7 バルフェステ①
7 バルフェステ①
311年4月
バルフォルト、ブレウの森
一月の新年の儀を終えると、公爵、伯爵のご一行はバルフォルトを離れる。王都に残るのは、バルフォルトの学院で学んでいる貴族の子息と、政治好きな公爵ぐらいである。2月と3月には特に大きな行事はない。王都に再び各地から貴族が集まると言えば、4月の頭に行われる、バルフェステ(猪狩りの祭り)である。
バルフェステが行われるのは、バルフォルトの近郊にあるブレウの森と呼ばれるところである。この森はブレスト王家の者が代々狩りを楽しむ森として、一般人が入り込み狩りをすることは許されていない。4月のこの日は、冬の間この森で禁じられていた狩猟が解禁となる意味も含めて『狩り解禁の日』と言われることもある。
この狩りで狩られるのは、都の名前の由来ともなっているバル(野生の猪)である。ブレスト家の祖先はかつて狩猟民族であった。獲物を求めてあちらこちらと移動していた祖先は、このブレウの森にバルがたくさん群れているのを見て、この地に定住するのを決めたという。現在では乱獲で数が減ったバルを口にすることは難しくなった。その代わりに一般的にはバルを家畜化したホッグが食肉として流通している。
バルフェステでは、狩りで得た獲物を二分する。
半分を祖先に捧げるためである。
残った物は狩りに参加した者たちで王宮へ持ち帰り、宴会を催すのである。この狩りに参加するのは、皇太子と弟たち、公爵、伯爵の子息たちである。若者たちだけでは危険なため、各家がそれぞれ自分の家の騎士を参加させるのが慣わしである。王、公爵、伯爵は、森には入らずに森の出口で息子たちが帰ってくるのを待っている。
狩りの中心となるのは、王族である。子息たちは王族を中心に組に分かれる。今年の場合は、エドワードの組とレオナルドの組の2つに分かれる。この2つの組がそれぞれ、どれだけの獲物を取ることができるのか、競うのである。
表向きは祖先を崇める祭りであるが、裏を返せば、皇太子とその弟たちの統率力が試される仕組みとなっている。また、キサルピーナ王国の主要な公爵、伯爵家の子弟と王族が一致団結して事に当たるシミュレーションと言っても過言ではない。子息たちが我こそ王族に名前を覚えてもらおうと、必死になる日でもある。
前回、エドワードが術師に呼び出されて襲われそうになってから、2ヵ月半が過ぎていた。敵はなりをひそめ、あれから一度も不審なことは起こっていない。
来週にバルフェステを控えたある夜、テルマは東の宮の一階の、建物の角にある部屋で窓を開け放してピアノを弾いていた。
ふとテラスの方で何かが動いた気がして、手を止めた。
「テルマか?」
後ろを振り向くと、風に揺らぐカーテンの合い間にテルマが立っていた。
「驚きました。ピアノを弾きながら、わたしの気配に気づくとは…。」
「自分でもよく分からない。最近どうも、以前より敏感になった気がするんだ。」
ピアノの蓋を閉めると、エドワードはテルマの方を見た。
(シュバルツの影響だろうか…。それに、一度命を狙われたこともあるし…。)
「何だ?今日は何か用か?」
エミリアの一件があるまではテルマの顔を見たこともなかったが、あれからは1週間に1回くらい、特に何もなくてもエドワードの前に顔を見せるようになった。
「来週のバルフェステのことですが…。」
「ああ、あれか、憂鬱だなぁ。」
「狩りはお嫌いですか?」
エドワードはテルマをちらりと見た。
「お前は、あのバルフェステがどういう物がよく知ってるか?」
エドワードはバルフェステの説明をしてやった。
「つまり、皇太子としての俺を、殿下やら大公やら伯爵たちやらが、採点しようって会なわけ。憂鬱にならないわけがないよ。」
「はぁ。」
「お前にそんなこと言ってもしょうがないけど。で、何?バルフェステがどうしたの?」
テルマは用件を危うく忘れるところだった。
「バルフェステの護衛ですが、こちらで調べました。エドワード様には一般の衛兵のほかにも護衛がつくようです。」
「うん。」
エドワードはそういうことはよく知らない。自分からあまり聞かないのだ。いつの間にか手配されていて、いつの間にか守られている。
「南の宮の近衛兵隊長のヒュー・オーデンがつきます。」
「へぇ、父上の宮の隊長がつくの?珍しいな。」
エドワードはもう一度ピアノの蓋を開けた。人差指で、ぽーん、ぽーんと鍵盤をたたいて遊んでいる。
「あれから何もないけれど、俺、まだ狙われているのかな…。」
「わかりませんが、できるだけの警戒はしておきませんと…。」
「バルフェステでも何かしてくると思うか?」
「エドワード様がこの東の宮にいる間は、あちらも簡単に手は打てません。バルフェステのように森の中で行うような催しは、あちらにとってチャンスでしょう。」
(あちら、か…。はっきり名前は言わないんだな…。)
エミリアの事件が起きてから、王宮の中でエドワードは生きた心地がしなかった。アデルと顔を合わせると、胃が縮みあがる気がした。レオナルドと並んで家庭教師の講義を聞いているときにも、さまざまな雑念が湧き上がる。この弟は果たして、アデルがしようとしていることを知っているのだろうか、と…。
夜には、恐ろしい顔をしたアデルとレオナルドが、手に剣を抱えて迫ってくる夢を何度も見た。そんな日々の間に、エドワードは食欲が落ち、少し細くなった。
エドワードは両手を鍵盤に置くと、ふいに曲を弾き始めた。静かな悲しい感じのする曲だった。テルマはエドワードがその曲を弾き終わるまで静かに待った。
「お上手ですね。」
「本当は皇太子はピアノなぞできなくても構わないのだ。俺の数少ない趣味だ。あとは全部必要だと言われてやらされていることばかりさ。不自由なものだ。」
ふいに、外から吹いてきた風が部屋の中の蝋燭を吹き消してしまった。部屋は窓の外から差し込む月の光に照らされた。エドワードはまっすぐテルマを見ていた。顔の右半分が青白い光に照らされて、左半分が闇にのまれている。静かな瞳をしていた。
(ああ、今日はシュバルツの影が見えるな。)
シュバルツは、くっきりと見える日もあるが、ぼんやりとしか見えない日もあるし、まったく見えない日もある。
今はとてもくっきりと見えた。
2人の瞳にテルマは見据えられていた。
「お前は、バルフェステの間どこにいるんだ?」
「少し離れたところからお守りさせていただきます。」
エドワードは少し不安そうな顔をした。
