第64話 深夜の休憩
深夜……。
「ふわっ!」
屋敷の廊下で大あくびをしたのは、リーリスだった。腋には本を挟んでいる。本に夢中になっていたら、すっかり寝る時間を過ぎていた。
しかし、今日中に本を父クラヴィスの書棚に返さないと怒られてしまう。側付きはとっくに業務を終えて、自分の部屋に戻ってしまったので、リーリスが自分の足で返却しなければならなかった。
クラヴィスの書斎に向かう道すがら、リーリスは屋敷1階の炊事場に明かりがついていることに気付く。
すでに屋敷の明かりは落とされ、片方の手の平に載せた光の魔法がなければ廊下を歩くことすらおぼつかない。
それでも、虫の知らせというのか、気になって階下に下りてみた。
そっと半開きになっていた扉から中を覗くと、ルーシェルが懸命に仕事をしている。
本来、これだけ近づけばルーシェルなら気配で気付くはずなのだが、調理に集中しているのか、リーリスに気付く様子はなかった。
「ル――――」
声をかけようとしたが、その前にリーリスの口が塞がれた。
ひんやりとした恐怖が一瞬リーリスの身体を駆け巡るも、見知った顔だとわかってほっと胸を撫で下ろす。
そんなリーリスを見て、機嫌良さげに尻尾を振っているところが、また意地悪だった。
「ミルディさん、驚かさないで下さい」
リーリスは声を潜める。
メイド服を着たミルディもまた小さく笑った後、「ごめんね、お嬢様」と謝った。
その態度を見て、リーリスはミルディがルーシェルのお付きであったことを思い出す。
「ルーシェルは何をしてるんですか?」
「あたしも詳しい事は知らないんだけど、明日の賄い飯の仕込みじゃないかな?」
「仕込み? その……賄い飯なのに?」
リーリスも賄い飯の意味ぐらいなら知っているのだが、非常に簡素な料理であるイメージしか持っていない。
前日から仕込みが必要な料理とは思っていなかった。
「ともかく昨日から一生懸命がんばってるわ」
そう言われて、もう1度リーリスは炊事場を覗く。
額に汗を浮かべているが、ルーシェルの顔は実に楽しそうだ。
「いつから炊事場に?」
「夕食を食べ終えて、他の料理人たちがそれぞれ自分の部屋に帰った後、ずっとよ」
「じゃあ……」
「かれこれ3時間ぐらいになるわね」
「3時間も!」
さすがに根を詰めすぎだ。
一緒に暮らしてわかったことだが、ルーシェルは頑張り過ぎるところがある。
むろん体力はリーリスやカリム兄さんの遥か上を行くだろう。それでも、身体に毒であることに変わりはない。
「ミルディ……!」
「はい?」
「ちょっと手伝って」
「………………仰せのままに」
一瞬キョトンとした後、ミルディは少し笑ってから、リーリスの前に膝を突いた。
20分後……。
「ルーシェル」
リーリスは炊事場の扉をノックしながら、名前を呼んだ。
そこでようやく手が止まる。
「え? リーリス?? なんで、こんな時間に? え? どういうこと?」
「それは私の台詞です」
リーリスのやや憤然とした態度に、ルーシェルは戸惑う。
そのリーリスは作業台に近づくなり、ティーセットを置いた。
黙ってティーカップにお茶を注ぎ始める。慣れた手つきから察するに、普段からやっていることなのだろう。
「いい匂い……」
ルーシェルは呟く。
漂ってくる芳香に、思いの外力が入っていた身体が弛緩していくのがわかった。
「さあ、どうぞ」
リーリスは勧めると、ルーシェルは早速口を付けた。
「うん。おいしい……!」
思わず顔が綻ぶと、それを見てリーリスも口を付ける。
「おいしい」
自画自賛した。
「これってリポビ草を使ったお茶だよね。疲労回復がある」
「さすがルーシェルですね。やっぱり見抜かれてしまいましたか」
「むしろリーリスがこの草の効果を知っていることの方が驚きだよ。結構マイナーな薬草だと思うし」
「疲労回復にいい薬草は他にもありますけど、このリポビ草が1番香りが良くて気に入ってるのです」
「確かに香りがいいよね。僕も大好きだよ」
ルーシェルは笑顔で答える。
すると、リーリスの顔が少しだけ赤くなった。少しそわそわした素振りを見せるが、その意味をルーシェルは察する事ができず、首を傾げる。
しばし2人でお茶を楽しんだ後、リーリスは明日の料理の仕込みと思われるものに目を落とした。
「賄い料理……、そのうまくいってないのですか?」
心配そうに呟くも、ルーシェルはあくまで元気だった。
「ううん。そんなことないよ」
「じゃあ、なんで? こんな時間まで?」
「1番の理由が、僕がまだ炊事場に慣れていないってことなんだけど……。賄い料理も料理だから、リーリスたちに提供する料理と同じぐらい大変なんだ」
「そうなんですか? わたくしはてっきり」
「うん。リーリスが言いたいことはわかるよ。僕も最初そう思ってたから。でも食べる人がいる限り、料理は料理だから。ちゃんと丹精込めて作りたいんだ」
ふっとリーリスは珍しく息を吐く。
それは呆れているというより、何かひどく落ち込んでいるように見えた。
「リーリス? どうしたの?」
「ちょっと残念で」
「残念??」
「だって、ルーシェルが丹精込めて作る料理を食べられないんですもの」
リーリスは上目遣いに睨む。
ちょっとドキッとしたルーシェルは、半歩後退った。
「で、でも……。いつかリーリスにも作れるようにもなるから。だから、その時まで待っててほしいなあ」
「はい。その時を楽しみにしてますね」
リーリスは小指を掲げる。
何をしようとしているか、ルーシェルにはすぐにわかった。それは300年前――いや、それよりもっと前からある、誓いを立てるための誓約だからだ。
ルーシェルはそのリーリスの小指に、自分の小指を絡める。
兄妹の小さな小指には、そっと口付けをしているような趣があった。
「でも、あまり無理は良くないですよ」
「そうだね。もう少ししたら眠ることにするよ。明日も早いし。それにしても――――」
ルーシェルはプッと噴き出す。
それを見て、リーリスは細い金色の眉宇を動かした。
「何ですか?」
「いや……。今日のリーリスはまるでお姉ちゃんみたいだなって」
ハッとリーリスは頬を赤らめたが、すぐに挑戦的な笑みを浮かべる。
「あら? いつわたくしが、ルーシェルの妹なんて言いましたか?」
勿論、年でいえばルーシェルの方が遥かに年上だろう。
でも、そのルーシェルですら時々わからなくなる。
びっくりするほど、リーリスが大人に見える時があるからだ。
ルーシェルは空になったカップを掲げた。
「ありがとう、リーリス」
「どういたしまして」
「おかげで、明日の賄い料理にもう1品付け加えることができるよ」
ルーシェルは力強く答えるのだった。








