第1話 ぐにっ!
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絶望している時間も、黄昏れている時間も、僕にはなかった。
「はあ……。はあ……」
僕は崖の上からトロルが暴れているのを見た後、野犬に追いかけられていた。
魔獣でも、何でもない。
単なる野犬だ。
飼い犬より明らかにやせ細っているのに、生気はギラギラと漲っている。
口から涎を垂らし、僕に迫ってきた。
足が速い。
トリスタン家では2頭の番犬を飼っていた。
父上に忠実な番犬は、子どもの僕が触っても微動だにしない。じゃれついて遊ぼうともしなかったが、いざその仕事を全うする時になると、風のような速さで悪漢に迫り、肉に噛みついていた。
あの時の番犬と一緒だ。いや、それ以上に速いかもしれない。
悪さも何もしていない、ただ山に捨てられた子どもに向かって、容赦なく牙を突き立てようとしている。
さらに言えば、今は夜だ。
月明かりが明るく、多少夜目だって利く。
だが、森の中は井戸の底を走っているに等しい。
何度も足を取られながらも、僕はがむしゃらに走り続ける。この辺りにも雨が降ったのか、地面が少しぬかるんでいた。
しかし、僕も黙って追いかけられていたわけじゃない。
手頃な枝を見つけて拾い上げる。
ちょっと太すぎて持ちにくいけど、無いよりはましだ。
僕は振り返ると、闇夜の中に光る一対の光を睨め付けた。徐々に輪郭を露わになっていくと、1頭の獰猛な野犬の姿が現れる。
「ええい!!」
棒切れを振るう。
人体でいえば、相手の首筋を狙った一撃はちょうど野犬の鼻面に叩き込まれた。
『ぎゃひん!』
野犬は悲鳴を上げて、怯む。声を聞いてちょっと可哀想だなと思ったけど、お互い様なのだから仕方がない。
『ガウッ!!』
『ゴフッ!!』
まだ安心できる状況はではなかった。
残り2匹が同時に迫ってくる。
僕は棒きれを振り下ろすと同時に、右に踏み込んだ。身体ごと野犬の1匹に預けるように棒きれを、その鼻面に叩き込む。
野犬を吹き飛ばすと同時に、もう1匹の歯牙を回避する。後ろへ周り込み、互い向き治った。
ついに1対1の状況を作り出すと、僕は落ち着いて迫ってきた野犬の顔面に棒きれを打ち込んだ。
すべて全力。感触も悪くない。
振り返ると、野犬たちがよろよろと立ち上がる。しぶとい……。向かってくるかと身構えたが、野犬たちは脱兎の如く逃げていった。
「はあ……。はあ……」
野犬を見送った後、僕はすぐに膝を突いた。
胸が疼く。喉に大きな石でも詰められたかのように息ができない。
戦闘の中で忘れかけていた病魔が、再び僕を襲う。
膝を突いた体勢すら維持できず、僕はごろりと寝転ぶ。だが、寝たからといってよくなるわけじゃない。むしろ仰向けになっている方が苦しく感じる。
立ち上がりたいけど、動けない。
指1本動かすことよりも、息を吸い込む力の方が欲しかった。
僕は生まれた頃から身体が弱かった。最初の頃は少し歩くだけでも息切れし、倦怠感が襲ってきて、今のように立ち上がることもできない。
お医者さんからは鍛錬をやめるように忠告されたけど、父上はそれを拒否した。それどころか、お医者さんを辞めさせてしまった。
父の鍛錬は誰から見ても無茶だったけど、甲斐あってか僕は60秒ぐらいであれば全力で戦えるようになった。
けれど、その後は糸が切れたように立ち上がれなくなってしまう。
しかし、ベッドの上で高熱でうなされていても、父は僕に本を渡し、知識を得ることを強要した。
「大丈夫……。大丈夫……」
死ぬほど痛い激痛に苛まれながら、僕は自分の身体に言い聞かせる。ゆっくりと息を吸い、落ち着かせれば発作はなくなる。
はずだった……。
あれ? おかしいな?
いつもなら寝ていると治るのに……。
今日は全然発作が鎮まらない。
むしろ余計にひどくなっているような気がする。それに身体が熱い。
熱い……。
そのまま身体に火が点いて、燃えてしまいそうだ。
「水……。水がほしい」
手を伸ばすけど、そこに水差しも、優しい母上の手もない。鬱蒼とした茂みがあるだけだった。
結局、僕1人だ。
おそらくこの山に捨てたのは、トリスタン家の誰かだろう。僕は捨てられた。落ちこぼれだからだ。『剣聖』の技を受け継ぐには、才能も努力も、それを受け止める器もないと判断されたからだろう。
残ったのは、山でひっそりと死を待つしかないひ弱な子どもの身体だけだ。
僕の視界は真に闇に閉ざされていく。
意識が、感覚が薄れていくのを感じる。
ああ……。これでもう僕は死ぬのだろうか。
ぐにっ!
その時、僕は何かを掴んだ。
弱った僕の握力でも掴めるほど柔らかく、火照った身体を冷ますには程よい冷たい感覚。
柔らかな野苺にも似ていたけど、それにしては大きすぎる。
一体それが何なのかわからなかったけど、とにかく僕は無我夢中で握り込むと、一気に口の中へとそれを突っ込んだ。
これなら、今にも燃え尽きそうな身体を少しでも冷ますことができるかもしれないと思ったからだ。
冷たい。口の中に広がっていく冷たさは、なんとも心地よい。
何より甘い。
若干癖がある味だけど、甘く、かつおいしい。
ねっとりとして喉に貼り付くような後味の悪さは全然ない。非常に上品だ。
つるりとした食感は気持ち良く喉を通り、冷ややかな感覚がお腹の中に広がっていく。
まるで氷でよく冷やしたゼリーでも食べているかのようだった。
「あれ?」
しんどくない。喉に詰まるような息切れも収まっていた。
身体の熱は嘘のように消えて、呼吸も落ち着いている。
飢餓感を訴えてきたお腹の調子も元に戻り、体力も少し戻ったような気がする。
立ち上がってみると、思いの外身体が軽い。
山に来た時よりも、いいぐらいだ。
一体、自分は何を食べたんだろう?
背後にあった残骸に振り返った時、僕は唖然とした。
「スライム……」
第2話もすぐに更新します。