「離れたところからで大丈夫なのか?」
「わたしは術を使いますので、わたし自身はお傍にいませんが、わたしの手の者をエドワード様のすぐ上につけておきます。何かあればすぐに駆けつけられるように控えておりますので、ご安心ください。」
「上?もしかして、あの梟を使うのか?」
「いえ。あれは夜しか目がききませんので…。」
「じゃ、別の鳥かなんかか?」
テルマは笑った。
「だめですよ。エドワード様。エドワード様がちらちらとわたしやわたしの手のものを気になさると、あちらの方にも感づかれてしまいます。エドワード様は何も気にされず、いつも通りの様子でいてくださらないと…。」
「それはそうだな。」
エドワードは下を向くと、苦笑した。
エドワードは立ち上がって、窓辺によった。今日は満月だった。エドワードの額の髪を風がなぶる。テルマはエドワードの横顔を眺めた。
「怖いですか?」
エドワードは一瞬不思議そうにちらりとテルマを見た。それから、ゆっくり首を横に振った。
「喉元に剣でもつきつけられれば怖いんだろうと思うが、今はな、実感がない。本当に俺を殺そうなどとしている者がいるんだろうか?そんな感じだ…。」
「そうですか…。」
「本当言うとな、なるようにしかならないと諦めているんだ。だから、怖くないのかもしれない。」
「エドワード様…。」
「呆れただろ?だけど、本当の俺はこういう人間だ。覇気がないのさ。どうしても生きてやるとか、そういう気持ちがない。わざわざ守ってくれるお前には悪いがな。」
テルマは何も言えなかった。
「俺の言葉をいちいち気にするな。月夜の夜のたわごとさ。満月は人をおかしくするというからな。明日、朝の光を浴びれば、昨日はなんであんな馬鹿なことを言っていたのかと自分で自分が恥ずかしくなるに違いない。」
やはり傍らにシュバルツがくっきりと見えた。物言わず、うれしくも悲しくもなさそうにひっそりと立っている。
「エドワード様、わたしたちを信じてください。エドワード様をむざむざと殺させるようなことはしません。必ずお守りします。」
テルマは低い声でそういうと、跪いて頭を下げた。エドワードは驚いた。
「お前がそんなに王家に忠誠心を持ってるとはな。」
テルマは顔を上げた。
「エドワード様はわたしを信じていらっしゃらないのですか?」
「いや、そういうわけじゃない。ただ、なんとなくお前は、例えば側近のストレーチとか、それ以外の俺の周りにいる、ただ盲目的に王家というものを信奉しているような連中とは違うにおいがしたものだから……。そんなふうに頭を下げられると、ちょっと驚く。」
エドワードが言ったことは、当たっていた。テルマは別にブラスト家に対して、己の命に代えても守ると言ったような気持ちは持っていなかった。ただ、これからこの少年の身に起こることを考えて、己の良心が痛んだのである。きっとエドワードはバルフェステの日に自分に裏切られたと思うに違いない。だから、つい、自分を信じてくれと言ったのだ。
「何があっても、わたしを信じてください。必ずお助けしますから。」
エドワードは少しきょとんとしたが、微笑むと言った。
「何度も言うな。わかった。テルマ、お前を信じるよ。」
本当のことを言えば、恐れているのはエドワードではなくて、テルマのほうだった。
バルフェステが開催されるブレウの森には、中央にスクリニウムと呼ばれるものがある。これはブラスト家の祖先が祭られているところで、古びた大きな岩が重ねられて家のような体裁をしている。王族の墓とはいえ、簡素なものだ。
ここに祭られているのは、ギディオンより以前のブラスト家のものだという。国を統一したギディオンは、この原始的で素朴な墓を嫌い、聖なる山、モナルデの山中にデュース神を祭る神殿の脇、聖なる泉、フォンタナスアルデの傍らに代々の王家の新しいスクリウムを設け、そのときよりここは使われていない。
四枚の岩が柱の役目をして巨大な一枚岩をささえている。正面の岩には人一人が通れるほどの穴が空けられている。中にはいると、岩に囲まれた小さな部屋の中央に地下へと続く穴がぽっかり空いている。そこを降りると、古びた石棺がぞろぞろと並ぶ墓の中心部へと続いている。
バルフェステは、春の解禁のときと秋の禁猟になる日の2回に分けて行われる。
バルフェステが近づくと、バルフォルトの祭司たちはこのスクリニウムに来て、この小部屋を掃き清める。バルフェステの前夜には、小部屋に祭壇をあつらえ、聖なるラウラスの枝をふんだんに飾り、邪気を払う。祭壇に蝋燭を点し、一晩中祈りを唱える。バルフェステ当日、狩りに参加する者は、朝暗いうちにスクリウムの前に集い、日の出とともに狩りを始め、日がちょうど頭の上に来る正午に狩りを終える。
捕らえられた獲物を二分し、先祖に捧げられる供物は王と、次の王である皇太子の手によって中に運び込まれる慣わしである。祭司が再び先祖に祈りを唱える間、王と皇太子は小部屋の中で跪き、先祖に無事冬を越すことができたことへの感謝と、これから秋のバルフェステまでの時が無事に過ぎるように祈るのである。王と皇太子が廟の中にいる間、ほかの者達も廟の外で地面に跪き、二人が出てくるのを待たなければならない。
これが終わると、祭事は全て終わる。後は獲物を城へ持ち帰り、皆で大いに騒ぐのみである。
明日、いよいよバルフェステを迎えるという日の夕方、バルフォルトの大祭司ノックスは、配下の祭司を何名か連れて、スクリニウムへと来た。小部屋は昼のうちに既に配下の者が掃き清め、祭壇もあつらえられ、ラウラスの枝も飾られている。祭司たちは蝋燭を点し燭台に立てると、部屋の四方と祭壇に二つ飾った。日没を待って祈りを始める。
(何かがおかしい。)
祈りを始めてから一時間ほどでノックスは異常に気がついた。
(祖霊がざわざわしている。)
ノックスには少しだが霊を感じる能力がある。バルフェステの夜は、スクリニウムに眠る祖霊たちにとっては待ちに待ったお祭りの日なので、霊の声が聞こえることは不思議でも何でもない。だが、今年は例年とは少し雰囲気が違う。いつもはもっと喜びに満ちてはしゃいでいる雰囲気があるのだが、今年はただひたすら切れることなくぼそぼそぼそぼそとあちらこちらから、何人もの声が聞こえる。バルフェステの前夜とは思えない陰気で憂鬱な雰囲気である。胸を締め付けられるような不安な空気が立ち込めている。
(どうしたと言うのだ。何かよくないことでも起こるのだろうか。)
ノックスは祖霊の魂を鎮めようと、祈る声に力を込めた。
