3 魔王との邂逅
なんなの。だって此処、魔王の部屋ってことで。
そもそも予言って、身代わりって、なんなの。私、どうしてこんなところにいるの。
気に入られるようにとか、頑張ってねとか、嫌な予感しかしない言葉を並べられて不安にならないわけがなく、私はそろそろと辺りを見回した。薄暗い部屋は天窓から入る月の光でぼんやりと照らされている。窓は天窓ひとつしかない。魔王って、こんな部屋に住んでるものなの? 部屋は私の住むワンルームが三つくらい入るんじゃないかってくらい広いけど、光が当たらない場所もある。魔王、こんな暗いところで何をして過ごすの?
広い部屋にはソファや本棚、テーブルなどの家具が置いてあるのが見える。人が生活する雰囲気は感じるのに人がいるような気配がない。魔王、本当に此処にいるの? 部屋を間違えたなんてことは……ないよなぁ。
壁には扉があり、部屋が続いていることが分かる。此処にいないなら、隣の部屋? まぁベッドとかないし、寝室は別なんだろうと思う。でも寝室で休んでいる魔王を訪ねるとかどう考えてもおかしいでしょ。寝込みを襲おうとしていたとか思われても困るし。
「あ、あの〜……」
とりあえず、一歩も動かずに呼びかけてみる。静かな部屋で、でも緊張した私の喉から出る声は微かなものでしかない。広い部屋だからとても隣の部屋まで届いたとは思えない。だからといって大きな声を出す勇気もなかった。
窓がない代わりに絵画や鏡が壁にかかっている。特に鏡は全身が余裕で映せる大きな姿見だ。暗い部屋で鏡なんかよく見えないだろうに。それとも何処かに灯りがあるのだろうか。天井に電灯の類はない。電気スタンドらしきものもない。というか此処に電気はあるんだろうか。いかにも古い時代という感じだけど。
まぁ剣と魔法のファンタジーの世界に電気という概念はあまり持ち込めないかもしれない。というか此処、本当にスマホゲームの中なんだろうか。どうして。一体どんなカラクリで。
「お邪魔します」
ドレスを着るにあたってヒールの靴も選んでもらったけど、今日だってもう仕事で散々パンプスを履いた足は限界を迎えようとしていた。お風呂には一瞬入ったけどとてもリラックスできる状態ではなかったし、疲れを癒す暇もなかった。とりあえず座らせて欲しい。
ソファにそっと近づいて、ゆっくりと腰を下ろした。魔王の部屋にあるソファなんて、もしかしたら腰を下ろした途端にがぶりと食いつかれてお尻がなくなってしまうかもしれない。いや想像したらグロテスクだからやめておこう。なしなし。今の想像、なし。
「ふぁ……すご」
ふかふかのソファは私のお尻を包み込んで離してくれなくなった。自然と体が沈み込む。フィットする感覚に緊張していた体が少しだけ解れる。背もたれに上半身を預けたら気持ち良すぎて動けなくなった。
良いなぁ、このソファ。うちにもほしい。でも狭いワンルームにこんな大きなソファ置いたら他にはもう何も置けないな。でも折り畳みベッドがそろそろ寿命っぽかったから、ソファベッドを買うのもありかもしれない。溜まってる有給は当然ながら使えてなくて、有給中なのに仕事に出ているなんていう摩訶不思議な事態になったこともある。でも地獄の繁忙期を終えたら辞めるつもりでいるし、有給だって其処で使ってやる。その間に次の仕事探しと、家具の新調くらいできるだろう。
薄暗い部屋でふかふかソファに座ったせいで溜まっていた疲れがドッと出たのか、そんなことを考えながらもむにゃむにゃ寝かけていたらしい。カタ、という物音でハッと目を開けた。此処、他人の部屋だった。しかも魔王の。開いた視界に飛び込んできたものを見て私は息を止めた。
白い仮面が暗闇の中で浮いている。
どういうことなの。
「わっ」
私は咄嗟に手で口を覆った。悲鳴が出た気がしたのだ。でも私の声じゃなかったと思う。目の前の仮面から発されたように聞こえた。
「だ、誰っ」
警戒したような声はやはり目の前の仮面から発されているようだ。顔全体を覆うタイプの仮面だ。白地で歯が剥き出しになっているデザインのそれは、どう見ても髑髏そのもので不気味だ。それなのに私を警戒するなんて、ちょっとシュール。
「此処は僕の部屋だ。勝手に入るなんて、コーエンは何をしてる」
「そのコーエンさんが私を此処に押し込んだんですけど」
「な……っ」
仮面が更に浮いた。ように見えたけど衣擦れの音がしたから服を着ていることは感じられた。黒い服でも着ているのだろうか。薄暗い部屋では白い仮面ばかりが文字通り浮いて見えて全身がよく見えない。魔王と言っても声も幼い気がするし、子どもだろうか。
