5 乙女の寝室
「凄いじゃない、リナ! アナタ、我が王の部屋から出てきた唯一の乙女よ!」
「え」
コーエンが興奮した様子で言うことの意味が分からなくて私は部屋を振り返る。たった今出てきたばかりの部屋の扉は静かだ。コーエンと魔王がお互いにやり取りできるくらい薄い扉なのかと思ったけど、これもまた魔法の力とやらなのかもしれない。深く考えないことにした。
「唯一……」
ということはやはり以前にも乙女と呼ばれる人は何名か訪れていて、入ったが最後、出てはこなかった、と理解して私はまたコーエンを振り返る。コーエンはにこにこしながら取った私の手を引っ張って歩き出した。ドレスの裾を踏まないようにしながら私も足を出す。
「我が王がお部屋の用意を許すなんて! 明日はアナタに何のドレスを着てもらおうかしら。アタシ、今から楽しみ!」
コーエンはうきうきしている様子だけれど、私はそうもいかない。この意味を考える必要がある。
フィオナに聞いた予言は、魔王の生贄に捧げられるといった内容で、私はその身代わりにされるはずだった。意図せず身代わりとして来てしまったものの私の役目はそういうことだし、きっとバレたら大変なことになる。あと、何だっけ。何か言っていたような気がするけど色々なことがありすぎて覚えていない。
生贄に捧げられるって、どういうことだろう。何をするんだろう。私が知っている生贄って、供物として命を落とすことだ。そうして昔は雨乞いをしたり飢饉を乗り越えようとしていたりした、と習った気がしたんだけど。いずれにしても神様とかそういう大きな存在に祈ることで。
だけど生贄として入ったはずの魔王の部屋から私は出された。生贄として考えるならそれは失敗なのではないだろうか。それなのにコーエンは喜んだ。凄い、と表現した。皮肉として言ったんじゃないのはコーエンの様子を見ていれば判る。
期待外れ、と魔王は言った。コーエンは凄いと喜んだ。その、意味は。
「さぁ、此処よ」
コーエンの声で私は我に返る。考え事をしながら手を引かれてコーエンの後をただついてきただけだから何処をどう歩いたか判らない。石造の壁に開いた穴は空気孔や窓としての機能も果たしているのだろう。其処からちらりと覗いた外は随分と空が近く見えた。外から見た時に沢山あった尖塔のどれかかもしれない。狭い廊下の先、古びた木製の扉の鍵をコーエンは開けていた。ぎぎ、と蝶番が軋んだ音を立て、扉が開く。中は薄暗くて狭い、屋根裏部屋のようだった。
「狭くてごめんなさいねぇ。でもね、仕方ないの。乙女を守る強力な結界を敷けるのはこの部屋だけなのよ。使われることもなかったし……あ、でもお掃除はちゃんとしてるから。清潔よ」
中へ足を踏み入れて、私は室内を見回した。魔王の部屋ほどではないけれど、天井に小窓があって月の光が差し込んでいる。其処から入る僅かな光でも部屋の中に何があるかが判るほどの広さしかない。とはいえ、私の狭いワンルームと良い勝負だった。
「大丈夫です。むしろこの広さ、馴染みがあるくらい」
私は苦笑してコーエンを振り返る。そう、とコーエンは安心したように頬を緩めた。
「悪いけど、外から鍵をかけさせてもらうわね。アナタが脱走するとは思わないけど、外から魔物を入れないためでもあるのよ。乙女が来たことはアーベント中に知れ渡っているだろうから」
「どういう……?」
意味かと問いたかったけれどコーエンはまず食事にしようと提案した。言われてみれば私は仕事が激務すぎてお昼にビスケットを一枚齧ったきりだ。あれよあれよと色んなことが怒涛に進んだせいで忘れていたけど、食事の話題が出たら現金にもお腹が鳴った。ちょっと頬が熱くなった。
「持ってくるわね。ちょっとだけ待ってて」
大人しく頷けばコーエンはにっこりと笑って扉を閉めた。ガチャガチャと鍵がかけられる音がする。その後、コツコツとコーエンのヒールが石床の階段を降りていく音が遠ざかっていくのも聞こえた。
私は室内を改めて見回す。床板は扉と同じくらい古めかしくて、移動するとぎぃ、と軋んだ音がする箇所があった。屋根は高く、ひとつだけある天窓にはヒールを履いて腕を目一杯に伸ばしてみたところで届きそうにない。届いたとしても本当に小さな窓だから頭だって出やしないだろう。
その窓から冷たい月明かりが差し込んでいて、部屋を照らしていた。とはいえ本を読むには不十分な明かりだから薄暗いことに変わりはない。此処へくる前の廊下には火のついた燭台が等間隔で置かれていたのを見たような気がするから、明かりに弱いとか暗くても見えるとか、そういうことはないのだろうと思う。
