8 居住区
「リナ、起きて。朝よ」
「あさ……?」
私は眠い目を擦る。目の前には今日もバッチリとメイクをしたコーエンの綺麗な顔があるけれど、辺りの暗さは何も変わっていない。天窓から差し込む月の光もそのままだ。
「アナタ、昨日はまだ早い時間から眠ったじゃない。途中で起きるかもと思って何回か様子を見に来たけど、凄いわね。一回も起きなかった。ちょっと無防備すぎじゃない?」
コーエンは茶目っ気たっぷりに笑う。まぁ此処では結界が敷いてあるから悪さなんてできないけど、と笑いながら。
早い時間から眠ったと言われても実感はない。体感はまだ三時間だ。
「まだ暗いのに……? う、でも仕事……」
コーエンに背中を支えられながら半ば強制的に起こされて私は呻く。偉いのね、とコーエンが答える声を聞き、せめて日が昇るまで寝かせてほしい、と思ってからハッとした。
そうだ、昨日はスマホの通知を押した瞬間に変なところにいて。
「ヴェステンから来たんじゃ慣れないわよね。残念ながらアーベントに太陽は昇らないの。お日様は此処が嫌いなのかしら。でも日の下にいるとお肌に良くないって言うじゃない? 月の光はいくら浴びたって良いのよぉ」
くすくす笑うコーエンに、へぇ、とか無難な返答をしながら私は急いで昨日の記憶を掘り起こす。私どうしてこんなところにいるんだっけ。そうだ、手違いで喚ばれたらしい上に精霊とか言われて身代わりに此処へ来たんだった。まだ、私が身代わりだとはバレていないはずだ。そうでなければこんな風に扱ってもらえるわけがない。
昨日は中途半端なところでコーエンがロドルフを迎えにきたから私は判断をし損ねた。それも含めて戦略かもしれないと思うとどうにも難しい。ロドルフが帰ってひとりになってからは色々考えていたけれど、仕事でくたくたに疲れていたこともあり限界を迎えて眠っていたらしい。
「あ、ドレス、ごめんなさい」
上半身を起こして脳が覚醒を始めてからようやく私は昨日の格好のまま寝落ちしたことに気がついた。それはつまりコーエンが着せてくれたドレスのままということで、皺が寄っているかもしれない。慌てて謝ればコーエンはまたくすくすと笑う。
「良いのよ。気にしないで。でも体痛くないかしら。ドレスの下の補正で寝心地は良くなかったと思うけど」
「私いつでも何処でも眠れるのが特技だし無理な体勢で寝るのは慣れてるんで大丈夫です」
「アナタ、本当にどういう生活をしていたの?」
ブラック企業で働く社畜です、とは言えなくて営業スマイルを浮かべておいた。流石に二十四時間営業のお店ではないから家に帰れないということはないけれど、サービス残業が連日続いて次の出勤時間まで四時間、ということはよくあった。睡眠を取らないのは無理、でも寝過ごしたくはない、という時、ベッドには横にならず膝を抱えてみたり机に突っ伏してみたりして深い眠りに就くのを避ける。後は強い暗示と目覚まし時計。絶対に起きるという意志を持ち、少し離れたところにスマホを置いた。体が動けば目も覚める。シャワーを浴びて強制的に覚醒しては出勤する、という日々だった。
もう朝だと言うなら本当は今日もそういう日のはずだった。地獄の繁忙期が始まるのに私は人生初の無断欠勤をし、様子を見に来た誰かに帰ってきた形跡はあるけど誰もいない部屋を見られ、行方不明として捜索願が出されるのだろう。そしていずれは失踪届が出され、厳しい条件をクリアした後に、死亡扱いとなる。
そうなる前に帰りたいところだけど喚んだ張本人には帰せないと謝られ、生贄にされる相手の根城に来てしまった。とても無事でいられる保証はない。
「まぁ良いわ。今日はアナタにこのアーベントを見せて回るようにって我が王から言われているの」
「王様が?」
驚いて問い返せば、そうよ、とコーエンは笑った。琥珀の目が妖艶に細められる。綺麗すぎて美術品のようでさえあった。
「今まで乙女が翌日を迎えることなんてなかったからアタシわくわくしてるの。今度の乙女は何かが違う、って。オンナの勘ってやつね」
その勘は間違えてもいるし当たってもいる。でもそうは言えなくて、私は首を傾げた。
「今までも乙女が此処に?」
尋ねれば、そうよ、とコーエンはこれも笑って頷いた。
「どれも聖女に目覚めると期待された子たち。でも誰ひとり我が王の部屋から帰ってこなかった。死んだわ」
「死……」
私は繰り返せなくて言葉を失った。やっぱり死ぬのか、と納得もした。そんな私をコーエンの目が観察しているようにも感じたからすぐに肩をすくめてみせる。どうしてなんて尋ねても、コーエンは知らないか知っていても話さないだろうと踏んだ。魔王の部屋に入った後のことは魔王しか知らない。それを知らされていないか、あえて黙る必要があるからだ。藪を突いて蛇を出す必要もない。そう、と私はかぶりを振るに留めた。
「でもアナタは帰ってきた、リナ。期待しているわ」
