4 エドワードの影
4 エドワードの影
次の日の夕方テルマが勤務を交代するために東の宮の駐屯所へ行くと、同僚に声をかけられた。
「おい、お前に伝言だってさ。」
手に紙片を持っている。軽い気持ちで受け取った。村の誰かかと思ったのだ。
「妹だってさぁ。お前、妹なんていたのか?」
テルマは同僚を軽くにらんだ。
「読んだのか?」
「いや、ちらりと見えちゃってね。美人か?紹介しろよ。」
テルマは無視して外へ出た。
(何の冗談だ。妹なんて…。)
紙片には、時間とバルフォルトの街中にある衛兵が好んで立ち寄る居酒屋の名前が書いてあった。テルマは妙だな、と思った。村の誰かが用があって、自分に妹名義でメモを渡したのだと思う。だけど、こんな目立つ場所を指定するなんておかしい。
時間より少し遅れて店に入った。店を見回したが、知っている顔がいない。テーブルにつくとエールを注文した。しばらくしても誰も来ない。もともとこのような人目につく場所をケンソルブリーの人間が選ぶはずはない。
(やはり、誰かに呼び出されたのか…。)
何のために?
なんとなく一昨日術を使ってエドワードに近づいた者の存在が思い浮かぶ。一昨日は少女の治療だけをして慌しくその場を離れたので詳しい事情を聞いていないが、あの時あの場にもう一人いた。
エドワードがその者を追おうとしたのをテルマが止めた。
それが父だったのではないか。
そして、どうにかして自分の存在をつきとめ、『妹』などと言って自分を呼び出したのではないか。
衛兵の駐屯所にはときどき家族や恋人が来る。恋人の娘はからかわれるのを嫌がって、よく『妹』などというものだ。父はそんな王宮の習慣を知っていたのだろうか?
(でも、おかしいな…。言伝をした人間は、自分で駐屯所に来ているはずだ。男である父が『妹より』などとわざわざ書くだろうか?不自然だ。もっとも『父より』などと書けば自分が警戒する。)
少し混乱してきた。じゃあ、誰が言伝を駐屯所に渡したのだろう。
ふと、壁にかけてある時計を見た。いつの間にかここへ来て二十分ほど過ぎている。
テルマは残りを一気に飲み干すと硬貨をテーブルに置き、立ち上がった。
あることを思いついた。駐屯所へ行って、応対した衛兵を探してみることにしたのである。
「え?今日の午後この駐屯所で勤務してた奴?もう帰っちゃったよ。俺と交替で…。」
「じゃ、宿舎に行けば会えるか?」
「さぁ…。何か用事か?」
テルマは今日の昼間に自分を訪ねてきた娘について聞きたいのだと言った。
「妹だと名乗ったはずなんだが…。」
テルマの様子を見て受付の兵は何か勘違いしたようで、にやにやした。
「おい、お前ら、今日の昼間にここに来た娘っ子について覚えてねぇか?」
「知らねーなー。」
後ろにいた何人かの衛兵が首を振る。
テルマは西の宮の衛兵の宿舎へ行ってみることにした。敷地で会った一人の男に受付をした男の名前を言うと、部屋の番号を教えてくれた。ノックをすると、返事があった。
「君は?」
何人かの男が集まってベッドに寝転がり、シャルテ(カードゲーム)をしていた。
テルマは男の名前を言って、いないかと尋ねた。
「俺だけど?」
ベッドに寝っ転がっていた男が立ち上がる。
「実は、ちょっと聞きたいことがあるんだが…。」
「何だい?」
親切そうなやつに見えた。
「実は今日の昼に俺を訪ねてきた者がいるはずなんだが…。駐屯所のやつに聞いたら、あなたが応対したと言われて…。」
「君は?」
「テルマ・ノリス、東の宮勤務だ。」
「ああ、ああ、覚えてるよ。妹だって言ってたあの娘だろ。」
「女…だったのか?」
男は変な顔をした。
「なんだ。やっぱり妹じゃなかったのか?でも、あれは正真正銘女の子だったぞ。」
「どんな娘だった?」
「なんだ、なんだ。彼女がいっぱいいすぎて、どの娘かわかんないのか~?」
後ろで話を聞いていた男が揶揄を入れる。受付の男も少し笑った。
「結構若い子さ。髪が黒くて……、思い出した?」
「背はどのくらいだった?」
「君の肩ぐらいかな…。」
男は手で示して見せた。
「そうか…。ありがとう。」
男はぽんとテルマの肩をたたくと、にこりと笑った。
「あんまり泣かせるなよ。」
(一体、誰だ?あの男には誰か協力者がいるのか?)