狭い部屋にはベッドがひとつ、簡易的なテーブルと椅子がひと組、置かれているだけだった。ベッドのシーツはコーエンが言ったように清潔で糊が効いている。ふかふかベッドとは程遠いけれど、自宅の折り畳みベッドだって似たようなものだから寝心地は変わらなさそうだ。テーブルの上には何もないし、私は取り敢えず手持ち無沙汰で椅子に座ったり立ったりを繰り返した。落ち着かない自分が意外だったし、不安なんだろうとそんな自分を分析する。
「リナ、お待たせ。食事を持って来たわよ」
そわそわしながら待っていたらコーエンが戻ってきて鍵をガチャガチャさせてから扉を開けた。手に持っているトレイの上には器がいくつかと、小ぶりなパンが載っているのが見える。器のひとつは湯気を立てているから温かいものなんだろうと思う。
「アナタのお口に合うと良いんだけど」
「美味しそうです。いただきます」
私が座っていた椅子の前にあるテーブルにコーエンはトレイを置いてくれた。薄暗くてよく見えないけれど、スープとパン、ソーセージにポテトサラダのように見える。匂いはコンソメに近くて、変な印象は受けない。魔物がいたり魔法を使うような世界でも食べ物はあまり変わらないのかもしれない。
「あったかくて嬉しい。それに美味しいです」
スープを飲んでほっと一息吐いたら思わず感想が漏れた。
仕事柄ランチの時間なんてないに等しいし、夜はくたくたでコンビニで買ったゆで卵をやっと少し食べるような生活をしている。そのせいか、あまり温かいものを食べる機会がない。そんなだから朝しっかり食べることもないし、牛乳を一杯だけ飲んで出勤するのが常だ。取り敢えず牛乳を飲んでおけば何とかなると思っている。学校の給食でも出るくらいなのだからさぞ健康に良いのだろうと漠然と信じていた。
ポテトサラダもソーセージも物凄く久々に食べた気がする。それでもそんな食生活で胃が小さくなっているのか、すぐにお腹がいっぱいになってしまった。残すのは勿体なくて、ゆっくりと時間をかける。そんなに大盛りなわけでもない、一般的な量だと思うのだけど普段の生活のせいで料理を食べられないのは嫌だった。
「アナタ全然食べないように見えたから少なめに盛ってきたんだけど、それでも多いのね。残して良いのよ」
扉の前で私が食べる様子を見守っているコーエンには見抜かれていたのか、そんなことを言われてしまう。私は、う、と小さく呻いて渋々スプーンを置いた。正直に言って喉の奥でポテトがそれ以上は行けずにつっかえているような気がしたから限界だった。
「ごめんなさい。でも、美味しいのは本当ですから。勿体ないことをする私を許してください……」
「良いのよ。美味しかった?」
「美味しかったです。久々に料理食べました」
「どんな生活してたの、アナタ」
コーエンは苦笑した。扉にもたれかかりながら私を見守っていたけれど、回収のためかこちらに歩いてくる。すっと屈んでポケットから取り出したハンカチで私の口を拭いてくれたから、私は目を白黒させてしまった。
「お口についてるわ。頑張って食べてくれてありがと。うちの料理長も喜ぶわ」
「……」
子どもに対する行動みたいで私は赤面する。あまりに食べなさすぎて食事の仕方を忘れたんだろうか。
「あの、聞きたいことがあるんですが」
口を拭いたハンカチを丁寧に畳んでまたポケットに仕舞うコーエンを見ながら私は切り出す。コーエンはこの後トレイを持って戻るだろう。私はすることもなく、此処でただ過ごすしかなくなる。考え事をするには情報が足りないから私は知らなくてはならないのだけど、訊ける相手と言えばコーエンくらいしかいない。この機会を逃す手はないと思った。
「なぁに?」
コーエンは穏やかに微笑んで首を傾げた。紫色のウェーブがかった髪が頬に垂れて綺麗だ。格好良い綺麗なオネエさんといった印象のままだ。ただその内側に人を殺す選択肢を持つ人だということを私は忘れていない。
「こ、此処のこと、よく知らないまま来てしまって……色々と教えて頂けないかと」
いくらクレーマーでも人命を奪うほどのお客さんはそうそういない。喚く程度のクレーマーなら何も怖くないけれど、本当に怖いのはコーエンのような人なのだろうと思ったら少し緊張した。声が震えないように喉の筋肉を意識して出すことに集中したら言葉が辿々しくなってしまったけれど、コーエンは優しそうに目を細めただけだ。
「そうね。アーベント領に入った時の様子だと本当に知らないんだと思ったわ。だけどアタシ、こう見えて近衛隊長なの。まぁ、人手不足だからアタシ以外にいなかっただけとも言えるんだけどね。この領地のことならアタシじゃなくても良いかしら?」
言外に忙しいと断られたけれど、代替案を出してくれるコーエンに私は頷いた。別の人を寄越してくれるようだ。コーエンの選出なら大丈夫だろう。
「それじゃあ紹介がてらまた一緒にくるわ。待っててね」
コーエンはそう言うとトレイを持ってまた部屋を出ていく。次に来た時に引き連れていたのが子どもだったから、私は面食らってしまった。
「ロドルフよ。よろしくね」