第197話 父の虚像
◆◇◆◇◆ レーネル ◆◇◆◇◆
レーネルの父『剣王』アルヴィン・ギル・ハウスタンはこの世で最もといっていいほど、忙しい獣人だ。
王国の政に加えて、騎士の指導、国境の視察、事が起これば遠征して蛮族たちをなぎ倒していく。帰ってきては執務室に籠もって、たまっている家での執務を片付けていた。
レーネルの目から見ても、いつ寝ているのかわからない。そしていつ倒れるかわからないぐらいだったが、父の口から弱音が漏れたことは1度もない。
国王よりも王者の風格を漂わせ、今も党首の席について夕食のワインを呷っている。
忙しすぎて、家も空けることもしばしばだが、こうして今レーネルと一緒に夕食を味わっている。お互い寡黙なため交わす言葉は少ないが、今晩に至っては随分とレーネルはソワソワしていた。
(どうして、こういう日に限って)
言葉は交わさずとも、こうして父と食事できることは、娘として嬉しい限りだ。何ヶ月も遠征の後となれば、喜びもひとしおである。
でも、今日はレーネルにとって特別な日だった。
新たな友達ができたことと、そして初めて同じぐらいの年の子どもに負けたこと。
前者はともかく、後者は父に話さなければならないと思っていた。
ハウスタンの名前を傷付けてしまったこと。ルーシェルに諭されてなお、レーネルにとって敗北は無念なものだった。
その気持ちを今受け入れているからこそ、父を向き合う必要がある。そう固い意志とともに、レーネルは持っていたナイフとフォークを置いた。
「決闘……。いかがであった?」
レーネルの気勢を逸らすが如く、最初に口を開いたのは父アルヴィンだった。目の前でグラスを回し、中のワインを弄んでいる。父がよくやる癖だった。
「な、何故の決闘のことを……」
「お前は俺の娘だぞ。知ってて当然であろう。して? どうだった?」
「……ま、……負けました。完敗です」
「ほう。手も足も出なかった、と」
「はい」
「それほど、レティヴィア家の息子は強かったというのだな」
「はっきり申し上げて、次元が違います。その――――」
レーネルは反射的に口を噤んだ。
危なく父の前で禁断の一言が出かかってしまったからだ。
ルーシェルは見抜けなかったが、レーネルが焦っていた原因がもう1つあった。それは戦っているうちに膨らんできた疑念で、あのブルーバットベアを倒した時にはっきりと思考の中に言葉が浮かんだ。
果たして父はルーシェル・グラン・レティヴィアに勝てるのか……。
つまりはそういうことだ。
時々レーネルは父に稽古を付けてもらう時がある。だから幼いなりに父の実力のほどは理解しているつもりだ。しかし、ルーシェルと戦っていた時、その底知れぬ実力の深さに、心の底では恐怖していた。それほど、ルーシェルは強かったのだ。
「なんだ?」
「いえ……。なんでもありません」
「そうか」
「あの……、父上」
「ん?」
「怒らないのですか?」
「何を怒れというのだ、父に」
「ボクは負けました。ハウスタンの家に敗北を……」
「お前は若い。負けることもあるだろう」
「え? それだけですか?」
「それだけだが?」
「ボクはハウスタン家の娘として――――」
「レーネル、そういうのはな。俺のように王国、国民、家柄、剣王としての誇り、そして家族を背負い、絶対に負けられない立場となって賭けるものだ。家柄だけなど、少ない少ない。そんな気概では負けて当然だ。まあ、お前に他に守るものがあれば、結果は違っていたかもしれぬがな」
「あっ……」
「どうした?」
「対戦相手にも同じこと言われてました。自分のことしか考えていないと」
「ほう……。随分とよくできた子どもだ。いや、気持ち悪いぐらいといっていい。あの変人のレティヴィア家の当主の息子だけはあるか」
ふと父の話を聞きながら、レーネルは気づく。
いつもは異様な雰囲気を纏っている父がどこか楽しげに見える。それに饒舌だ。自分の娘が負けたというのに。
(そう言えば、こんなに父上と話したのはいつぶりだろうか)
遠い記憶を辿らなければならないほど思い出せない。
随分と久し振りであることは間違いなかった。
(ボクは父上を少し誤解して、『剣王』アルヴィン・ギル・ハウスタンという別の父上を勝手に想像していたのかもしれない)
ずっと父の背中を、レーネルは追いかけ続けてきた。
だが父の背中が近づけば近づくほど大きくなっていった。
レーネルの胸に浮かんだ恐れは、やがて父の虚像を生み出したのだ。
ルーシェルとの決闘を経て、少し周りを見ることができるようになった今なら理解できた。
「ルーシェルとは仲良くなったのか?」
「え? あ。はい」
「お前が珍しく名前に何も付けずに呼んだからな」
(え? 父上、そんなとこまでボクを見てるの?)
意外だった。
実は自分のことを興味ないぐらいまで思っていたのだが……。
もしかして、今ならあのことを話すことができるかもしれない。
「父上、1つお願いがあります」
「お願い?」
「……あ。いえ。むしろお願いをされたといいますか。そのだから……」
「話してみよ」
「その……、決闘の条件としてはボクになんでもしていいというか」
「レーネルになんでもしていい、だと……!」
途端、父の機嫌が悪くなる。
むしろ殺気めいたというべきか。
ともかく今にも眼光だけで、目の前のものを射殺さんばかりの迫力だ。
レーネルは父の気迫に圧倒されながら、しどろもどろに応える。
「け、決闘の条件がそうだったんだ」
「レーネルよ」
「は、はい……」
「あまり女の子が『なんでもしていい』とは言ってはいけないぞ」
「え? は、はい。肝に銘じます。じゃ、じゃなくて!」
突然の父からの薫陶に、レーネルは戸惑う。
こういうことは滅多にないからだ。
その父は落ち着きを取り戻さんとワインを一口飲む。
テーブルにグラスを置いた後、やや前のめりになって、レーネルの話を聞く態勢を取った。
「それで、かのルーシェルは何を願った。まさか――――」
父の瞳が光る。
この時、父が何を考えていたか、レーネルにはわからなかったが、ただならぬ雰囲気だけは察することはできた。
「そ、その……。父上を紹介してほしい、と」
「な、なんだとおおおおおおおおお!!」
「ひぃっ!」
父の絶叫に、レーネルは思わず悲鳴を上げた。
すると、父は口角を上げる。
にぃと笑った『剣王』アルヴィンはやや荒く息を吐き出し、こう答えた。
「良かろう。会ってやろう」
ルーシェル・グラン・レティヴィアにな。