エドガーが村からいなくなったとき、テルマはわずか六歳だった。エドガーの記憶は曖昧だ。顔さえはっきり覚えていない。
(今更、戻ってくるなんて…。一体何をしようとしているんだ。)
もう一度エドワードとあの少女に会って、襲われた時の様子を詳しく聞かなければならない。テルマは、東の宮の方へ歩き出した。
少女を東の宮へと運び込んだとき、側近のストレーチには蛇にかまれたようだとだけ言い、エドワードの身代わりになったようだとは知らせなかった。邸の使用人を呼び、部屋へと落ち着かせるとストレーチが慌てて来て言った。
「エドワード様、このように各地の代表が集まっているような時期に、こんな身元のはっきりしない娘を王子の宮で治療するなんてもってのほかです。西の宮の療養所へ移しましょう。」
「だめだ。」
エドワードは譲らなかった。西の宮の療養所には他にもたくさんの医術士がいる。テルマがしてみせたような術の治療はできない。
「人の命がかかっているんだぞ。死ぬかもしれない病人をお前は、あっちこっちと移動させるというのか。」
「しかし・・・」
「この服装を見ろ。この娘は侍女や小間使いじゃないぞ。公爵か伯爵の娘だ。身分の高い娘をこちらの手違いで死なせたとあると、いろいろと後が面倒だろう?」
側近は眉を寄せ、しばらく黙って考えた。
「そこまでおっしゃるのであれば、しょうがありませんが…。容態が安定するまでですぞ。安定すれば、必ず出て行ってもらいます。」
エドワードはため息をついた。
「お前の好きにしろ。」
テルマと名乗ったあの男が指名した医術士を呼んだ。ウィリー・オーデンという名前のまだ若い男だった。王室付きの医術士の端くれらしい。
ウィリーは少女の寝ている部屋に入ってきて、エドワードにきちんと礼をした。エドワードは小間使いを下がらせた。
「エドワード様、テルマから事情は聞いております。術を使われて傷を負ったとのこと。」
「本当に狙われたのはわたしかもしれない。この子は身代わりだ。」
「そのことは今テルマとわたくししか存じません。どうか他の方にはもらしませんよう。」
「この子は助かるのか?」
「拝見しましょう。」
ウィリーは少女の下まぶたをおさえ白目を見た。顎や首筋を軽く押さえ、次に左手首を持ち上げて脈を診た。手の爪の色を見た。左胸に耳を軽く当て心音を聞いた。
「蛇にかまれたのは、左の足ですか?」
「そうだ。」
キルトを持ち上げて、くるぶしを見た。巻いてあった包帯をはずす。小さな真っ黒な毒々しい2つの穴があらわになる。穴の周りの皮膚は嫌な紫色に変色している。
エドワードは少しぞっとした。
「たしかに、これは普通の蛇ではありませんね。」
「見ただけで分かるのか。」
「わたしはこういう傷を見慣れていますから。普通の医術士には分からないかもしれませんが…。」
「お前もやつの、あのテルマの仲間なのか?」
エドワードは気になっていたことを聞いた。ウィリーはなぜかむっとした顔をした。
「仲間、ですか……。仲間と言いますか、わたしとテルマは同じ一族の者です。」
「お前も術を使うのか?」
ウィリーは静かにこちらを見て頷いた。
「テルマはまだ詳しいことを話していないんですね。口で説明するよりもお見せしたほうがはやい。」
ウィリーはポケットから小瓶を出した。緑色に光り輝く液体が入っている。額に指をあてごにょごにょと何かをつぶやく。その後コルクを抜いて静かにゆっくりとその中の一滴をくるぶしの穴の上にたらした。すると、液体はくるぶしに落ちてゆっくりとまるで生きているかのように動きながら広がり、きらきらと力強く輝きだした。徐々にその輝きが体の中に沈みこみ入り込んでいく。そして、少しずつ少しずつ輝きが弱くなり消えた。輝きが消えた後、傷跡の周りの皮膚の不気味な紫色が消えていた。
「この術者が使った毒は完全に外へ出すために時間がかかる。大半はテルマが外へ出しましたが、全部ではないのです。毒はまだしつこく彼女の体の中に残っている。そして、増殖するのです。一度ではすべてを外に出すことはできません。毎日こうやって特別な薬液を落として、毒を無効化するしかないのです。」
「治るのか?」
「本来なら1週間ほどで…。ですが、念のために2週間は治療を続けるべきかと。万一毒が少しでも残っていればやがて命に関わるものですから。」
「そういう治療は普通の医者ではできないのか?」
「特別な薬液とそれを扱う能力が必要です。もっとも我ら一族の者にとっては、この治療自体は難しいことではないのです。問題はわたしがこういった術を使えるということを秘密にしなければならないことで……。」
「お前たちの一族とはいったい何のことだ?」
「詳しい話はいずれテルマのほうからいたしますので…。」
ウィリーは再び丁寧に頭を下げた。エドワードは質問を変えた。
「術を使える者は少ないのだろう?」
「一般的には少ないです。」
「ならばこの度この少女を襲ったのは、お前の一族ではないのか?」
「それは全くの誤解です。」
「ではどこの誰だ?そいつは俺を狙ったのだろう?」