翌日早朝、まだ暗いうちから、スクリニウムの前に人影が集まりだした。新年の儀以来で、各地から集まった公爵、伯爵たちとその跡継ぎである長男たち、そして、王と2人の王子である。遠くに住む者はこの日のために一週間ほど前に所領を出て、前日にバルフォルトに入っている。この時、集まったのは、5人の大公と5人の世継ぎの息子たち、そして彼らに仕える5人の騎士。18人の伯爵と18人の世継ぎの息子たち、そして彼らに仕える18人の騎士である。全部で23人の貴族の息子と、23人の騎士、それに、2人の王子とその側近2人と騎士が2人狩りに参加する。
やがて、ブレウの森の東にある山、モンブレウの方向の空が白々と明け始めた。すると、スクリニウムの中から祭司たちがしずしずと出てきて、太陽に背を向けてスクリニウムの前に並んだ。スクリニウムの四方は土がもられて一段高くなっている。その段の上にヘンリーが上がる。
「エドワード、おいで。」
父に呼ばれて、エドワードがその隣に並んだ。2人で、祭司たちと向き合って並ぶ。ヘンリーが祭司たちに向かって大声を上げた。
「この地に眠る 我が祖先たちよ
我 約束どおり 再び この地に参った
ここにいる 我が子 エドワードとともに
この森の恵みを 皆様に捧げんとす
どうか これからも これまでどおり
我らを 見守り給え」
皆、下を向き黙って王の言葉に耳を傾けている。まだ肌寒い春の朝、清浄な空気の中で、皆厳かな気分になる。王が声を上げるほんのわずかな間にも、モンブレウの山頂を取り巻く空は色を変えていく。
(素晴しい朝だ。)
エドワードは心が洗われる気がした。
王の祖霊への挨拶が済むと、いよいよ狩りの始まりである。
「狩りに参加される方々はこちらに集まられよ。」
ストレーチが叫ぶ。あちらこちらから若者たちがぞろぞろと集まってくる。
「大公のご子息、前に出られよ。エドワード様の組か、レオナルド様の組か、決めさせていただく。」
ノラルピーナ、トランサルピーナ、ウェサル、イール、ソアル、全部で5人の大公の息子が前に出る。くじで組みを分けるのである。2人がエドワードにつき、3人がレオナルドにつく。伯爵の子息たちは、自分の領の大公に続く。キサルピーナ(王領)では王族が大公に当たるので、キサルピーナの伯爵の子息は最初からエドワードにつくことになっている。ストレーチは5本の矢が入っている矢筒を持ち上げて皆に見せた。
「こちらに矢が5本ある。2本は骨を削って作った白い矢尻だ。残り3本は普通の鉄の矢尻だ。白い矢尻を引いたものがエドワード様につき、鉄はレオナルド様だ。さぁ、どなたから引かれるか?」
「わたしからやらせてもらおう。」
手をあげたのは、ノラルピーナ大公 ダグラスの息子のジェロームだった。ジェロームは前に進み出た。ストレーチが矢筒を差し出す。ジェロームは一つの矢に触れて、ふと手を離すと、今度は別の矢に触れ、そして、また次の矢に触れた。
「ずいぶん、慎重ですなぁ。」
ジェロームはすいと一本の矢を抜いた。
矢尻は鉄だった。
「よろしくおねがいいたします。レオナルド殿下」
「ジェローム叔父さん。」
レオナルドは嬉しそうな声を上げた。ダグラスの息子は母アデルの従兄弟なのだ。
次はウェサルの大公の息子が引いた。やはり鉄の矢尻だった。
(次はわたしが…)
トランサル公ハロルドの息子、クレイグが前に出ようとした。
「クレイグ殿、お久しぶりですな。」
ジェロームに話しかけられた。
「大きくなられた。見違えました。」
ダグラスの代わりにウィットベリーにいたため、ジェロームは新年の儀には参加できなかった。クレイグと顔を合わせるのは、前回の秋のバルフェステ以来である。
「ジェローム殿、お久しぶりです。お会いできて光栄です。」
クレイグも丁寧に挨拶を返す。
「いや、今年参加される方は若い人多い。わたしのような年の者は嫌な意味で目立ちますね。」
「いや、そんなことは…。」
クレイグは言葉に窮した。ジェロームは30を超えての参加。10代後半から、20代前半の参加者が多い場で、確かに少し目立っている。
「ご子息はおいくつになられたのですか?」
「今年で13です。あと2年ほど経てば、わたしもこの場から解放されますよ。」
ジェロームは笑った。
「お引きになっていないのは、トランサルのクレイグ殿かな。白い矢尻、エドワード様の組ですぞ。」
クレイグはそちらを見た。ストレーチが矢筒から最後の一本を抜き出して、クレイグに見せた。白い骨を削った矢尻だ。クレイグがジェロームと話をしている間に、他の者は皆引き終わっていたらしい。
「別々の組になりましたね。」
「お互いせいぜい頑張りましょう。」
エドワードの組は、トランサルと、ソアル、そしてエドワード自身のキサルピーナとなった。公爵家2人と伯爵家9人がつく。レオナルドの組は、ノラルピーナとイールとウェサル、公爵家3人と伯爵家9人がつく。
「それでは、エドワード様が北側へ、レオナルド様は南側の森へとお入りください。」
ストレーチの声に皆ぞろぞろと移動し始めた。
ブレウの森は、モンブレウの西の麓に広がる森である。モンブレウから流れ出るアブハン川が、楕円形に広がる森の北側をぐるりと囲み、大きくカーブしてブレウの森の西側を流れ、もう一度カーブして森から離れバルフォルトの方角へと流れていく。ブレウの森は東のモンブレウからゆるやかな斜面が西の川の方へと向かい落ち込んでいく地形となっている。アブハン川に面するところで地面は急な斜面となり落ち込む。
バルフォルト市内では、川幅が十メートルほどになるアブハン川も、ブレウの森の脇を流れるときには、3メートルほどしかない比較的穏やかな流れである。ところが、今日は茶色い水がごおごおと音を立てて流れている。先週降った大雨で増水したようだ。
森の中には、スクリニウムを中心にして、十字の形に馬が通れる小道がある。それから、ぐるりと丸く大きい小道があって、それ以外には馬が通れる道はない。いわゆる獣道があるばかりである。十字の道と丸い道は交差して交わる。
エドワードは、自分を入れて12人の人間を3つに分けて配置した。スクリウムからまっすぐ北に進む道で森を二分する。道の右側に4人、左側に4人。3人が馬を下りて森に入り込み、獲物を道へと追い出す。待機していた1人が道に沿って今度は北の方へと獲物を追い込む。十字の道と丸い道が交差する地点で待ち伏せをしている3人が、駆けてくる獲物をしとめる。
