プロローグ
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1巻が即重版され、大人気シリーズの第2巻が発売されました。
WEB版未収録のユランのお話など、美味しい料理が満載です。
「公爵家の料理番様」第2巻をよろしくお願いします。
2月6日発売の単行本2巻もよろしくお願いします。
「期待した父が愚かだったのだ……」
白銀の鎧を雨と泥で汚した父上は、握っていた木刀を下げた。
僕――ルーシェル・ハウ・トリスタンの父親にして、世界最強の証『剣聖』の称号を持つヤールム・ハウ・トリスタンは、鎧を叩く雨音を嫌うように首を振る。
泥の上で這いつくばり、墨を塗ったような黒雲から落ちる雨に打たれるがままとなった僕に、視線を落とした。
その瞳の中で渦を巻いた感情は憐憫ではなければ、同情でもない。
ただ呆れているように見えた。
当然、僕に伸ばされる手はなく、まして獅子が子を千尋の谷へと落とすような愛情など欠片もない。
オケラやカメムシでも見るかのように、すでに人間としてすら見られていなかった。
「く……。ぐ……」
僕はありったけの力を込めて、立ち上がる。
身体中には痣があって、鬱血してどこもかしこも腫れ上がっていた。
父の一切容赦のない打ち込みに防具など関係ない。
すでにいくつか骨が折れ、感覚がない部分もある。
満身創痍という言葉を使うなら、今しかないだろう。
それでも僕は、その時立ち上がった。
いや、立ち上がるしかなかったのだ。
父上の期待に応えるために。
『剣聖』になるために……。
もっともその期待は、もうこの雨によって流れてしまったかもしれないけど……。
「ルーシェル!」
屋敷の玄関から観戦していた母上が、僕の名前を呼ぶ。
玄関の上には屋根こそあるけど、周りに激しい風雨を遮るものはなく、ずぶ濡れだ。
僕に受け継がれることはなかった、美しい金髪は濡れそぼっている。
それでも、母上は心配そうに僕を見つめていた。
どうやら、母上はまだ僕を人間扱いしてくれるようだ。
僕は笑う。自然と笑みが生まれたことに、自分でも驚いた。
取り落とした木刀を拾う。それだけで激痛が走る。
痛い……。
雨粒1つ1つが痛い。
指を動かすだけで痛い。
息を吸うだけで胸が痛い。
骨が軋みを上げるだけで痛い。
痛い……。痛いよ…………。
時々思う。
自分は何をやっているのだろう、と。
僕はきっとなれない。
『剣聖』にはもう無理だろう。
トリスタン家に生まれた時から、僕は『剣聖』になることを宿命づけられていた。
小さな頃――物心着いた時には、もう木刀を振っていた。
来る日も来る日も、雨の日も、風の日も、おそらく槍が降ってきても、僕は木刀を振り続けた。
何百回、何千回、何万回……。
手の皮どころか、骨がすり切れるほど、僕は木刀を振った。
それだけじゃない。
「『剣聖』は文武両道であるべし」という言葉の下、僕は様々な知識を吸収した。
戦略、戦術は言うにおよばず、語学、政治学、化学、魔法学、料理や薬学など――多岐に及んだ。
おそらく人が20年かけて学ぶことを、僕はたった5歳で詰め込めるだけ詰め込んでしまったと思う。
人は言うのだ。
神童だと……。
それでも僕は『剣聖』にはなれない。
『神童』は『神童』でも、僕は『悲劇の神童』だからだ。
「ふむ……」
父は表情を少しも崩さず、髭を触った。
「技の切れ、理解、足運び、すべて俺が教えた通りだ。5歳という年齢であれば、お前は最強の5歳児と言えるかもしれない」
父の言葉を聞きながら、僕は剣を構えようとしていた。
相手は棒立ちだ。
すでに木刀を下ろし、構えてさえいない。
僕の目から見ても、『剣聖』ヤールムは隙だらけだった。
勿論、単純に打ち込んでも返されるだけだ。
基礎能力が僕と父上では、桁2つ分ぐらい違う。
でも、勝機がないわけじゃない。
もう僕は何万何千回と打たれてきた。
今日だけでも何百回と父に打ち込まれた。
その経験を、僕は1打とも無駄にしていない。
