幕間 一夏の思い出①
レティヴィア家から旅立つこと2週間。
長かった馬車の旅はようやく終わりを告げた。
馬車から降り、はじめにその奇妙な香りに勘付いたのはリーリスだ。
つんと鼻腔を刺激する香りに、思わず眉根を寄せた。
「なんでしょうか、この香り?」
「これが潮の香りだよ、リーリス」
僕が答えると、リーリスの顔が輝く。
期待に胸を膨らませ、僕たちは少し歩き、岸壁の前で止まった。
白い砂浜。打ち寄せる白波。色とりどりの魚が泳いでいるのがはっきり見える。
広がっていたのは、水平線までコバルトブルーに染まった海だった。
「「うわぁ」」
思わず声に出る。
海は初めてというわけじゃないけど、こんなに綺麗な光景を見たのは初めてだ。そして横に立つリーリスにとっては、初の海。感動で言葉も出ないらしく、潮風をいっぱいに浴びながら、海と似た色の瞳を水平線の彼方に向けている。声をかけなかったら、きっと晩御飯までずっとこのままだったかもしれない。
「どや、頭取? 海を見た感想は?」
商言葉の独特な口調に、僕とリーリスはハッとなった。
ニヤニヤしながら僕たちに近づいてきたのは、愛想の良さそうな糸目の女の子だ。カナリア・ギル・カンサイベーン。一流の商人のような愛想のいい雰囲気を持つ彼女は、カンサイベーン侯爵のご令嬢、つまり若き侯爵令嬢なのだ。
けれど、知り合った学校ではそんな令嬢然とした姿はあまり見ない。どちらかといえば、健康的な褐色肌から連想できるように活発な女の子で、いつも魚を狙う猫のように商売に通ずる何かを探している。身も蓋もなくいえば、ちょっと変わった女の子だった。
でも、それは仕方ないかもしれない。
カンサイベーン侯爵家は南の有力な貴族。しかも大商会のトップに君臨するという大貴族だ。小さい頃から商売の「商」の字を叩き込まれたらしく、今のカナリアになったらしい。
「とっても綺麗だよ」
「ご招待ありがとうございます、カナリアさん」
「なんのなんの。うちとしても、レティヴィア公爵家のご子息とご息女を迎えることができて光栄です。ホンマ来てくれて、おおきに!」
時々、商言葉と尊敬語が混じるけど、嫌な気はしない。
カナリアらしいといえばそうだけど、商言葉ってなんかあったかい感じがする。
「2人とも荷物を下ろすの手伝ってくれ。リチル1人じゃ大変だ」
声を上げたのは、カリム兄様だ。
側ではリチルさんが、慌ただしく馬車の荷物を屋敷に運び入れている。
さらに生徒会メンバーのナーエルと、2歳年上のカルゴも馬車から自分の荷物を下ろしていた。
「長旅の疲れを癒す方が先やな。レティヴィア家の屋敷ほど広ないけど、くつろいでってや」
カナリアは謙遜するのだけど、十分カンサイベーン侯爵家の屋敷は広い。
「行こうか、リーリス」
「はい」
リーリスの手を引き、僕たちは荷物下ろしを手伝った。
◆◇◆◇◆
「ようこそ、カンサイベーン侯爵家へ」
気さくに子どもの僕に手を差しだしたのは、カンサイベーン侯爵家の当主バルフ・ギル・カンサイベーン閣下だった。
黒髪のオールバックに、営業焼けした褐色の肌。
年齢はクラヴィス父上と同じかそれ以上だろう。
猫のようなつり目がカナリアとそっくりで、まさに血が争えないとはこのことだ。
ただチャキチャキしたカナリアとは違って、バルフ閣下の物腰は柔らかく、標準語も流暢だった。
それにしても、わざわざ当主のお出迎えとは……。
僕は少し緊張気味に差し出された手を握った。
「君がカナリアの一推しのルーシェル君だね」
「い、一推し!」
「おっと! これは失礼。商売柄どうしても人を値踏みしてしまうんだ。うちは商品も人も扱うからね」
「え? カンサイベーン侯爵家は奴隷も扱うのですか?」
奴隷の売り買い自体は別に違法というわけじゃない。
でも、昔も今もあまり人からいいように見られていないのが現状だ。
特にカンサイベーン侯爵家のような大商人ならば、外聞を重視して、奴隷を扱わないことが多い、と聞く。
僕の質問に、バルフ閣下はギョッとした後、高らかに笑った。
「いやいや。そういうわけではない。私は商人で魅力的な商品も、お金も大好きだ。だが、商売にとって1番重要なのは人なのだ。顧客はもちろん、我が商会で働いている者に対しても、上に立つ者は目を配らねばならない。人をうまく扱わねば、商売はうまくなり立たないのだよ」
人を見て、人を動かして、初めていい商売ができる。
バルフ閣下の言いたいことは、そういうことだろう。
「閣下、失礼な質問してしまい申し訳ありませんでした」
「いやいや。私も言葉が足らなかった。……君は細かい部分に目端が利くね。クラヴィスにそっくりだ」
「クラヴィス父上と?」
バルフ閣下が言ったことは、大人が子どもを褒める時の常套句だ。
けれど、この時ほど僕は驚いたことはなかった。
生みの親であるヤールム父様ならまだしも、クラヴィス父上に似ているなんて初めて言われたからだ。
素直に嬉しかった。
血のつながりはないけど、ちゃんと僕とクラヴィス父上との間につながりができつつある。
「どうした?」
「いえ。ありがとうございます」
「……? 立ち話もなんだ。中へ。まず紅茶でも飲んで一服したまえ」
僕たちを屋敷の奥へと促す。
その後ろ姿をぼうっと眺めていると、カナリアが話しかけてきた。
「頭取、どうしました? ぼうっとして」
「いや、なんかカナリアとあまり似てないなあ」
目はすっごく似てるけど。
物腰がその柔らかいというか。
やはり騒々しくないというか。
標準語で喋るカナリアみたいで、なんか落ち着かない自分がいる。
「なんや、それ。うちがオトンと似てたまるかないな」
「こら! カナリア! 客さんの前で『オトン』呼びすんな言うてるやろ!」
ん?
バルフ閣下はカッと口を開けて、愛娘を叱る。
つい出てしまったのだろう。
しかし、閣下が「ハッ」と気づいた時には遅かった。
僕も、リーリスやカリム兄さんを含めた同行者も苦笑いを浮かべるしかなかった。
「し、失礼!」
何事もなかったかのようにバルフ閣下は歩き出す。
すると、そっとカナリアが僕に耳打ちした。
「どや? うちがあんな声を上げて、怒ったことあるか?」
というのだけど、僕は少しホッとした。
やっぱり血は争えないらしい。