エドワードは森の右側をトランサル領の4人に任せ、左側をソアル領の者に任せた。追い込まれてくる獲物をしとめる役に自分を含むキサルピーナ領の4人を配した。この役の中で歩き回りへとへとになるのは、森の中に入り猟犬とともに獲物を探し回る役である。これは自然と、伯爵家の役回りとなり、道で獲物が追い込まれて出てくるのを待つのは、大公家の役目となった。
「おい、ソアルのやつらには負けられんからな。しっかりがんばって一頭でも多く追い出して来い。」
トランサル大公の息子クレイグは、適当な所へ来ると、そう言って配下の者を励ました。傍には、父、ハロルド公に仕える騎士、バーナードが控えている。
「恐れ入ります、クレイグ様…。」
「なんだ?」
声がした方を見ると、チャップマン伯爵の息子、デニスだった。クレイグより2つ年下の少年だ。
「今日は南西の方向から風が吹いています。我々が風上に立って、風下の方へ向かって獲物を追い立てると、我々のにおいに気がついて獲物が逃げてしまいます。」
「何?」
言葉の説明だけでは、クレイグには分からなかったようだ。デニスは地面から棒を拾うと、図を描いて説明した。
「今、わたしたちはここにいます。」
皆は今円を描く道の上にいた。
「ここから森に入り、今いる場所に獲物を追い出すとなると獲物を追う者は南から北へと動くことになります。風に乗って我々の匂いが前方の獲物に届きやすいのです。それに、ブレウの森の地形は東から西へと傾斜になっています。獲物は追われると、走りやすい低い方へ低い方へと自然に足が向きますから…」
デニスはスクリニウムから北へ向かってまっすぐ伸びる道を枝でぽんぽんとたたいた。
「こちらの道の方へ逃げて出てしまうでしょう。3人で手分けをして猟犬を使い追い込み、こちらの円の道へと出させることもできますが、労力がかかります。」
クレイグは馬から下りて、デニスの説明をふんふんと頷きながら聞いていた。他の2人の伯爵家の子息もクレイグの両脇から頭をのばしてデニスの描いた図を見ている。
「ですから、クレイグ様にはこちらの道ではなく、このまっすぐな道のどちらかで待っていただいたほうがいいのです。」
「具体的にはどこらへんだ?真ん中あたりか?」
デニスは図に北東から南西へ向かう矢印を何本か書き入れた。
「風と間逆に進むとこういう角度になります。人の気配がする道のそばには獲物がいないと思いますから、少し奥の森へ入るとすると…。そうですね。おっしゃるとおり、この真ん中の部分がいいかと思われます。」
「ふむ。わかった。では、わたしはそちらで待っているから、お前らは獲物を追い立てて来い。」
クレイグは満足そうに馬に乗り、バーナードを連れて離れていった。
(これでは、どちらが指揮官か分からないな。)
バーナードは心の中で苦笑した。最も、クレイグのように大公の子息として生まれると、常に周りに誰かがいて、自分で何かを考えることというのが少ない。周りの者はクレイグに自由に何もさせてやらない。いつも見ていて、クレイグが何か失敗しそうになると、大人が慌てて手を出してしまう。そして、失敗する前に最初から正解を教えてしまうのである。だから、クレイグは失敗しても、誰も教えてくれないのでどうすればいいか自分で考えるという経験をしていない。
(それにしても、あのデニスとかいう少年は、しっかりしていたな。ぼんやりとした貴族のぼっちゃんには見えなかった。)
デニスはバーナードの印象に残った。
「バルを見つけたら、俺たちは三角形の陣形を組む。1人が追い込む役で、後の2人は両脇から共に挟みこむようにバルと平行に走る。バルが真っ直ぐに進まずに、脇へ曲がって逃げようとしたら、猟犬を使って阻止するんだ。あまり近寄りすぎて三角の陣形を崩すと、するりと逃げられるからな。一定の距離を保ちながら、進むんだ。どちらへ行こうとしているかをよく予測することと、他の2人の位置を常に把握していること。お互いに近づきすぎない。追い込んで、別の1人の方に走っていったら、あとは任して追わない。それと、これが一番大切だが、最終的に向かう方向を見失わないことだ。」
デニスが共にバルを追い込む2人に狩りの要領を話してやると、デニス同様まだ若い2人の少年は少し不安そうな顔をする。1人は少しぽっちゃりしていて、もう1人は狐のように目が細い。皆、狩りに出たことはあるが、その時は自分は見ているか、配下の者に手伝わせて獲物をしとめていたりで、自分が主体的に動いた経験はあまりないのである。
「バルというのは、わたしの地方にはいないのだが、ウサギなどよりは大きいのか?」
ぽっちゃりした少年が口を開く。デニスはきょとんとした。後ろで聞いていた付き添いの騎士が苦笑する。
「君は見たことがない?バルはホッグと同じ種類の獣だよ。もっとも、体毛は黒いし、走る速さはホッグとは比べ物にならない。それに、バルには短いけど、牙があるんだ。」
「それは、怒ると人間に向かっては来ないのか?」
ウワンッ
ぽっちゃりした少年の脇で、彼の家の猟犬が大きく吼えた。早く獲物を追いかけたくてうずうずしているとでもいうようだ。
「立派な猟犬だなぁ。」
デニスは目を輝かせると、その犬をなでてやった。犬は喜んで尻尾を振った。
「この子が吼えればバルも恐れて襲ってこないさ。大丈夫。安心して。それに万が一何かあれば、僕が弓を使うから…。」
3人はそれぞれの従者と犬を伴って少しずつ離れて、森へと足を踏み入れた。ブレウの森は広い。奥へ奥へと足を踏み入れると、人の立てる音も馬が立てる音も全く聞こえなくなった。鳥の声、羽ばたく音。どこかをざざざっと動く物がある。何か小さい動物が行過ぎたのかもしれない。時折、前方から優しい風が吹いてくる。細い目の少年は少しほっとした。
スクリニウムを出発してから既に1時間は経っているだろう。すっかり明るくなった。ふいにその静けさを破って、少し離れた所で犬がおんおん吠え出した。続けて、どすどすと地面を踏み鳴らす音、更にざざざざと草を掻き分ける音が真っ直ぐにこちらへと向かってくる。
「そっちへ行ったぞ!」
デニスの凜とした声が響く。細い目の少年は、立ちすくんだ。
(どうしよう…。どうしよう…。)
傍らの従者はいざというときまでは見てみぬ振りである。
ざざざざっ
音がひときわ近づき、突然目の前の茂みが左右に分かれて黒い塊が飛び出した。
「うわぁー。」
細い目の少年は目をつぶった。
(だめだ…。こりゃ。)