「それを今、テルマが調べております。」
「見当はあるのか?」
「多少は…。」
エドワードは言葉を切った。
傍らの椅子にどさりと腰掛ける。
いろいろな話を聞き、緊張した1日を過ごし、少し疲れたようだ。
こめかみを指で軽く揉む。
エミリアは宮殿の庭園の中でけがをして、そこから一番近かったエドワード王子の邸に運ばれた。王子の側近のストレーチが自ら西の宮のゲストルームを回り、姿が見えない娘がいないか聞いて回った。その頃、ちょうど街で買い物を終えて帰ってきていたジーンが、サンドラとパティからエミリアがいなくなったと聞いて大騒ぎをしているところだった。ストレーチが東の宮に運ばれた娘の様子を話して聞かせると、ジーンは真っ青になった。エミリアに違いない。
ジーンはストレーチに連れられて、普段は入ることが許されない王家の中庭をつっきり、東の宮へとやってきた。いつもは憎まれ口をたたくジーンも、エミリアが真っ青な顔をして寝ている様子を見た時ばかりは言葉を失い、ショックで動転した。
これは夢であってくれという言葉がぐるぐると頭を回り、ひたすら神に祈った。頭の片隅には、もしも、もしも妹が死ぬようなことがあったら、父になんと言えばいいのかというような考えもあった。末っ子を溺愛している父と母が、このことを知ったらどんなに悲しむか。
エミリアの看病にあたっていたのは、オーデンというまだ若い医師だった。
「安静にしていれば、命の心配はありません。」
この男は辛抱強くジーンに説明を繰り返したが、心神喪失状態の彼女にはうまく伝わらなかったようで、彼女の不吉な想像は止まらなかった。
次の日の早朝、いろいろと考え悩み疲れたジーンが椅子にかけたまま妹のベッドに上半身をうつぶせにして少しうとうととしていたとき、エミリアは目を覚ました。
知らない部屋に寝かされている自分に驚いたが、傍らに姉がいるのを見て安心した。
「姉さん。」
かすれた声に気がついて、ジーンは目を覚ました。
「姉さん、ここどこ?」
ジーンはがばりとエミリアの肩を抱いて、安心と脱力のあまり泣き出してしまった。何が何だか分からないままに抱きしめられて、エミリアは肩が姉の温かい涙で濡れていくのをぼんやりと感じていた。
しかし、その次の日にはジーンはいつもの彼女に戻っていた。
「あんたもなかなか役に立ったわ。」
ジーンはにんまりと笑った。
(ああ、この人にも姉らしい感情があったんだと思ったのにねぇ。)
エミリアは心の中で思った。
温められたミルクやスープを口にしたりして、頬にわずかながら赤みが差してきていた。
「ほんと、こんなチャンスが巡ってくるなんて。」
今、新年の儀でこの王都にはたくさんの貴族の娘が集まっている。5つの公爵家の娘たちと数え切れない伯爵家の娘たちである。これだけの貴族の娘たちが、舞踏会や音楽会、乗馬の催しなどの折りに我こそと皇太子に話しかけている。だが、エドワード王子はどうも女性が苦手らしい。貴族の男性とはにこやかにお話しをされるが、女性がお近づきにと近寄ると、何かと理由をつけては逃げてしまい取り付く島もない。
そんな状況下でエミリアがけがをして、エドワードの宮に運ばれた。絶対安静で動かせられないという。こんなことがなければ、王族しか足を踏み入れることを許されないこの宮に入ることさえ叶わなかった。
これを幸運と呼ばずに何と呼ぼう。
ジーンは大真面目な顔をしてもう一度言った。
「ほんと、あんたのおかげよ。」
妹のけががきっかけで王子と運命の出会いをする妄想がジーンの頭の中でくるくると回っている。いそいそと鏡を見て、化粧を直し、髪型を直す。
そのうち、エドワードが妹の様子を見に部屋に入ってくると思っているのだ。
エミリアはそんな姉を盛りのついた馬のようだと思う。鼻息が荒い、浅ましいなぁ。
トントン
ノックの音がした。姉が椅子に座ったままぴょんと飛び上がった。
扉を開けようとするパティを押しのけて、ジーン自らが扉を開けた。
ところが、そんな姉の思惑に反して、部屋に入ってきたのは側近のストレーチだった。
ストレーチはビール樽のように太った背の低い小男で、ふざけたひげをしていた。
「早朝、目をお覚ましになったとオーデンから聞きましたが、ご加減はいかがかな。トランサル公のご息女、エミリア様でしたな。」
そつなくていねいな話し方だが、親しみのようなものは感じられない。態度はこちらを見下しているようになんとなく感じられた。今度はジーンに向かい、
「こちら様は、トランサル公のご長女のジーン様とお見受けしましたが……。」
「いかにも。」
姉は精一杯そっくり返って言った。なんだか二人は似ているなとエミリアは思った。
「昨夜はそちら様も妹君が倒れられて、ご心配でしたでしょう。」
「ええ、とても心配で、寝られませんでしたわ。」
「ですが、幸いにもこうして目を覚まされた。オーデンの話によると、これから一週間ほどは安静にしなければならないが、容態も安定され特に心配はないだろうとのことです。」
おおっほん!