そこから見えてきた大逆転の目……。
父上も気付いていない1万分の1という隙。
その間隙に乗じれば、父上に1本当てることができる。
父上の期待に応えることができるはずだ。
「おおおおおおおおおおおお!!」
「良い気合いだ。何か逆転を狙っている目だな、その目は」
行くぞ――――――。
僕はぬかるんだトリスタン家の庭の地面を蹴る。
狙うは木刀を握る父上の手だ。
技量はもちろん、体格的にも僕が不利。
しかし、1つ僕と父上がイーブンな部分は、持っているとすればそれは木刀の長さだ。
つまり、お互い手に到達する長さは一緒。懐ではなく、最初から手を狙えばさほど体格差は怖くない。
必要なのは、『剣聖』に飛び込んでいく勇気だけ。
父上はゆったりとした動きで、木刀を上段に構える。父上は『剣聖』だ。だから、小細工を嫌う。上段は上段で。下段は下段で。
相手に合わせ、さらにその上を行く。
子ども相手でも、一切の手加減を抜いて打ち下ろしてくるだろう。
ここまでは狙い通り。
怖がるな、僕。
飛び込め。
矢のような『剣聖』の振り下ろしに、飛び込んでいけ。
「ふんっ!!」
裂帛の気合いとともに、父上は上段から一気に振り下ろした。
僕は止まらない。さらに加速する。
正確にはやや右側に足を運び、父上の上段をギリギリで躱す。
一瞬父上の動きが止まったように思えた。目をカッと開き、驚いているようにも見える。けれど、その口元は未だに真一文字に結ばれていた。
踏み込んだまま、僕は上段を振り下ろす。
「ふんぬっ!!」
父上はやや不利な体勢から豪剣を払う。
並みの剣士なら完全に決まっていた。強引に振り下ろしのスピードを殺して、手首を返すなんて芸当は父上ぐらいしかできない。
だが、体勢が無茶苦茶ならば、そこに隙が生じる。型から外れれば、そこに隙ができると口にしたのは、他ならぬ父上だった。
故に型の稽古は、1日5000回以上行ってきた。
わずかなブレだが、これが大きな隙になる。
けれど、これだけでは終わらない。
飛んできた横払いを僕は頭を下げて躱した。
大人では無理だ。子どもの僕だからできた芸当だった。
僕と父では絶望的な体格差が存在する。けれど、子どもの僕にメリットが全くないわけじゃない。
身の小ささは、そのまま打ち幅の狭さに直結する。
巨躯の男に打ち込むよりも、鼠1匹に打ち込む方が難しいことぐらい子どもで気付く。
体勢不十分の父の横払い。
子どもの体躯を活かした回避。
揺さぶりに揺さぶった。
この間隙を逃す手はない。
いや、僕はずっとこの時待っていた。
父が隙を見せる瞬間を……。
ほんの少しでも『剣聖』を超える一瞬を……。
「むう……」
父上の瞳に見た僕の眼光が光る。
溢れんばかりの生気、戦意におののいたのか、父上は一旦下がった。
木刀を前に突き出すように構え、防御を取る。
狙い通りだ。
「はああああああああ!!」
僕はあらかじめ考えていた足運びで、体勢をすぐに整える。再び前へと出た。
対して、父上の動きは鈍い。
1度後ろに引いたことによって軸が残り、前に対する対応は半々歩遅れる。
これこそが『剣聖』の間隙だ。
勝った!!
やっと僕は期待に応えることができる。
父上に認めてもらえる。
がはっ…………。
気が付いた時には、僕は血だらけになっていた。血は構えた木刀にまで飛び散り、握った手にも多量の血が着いている。
なんでだよ……。
「なんで? 今なんだよ??」
僕は崩れ去り、再び泥の中へと沈んでいく。
遠くで母上の悲鳴を聞いたような気がするけど、僕の耳朶に届くのは、やはり父上の言葉と剣が鞘に収まる乾いた音だけだった。
「あえてもう1度言おう。お前の技量も、振りの鋭さも悪くない。だが、お前は『剣聖』として決定的に欠けているものがある。それは健全な身体だ。お前のような病弱な息子などいらん。5歳ともなれば、身体が強くなると思ったが、年々弱る一方ではないか」
ごめんなさい、父上。
後半――何を言ったかわからないや。
僕に欠けているものって何?