従者が、がっくりと肩を落とす。
おんおんおんおんっ
少年の後方にいた猟犬がぱっと飛び出した。自分の何倍もあるようなバルを見ても、物怖じしない。猟犬に吼えかけられたバルは、足を止めた。バルが右へ行こうとすると、犬も右へ回り込み、左へ行こうとしてもそれを許さない。
「おい!こっちだ!」
少し離れた所から、デニスが呼びかけた。右手で方向を示している。
「フレディ!」
少年が、犬の名前を呼んで、方向を指し示すと、犬は待ってましたとばかりに一層高く吠え、バルを追い込んだ。行く手を遮られたバルは方向を変えると、お尻を見せて駆け出した。フレディが、矢のように後を追いかけていく。
「いいぞ。よくやった。」
少年は自分も後を追いかけた。頬がばら色に染まり、目がきらきらとしている。
デニスを中心に、3人の少年はバルを追い詰め、クレイグの待つ道まで追い落とした。クレイグの犬が待ってましたとばかりに、飛び出してくる。今まで獲物を追ってきた3匹の犬も、興奮して後へと続く。
「よし。」
待ちくたびれていたのは犬だけではないらしい。クレイグも馬の蹄高らかにその後を追い、バーナードもそれに続く。二人の少年は地面に座り込み肩で息をしている。デニスも顔を上気させ、汗で前髪が額にくっついていた。立ち止まると、森の冷気がここちよい。普段から体を鍛えている3人の従者は、傍らで涼しい顔をして立っている。
「いや、上手くいったな。あいつが怒りくるって飛び出してきた時には、どうしようかと思ったがな。」
「確かに、あれはウサギより大きいし…、ホッグより足が速いなぁ…。」
ぽっちゃりした少年が言って、3人は笑った。
最初は戸惑った2人もだんだんと慣れ、狩りのスリルを楽しむようになった。
エドワードはその頃、スクリニウムから真っ直ぐに北に伸びた道が、森をぐるりと巡る丸い道とぶつかる突き当たりの部分に立っていた。真っ直ぐ前の道と、左の道を交互に眺めている。正面の道からはトランサルの者たちが追い詰めたバルが、左からはソアルの者たちが追い詰めたバルが走ってくるのだ。
「今年はずいぶんたくさん取れていますね。この分だと夜の宴会が楽しみです。」
エリック・ローリーがにこやかに微笑んだ。キサルピーナ領内の伯爵家、ローリー家の子息で、テルマの一族の一派である。
エドワードよりも10歳くらい年上だ。
(あんまりテルマには似ていないなぁ。ま、でも血筋が分かれたのは300年も前のことだからな…。)
以前から、エリックと顔を合わせたことはあったが、テルマと知り合ってから顔を合わせるのは初めてだ。
「トランサルのクレイグはなかなかすごいですね。どんどん追い込んでくる。それに比べて、ソアル領は数が少ないですね。」
「王子、ソアルは別に劣ってはいません。例年、どこの領の者もソアルと同じぐらいです。トランサルが優れているだけです。」
「ほぉ…。誰か狩りになれた者でもいるのかな?」
エリックとエドワードが2人で話しているときである。エドワードはふいに、奇妙な気配を感じて言葉をとめた。
(左の方だ。大きい。)
馬に乗ったままじっとそちらの方を見た。
エドワードが感じたおかしな気配を感じている者がもう一人いた。
(なんだ?人間ではないか?だが、獣とも思えない。)
その日、エドワードの護衛役としてその場にいたヒュー・オーデンである。
「どうかされましたか?」
エドワードの様子に気がついて、エリックが声をかけた。
「来る…」
エドワードは前方を凝視したまま、つぶやいた。エリックはその言葉が聞き取れず、眉をしかめた。ヒューがさりげなく、馬をエドワードの前に出した。
左前方の森がざわざわと揺れる。
森の中から一人の少年が転がり出てきた。足がもつれて一度転んだが、素早く飛び起きると、こちらへ全速力で駆けて来る。
「逃げろ~!」
顔が真っ青だ。
ずしん、ずしん、ずしん、ずしん
地面を揺るがす大きな音と、木の枝がばきばきと折れる音がする。
ざざざざざぁ……ずしん
大きな黒い影が森から飛び出してきた。衝撃に驚いて、鳥たちが空へと飛び立つ。その影は道へと出てぶるぶると頭を振るうと、ぐいとこちらを見た。
「なんだ、あれは…。」
エドワードの傍らで、エリックがうめくようにつぶやいた。エドワードの全身が粟立った。大人の背丈ほどもあるかと思える大きなバルがこちらをにらんでいる。
「逃げろ~。」
前を走る少年が叫んだ。バルはきっとそちらを見据えると猛然と駆け出した。
「エドワード様!」
ヒューがエドワードを促して後方へ馬を駆けさせようとする。辺りにいた衛兵が王子を守ろうと槍を構えて前に出る。エリックは、素早く弓を構えると矢筒から一本矢を抜きつがえた。
(この人間どもめ…)
そのとき、バルに背を向けたヒューの脳裏にはっきりと言葉が聞こえた。ヒューははっとして、馬上で半身を翻し、叫んだ。
「だめだ。武器を向けるな!」
エリックは、ヒューの声に驚き狙いを狂わせた。弓はバルをかすりもしなかった。
少年は、道の脇の藪の方へと飛びのけた。衛兵も慌てて道の左右へと散る。ふいに目標を失ったバルは、歩みをゆるめた。辺りの臭いを嗅ぎながら、じりじりとこちらへ進んでくる。怯えたエドワードの馬、エリプスが暴れた。
「エドワード様!」
「おい、静まれ!こら!」
エドワードが叫ぶのを聞かずめちゃくちゃに走り出した。
(お前か!)
その場を逃げ出そうとする者を見つけて、バルはそちらの方へと駆け出した。ヒューは馬を鞭打ちバルとエドワードの間に飛び出した。バルが一瞬速度を落とす。その隙にエリックがバルの背中に向けて、弓を絞る。はっとしたヒューがエリックに向かって叫んだ。
「射るな!これはこの森の主だ!」
(何だと?)
エリックはヒューの声を聞いて、どうすべきかが分からず、狙いを定めたまま硬直した。
「やめろ!射てはならん!」
もう一度叫んだとき、ヒューに隙が生まれた。バルはヒューの左脇をすりぬけた。ヒューの馬が驚いて暴れた。
「どぅどぅ…。」
馬を静めると、即座に後を追う。
(速い!)
黒い塊がぐんぐんとエリプスとエドワードに迫る。エリプスは死に物狂いで走っていて、エドワードはそれにしがみついているだけで精一杯といった様子だ。
(なんということだ!深い森の奥に住み、普段は人前に姿を現さない主が何故、こんな所に…)
あと少しでバルがエリプスに追いつくといったとき、エリプスはひときわ高くいななき道を外れて右の森の中へと飛び込んだ。
(そっちは崖だ!)
