第185話 獣の子
癖っ毛の茶色い髪と、刃物のような鋭い灰色の瞳。
頭の上にある狼のような耳はふわふわしていて、時々動く仕草が少し愛らしい。
スカートから出たモフモフした尻尾は時折鞭のようにしなっていた。
(この子か……)
僕の授業を受けている生徒のことは大体頭に入っている。
悪目立ちしていたクモワースとは違って、今僕を睨んでいる獣人の娘は別の意味で目立っていた。大勢の生徒の中にあって、声も気配もない。いつもひっそりと教室で息を潜めていて、獲物を狙う本物の狼のよう――それが僕が抱いた彼女の印象だ。
(それにしても獣人がジーマ初等学校にいるなんて珍しいな)
別に差別してるわけじゃない。
でも、世界的に見て、獣人の扱いは人族優位の世界にあって、やはり格が落ちる。
というのも、昔――それこそ300年前、人族と山や森に住む獣人たちは資源を巡って争っていた。その急先鋒と言えるのが、ヤールム父様だ。数々の獣人たちを討ち取ったことによって、ヤールム父様は名実共に『剣聖』となれたのである。
しかし、いがみ合っていた人族と獣族との間に、転機が訪れた。
それが魔族の侵攻だ。
魔族が現れたことによって、人族と獣族は争っている暇はなく、それどころか自分たちの存亡をかけて手を取り合った。
結果は知っての通りだ。
それから獣族の地位は上がり、ミルディさんのように騎士団に所属したり、森や山ではなく、人間の街に住む者たちも現れた。でも、その子どもが学校に通ってるなんて、300年前を知る僕にはちょっとした珍風景だったのだ。
「えっと? 確か、君は?」
「レーネルです、ルーシェル先生」
「そうか。レーネルは僕のことを教師として見てくれているんだね。ありがとう。それにしても、先ほどの奇襲には驚いたよ」
「先生の教えを実践したまでです」
「教え?」
「『油断するな』と……」
「ああ。なるほど」
どうやらこっそり生徒との会話を聞いていたらしい。
全然気づかなかった。
獣人の能力かな。子どもなのに僕に気配を悟らせないなんて。
「先生、1つお願いがあります」
「何かな?」
「もし、ボクが先生を捕まえたら、先生を辞めてくれますか?」
「君も年下の子から教わるのはイヤ?」
「はっきり言えばそうです」
本当にはっきり言われた。
いっそこれぐらい言ってくれた方が清々しいや。
「じゃあ、少しルールを変更しよう。僕も君を捕まえにいく。お互い相手のどこかにタッチできたら勝ち。それでいいかな?」
「それでいいです」
「うん。じゃあ、もし僕がレーネルにタッチすることができたら」
「なんでしょうか?」
「僕と友達になってよ」
「…………わかりました。無理だと思いますけどね」
レーネルは地を蹴った。
僕との間合いを一気につめ、最短最速で手を伸ばす。
合図などない。また奇襲。とはいえ、責められない。
合図してからなんてルールは、まだ決まっていないからね。
(それにしても速いな)
レーネルの手が僕の制服に触れそうになる。
だが、僕はそれをしっかりと見ていた。
くるっと横に避ける。
それを読んでいたのか、レーネルは直角に曲がった。
高い身体能力を持つ獣人ならでは動きだ。
再び地面を蹴り、目一杯伸ばした指を僕の胸元へと伸ばす。
それもヒョイと避ける。レーネルの動きはまだ止まらない。2の矢だけかと思ったけど、3の矢、4の矢とばかりにあの手この手で僕に迫ってくる。
「すごいね、レーネル。獣人の身体能力だけじゃないね」
「喋ってると舌を噛みますよ、先生」
「まだ速くなるの」
ちょっと目を丸くする。
追いきれないわけじゃないけど、こんなに真剣に身体を動かしたのは、いつぶりぐらいだろう。ユランが来た時、それともロラン王子を襲った暗殺者? それとも山の中で魔獣と戦った時。
ともかく、こんな猛者が初等学校にいて、僕とさほど変わらないなんて。
(今の僕なら楽勝……。でも、果たして300年前の僕ならこの子に勝てたかな)
「よその事を考えすぎですよ、先生」
「ん?」
レーネルが一瞬視界から消える。狙われたのは、僕の足だ。
ずっと胸元ばかりを狙っていたのは、どうやら僕の注意を引きつけるものだったらしい。
最初からレーネルの狙いは、僕の膝だ。
「とった!」
「お見事。レーネル。でも、君が言ったんだよ」
油断するなってね……。
僕はレーネルが狙う足のつま先を少し上げる。
その先には、細い糸があり、それをくいっと持ち上げた。
地面が盛り上がる。現れたのは、クモワースの取り巻きたちを絡め取った網だ。
「誘い込まれた?」
「そういうこと。ちゃんと周りを見ないとダメだ。魔獣に襲われていても、他の魔獣が狙っていないと限らないからね」
これもよくあるシチュエーションだ。
それでどれだけ獲物を逃したことか。
勝負あったと思ったけど、レーネルの反応は速い。
1秒とない間に、地面から上がってきた網を躱したのだ。
「すごっ! 今の躱すんだ」
「油断しましたね。そっくりそのまま返しますよ、先生」
ついにレーネルの手が僕の胸元をつく。
その決着を見て、息を呑んで見ていた生徒やゾーラ伯爵夫人は歓声を上げる。だが、それはすぐに驚きに変わった。
「とった」
「いいや」
はらっと僕だったものは、たくさんの木の葉に変わる。
代わりに森の影から現れると、僕はついにレーネルの肩を叩いた。
「はい。これで全員捕まえた」
「…………!」
「なかなかいい動きだったよ。でも、ここは魔獣優位な森の中だよ。いついかなる時も、油断をしてはダメだ」
カラン……。
授業の終わりが告げる鐘が響く。
驚いたな。結構時間がかかっていたんだ。
レーネルを観察したかったのもあるけど、思ったより時間をかけすぎたかもしれない。
そのレーネルは何も言わず、僕に背を向けた。
小さな背中は、まるで敗軍の将のようだ。
気になった僕は彼女に声をかけようとしたが、ゾーラ夫人に止められる。
「今はそっとして置いてあげてください」
「夫人。彼女は?」
「おや? 知らないで相手をしていたのですか?」
「有名な子どもなのですか?」
僕が知っているのは彼女の名前、顔、その授業態度ぐらいだ。
その家がどんな家なのかは知らない。
それに確かあまり聞き慣れない位名だったんだけど……。
尋ねると、ゾーラ伯爵夫人は唇を緩める。
今から話す言葉そのものが、まるで己の誇りであるかのように少し胸を張っていった。
「彼女の名前はレーネル・ギル・ハウスタン」
剣王の娘ですよ。








