんは。

千洋がこの手紙を読む時間が分からないので、三通りの挨拶を書いておきます。

千洋は元気にしていますか? この手紙は私が居なくなったら千洋に渡してほしいって家族に頼んでおいたから、読んでるってことは私はここには居ないんだろうね。


たぶん突然のお別れになっちゃったよね。

さよならって言えなくてごめんね。

生きてる間に「大好き」と「ありがとう」はたくさん伝えたつもりだけど、千洋にはちゃんと伝わってたかな?

きっとね、私が本当に思っていた「大好き」と「ありがとう」は、半分も伝えられなかったよね。

一緒に居られる時間が短すぎたね。ごめんね。

千洋は一秒でも長く私と一緒に居られるように頑張ってくれていたよね。

千洋と過ごしたこの夏は、私にとってかけがえのない宝物だったよ。


でもね、私、もっともっと千洋と一緒に居たかったよ。

例大祭までもたなかったの、ごめんね。

千洋に私の演舞を見てほしかったし、一緒に紙くらげが飛んでいる夜空を見上げたかったなぁ。

それが私の心残りです。


手を繋いでどこまでも歩いていきたかった。

千洋の隣に居たかった。

千洋の笑顔を、もっと見たかった。

一緒に美味しいもの食べて、一緒に色々な場所に行って、一緒に素敵な景色を見たかった。

千洋が夢を叶える瞬間を、一番近くで見ていたかった。


言っておくけど、私を追いかけてくるのはナシだよ。

私は千洋の夢を応援してるんだから、絶対叶えてくれなきゃイヤだからね。

千洋はずっと勉強頑張ってたし、受験はきっと大丈夫!

ベタな表現かもしれないけど、空の上から見守ってるからね。

とか言いつつ、私のことをいつもそばに感じてほしくて写真立てを押し付けたことを白状します。

あれは千洋のためっていうより、私のためなんだ。

写真立ての中身、私とのツーショット写真にしてよね?

違う写真入れたりしたら、化けて出てやるんだから!


そういうわけで、私は千洋の心の中でいつまでも生き続けることにします。その方が近くで見守れるもんね?

ずっとずーっと、私は千洋を愛しています。

さよならよりいい言葉を見つけたから、それを書いて締めくくるね。

おやすみ千洋。また明日。


海月』




 ――それは綺麗事かもしれない。海月はこの世を旅立っていったのだから。

 それでも俺はこれから毎晩、海月がくれた希望を抱いて眠りにつこうと思う。海月が俺の心の中で生き続けるのなら、俺が目覚めれば海月も目を覚ますはずだから。例えそれが、かたちのない幻だったとしても。この愛を抱きしめて、ずっとずっと歩いてゆけるはずだから。

おやすみ海月。俺も海月を、愛してる。


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