18 厩舎のやりとり
えーと、と私は言葉を探した。目の前にいるのはオリスだ。視線が泳ぎそうになる。正直に言って何処を見て良いのか判らない。今日は帽子も被っていないから大体の位置を掴むのも難しかった。
考えてみればオリスと話したことがなくて──というか話せることもついさっき知った始末だ──エルガー以上に表情が見えないことが響く。何処を見て良いか判らないだろうから、と仮面をつけてくれるのはエルガーの優しさなのだと思った。
「改めましてこんにちは、リナです」
取り敢えず私は自己紹介から始めた。ロドルフが困惑した様子で私とオリスを交互に見やる。飼い葉を掻き集めるピッチフォークをさながらお守りのように抱きしめていた。その様子から私がオリスに会いにくるとは予想していなかったことが窺われた。
疑り深くて用心深い人は大体の場合、愛想が良い。恥ずかしがり屋でもあるとコーエンは言ったけど、それよりも用心して私には声を聞かせていないと思う方が道理だ。城下町へ行く時に挨拶をした私に彼は帽子を上げるだけで一言も声を発さなかった。私を信用していない証拠だ。
とはいえ、帽子を上げて挨拶を返したのも事実だ。無視をしないことから関係を構築するつもりが多少はあると踏む。毎日ロドルフから話を聞いて、私にはどんな印象を持っているだろう。今回コーエンと一緒にきたことからオリスが話せると私の耳へ遂に入ったと彼も捉えるだろうと推測した。彼も私の出方を窺っているはずだ。どんな人間がやってきたのか、探っていただろうから。
「ご挨拶が遅くなってしまってごめんなさい。あなたには城下町の往復で馬車に乗せてもらったのに」
私は申し訳なさそうに目を伏せた。更に綺麗なお辞儀を披露して後頭部を晒す。クレーマーとはいえお客さんが手を出してくることは稀な日本で、此処まで綺麗なお辞儀を見せればどんな相手もそれ以上強くは出てこなかった。けれど此処で、よく知らない人相手にこんなに無防備な状態を晒すのはどう映るだろう。敵対心のなさを感じてもらえれば私としては嬉しい。
また、何処を見て良いか判らないから、という状態から逃げることができる方法でもあった。
厩舎の掃除をするからか汚れても良さそうな作業着に身を包んだ姿からは、御者を務めるスマートな様子とはかけ離れている。首には襟巻きではなく今日はタオルを下げていた。透明人間も汗とかかくのかな、と余計なことを考えそうになったのを傍に避け、なるべく相手の目を見ているように振る舞おうとはした。努力はしようとした。けれど首から上がなく、見えているものを受け止めるだけでも思った以上に疲弊してしまう。首のないタイプのマネキンへ話しかけている気分になってしまったのだ。返答がないこともそのイメージを強めてしまった要因と思う。
けれど返事をするかしないかはオリスが決めることだ。私がどうこうできることではない。それなら返答のなさを理由に挙げるわけにはいかない。そう思ってしまった部分もあることは自覚しながら、自分で変えられる部分を変えていくしかないから視界から外すのに不自然ではない状況を作ることにした。それがこのお辞儀をしている状況だ。
答えてくれれば良し。そうでなくてもコーエンやロドルフが見ている状況で流石に無視はしないだろう。何とかしてコミュニケーションを取ろうとしてくれるはず、と期待して私は頭を下げ続ける。
「……参ったな。顔を上げてくれよ」
低くて渋い声がして私は驚きから素で顔を上げた。オリスは片手を上げて後頭部を掻いている、ように見える。袖が上がっていることからそう判断した。透明で表情は全然判らない。顔の傾け具合でも視線を何処に向けているのか、困惑しているのかどうかといった情報を得ていたのだと私は改めて思う。何回窺ってもオリスが何処を見ているのか見当もつかなかった。
でも話してもらうことはできた。案の定、愛想は悪くなさそうだ。関係を私も築いていけると良いのだけど。
「オレはオリス。挨拶をもらっていたのに言葉で返さなかったし謝るのはオレの方だ。すまなかったな」
「とんでもないです。こうしてお話できたわけですし、嬉しいですよ」
声に気遣いが滲んだのを感じ取って私は愛想笑いを浮かべる。
「何度か乗せて頂いたので馬車の運転が丁寧なことは分かっています。馬たちにも愛情持って接していますし、お世話も率先して行っている。馬の方もあなたに愛情を持っているんでしょうね」