すると、バルも巨大な体を一旦止めた。土ぼこりがあがる。体を真っ直ぐにエドワードとエリプスの方に向けたが、ぴたりとそのまま動かなくなった。
「エドワード様は?」
後ろから馬で追いついたエリックが叫んだ。ヒューは視線をじっとバルに向けたまま、右手で森の方を指差した。エリックは鋭い掛け声をかけると、馬ごと森へと飛び込んでいった。遅れてばらばらと衛兵が駆け寄ってくる。
「お前たちもローリー様と一緒にエドワード様を追え!」
前を向いたままで指示する。衛兵は返事をすると、慌てて森へと駆けて行く。バルはやはりじっと森の方を見ていた。
(違う。あいつじゃない。)
ゆっくりと向きを変えてこちらを見た。
「ひぃ~」
後ろにいた何人かの兵が、怯えた声をあげた。ヒューはゆっくりと馬を下りた。一歩一歩バルに近づく。左手を大きく上げ、右手で腰に下がった剣を帯ごと外して下に落とした。
「隊長何やってんですか!」
それを見た兵が叫んだ。
「わたしは大丈夫だ。心配するな。それより、お前らもエドワード様を探せ。」
きっとこの得体の知れない獣が怖かったのだろう。皆指示に従った。ヒューは次に背中にしょっていた弓と矢を外して足元に捨てた。
「主よ。一体何故、我々の前に姿をお見せになったのです?」
(お前はわしの言葉が分かるのか?)
「分かります。」
(じゃ、お前は、わしの住処をめちゃくちゃにした人間を探し出して、連れて来い。)
「めちゃくちゃに?どういうことですか?」
(さっき、わしが寝ている洞窟の前で嫌なにおいのする草を燃やしたやつがいる。風にのって臭いが洞窟中に広がった。あんな臭いがしては、中になどいられない。)
「それで外に出られたのですか?」
バルは腹だたし気に鼻をならした。
「どうして先ほどあの少年を追っていたのですか?」
バルはふいにぐいと頭をもたげ、あちらこちらと見渡した。
(そうだ!あいつだ!あいつから同じにおいがした!あいつはどこへ行った!)
今にも駆け出さんという風情だ。
(なるほど、そういうことか…。)
ヒューには大体のからくりが分かった。
「主よ。おやめください。主自らが駆け回る必要はございません。高貴なお姿を人間の前にこれ以上晒すことはないでしょう。」
(じゃ、どうするというのだ?)
「ご安心ください。わたしめが主の代わりにその少年を見つけ出し、主の御前に引きずってきましょう。」
(本当か?)
「信じてください。必ず今夜お連れします。」
バルは嬉しそうに鼻をならし、足を踏み鳴らした。
「さ、お供いたしますから、戻りましょう。」
(あそこには戻りたくない…。別の場所へ行くしかない…。)
「ご心配ならずとも大丈夫です。わたしが臭いをひとつ残らず取り除いてさしあげます。」
ヒューは武器も馬もその場に残したまま、バルとともに、森へと足を踏み入れた。ちらりと一度エドワードとエリプスの消えた方向に目をやった。
(頼むぞ、テルマ…。失敗は許されない。)
森に飛び込んだエリックは、辺りを見渡しエドワードの影を探した。しかし、辺りには何も見えない。馬のかける物音も聞こえない。
(なんということだ…。)
エリックは歯をくいしばり、馬を前方へと駆けさせた。
(これ以上行っても、崖にぶちあたるだけか…。)
雨で増水したアブハン川の流れる音が聞こえる。ふと、その音にまじって何かが聞こえた気がした。エリックは逸る心を抑えて、耳を澄ました。馬の足音である。
(こっちだ。)
エリックは右斜め前方へと馬を進ませた。ぱかぱかという馬の足音が近づいてくる。
(いた!)
木々の間にちらりとエリプスの白い影が見えた。エリックは後を追いながら目を凝らした。
(誰ものっていない!)
エリプスは少し落ち着いたのか、先ほどのようなスピードは出していない。エリックは手綱を巧みにさばき、馬をエリプスの横に並べて走らせると、腕を伸ばしてエリプスの手綱をつかみ、立ち止まらせた。
ほどなく、エリックに追いついた衛兵たちに辺りをくまなく探すように指令を出すと、エリックは馬をヘンリーや大公たちの控えているスクリニウムへと向けた。
時刻は正午まであと一時間ほどとなっていた。王と大公、伯爵たちは、スクリニウムの脇に建てられた天幕の中で休んでいた。そこへ、真っ青な顔をしたエリックが飛びこんだ。一堂が驚いて顔を向ける。
「エリックではないか。どうしたというのだ。無礼ではないか。殿下の御前だぞ。」
ブレア・ローリーが慌てた様子で、息子を叱った。エリックは跪いた。息がめちゃくちゃに乱れている。ヘンリーはそれを見て、不安になった。
「どうした、何かあったのか?」
「エドワード様が…お姿が見当たらないのです…。」
エリックは声を振り絞るようにして、なんとか言った。ヘンリーの顔がさっと曇る。エリックはさきほど北の森で起こったことを手短に話した。ヘンリーは何も言えずにどさりと椅子に倒れこみ、頭を抱えた。傍らにいたストレーチが甲高い声を上げた。
「ヒューは何をしていたんだ?」
「あの者は、一人であの化け物のようなバルの相手をしていました。こちらへ戻ってくるときには、見かけなかった…。」
「王、バルフェステを中止しましょう。そして、全員をエドワード様の捜索に…」
ストレーチが真っ赤な顔でヘンリーに話しかけると、後ろから鋭い声が響いた。
「それはなりません。神聖なるバルフェステを途中で投げ出すなど!」
大司祭ノックスだった。
「お前は何を言っておるんだ!皇太子の命がかかっているんだぞ!」
「それでも、バルフェステは続けるべきです。祖霊をないがしろにすることは許されません。」
ノックスはヘンリーに向かって言った。
「ご先祖は既にこの地に何百年も祭られている、デュース神を中心とするアルデの神々の下におられる聖人です。いわば、神にひとしきもの。何事があろうと、途中で儀式を中断などされては、国にどのような災厄が降りかかるか…。」
ヘンリーは暗い顔でそちらをぼんやりと見た。
「どうか、ヘンリー様、お気持ちはお察しいたしますが、あとわずかな時間です。このままバルフェステを最後まで…。」
ストレーチは、みなまで聞かずに天幕の外へと飛び出した。自分だけでも現場へ行くつもりだろう。ヘンリーは頭を抱え込んでしばらく何も言わなかった。周りの者は息をのんで、ヘンリーを見守っていた。
「エドワードがいた…森の半分は、狩りを中止させ、全員を捜索へ…。レオナルドがいる方は…今のまま、続けさせろ。まだ、何も知らせるな。」
ブレアが、そっと聞いた。
「本当にそれで、よろしいのですか?」
「たくさんの人間が行ってすぐに見つかったからと言って、今更事態が変わるわけではあるまい。今日配置した衛兵の半分と大公、公爵たちの手助けがあれば、十分なはずだ…。」