ここでひげ側近は咳払いを一つした。
「そちら様もご安心ですな。ところで申し上げにくいが、ここは恐れ多くもエドワード様の宮でございます。本来であれば臣下の身では、足を踏み入れることも許されない場所。それをこのたびはエドワード様の温情で特別にエミリア様と姉上のジーン様のご滞在を許されたわけで……」
臣下という言葉でプライドの高い姉の眉がぴくりと動いた。表情がみるみる曇る。
「妹様の容態が安定された今、看病は私どもとオーデンが責任を持って引き受けるので、どうかジーン様にはこちらでご用意させていただいた西の宮へとお戻り願いたい。」
「おっしゃることはごもっともですけれど、この子はまだ子どもです。1人でおいておいては不安でしょうし、何かそちら様に失礼なことをしないとも限りませんし……。」
先ほどのそっくり返った態度を改め、今度はとても殊勝な様子。妹を本当に心配している優しく美しく気品のある女性の様子だ。
「いえ、そのようなご心配は要りません。こちらにはエドワード様のお世話をするために、十分な使用人が揃っております。トランサル公のご息女に窮屈な思いは決してさせません。ご安心ください。」
姉は今きれいな顔の下で、心の中では悪態をついているに違いない。
「では、せめて戻る前に一言エドワード様にお礼のご挨拶を申し上げたいのですが・・・」
ジーンはもう一度、優しく美しく気品のある女性の様子で言った。
「そちら様のお気持ちはありがたいのですが、エドワード様は本日は公用で夜まではお戻りになられないのです。御礼を申し上げたいとおっしゃるのであれば、別の日にこちらではなく城の方でお会いする時間をお取りしますので、今日のところは・・・」
ひげ側近はうやうやしくお辞儀をした。姉は、扇を取り出し、広げると、ふわりと口もとを隠した。扇子を持っている手が少し震えている。
「分かりましたわ。」
エミリアの様子を見に来たオーデン先生とひげ側近は中庭の回廊ですれ違った。
「いや、油断のならない女狐をぎゃふんと言わせてやったよ。」
そんなことを言ってストレーチはうれしそうに離れていった。
ウィリーはひげ側近の後姿をしばらく眺めていた。何を言っているのかさっぱりわからなかったが、おそらく大したことではないだろうと思い直し、先を急ぐ。
(負け犬がしっぽを足と足の間にはさんで、ぎゃふんって様子だわ。)
心の中で皮肉を言っても、気持ちが晴れなかった。姉がかわいそうだ。側近の態度は失礼だった。
(公爵家の娘は、王家の人に一目会うこともかなわないほど身分が低いの??)