「ということは、き、きみが、予言の乙女か」
「……」
そうとも違うとも言えなくて私は黙る。けれど魔王と思しき仮面は沈黙を肯定と取ったのか、ぶつぶつと口の中で言葉を続けた。くぐもっていて私にはよく聞き取れなかったけれど。
「いけないな、この姿だとどうにも。でもどうせ今までと同じだ。呪いなんて解けない。聖女の力が目覚める可能性があると聞いたけど特別な力なんてなさそうだし、あのクリスタルをどうにかするなんて以ての外だ」
「クリスタル……?」
聞き取れた部分、そういえばそんなタイトルのゲームだったな、と思ったら口に出ていた。クリスタル、の部分だけで気づいて止めたけど魔王の耳には届いていたらしい。なんだ、と呆れた声がした。
「今度の乙女はクリスタルも知らないのか」
今度の、とはどういう意味だろう。今までにも乙女が訪れたような口ぶりでもあったけど。
「あ、えっと、すみません……」
でも知らないのは事実だから知ったかぶりもできなくて取り敢えず謝っておく。面倒な客にはまず言いたいことを言わせなければ先に進まない。ブラック企業に勤めている私がこの四年で学んだことだ。
「まぁ良い。ヴェステンに現れた乙女は異邦の娘だと聞いているし、知らないこともあるだろうとは思っていたよ。
……見せてあげる。こっちだ」
仮面が動いた。絨毯を移動する足音というか、人の体重が動く音はしたから足はあるんだと思う。僅かな月明かりを頼りに私は彼の後に続こうとした。けれど、フード付きの服でも着ているのか、仮面が向こうを向いたら魔王が何処にいるか分からなくなった。
「え、消えた」
「消えんわ」
魔王のツッコミだ。驚いて目を丸くしたら振り向いたのか仮面が見えた。あ、そんなところにいたんですね、と私は思う。心臓はさっきからバクバク鳴っているから、いてもいなくても不安になるのだろう。
「すみません、後ろからじゃ何処にいるか分からなかったので」
「え、ぼ、僕が悪いのか?」
「そういうつもりじゃ。ただもっと目立つ服でいてくれれば私も見失わないで済むなぁって思って」
「僕が目立つ服を着るわけないじゃないか」
そうなのか。彼のことはまだよく知らないから好みは分からないけど、目立つ服は好きじゃないらしい。そして立ち上がったら確信した。ヒールを履いているとはいえ、一般成人女性の平均身長の私より低いところに仮面がある。胸元くらい。歩いてそれならやっぱり子どもなんじゃないか、という思いは強くなった。
「こっちだ。あの鏡。あそこまで行く」
「はい」
向かう場所を示されて私は鏡がある場所へ視線を向ける。姿見にしては十分すぎるくらいの大きな鏡。其処に向かう仮面が、やっぱり暗闇の中で浮いているように見えた。その後ろに私が続いているのが微かな灯りでぼんやりと映っている。
「道はまだ繋がってる。そのまま進んで」
「はい?」
何を言われたか分からず首を傾げた私に構わず、魔王の仮面は鏡に激突した。でもぶつかりあう硬い音はせず、すっと通り過ぎていく。嘘でしょ。どうなってるの。
鏡の前で逡巡する私が映っている。困惑した顔だ。躊躇うように手を伸ばそうかどうしようか迷っていて、でももう魔王の仮面は此処にはなくて、まるで私ひとりだ。最初から魔王の仮面なんてなかったのではと思うくらい。最初に訪れたのと同じ、ひとりの部屋。
「何をしている。早く」
「ひゃあ」
にゅ、と鏡から魔王の仮面が出てきて私は悲鳴をあげる。女の子みたいな悲鳴が出てちょっと恥ずかしかった。まぁ女の子なんだけど、女の子というにはもう大人すぎる気もした。
「で、でも、鏡……」
「まさか鏡の魔法も知らない? この鏡はいわば扉だ。魔力で道を繋いでいる。来る気があるのか? ないのか?」
そんな選択を迫られても、と思うけど此処にいたって何をすべきか分からない。それにコーエンは魔王の機嫌を損ねないようにといったことも口にしていた。彼がその気なのに此処で躊躇ったら面倒なことにならないだろうか。今のところ不機嫌そうではあるものの、私に関心を向けているようでもあるし素直に従った方が良いのだろう。
「行きますっ」
私は意を決して一歩踏み出した。怖いから手を伸ばして指先で鏡に触れる。冷たい鏡面に触れるはずの指先は、ひやりとした何かには触れたけれど物質を隔てる境は見せなかった。指先から手が呑み込まれていく。ひぃ、と思ったけれど足を止める方が怖くて私はそのまま目を瞑って鏡の中に飛び込んだ。