(落馬…)
エリックは気分が悪くなった。先ほど、エリプスは全力で疾走していた。あのスピードで落馬したとすると、打ちどころが悪ければ…。その先を考えたくなかった。
「皆は、どうかこのままこちらにおいでくだされ。もうすぐ正午だ。わしが獲物を小部屋に運びこむときには、皆にはスクリニウムの前で黙祷をしてもらいたい。エリック、お前は再び、エドワードの方へ戻ってくれるか?皆に指示を出してくれ。正午になったら、今までに獲った獲物を運ばせに、レオナルドの方の衛兵を向かわせるのでな……。」
エリックは一礼すると、天幕を出て行った。ヘンリーはそれだけ言ってしまうと、沈痛な面持ちで押し黙った。
正午になると、レオナルドはそれまでに捕まえたバルの足をそれぞれ紐でしばらせ、槍の柄につるさせるとスクリニウムまで兵に運ばせた。
「無事済みましたね。」
ジェロームが話しかけてくる。
「今年も兄上の勝ちだな。」
「知っていますぞ。わざとぐずぐずして、開始を遅れさせましたね。」
レオナルドはにこやかに笑った。
「誤解ですよ。叔父上、わたしはもともとこういう怠け者の性格ですから…。」
馬に乗ってスクリニウムまで戻って来ると、大公、伯爵たちが皆、外に出てこちらを向いて立っているのが見えた。
「どうしたんだろ?皆、なんか様子が変だな。」
「レオナルド…」
ヘンリーが馬上の息子を見上げている。
「父上…」
レオナルドは慌てて馬から下りて駆け寄った。顔色が悪い。
「どうされたのですか?」
「エドワードが…」
ヘンリーはそれ以上うまく言葉をつぐことができなかった。傍らにいたブレアが後を引き継ぎ、先ほどエリックから聞いた話をした。レオナルドの顔がみるみる強張った。レオナルドはふいに踵を返すと、馬に跨った。
「レオナルド、待ちなさい!」
それまで、黙っていたヘンリーが強い調子で怒鳴った。今にも馬を駆けさせようとしていたレオナルドがそちらを見る。
「でも、兄上が…」
「待ちなさい。下りて、儀式を終わらせるんだ。今、お前しかいないんだから…。」
「儀式なんて、今はどうでもいいでしょう!」
レオナルドは怒りを露わにした。
「待ちなさい…。既に、衛兵たちに行方を捜させている。お前1人がそれに加わったからといって、何が変わるというのだ。それならいっそ、今、わたしの横で祖霊の前に跪き、エドワードの無事を祈ってくれ…。」
レオナルドは眉をしかめた。胸の中で黒い不安の塊がどんどん広がっていく。レオナルドはおとなしく言うことに従い、馬から下りるとヘンリーの傍らに立った。ヘンリーが彼の肩に手を回し、優しくとんとんとたたいた。2人がゆっくりとスクリニウムの方へと歩くと、周りの公爵、伯爵たちもゆっくりと動いた。
レオナルドについていた衛兵がエドワードたちの獲ったバルを運び終えると、祭司たちは儀式を始めた。ヘンリーにつきそって、レオナルドは初めてスクリニウムの中に入り込んだ。
大祭司ノックスは、小部屋の入り口に立ったときから、霊のざわめく声を感じていたが、中に入って驚いた。
(何じゃこれは?)
部屋中に白い影が浮かび、ひゅんひゅんとあちらへこちらへ飛び回っている。ざわざわざわざわと人の話す声があちらでもこちらでもする。
「ノックス様…」
後ろの祭司が青い顔をして立ちすくんだ。
「お前にも見えるのか?」
祭司は震えながら頷いた。
「異変が起きたことに気がついておられるのだ。さぁ、魂をお鎮めせねばならん。入りなさい。」
普段なら、一体か二体の霊をちらりと見かけるぐらいなのだが、今日ははっきりと顔までが見える。皆、怒ったような恐ろしい顔をしている。歯を剥いてこちらへ飛び掛って来る者もある。ノックスはそれらを見ても、顔の表情を崩さず、足を踏み出した。後ろの祭司たちが震えながら後に続く。うつむいて目をつぶり、何も見ないようにしている者もいる。
その後ろからヘンリーとレオナルドが入った。
(誰だ?違う。こいつはさっきのやつと違う。)
ノックスの耳に霊が騒ぐ声が聞こえた。
「こちらの方は第二王子レオナルド様です。」
ノックスは空に向かって話した。
「おい、大祭司、誰に向かって・・・」
レオナルドが話しかけようとすると、ヘンリーが肩を抑えて止めた。
(何かいるというのか?)
レオナルドには何も見えない。思わずぞっとした。
ノックスは、燭台に新しい蝋燭を並べ始めた。慌てて祭司が代わる。祭壇に2つ、四方に一つずつ置くと、祈りの言葉を唱え始める。ヘンリーとレオナルドも祭司たちの後ろに跪き目を閉じた。
儀式が終わると、レオナルドもエドワードの捜索に加わった。一行はまずは森のエドワードが消えた辺りを中心に探したが、エドワードの姿は影も形もなかった。望みを捨てられずに範囲を広げ、森の北の部分全体に渡り捜索したが、やはり見つからなかった。
「馬から振り落とされた拍子に、崖の下に転がり落ちたのでは?」
そう言った者がいて、崖の上からアブハン川の川辺を覗いたが、やはり、底にも見つからなかった。どこにもエドワードは見つからなかった。憔悴した様子のヘンリーにブレアが話しかけた。
「もしかしたら、崖を転がり川の流れに落ち込み、川下に流されたのかもしれません。」
一行は夕暮れからは松明を持って川の流れに沿って捜索を続けた。
一方、ヒューはあの後、主の住処へと赴いた。主の住処はブレアの森から東のモンブレアの方へと深く入り込んだところにあった。大きな木の根元にぽっかりと穴が空いている。外から見るとなんのことはない小さな穴なのだが、中に入ると、驚くほど大きな空間になっていた。その穴の入り口の脇に誰かが何か草のような物を燃やした跡がある。遠くからでもつんとした強い香りが漂ってくる。迷うことはない、この臭いはトゥルウィードの葉だ。一般的に燃やして虫除けに使われる草で、独特の強い香りがする。少量で効果があるので人間からは重宝されている物だ。が、人間より嗅覚のするどい犬や獣たちにとってはたまらない臭いである。少量でも強い臭いのする物だ。それをこんなに集めて燃やされては、たまったものではないだろう。
(見ろ。今でも、こんなにひどい臭いがする。鼻が曲がりそうだ。)
主は腹立たしくてたまらないようだった。ヒューはまず、懐から清潔な白い布を取り出すと、自分の鼻と口もとを抑え、その草の前にしゃがみこんだ。こうしなければ、ヒューでも吐いてしまいそうだ。少し考えてから、その燃えかすを少し脇へ避けた。それから、ヒューは懐に手を入れるとそこから白くて薄い紙で包まれてた物を取り出した。
(何だそれは?)