はっきりと『臣下の身』と言われたことがひっかかっている。『臣下の身』だからこそ、年初めにはわざわざ都にご機嫌伺いに来るわけだが、偉いのは王室の人たちで、側近ではないはずだ。どうして、側近までもがあんなに威張っているのだろう。姉だけでなく自分も、父も母もあのひげ側近にばかにされたような気になってくる。
やがて、兄のクレイグがジーンを迎えに来た。クレイグはエミリアの顔をちらりとだけ見てにっこりした。しばらく物珍しそうに部屋の調度などを眺めていたが、あまり長居してもまずいと思ったのか、元気のないジーンの手を取って、帰っていった。
「失礼のないようにするんだぞ。お前が何か問題を起こすと、困るのは僕なんだから。」
帰り際に釘をさされた。
(失礼もなにも、会えっこないから、問題なんか起こしようがないですよーだ。)
どうして兄も姉もエミリアをいつまでも小さい子どものように扱うのだろう。
「ねぇ、オーデン先生。」
診察のときにエミリアはウィリーに話しかけた。
「はい。」
「エドワード様ってどんな人?」
「さぁ…」
「さぁって、知らないの?だって、エドワード様の医術士なんでしょ?」
オーデン先生は、苦笑した。
「わたしはそのような偉い医術士じゃないのですよ、エミリア様。今回はちょっと知り合いに頼まれましてお世話をさせていただいておりますが、普段であればエドワード様やエミリア様にはお会いすることもできないような身分なんです。」
ウィリーがエドワードだけでなくちゃんとエミリアの名前も並べてくれたので、少し気分をよくした。
「さあ、お薬の時間ですよ。」
失礼しますと言ってウィリーの片腕が頭をささえ、片腕が背中をささえる。ゆっくりと上体を起こされる。薄い寝衣を通して、若い男の手の平の感触が伝わる。そしらぬ顔をするのに苦労する。ウィリーはエミリアが自分を意識していることに気がつかない。半透明の紙に包まれた薬と、水を差しだす。
エミリアは、おとなしく薬を飲んだ。
「体が熱っぽいとか、息が苦しいとかいうことはありませんか。」
「ありません。」
「食欲は?」
「あまり。ごはんを食べようとすると、ちょっとうっとする。」
「そうですか。」
失礼しますと言ってから、ウィリーは両手を取った。爪の色を調べているらしい。
「口を開けて」
ウィリーは注意深く中を覗く。
「もういいですよ。」
エミリアは口を閉じた。ウィリーの両手がこめかみの辺りを押さえ、次に顎や首のつけねを軽く押さえた。
「押されて痛いところはない?」
「いいえ。」
次に下まぶたを押さえて、白目をチェックする。
「じゃあ、もう一度横になってくれるかな。」
(ああ、また、心音を聞くのかな。)
知らず知らずのうちに体がちょっと硬くなる。ウィリーの指が、胸元のリボンをほどき、広げる。エミリアは軽く目を閉じる。ウィリーが片耳を左胸、心臓の上に当てる。柔らかい髪の感触がエミリアに伝わる。
「はい、もういいですよ。」
エミリアはもぞもぞと胸元のリボンをもとに戻した。ウィリーは窓辺に行って、カーテンを引いた。部屋がうっすらと暗くなる。
「それじゃ、目を閉じて、ゆっくり休んでください。」
エミリアが軽い寝息を立てるまで、ウィリーは傍らの椅子に座って待っていた。先ほどの薬は実は怪我のための薬ではなく、睡眠を誘う薬だった。ウィリーはおもむろに立ちエミリアが完全に眠っているのを確かめると、ベッドの傍らで右手の指を額に当て、ごにょごにょとなにやらつぶやき出した。指先がうすぼんやりとした青白い光に包まれる。ウィリーはその指をゆっくりと静かにエミリアの左胸にあてた。そこから静かにゆっくりと頭の方へと体をなぞる。なぞられた部分も青く光り始める。次は左胸から左腕へ、左胸から右腕へ、腹部へ腹部から左足、右足へとなぞった。左手の辺りに黒いよどみがみられる。ウィリーはポケットから小さい小瓶を取り出した。緑色に輝く液体が入っている。それを黒いよどみの辺りに注意深く一滴たらした。液体は手の上でゆっくりと広がり、きらきらと輝き出した。そしてその輝きが少しずつ体の中に沈みこみ、次第に輝きが小さくなり消えた。輝きが消えると、左手に見えたよどみも消え、他の部分と同じように青白い光を放っていた。
ウィリーは、また指を額に当て、今度は右足から腹部、左足から腹部、腹部から左胸と、最初とは逆の手順に体をなぞっていく。それとともに、うすぼんやりとした光も消えた。すべてが終わると、ウィリーは深く息をついた。それから、部屋を出た。
エドワードはその日の夜、自室のバルコニーから星を見ていた。
冬の冷たい空気が彼の全身を包んだ。彼はその冷たい空気が好きだった。身も心も清められるような気がするから。バルコニーからはあの日少女を運び込んだ客室が、右下の方向に少し離れて見える。あの少女はトランサル公の娘だったらしい。