露骨に持ち上げてみたわけだけれど、へぇ、とオリスは小さな声を漏らしただけだった。それがどんな表情で、感情で、零されたものか判らない。視界に入るロドルフの表情は強張っていて油断ができない様子であることを察した。ロドルフには自分の感情が表情に出過ぎていることを自覚してもらう必要があるだろう。今は私に情報を与えてくれるから今回は助かっている。
自分の普段の仕事を褒められて嫌な気分になる人は少ないと思う。拘りを持って従事しているなら尚更に。まぁ、普段の様子を語れるほど彼を知らないのがネックだ。
「ロドルフに仕事を教えているとも聞きました。私の考えていることにも駆り出されて彼は大変だと思いますけど、彼の記憶力の良さが今回の計画には必要なんです。いくらエルガー様から許可を頂いていることとはいえ、直接お伺いしてあなたにも許可を取り付けるべきでしたね。失礼しました」
再び頭を下げようとした私を、オリスが片手で制した、と思う。袖口だけがこちらを向いているだけで推測するのは困難だ。軍手でも身につけてくれていれば非言語から得られる情報量が増えたのだけど、ないものは仕方がない。
「王様が良いって言ったんだろう。それならオレが反対することじゃない。それにロドルフがデキるやつだって分かってもらっていることになるし、能力があるなら活かした方が良いからな」
ロドルフが目を丸くした。あら、と私は視線を向ける。ロドルフはオリス──の顔があるのだろう場所──を見て、目を輝かせた。
「ぼくのこと、そんな風に思ってたんですか師匠!」
「師匠……」
思わずロドルフが発した単語を復唱してしまったけれど、オリスの弟子だと自称していたことを思い出して得心した。オリスについて話す時は嬉しそうだったことも思い出して、心から尊敬しているのだと知る。そんな人が自分を認めてくれていると思えば嬉しいだろう。驚きが勝ってしまうのも分かる気がした。それに何より彼はまだ、十二歳だ。私はそれを忘れてはならない。
「まぁお前は最初からデキるやつだっただろ。物覚えが良い。一度言ったことはできるできないは別として、ちゃんと覚えてる。体が成長すれば今はできないこともできるようになる」
「……っ!」
ぴょん、と飛び上がりたいのをロドルフは我慢しているようだった。ピットフォークを両手でぎゅっと握り締め、その手に力が込められてわなわなと震える。両目を固く閉じてはいるものの口角が上がっていて、全身を喜びが駆け巡っているのがとてもよく分かった。
「良かったわね、ロドルフ。オリスさんのこと尊敬してるもの、嬉しいわよね」
私が声をかけると、ロドルフは目を閉じたままぶんぶんと頭を振って頷いた。真っ白な髪が上下に動くのを私は微笑ましい思いで見つめた。
「リナさん、ぼく、頑張ります! 王様の役に立ちたいし、師匠がぼくを“デキるやつ”って思ってるならそれに応えないと!」
ぱっと開いたロドルフの金の目が眩しいくらいキラキラと輝いて私を真っ直ぐに見つめてくるから、一瞬だけ息を呑んでしまった。純粋なこの目を曇らせるようなことはしたくない。危険な目にも遭わせたくはない。魔王の傍という危険な場所に立たせることにはなるけれど、エルガーだって彼を守ろうとするだろう。領民の幸せを願う人だから。
「……そうね、ロドルフ。あなたならできるって私も思う。だってあなた、オリスさんも認める“デキるやつ”、だもんね」
ロドルフが頷くのとオリスが溜息を吐くのは同時だった。溜息、と思って私はオリスへ視線を戻す。正確にはオリスの作業着、腰の部分を見るようにしてわざと目を伏せたまま、だけれど。
「あら、どうかしましたか、オリスさん」
「……いや、別に。何でもない」
それだけなら仕事に戻るぞと言わんばかりに踵を下げて振り返ろうとするのを私は見逃さなかった。見える部分なら私にも分かるものがある。待ってください、と私は声をかけ、オリスは踵を下げたところでぴたりと動きを止めた。
「お話はこれだけじゃありません。本日はお願いもあって参りました。エルガー様のために是非お力を借りられないかと思って」
「……オレのか? どうせ碌な内容じゃないだろう」
「どう感じられるかはあなた次第なので私に答えられるものではありません。あなたにお願いできるなら非常に心強いです。でも無理強いするものではありません。お願いできなければ私が行くだけの、代わりのいる内容ですから」
ふぅん、とオリスはまた小さく声をもらす。聞こう、と言ってくれる返事を何処かで知りながら私はありがとうございますとにっこり笑ったのだった。