4 魔物が生まれる場所
聞こえるかどうかを問われたから、私は素直に耳を澄ませてみた。
こんなに暗くても羽ばたく鳥はいるのか、翼の音がする。風に揺れる木々のざわめきや、やはり何処か遠いところで聞こえるこの世のものとは思えないギャーギャーという鳴き声。一体何がこの森にいるのか、と思うけれどファンタジーの世界に疎い私には皆目見当もつかない。
「森の中の音がしますね」
「……そう。きみに聞こえてるのは魔物たちの声だろうな」
「魔物、ですか」
私は魔王に視線を向けた。表情を変えない、髑髏のような白い仮面も私を向く。本来なら眼窩にあたる落ち窪んだところは黒く、よく見えない。いくら暗い森とはいえ此処は月明かりが差し込んでいて水晶が反射させているから随分と明るいのだけど。仮面なら人の目くらい見えそうなものなのに、と私は内心で訝った。
「このクリスタルをきみはどう思う」
真っ直ぐに問われて、私も真っ直ぐに返す。
「綺麗だと思います」
は、と魔王は私の返答を鼻で笑った。仮面の奥で馬鹿にした表情が見えた気がするほどの見事な笑いっぷりだ。
「このクリスタルが魔物を生み出していると知っても同じことが言える?」
私は目を丸くしてまたクリスタルへ視線を戻した。先ほど見た時と寸分違わず、美しく輝いている。透明で、月の光を浴びてキラキラと、時折虹色に反射させて。
魔物がどんなものか判らないけれど、明確に思い出せる魔物はいたから私はさっき見たばかりの大きな口を思い出した。あれを生んだのがこの水晶だと言うのだろうか。口があるということは食べるということで、粘性のある唾液が滴って舌は弾力がありそうだった。生物、と判る質感だったあれがこの鉱物から生まれたとするなら、それはちょっといやかなり、私の理解の範疇を超えてしまう。
「魔物はクリスタルから生まれるものなんですか?」
「そう。本当に何も知らないんだ、きみ」
内心で予言の乙女じゃないことがバレるのではと思ってどきりとしたけど、魔王がそれ以上は何も言わないから私も殊更に何かを言うことは控えた。魔王に視線を戻すこともしないで私はクリスタルを眺め続ける。目を奪われるほど綺麗なそれが、魔物を生むなんてにわかには信じ難い。でも此処がゲームの世界なら何でもあるんじゃないかとは思う。
「きみにこれがどうにかできるとは思えない」
「私もそう思います」
私は思わず頷いていた。魔王の口振りから予言の乙女にはこのクリスタルに関する何かを期待されていたようだと感じ取っていたし、でもそんな力はないと見抜かれてもいた。私にできることなんて高が知れている。まして予言の乙女でもなく、この世界のこともよくは知らない。できます、と嘘を吐いて締まるのは自分の首だ。偽ったところですぐにボロが出る。
「敵地に来ておきながらよく言うよ」
「敵地なんですか、此処」
「はぁ? 本当に何も知らないのか?」
呆れを通り越して怒りさえ感じる声だったけれど、はぁ、まぁ、と私は肯定する。知らないのは事実だし、あまりに私の知っている世界や現実とはかけ離れすぎていて自分が常識と信じているものさえ通用するか判らない。
「此処へくる前の場所も別に私の味方はいませんでしたから」
「……」
急に召喚したとか言いながらも手違いだし、挙げ句の果てには帰せないから精霊として振る舞えだとか、人のことを身代わりだとか言うような人たちがいる場所で、恩なんてひとつも感じなかった。滞在時間も精々が数十分というところだし、腹の立つ印象だけを得て今度は此処へ来てしまった。此処は此処で、私の話を聞かないコーエンと透明人間の御者、髑髏の仮面をつけた魔王という癖の強い人物にしか会っていない。どっちもどっち、と私は内心で息を吐いた。
帰る方法はなくて、意図せず身代わりとしてやってきて。バレたら私の人生はこんなところで終わるのだろうか。バレなくても生贄になるなら終わりだ。古今東西、生贄とは命を失うことと相場が決まっている。まぁ元の世界に帰ったところで明日からの地獄の繁忙期を乗り越えられずに過労死すれば結局は同じかもしれない。どう転んでも私の人生はこの二十二年で閉じる運命だったということだろうか。さようなら、私の溜まりに溜まった有給。心残りがあるとすれば使えなかった有給と、地獄の繁忙期を前に失踪したと思われる不名誉だろうか。
其処まで考えて、あんまり自分の人生に未練がないことに自分で気がついた。まぁ、それならそれで、と思う自分がいる。人生の終わりを前に人間が思うことなんてその程度のことなのかもしれない。有給の使い道だってゆっくり休みたいくらいしか考えてなかった。
「……オズワルドがきみの味方をしなかった?」
魔王が考えるように声に出す。問われたのか自問自答なのか判らず、私は首を傾げた。誰、と思って出会った人たちの顔と名前を思い出す。オズワルドは私を精霊と信じて疑わず、身代わりだと最初に突き付けた人物だ。フィオナが王子と呼んでいたのを思い出して、あぁ、と我ながらどうでもよさそうな声が出たことに驚く。咄嗟に咳払いで誤魔化した。
「まぁ、私の味方とは言えないでしょうね」
返事をせざるを得なくなって返したそれは嘘ではない。私の味方ではないと言って差し支えないだろうと思う。フィオナの味方という様子は見てとれたけれど。