「あなた! もうやめてください! ルーシェルは剣を振れるような身体ではないのです。このようにずぶ濡れになって……。もはやこれは剣の修行ではありません。虐待です」
母上の匂いがした。
側で父上と口論している。
やめてください、母上。
また父上にぶたれてしまいます。僕の事で喧嘩するのは、もうやめて下さい。
「お前に言われずともわかっておるわ、リーナ。そやつと、俺が剣を交えることは金輪際ない。……とっとと、その欠陥品を山奥にでも捨ててこい。明日から弟のシュトゥルムを鍛える。あまり光るところがないが、その欠陥品を鍛えるよりは遥かに有益であろう」
「ひどい! ルーシェルはあなたの期待に応えようと寝る間も惜しんで剣の腕を磨いてきたんですよ。こんなに身体が弱いのに」
「『剣聖』の子だぞ! それぐらいのことは当たり前だ。努力もなしに、『剣聖』などなれるか。全くお前もお前だ。こんなひ弱な長男を生みおって」
「そんな……。私は……」
「戦も近いというのに……。とんだ欠陥品を掴まされたものだ。母胎が悪いとこうも子どもに影響するとはな。家柄などで伴侶を求めるものではないな」
「ひ、ひどい……。そのような言葉……。あまりにひどすぎませんか?」
正直、僕には2人が何を言っているかわからなかった。ただ頬を打つ温かいものが、母上の涙であることは、何となくわかる。
「女はいいな。涙を流せば、男が動揺すると思っている。……ふん。俺こそ泣きたいものだ。詐欺師の女に騙されたのだからな」
父上は翻り、屋敷の方へと歩いて行く。
もう意識が半分飛びそうになっている中、父上の捨て台詞だけが、妙にクリアに聞こえた。
「その欠陥品を屋敷に入れることを今後禁ずる。とっとと山なり、谷なりに捨ててこい」
「ひどい……」
母上の悲痛な声が聞こえ、雨の中で嗚咽が響く。
その泣き声を聞きながら、家族が僕が知る世界がバラバラになっていくのを感じた。
「ひどい? これは温情だ。獅子は子を千尋の谷に突き落とすというではないか。……ルーシェル、貴様が病に打ち勝ち、俺に勝てる技量を習得したならば、もう1度立ち合ってやろう。まあ、そんなことは一生あり得ないだろうがな。どうせ山におる魔獣の餌になるだけだ」
あっはっはっはっはっはっはっ……!
父の哄笑が遠のいていく。
側で母上が泣いている。
だけど頬の涙を拭うことすら僕には叶わない。
身体が冷えていく。視界が暗く閉ざされ、感情すら燃えかすのように消えていく。
もはやその時、僕は自分が生きているかどうかすらわからなかった。
◆◇◆◇◆
ハッと目を開いた時、そこは見慣れぬ光景だった。
濃い腐葉土の匂いがする。
手をまさぐるとザラザラとした落ち葉の感触が返ってきた。
ゆっくりと起き上がり、僕は鬱蒼と茂った樹木が並ぶ光景を視界に収め、しばし呆然と眺めた。
「森だ……」
それはわかるのだが、まだ夢現の中にあるのか妙に現実感がない。
僕には先ほどまで屋敷の庭で雨に打たれていた記憶しかなかった。
それが一変し、森にいることに状況がついていけない。
雨は止んでいる。足に付いた泥は乾燥し、触るとボロボロと簡単に落ちた。
まるで幽鬼のように彷徨い歩き、僕は立ち止まる。
小さな瓦礫が、ほぼ直角の崖の底へと消えていった。
広がっていったのは、見渡す限りの深緑の森林と、雄大な稜線をみせる山脈の姿だった。
「山だ……」
呟く。
次の瞬間、ドスンと地響きがした。
遠くの方で木々が倒れるのが見える。そして側には大きな影……。
「トロルだ……」
さっきから似たようなことしか言っていないことはわかる。
けれど、その時僕の言語野は一時的に消失していた。
トロルは地響きを立てて、森の中で暴れ回る。鹿を追い込むと、手で鷲掴み、バリバリと食べ始めた。
否応なく見せつけられる弱肉強食という現実。
命が当然のごとく、生活の一部として差し出される現状に、恐怖以外の感情が浮かばなかった。
父上の木刀を受けるよりも遥かに恐ろしく感じる。
こうして僕は、魔獣がひしめく山での生活をスタートさせたのだった。
1話目もすぐに更新する予定です。
今しばらくお待ち下さい。