運びこまれてから、3日が過ぎていた。
(本当にかわいそうなことをした。)
屋敷に運び込み、ベッドの上で昏睡していた少女の様子を思い出す。まだほんの小さな子どもに見えた。そして、少女のことを思い出すと、自然に自分の命が狙われたことを思い出した。
王族などに生まれると、親子間や兄弟間での毒殺、暗殺など珍しいことではない。
エドワードは物心がつくと同時に、ギディオンから始まるブラスト家の歴史について繰り返し、繰り返し習う。でも、教師は公では語られない王室の陰の話については語らない。王家に対する不敬となるからだ。しかし、長く王宮にいると少しずつ少しずつそういう裏の話も耳に入るようになる。
エドワードの乳母は心の優しい女性だったが、時々人が変わったようにそういう王家の呪いに満ちた話を口にした。乳母に抱きかかえられながら、幼いエドワードは怯えた。話の内容と乳母のいつもとは違うひきつった表情に…。
「エドワード様はお母様がいらっしゃいませんから心配です。どうかお気をつけになって。アデル様に…。」
エドワードにしか聞こえないような小さな声でそうささやき、義母の名前を口にした。
エドワードはいつもは優しい乳母が、何かに憑かれたようにこういう話をする瞬間が嫌いだった。そして、最後に必ずといっていいほど義母の名前を出すことが…。だが、乳母はその瞬間を過ぎればいつもの乳母に戻った。エドワードはほっとして、今までの瞬間が悪い夢だったような気になりその記憶を頭の奥に閉じ込めた。
乳母はエドワードが大きくなると、東の宮から消えた。
その時のことを、最近よく思い出す。
自分の命が狙われている。腹のあたりがぐっと重くなる。エドワードはできるだけ考えないようにしていた。はっきりした証拠が出るまでは、義母のアデルが自分に殺意を抱いているなど認めたくなかったのだ。
王宮の中の大人たちは、表面上は皆従順だ。国は何事もなく治まっている。だが、裏でどう思い、何を言っているかなんてわかりはしない。
エドワードは暗い気持ちになった。
誰も信じられない。
権力が集まるところで、生きるということはそういうことだ。人の上に立つものが、人から常に尊敬されるとは限らない。時には殺したいほどに憎まれる。
そういうこともあるのだと知り、冷静に受け止め、殺されないために自分は相手を先に殺すことを考えるべきなのだろう。
だが、そこまでして、自分は王座に座りたいのだろうか。
ときどき、そんなことさえ考えることもあった。
(お義母様はそこまで弟を王座につけたいのか…。思ってくれる母がいて、レオナルドは幸せだな…。)
にゃー
猫の鳴き声に思考を遮られた。
バルコニーの下の方に目を向けると、がさがさと木立ちを揺らす音がして真っ黒な猫がバルコニーに飛び移ってきた。ここらへんで見かけたことのない猫だったが、誰かの飼い猫らしく毛並みはつやつやとしており、赤い皮の首輪をしていた。
にゃー
もう一度鳴いた。きれいな緑色の目をしていた。じっとこちらを見ている。
なんだか変な様子だ。まるで何かを言いたそうな様子。こちらもじっと見て気がついた。首輪に何かはさまっている。
「よしよし。」
片手で撫でながらさぐると、小さな紙片が出てきた。
『少女を治療した場所で待っております。お話ししたいことがあり。お越しあれ。テルマ』
それしか書いていなかった。そして、手にして読み終わるか終わらないかのときに、青い炎がぽっと立ち上がり紙片を包んだ。驚き、思わず取り落とした。足下でそれは跡形もなく燃えてしまった。手は不思議と熱くなかった。
(これだけでは、お前が本物かどうか分からないではないか。)
ただでさえ命が狙われていると言われ警戒しているときに、わざわざ邸の外に夜に呼び出すなんて気が利かないやつだ。
にゃー
猫はエドワードを見て鳴いた。まるで急かしているようだ。
「お前も一緒に行くのか?」
にゃー
(やれやれ。まあ、どうにでもなるさ。)
外套は羽織らずに腰に軽いサーベルを下げた。正面から出ると目立つので、バルコニーから木を伝って降りる。猫もついて来る。
「おい、ちょっと待て。先にこっちだ。」
地面につくと小声で猫を呼ぶ。頭の上には月が出ている。皆が寝るまでにまだ少し間がある。冷えた空気の中に部屋着のままで出てきたので、凍えそうだ。
厩に回り、そっと扉を開ける。うす暗い中に、邸の馬が何頭か浮かびあがる。吐く息が白い。薄明かりの中にエドワードを見つけて、愛馬のエリプスが喜んで足をぱかぱかとならす。
「静かにしろ。」
馬に向かって言う。エリプスの優しい目がエドワードを見ている。エドワードは月灯りで壁際にかかっている馬丁の外套をはずしてはおった。帽子もはずして被る。ひどい臭いがしたが、これで誰が見かけても自分には見えないだろうと満足した。