「へぇ。まぁ、きみをすんなり差し出したことから見ても期待外れということだろう。可哀想に」
思ってもいないくせに、と心の中でだけ返答して口には出さなかった。口答えしていると思われたくなかったし、意地悪そうに笑う声の響きも感じ取れたからだ。そんなものに反応するだけ無駄だ。私の感情の揺れを見て優位に立ったと思いたいだけのお客さんと同じ。私はポーカーフェイスに努めた。
「……つまらない。きみの表情筋は死んでるのか」
「そんなに表情がないとは思いませんけど」
表情の変わらない仮面をした人に言われる筋合いはない上に魔王の暇つぶしになったつもりもないから少しだけ反論した。機嫌を損ねるなと言ったコーエンの言葉を後から思い出したけれど、どうせ私の運命は決まっている。やるなら一思いにやってほしい。
「きみは生意気だな」
「お気に障ったのなら申し訳ありません」
ひとつも心を込めずに返した。普段そうしているみたいにお腹の前で右手を包むように左手で覆って手を揃え、背筋を伸ばしてから綺麗なお辞儀をして。ぐっと締められた後ろのリボンがちょっと苦しかったけれどブラック企業で鍛えられた私は表情に出さなかった。あぁこれを見て表情筋が死んでるなんて言うんだろうかと思う。心ない言葉を他人からぶつけられているのは慣れていた。後輩たちを守るために自分が矢面に立つこともあったから自然とそうなったし、そうあらないと立っていられなかった。
「ヴェステンの乙女、名前は何というんだ」
「カ……いえ、リナ、です」
クレーマーに名前を訊かれることもあるから無意識のうちに苗字を名乗ろうとして思い留まった。コーエンにしたのと同じ、下の名前を答える。お前の名前は覚えた、本社に言いつけてやる、と大体はその後に続くのだけど流石に魔王はそんなことを言うわけがなくて、ふんと鼻で笑っただけだった。
「帰る」
魔王がくるりと背を向ける。私はついいつもの癖で見送るつもりでお辞儀をした格好のままでいた。草を踏む足音が止まって怪訝そうな声がかけられる。
「何してるんだ。此処に突っ立っていて魔物が生まれる様子を見たいと言うなら止めないけど、食べられても知らないぞ」
「は、え、私も……?」
驚いて顔を上げたら魔王の白い仮面が相変わらず暗い森の中で浮かび上がるようにあった。深い木立を背にして、クリスタルが反射する光を白い仮面が更に反射している。仮面が首を傾げた。
「食べられる趣味があるのか?」
「そ、そんなわけないじゃないですか」
「ならさっさと来て。鏡の道をいつまでも開けてはおけない」
魔王はまたくるりと背を向ける。クリスタルの反射光で今はまだ魔王のローブが見えていた。私は慌ててその背中を追った。
ガサガサと触れる草の動きを頼りに進むけれど、自分の影が邪魔になってよく見えない。またいつの間にか逸れていませんように、と願いながら進めば木立の中に急に大きな姿見が現れて面食らった。
「魔物、くっつけてない?」
「え」
急にまたくるりと振り向いた魔王の仮面が暗闇に浮かび上がって私は驚いた声をあげる。慌てて自分の肩やドレスの裾を見たけれど、変なものはくっつけていなさそうだった。
「背中、大丈夫ですか?」
自分の背中を見るには限界がある。私は魔王に背を向けて尋ねた。ああ、と返答があるからホッとひと安心してまた鏡を向く。鏡があるんだから映せば良かった、と見てから気がついたけれど既に遅かった。
「森の中に鏡があるなんて不思議です」
本来なら部屋の中にある姿見が外にあるだけで違和感を覚えた。だから素直な感想を伝えれば、魔王は興味がなさそうな声で答える。
「道が繋がっている間だけだ。閉じれば此処には存在しなくなる」
「……」
どうして、と思ったけれどファンタジーにどうしては尋ねても仕方のないことなんだろう。説明されても理解できる自信がない。既に私の理解できる範疇を超えている。
私は何も言わずに再び鏡を通って魔王の部屋へ戻る。天窓から月明かりが差し込む部屋に戻って、鏡一枚で空間を移動したことに頭を抱えた。やっぱり変だ、と思うけれどもうどうしようもない。こういうものだ、と思うしかないのだろうと自分に言い聞かせた。
「コーエン」
「此処に」
部屋に戻ってきた魔王が廊下へ続く扉に向かって声をかければ、コーエンの返答があった。え、もしかしてずっと扉の前にいたの? と思って私は眉根を寄せる。私のことなど気にもかけずに魔王は言葉を続けた。
「リナに部屋を。僕は休む」
「……は」
私の疑問はコーエンの返答とかぶって誰にも聞き取ってはもらえなかった。扉が開いて、コーエンが私を見るとにっこり笑う。紫色のウェーブがかかった髪に包まれた笑顔が綺麗だ。どうぞ、と手を差し出され、部屋から出ることを促された私は留まる理由もないので足を出す。コーエンの差し出した手が取るようにと上下に動いたから、少しだけ躊躇って私はコーエンの手に自分の手を重ねた。温かい手だった。
「おやすみなさいませ、我が王」
コーエンがそう言って扉を閉める。私は何を言って良いか判らず、閉まる扉をじっと見ていた。ぱたん、と閉まる音を確認したコーエンが私の手をぎゅっと握るから私は驚いて肩を跳ねさせたのだった。