離れたところから、バルが尋ねた。
「ただの砂です。嫌な物を燃やし、跡形もなく消し去ってくれる重宝なね。」
(お前は術を使うのか?最近では珍しいな。道理で、わしの言葉が分かるわけだ。)
バルは鼻をならした。
ヒューは紙をひらくと、その中にある砂をほんのわずか握り、静かに草の上にかけた。ぽっと青い炎があがり、みるみるトゥルウィードを包み込んでいく。ヒューはその青い炎をじっと見ながら、注意深くもうひとつまみ砂をつまむと、ふりかけた。炎が大きくなった。煙の出ない不思議な火で、まもなく消え去った。跡には燃えカスが残らなかった。バルがおずおずと前に出て、ふごふごと鼻を動かした。
「まだ、空気中に臭いが残っていますよ。さて、中にお邪魔しますよ。」
ヒューは穴をくぐった。中に入ると、今度は砂を一掴み高く持ち上げると、そこからぱらぱらと落とした。砂は空中で青い炎をなり、地面に落ちてもしばらく燃え続けた。少しずつ位置を変えて、同じことを繰り返す。紙包みの中の砂はとうとう全て使いきってしまった。
「いかがですか?まだ臭うでしょうか。」
バルは中に入ってきた。
(驚いた。あのにおいが消えた。あんなに強い臭いだったのに…。)
バルは辺りをぐるぐると歩き回った。バルが動くと、あたりがずしんずしんと揺れた。最後に、バルは片隅へいくと、どしんと音を立てて、床に座り込んだ。満足そうに鼻をならしている。ヒューはそれを見ると、お辞儀をして、出口へと向かう。
「それでは、わたしは失礼いたしますよ。」
(待て。もうひとつ約束があるだろう。)
ヒューが振り向くと、バルが視線をひたとこちらに向けていた。
(覚えていたか…。やれやれ。)
ヒューはため息をついた。
(わしの住処を台無しにした人間を連れて来い。)
バルは森の主となっても、所詮はバルだ。単純な性格なので、歩いているうちにその約束を忘れてしまうのでは、と期待していたのだが、そうはいかなかったらしい。
「連れて来たら、どうされるおつもりで?」
(そんなことはお前に言う必要はない。お前はただ連れてくればいいのだ。)
バルはいらいらとして言った。
「かしこまりました。」
ヒューはもう一度ていねいに頭を下げて、穴を出た。
(もし約束を果たさねば、この森に踏み入る人間に禍をなすぞ。)
背中に声が聞こえた。ヒューはしゃがみこむと穴の脇にさきほど念のために燃やさずに残しておいた燃えかすを、ふところの紙包みにつつんで立ち上がった。
ヒューはあの時、興奮した森の主をあの場から立ち去らせるために、その人間を連れてくるなどと言ったが、言ったときからもともとそんなつもりはなかった。そこで、いったん他の王宮の者には気づかれないようにこっそりと森を出た。近くの街で馬を求めてケンソルブリーへと戻ると、大急ぎで人型を用意した。人型と言っても、六歳の子どもの身長ぐらいの長さの香木だ。術士が誰かに呪術をかけるために使うものである。夜になるのを待つと、ヒューは再びブレウの森に向けて馬を走らせた。
一人で森の奥まで迷わずに行けるか心配だった。案の定重い香木を抱えて困っていると、ふいに目の前に白いぼんやりとした小さな光が現れた。ひらひらと飛んできたそれを初めは輝く蝶だと思っていた。ところが、もう少し近づいて来ておどろいた。小さな顔と体がついている。
(ニンフか・・・。)
話に聞いたことはあったが、見たのは初めてであった。そのニンフはヒューが自分に気がついたのを確かめてから、ゆっくりと前に飛び始めた。
(道案内をしてくれるのかな・・・。)
ヒューは後をついて行った。主の住処に着くと、主はヒューを待っていた。
(連れて来たか・・・。)
「はい、ここにおります。」
バルは目があまりよくない。闇夜ではほとんど何も見えない。ヒューが香木を地面に横たわらせると、うすぼんやりと白い物が置かれたようにしか見えない。
(どこだ?そいつのにおいもしないし、気配もしないぞ・・・。)
「今、薬で眠らせているのです。」
ヒューはバルと話しながら、素早く手を動かした。昼間に取っておいたトゥルウィードの燃えかすを香木の上に置くと、右手でさっと香木をひとなでし、両目をつぶり呪文を唱える。
(これだけの物では成功しないかもしれない。)
ヒューの意識がこの葉を置いた者へと向かって、空をかける。
(なんだ?どこだ?)
バルは、立ち上がり、ずしんずしんとヒューに近寄ってくる。先ほどのニンフが心配そうにあたりを飛び回っている。
(あと、もう少し・・・)
意識が森を抜け、真っ直ぐにバルフォルトへと向かう。アブハン川をちらりと横切る。
(なんだ?このにおい・・・)
バルが不機嫌そうに鼻をならす。今日一日悩まされたあの嫌なにおいがする。
(まだ残っていたのか・・・。)
ヒューの意識はバルフォルトの街の上を飛ぶ。その中の一つの建物にまっすぐ向かう。二階の窓を抜ける。ベッドの上に女が寝ている姿が見える。若い女だ。ヒューの意識はその少女に行き着いた。
すると、その香木が一瞬光った。光と一緒に大気にこの場にはいない誰か別のもう一人の人間、少女の香りが漂った。目は弱いが鼻は敏感な主には、すぐに感じられた。
(このにおい!今朝かいだぞ。お前・・・。我が住処にあだなした者だな。)
バルはどしんどしんと香木に突進した。
ヒューの意識はまだその少女のところにいた。顔が見える。なめらかな白い肌、黒い髪、もっとよく見ようと意識を近づけると、ふいにその少女が目をかっと開いた。その瞬間にヒューの意識は強い力で跳ね返された。
ごほごほごほ
急激に魂が飛び込んだ衝撃で、ヒューは地面に倒れこんだ。頭が痛い。少し落ち着いてから、上半身を起こす。横を向くと、バルがさきほどの香木をめちゃめちゃにふみつけばらばらにしているのが見えた。
(思い知ったか・・・。)
最後にそういうと、満足げに鼻をならしている。ニンフが主の周りをうれしそうに飛び回っている。ヒューは横目でそれを見ると、もう一度がっくりと頭を下げた。右手で胸をおさえて、息を整える。
(あの少女が、相手側の術士だろうか・・・。)
その日、ヒューは王宮に戻らず、そのまま行方不明になった。一方、ヒューほど人の注目を浴びなかったが、王宮の近衛兵の中からその日を境にもう一人行方不明になった者がいる。
東の宮勤務、テルマ・ノリスである。