「明日、乗ってやるからな。今日は寝ろ。」
去り際にエリプスの鼻面をすこしなでてやる。エリプスは嬉しそうに鼻をならした。
外へ出て裏庭を足音を立てないようにひっそりと猫と並んで歩く。裏門はがっちりとしまっており、そこには門番がいる。灯りもある。するとまるで案内をするかのように、猫がするすると裏門の左手の木立ちへと入っていく。明かりが届かないところまで来ると、塀にひょいっと上って振り向きざまにこちらを見る。
(ついてこいってことか。やれやれ。)
塀を越えて、木立ちの中を歩く。静かな夜だ。周りには誰もいない。
小屋につくとテルマが小屋の外に立っていた。テルマの姿を認めると、猫が駆け寄って甘えたようにテルマの足に身をすりよせている。
「ありがとう。もういいぞ。行け。」
猫は小さく一声鳴くと、去って行った。
「わざわざお呼びたてして申しわけございません。」
「お前の名を語った別人だったらどうしようかと思ったよ。」
「申しわけございません。」
小屋の前に立つと池の湖畔が月の光に照らされて、きらきらと光るのが見えた。
「それで、今日はお前たちの話をしてくれるわけか?あの医術士も仲間なんだろ?」
「ウィリーのことですか?そういえばあの少女はどうなりましたか?」
エドワードは立ったまま木にもたれかかり腕を組んだ。
「あの娘はトランサルの公爵の娘だったよ。やっぱり侍女じゃなかったな。」
「容態は?」
「たぶんなんともないだろう。お前のおかげだな。」
テルマはほっとした顔をした。
「話をはぐらかすな。お前のことについて話す約束だ。お前の一族というのは何だ?」
「少し長い話になります。誰かに見られると面倒ですから…。」
テルマはエドワードを小屋の中に入れた。エドワードは右手で持ってきたサーベルをそっとなでた。まだ完全にこの男を信頼したわけではない。
テルマはエドーワードのそんな様子を知ってか知らずか小屋に足を踏み入れると、椅子の代わりに木箱をエドワードに差し出し、自分も適当な所に腰をおろした。
「王子は大臣のブレア・ローリーという者をご存知ですか?」
「ローリーの家はギディオン王の頃からの旧家ではないか。もちろん知っている。」
「では、ローリーの一族が二つの家系に分かれていることをご存知ですか?」
テルマが小屋のドアを閉めなかったので開いたドアから差し込んだ月光がテルマの顔を青白く照らしていた。
「聞いたことないな。初耳だ。」
テルマはエドワードにケンソルブリーの成り立ちについて説明した。
ただし、王となる者の傍らに青い影が見えるということと、影が見えると古い王が病気になり、位を譲ることになるという話はふせた。
「わたしもウィリーもその一族の生まれなのです。」
エドワードは驚いた。生まれてから今まで王家に陰から仕える一族がいるなどと、聞いたことはなかった。
「ということは父上にもそういう者がいるということか?」
「はい。ヘンリー様にも1人、我々の一族の者が仕えております。」
「誰だ?」
テルマはじっとエドワードの目を見た。
「エドワード様、実の息子のエドワード様にも、ヘンリー様についている従者の名前は明かせないのですよ。」
エドワードは目を丸くした。
「もうお前たちのことやお前の一族のことを知っている。それでも教えてくれないのか?」
「我々は王を守る陰の、そして最後の盾なのです。盾としての強みは常人には扱えない術を使えることだけではありません。そういう者がいるということ、そして、誰がその盾なのかということが秘密であることです。敵は我々のことを知らずに勝負をかけてくる。ここに我々の強みが最大限に生きてくるのです。」
エドワードには分かるような分からないような話だった。
「ですがもしヘンリー様とエドワード様がご自分を守っている者についてお互いに教えあい、普段から我々の動向についてお話しをされると、そういった所から秘密というものは漏れるのです。ですからヘンリー様にはわたしがエドワード様の従者であるということは秘密ですし、エドワード様にはヘンリー様の従者が誰であるかということは秘密なのです。」
「なるほど…。」
「ですから、エドワード様も間違ってもわたしの名前を他の方には教えないでください。ヘンリー様にもです。」
エドワードは、やっと合点がいった。
「ということは、お前がわたしの、その、従者だということか?」
「はい、そうです。ご挨拶が遅くなりました。テルマ・ノリスです。これから、エドワード様の影となり、御身をお守りいたします。」
テルマは片膝を地面につけてきちんと礼をした。エドワードは少し照れくさくなり、話を変えた。
