第154話 精霊
◆◇◆◇◆ 氷の精霊 ◆◇◆◇◆
数多ある生物の中でも、人間は賢く、長命な寿命を持ち、スキルと魔法を操り、もっとも我ら精霊や神に近い存在だ。
ただ1つ我ら精霊と違う部分は、愚かだということだ。
己の欲のためだけに、森や土を浸食し、水を汚濁させ、空気を汚す。
時に我ら精霊や神を信仰し、祈りを捧ぐこともあるが、その恩恵を忘れ、支配欲に取り憑かれ、同族の国を滅ぼす者すらいる。
人間は愚かだ。
故に我らは人間に罰を与えてきた。
時に地を割り、時に大波を与え、陸地を炎で包むこともあった。
人が精霊人と呼ぶものも、咎の1つだ。
永劫の労役を与え、人の身体から外れ、精霊が決めた未来をただ生きる。
それを楽だという人間もいるが、それはたかだか100年にも満たない人間の寿命の中での話である。
終わりのない未来。そして労役の日々。
次第に自分がいた人間社会は変革を遂げ、己の居場所が自然と時間の中に取り込まれていく。
神や精霊に近い力を持ちながら、ただ日々を生きるだけの苦行。
精霊人とはそういうものだ。
元々人である精霊人は、そうした日々の中で狂っていく。
孤独に苛まれ、精神を病み、そして己が持つ力に気づいて酔っていく。
我はこれまで多くのものを精霊人としてきた。
最初の精霊人は男であった。20年と持たず、魔女化し、人間に討伐された。
4人目は女だった。
100年と少しして、精神を病み、次第に動かなくなり、干涸らびた。
9人目の男は私に襲いかかってきたので、食べてやった。
人間は愚かだ。そして脆い。
神と精霊に近いといったが、それは他の生物と比べて知恵を持つという意味での話であって、まだまだ人間は我らからかけ離れている。
人間が神になる日は、もっとずっと先であろう。
そう思っていた矢先、その娘は輿に乗ってやってきた。
艶やかな民族衣装を纏い、目の悪い少女は『氷魔の渓谷』を渡って、私の元へとやってきた。
アプラス・アークライト。
今から1000年前に我が精霊人とした娘だった。
アプラスがここに来た時、彼女はまだ小さな少女だった。
精霊の知識と力がなければ、たちまち死んでしまうような脆い人間だ。
我は彼女に何も期待していなかった。
そもそも我は人間に何も期待していない。
これまでの人間がそうであったようにアプラスもまた他の人間のように脆く、儚く、狂っていくのだろうと考えていた。
そして月日は経っていく。
アプラスは美しい女性に育ち、我に尽くした。
時々、人間の里に出かけているようだが、冬になれば戻ってくる。
100年が経ち、200年が経った。
それでもアプラスは何も変わらず、何かが変わることもなく、我に仕えた。
アプラスを知る人間は死に、己を知る者がいなくなっても、1人彼女は生き続けた。
そして500年……。
さらに600年……。
アプラスは何も変わらない。
魔女になることもなく、その日々を放棄することもなかった。
「何故だ?」
精霊である我にも、アプラスが何を考えているかわからなかった。人間では体験できない永劫に続く労役の日々。アプラスはそれに順応しているのか。いや、そんな人間はいないはず。
人間は愚かで、儚く、そして精神が未熟だ。
区切りのない人生に順応できるものなどいない。1個の個人として生きることなど不可能なはずだ。
「なのに、何故だ。何故アプラスは生きる?」
わからない。
あるいはアプラスは、本当に精霊になろうとしているのかもしれない。
ただ1つ言えることは、我が彼女から目を離さなくなったということであろう。
◆◇◆◇◆
ガギィン!
冷たい金属音が響いた。
「おお!」
声を上げたのは、フレッティさんだった。
僕もその光景を見て、驚く。
ガーゼルス伯爵の呪剣が、氷の精霊の皮膚に突き立てられたかと思われたが、それを阻んだのは、氷の精霊自身だった。
首をねじりながら、器用に縦に振られた剣を牙と牙の間に挟んでいる。言ってみれば、氷の精霊流の白刃取りならぬ、白刃噛みだ。
「精霊が……、アプラスさんを助けたの?」
リチルさんも違和感に気づいたらしい。
さっきも言ったけど、精霊人は精霊からすれば咎人だ。
それを精霊が助ける道理はないはず。
「氷の精霊様……」
アプラスさんが恐る恐る声をかける。
金色の瞳が一瞬、アプラスさんの方に向けられたが、すぐに前を向いた。
精霊を前にしても、呪剣は容赦しない。
氷の大蛇をかっさばかんばかりに、押し込んでくる。
「カーゼルスさん、ごめん!!」
僕は横合いからカーゼルス伯爵を蹴り上げた。
そのままポンと伯爵は吹き飛ばされると、雪原に叩きつけられる。
本気で蹴ってはいないから、さほどダメージがないはずだ。
予想通り、カーゼルス伯爵はあっさりと立ち上がる。それも手を使わず、足と腹筋だけの力だけでだ。
もはや人間の動きじゃない。
見た目では肩までしか浸蝕されていないけど、おそらくもう神経や筋肉は、呪剣に乗っ取られているのだろう。
「はあ!!」
カーゼルス伯爵は気勢を吐く。
僕、というよりは、後ろに控えた氷の精霊に向かって行った。
その間に割って入ったのは、フレッティさんとカリム兄さんだ。
カーゼルス伯爵の剣を、2人で受け止める。
しかし、精霊の加護を受けた2人でも精一杯らしい。
表情を歪めていたのは、フレッティさんとカリム兄さんだった。
「フレッティ! 炎を使うんだ!!」
「しかし、それではカーゼルス閣下は……」
「呪われた腕はもうどうにもならない。燃やし尽くし、カーゼルス伯爵と呪剣を切り離すしかない!」
「……わかりました」
フレッティさんが力を込めると、握っていたフレイムタンが炎が噴き出す。
カリム兄さんとともに、カーゼルス伯爵の腕を切り裂こうと試行錯誤するけど……。
ギィン!!
2人とも弾かれてしまった。
渓谷内にある壁に突き刺さると、崩れ落ちてきた氷柱と雪の中に埋もれる。
「団長! カリム様!!」
リチルさんの悲鳴が上がる。
まずい。早く2人を助けないと。今のままでは生き埋めになる。
でも、僕がフレッティさんたちの助けに入れば、間違いなくカーゼルス伯爵は氷の精霊を狙うだろう。
「リチルさん……。2人の救出に行ってください」
「……わかったわ。伯爵とアプラスさんのことは頼んだわよ、ルーシェル君」
「はい。僕も終わったら、すぐに向かいますので」
時間がない。
僕なら簡単にカーゼルス伯爵と呪剣を分断することができる。
でも、やはりカーゼルス伯爵の腕を切ることになる。それに、すでに呪剣の因子は身体の隅々まで行き渡っていると思われる。
仮に呪剣から切り離したとしても、カーゼルス伯爵の意識を、完全に引き戻せるか怪しいところだ。
あまりこう考えたくはないけど、カーゼルス伯爵はすでに呪剣に呑まれている可能性が高い。
外科的な治療は遅いかもしれないけど、あの剣の脅威がなくすことは可能だ。
けれど――――。
『精霊に祝福されし御子よ』
突然、頭の中に声が降ってくる。
それが誰のものかすぐにわかった。
首だけを動かし、僕は後ろを見る。
巨大な氷の大蛇と目が合った。