コーエンは綺麗に微笑んだ。期待されても、と思いつつ私は曖昧に笑う。魔王を謀った罪に問われて惨たらしく処刑されるくらいなら早々に自分から白状して恩情をもらえないか賭けた方が良いだろうか。いやこのファンタジーの世界では自分の常識は通じない可能性がある。まだ様子を見ていた方が良い。
私がそう判断したのと同時にコーエンが準備のため部屋を出ると私をベッドから立たせた。部屋を出て、またガチャガチャと鍵をかけて──この音を何度も聞き逃したなら私はぐっすり寝ていたのだろうと思う──コーエンが私を連れて狭い塔の階段を降りていく。私はそれに続いて、暗い階段を踏み外さないように気をつけた。
その後、コーエンがまたあれこれ悩んで決めてくれたドレスに袖を通して私は正面出入り口へ向かう。今日も馬車に乗るらしい。また空を飛ぶのか尋ねたら、飛ぶ予定はないとコーエンは答えた。
「アーベントを見せてあげると言っても、領地のほとんどは森なの。空から見せてあげても良いけど、見渡す限り緑が広がるだけよ。その中には色んな魔物が住む。だけど魔物じゃない者も此処にはいるから、住む場所が必要よね。アーベントには三つの居住区があるわ。アーベント城下町、モーア村、ヴルカーン村、ヒンメルもあるけど、あそこはどちらかというと魔物の領域ね」
名前に馴染みがなさすぎて全然覚えられないことだけは分かった。今日は城下町だけね、とコーエンが笑う。充分だと思った。
「あ、えーっと、オリスさん」
扉を開いて外へ出れば、昨日と同じ馬車が待っていた。御者台には既に人が座っている。服も帽子も見えるのに肝心の人の姿が見えなくて、私は昨日ロドルフに聞いた名前を口にする。右腕が挙げられた。
「よろしくお願いします」
私は馬車に乗り込む前に綺麗なお辞儀をした。オリスが帽子を上げる。透明なせいで表情はわからないけどその所作に悪意や敵意は感じず、私はホッとする。荒い運転は嫌よ、とコーエンが苦笑してオリスへ頼み、オリスは肩を戯けるようにすくめた。
私たちが乗り込んで少ししてから馬車は走り出した。始めはゆっくりと馬が進み出し、がた、と馬車も揺れる。ふかふかクッションはそんな振動をものともせず、快適だった。
「城下町にはどのくらいの人が住んでるんですか?」
「そうねぇ、この領地にいる人間のほとんど、と言って良いわね。モーアもヴルカーンも人に近い形はしているけど、魔物の色が強いの」
「魔物の色が強い?」
言っている意味が分からなくてそのまま訊き返せば、そうよ、とコーエンはまたにっこりと笑った。私の隣に座ったコーエンの距離が近い気がするけれど馬車の中だしこんなものだろう。それにコーエンは誰とでも距離感が近い人のような気がするからあまり気になるほどではない。
「ロドルフから聞いたでしょう? アーベントは行き場のない者たちの場所。魔物も此処から生まれて此処で生きて子孫を残していく。でもずっと同じ種族だと限界が来るのよ。異種族交配なんて珍しくないわ。此処ではそれに人も関わっているだけ。
人の形は便利なんでしょうね。でも湿地帯であるモーアでは水辺で暮らす魔物の色が、火山帯であるヴルカーンではその熱に耐え得る魔物の色が強く出る。でもヴェステンからあぶれる者も出るから、人はやっぱり多いのよ。あぁ、境界に近いところに住む者もいるわね。此処では育たない作物を育ててくれるから、なくてはならないの。アナタが昨日食べたものも、ヴェステンの日の光で育った作物を使っているのよ」
私は驚いて目を丸くした。多種多様な存在が住んでいるのは分かるけれど、領地の境に住む人もいると思わなかったのだ。あぁでもそうか、と私はすぐに腑に落ちる。
「争っているとはいっても流通や経済は止められないから。それに境界が働くのは魔物だけなら、人の出入りは厳しくない」
そう、とコーエンは満足そうに笑う。どっちに住んでも良いの、とコーエンは言った。其処がその人の住みやすいところならと。
「まぁ税はしっかりもらうけどねぇ」
運営をしていくにはお金が必要だから仕方ない、と私は頷いた。無償奉仕で組織は回らない。此処では既に王様が自己犠牲を払っているけれど、それを良しとしてしまうと上手くいかないこともあるだろう。
「当然、検閲もするわ。毒を入れた食べ物を送られてきても困るもの」
ちっとも困らなさそうな声と表情でコーエンが言うから私は、はぁ、と曖昧な返答をしておいた。どういう意味合いで困るのかは訊かないでおいた方が良いように思ったからだ。
コーエンから城下町のことや其処に住む人のことを更に教わっていたら、いつの間にか人の声がして賑やかになってきていることに私は気がついた。馬車の窓の外を見れば月明かりの下で人が出歩いているのが見える。お城では数人にしか会わなかったせいか、大勢の人を見て目を丸くしてしまった。
「アーベント城下町よ」
コーエンが弾んだ声でそう言うのを聞いて、私は頷いた。