「レオナルドには誰もつかないのか?」
ふと思いついたことを口にした。レオナルドはエドワードとは腹違いの弟である。テルマはゆっくり顔を挙げ、若干すまなそうな顔で言った。
「我々一族の者がお守りするのは、王と次の王だけなのです。」
エドワードは、少しレオナルドにすまない気がした。
「そう言えば俺が狙われたということについて、まだ聞いていなかったぞ。なんか防御陣がどうとか言っていたじゃないか。」
「ああ、そうでしたね。わたしは自分がエドワード様の従者として一族の中から選ばれた日から、表向きは東の宮の近衛兵となりました。」
テルマは自分が東の宮所属となった夜に宮の四方に呪術者から守る防御陣を張った話をし、それが破られた日のことを話した。
「その次の日にあのような事件が起きました。実際にけがをしたのはあの少女でしたが、あの場にエドワード様もいた。だから、本来狙われたのはエドワード様だったのだろうと考えたのです。それが何か相手側に手違いがあって、代わりに少女が術にかかってしまったのかと…。」
エドワードは難しい顔になった。
「術をかけた奴にこころあたりはあるのか?」
テルマは首を振った。
「行った術のいくつかは、我々一族には扱えないものでした。外国から来た者による仕業ではないかとうちの一族の年寄りが申しております。」
まだ十分な信頼関係がないので、余計な誤解を招きそうなエドガーのことについては伏せた。
「だが、その術者が単独で俺の命を狙うわけはないだろう?そこらへんのことは何か分からないのか?」
「はっきりした証がない以上は、私には何も…。」
言いにくいことだった。
「やはり、お義母様だろうか……。」
小さな声でつぶやいた。独り言のような形になった。
「何か分かったら、知らせてくれ。」
テルマは黙って頭を下げた。
「今日はエドワード様にもう一つ確認させていただきたいことがあったのです。」
エドワードはうつむいた顔をあげた。
「あの日襲われたときのことを詳しく教えていただきたいのです。」
「一昨日のことか・・・。」
池を月光が照らしている。冴え冴えとした夜だった。エドワードはできるだけ詳しく、あの時のことを話した。テルマは時折相槌を打ちながら話を聞いていたが、話し終わるといくつか質問をした。
「その赤い花を持ってきたのは誰ですか?」
「分からない。知らない間に置いてあった。たぶん使用人の誰かだと思う。」
「それと、青白い炎に包まれて、それで引っ張られる力が切れて、倒れて気がついたと…。その後その夢の中で見たのと同じ炎がエドワード様を誘導したんですか?」
エドワードは少し首をかしげた。
「わからないけど、俺にはそんな風に思えた。」
テルマは眉を少し寄せた。
「最後に、これが一番肝心な点なんですが、エドワード様がエミリア様が倒れたのを支えたとき、向こう側にいた誰かがつぶやいたんですね。それは男の声でしたか?女の声でしたか?」
「女だよ。」
エドワードは迷わずに言った。
(女。ここでも、女か。)
「間違いありませんか?」
テルマは念を押した。
「はっきり聞こえたからな。若い女の声だったよ。顔は見えなかったけど…。」
テルマは肩の力を抜いた。
「ありがとうございました。だいたい分かりました。」
キェーッ
闇夜に突然、鳥の声が響いた。池の対岸から向こうに向かって飛び立つ影がおぼろげに月に照らされた。
エドワードは驚いて体をびくんとさせた。
「なんだ、あれは?」
「ただの鳥ですよ。」
テルマは視線をじっと鳥の消えたほうに向けたまま言った。
「いやな鳴き声だ。」
テルマはゆっくりと立ち上がった。開け放したドアから外へと出る。
「もう、ずいぶん時間が経った。お戻りになられたほうがいい。物騒ですからそこまでお送りしましょうと言いたいところですが、わたしがエドワード様とご一緒のところが誰かの目に留まるとやっかいなのでね。」
ヒューウィッ!
低く長く口笛を吹くと、ばさばさと空から、何か舞い降りてきた。灰色の羽根に黒いぶちがところどころ、テルマの肩に止まったままくるりとこちらを向く。ぎょろりと大きな黄色い目、鋭い嘴。いつかの梟だった。
「こいつを肩に載せてお歩きください。もし何か困ったことがあれば、お助けできるはずです。」
テルマが話し終わると、ひょいっと梟が飛び上がり、ばさりと今度はエドワードの肩に止まろうとする。
「わぁっ。」
エドワードが思わず身体をよけたので、梟は上手く止まれずにばさばさとはばたきを繰り返した。
「ご安心ください。性格も温厚。きわめていいやつですよ。」
エドワードは右肩に梟をおっかなびっくり載せてみた。
緊張で体がかちこちになっている。
「エドワード様は、動物が苦手ですか?」
テルマが笑いをこらえて言った。