暖かな陽射し、小鳥の囀り、柔らかな木漏れ日、そんなもの此処にはない。ギャーギャーと鳴く何かの声で私は驚きから目を開く。薄暗い森の中、冷たい月の光が投げかける微かな明かりが時折足元を照らす、そんな場所だった。暗闇の茂みには何が潜んでいるのか分からない。ガサ、と鳴って揺れれば私の肩も震えた。
「呆ける暇はない。行くぞ」
私が出てくるのを見ていたらしい魔王の仮面が告げると同時にくるりと背を向ける。長い裾が翻って、黒い全身フードを纏っているらしいのが微かな月明かりで見えた。
「ど、何処まで行くんですか」
私は前を歩く魔王に問いかける。魔王はこの暗い森でも容易に紛れて私は何度も姿を見失った。今も見失っている。さっき見た時は其処にいた、という勘を頼りに話しかけているだけに過ぎない。
このまま森に置き捨てられるのでは、という懸念が胸に浮かんで尋ねたけれど、魔王は何も答えてくれなかった。
ドレスは森の中を歩き回るのに適した服とは言えない。あちこちに引っかかって私は歩きにくさを感じていた。目的地が何処か判らないけれど早く着けば良いのに。暗い森って怖いし。
「何処に行くんだ」
「え、わ……っ」
腕を引かれて私は後ろにひっくり返りそうになった。全然見えないところから腕を引かれて驚いたけれど、いつの間にか魔王の後ろからは逸れていたらしい。すみません見えなくて、と言おうとした私の横を魔王の仮面が通り過ぎる。
「──」
聞き取れない何かを魔王が口にすると、一瞬だけ周囲が明るくなる。青白い炎が飛んでいくのが見えた。その光の先で真っ赤な舌のようなものが照らされて私は息を呑む。粘性の高そうな液体が滴り落ちるそれはさながら大きな口そのもので、背筋を寒気が走った。あのまま進んでいたら私、あの口に自ら入り込む愚かな餌、になったのでは。
青白い炎に照らされたそれは目でもあるのか、それとも熱を感じたのか、ギャ、という短い悲鳴をあげて暗がりに引っ込んだ。ずず、と地面を何かが引き摺る音がする。口だけなのか体もあるのか判らないけれど、あの巨体ごと撤退しようとしたらそういう音がするだろうな、と納得する物音だった。
「……まったく、ヴェステンの乙女は魔物の気配も探れないのか?」
「魔物……?」
いよいよファンタジーが過ぎて私は頭が混乱する。鏡を通って、あんなものを見て、もう否定できなかった。あれが魔物と言わず何と言うのか。勿論、化け物とかクリーチャーとか他の呼称はあるだろうけど。そのどれも、指す意味合いはあまり大きく変わらない。
「助けてくれたんですか?」
「べ、別にきみを助けたわけじゃない。僕の領内で暮らす魔物が人を食べないよう指導しただけだ」
「でも結果的には助けてくれたことになるわけですし、お礼は言わせてください。ありがとうございます」
「だから、きみを助けたわけじゃ……あーもう、良い。そういうことにしておいて」
仮面でよく判らないけれど、声には何となく感情が乗っている気がして私ははいと頷いた。思っていたのと違う魔王像だしちょっと面倒そうな感じはするけれど、とりあえず話は通じそうだし良かったと思う。小生意気な中学生くらいの男の子を相手にしているみたいだった。
「きみに見せようと思ってたのは、こっち」
掴まれた腕をそのまま引っ張るから私は慌てて着いて行った。力加減を知らないのか肩が抜けるかと思った。
多少は道らしいところを歩いて私たちは進む。どうやら歩きづらかったのは道から逸れていたかららしい。とはいえ舗装された道というわけではないから、獣道が多少マシになったくらい、という程度のものではあるのだけど。
木立が続く道の向こう、冷たい月明かりが遮られない場所があるのか明るい一点を目指して向かった。やがて抜けたその先の光景に、私は感嘆の息を漏らす。
温度のない白い光を浴びて反射するのは、大きな石だった。崖の下、窪みになった場所に出た私たちの目の前に鎮座するように静かに佇んでいる。透明で、柱のようになったものが何本も空へ向かって伸びていた。長いもの以外に周囲を囲うように短い柱がいくつも刺々と飛び出ているのも特徴的だった。
「クリスタル……」
私はそれを知っていた。事前登録のために開いたアプリの紹介ページ。まだ開発途中と但し書きは入っていたけど、載せられていたゲーム画面にそれはあったから。
「きみには聞こえる? クリスタル・リートが」
魔王の問いかけが、空に溶けるように吸い込まれていった。