3 見知らぬ女の影
3 見知らぬ女の影
意識が戻ると、エドワードはなぜか外の地面の上に倒れていた。そこはどこかの林の中だった。見たことがある気がするので城内のどこかなのだろう。周囲を見渡していると、ふいに斜め前のほうでぼうっと青い炎のようなものが浮かび上がった。
(さっきのやつだ。)
炎はあっと思うまに消えてしまった。エドワードは立ち上がり、そちらのほうに進んだ。体がふらふらする。またちょっと前のほうでぼうっと炎が浮かび上がる。
(まるで僕を呼んでいるようだ。)
エドワードは素直にその炎に従う。しばらくそのようにして進むと、前方に木立が開けたところが見えてくる。
(誰かいる。女の子だ。)
少女の横顔が目に入る。腰まで届きそうなふわふわとした髪。ふっくらとした頬。様子がおかしい。顔が何かにおびえたようにひきつっている。
「キャー」
空気を切り裂くような甲高い悲鳴を上げたかと思うと、彼女はどさりと地面に倒れこんだ。慌ててかけよって抱きかかえる。
その時、近くでだれかがつぶやいた。女の声だった。
「あれ?違う。おかしいな。間違えた。」
たしかにそう言った。
「誰だ!」
エドワードは周りを見渡した。前方でがさがさと音がして誰かが立ち去ろうとしているようだった。
「待て!」
ちらりと後姿が見えた。立ち上がり追いかけようとして、一瞬躊躇した。倒れたこの子をほっていけない。
「およしなさい。」
ふいに背後で声がする。驚いて振り返ると、頭からすっぽりとフードのついたマントを着た背の高い細い男が立っている。
「追いかけてはいけない。あれは、あなたの命を狙っているのですよ。」
「お前は?」
目が自然に鋭くなる。片手で少女を抱えたまま片手で素早く武器になるものを探す。
「ご安心を。王室の警護の者です。エドワード様。」
男はマントの中の制服を見せた。たしかに衛兵の制服を着ている。しかし、このタイミングで現れるのは妙だった。
「俺はお前の顔など見たことはないがな。」
そばにあった石の塊を握りしめながら、相手を睨みつけた。
「最近、東の宮所属になったばかりですので…。」
「どうして都合よく通りかかったんだ?」
「それは、その…。」
「後でもつけていたのか。さっき逃げたやつとぐるなんじゃないのか。」
しばらく、沈黙がある。
「東の宮の周りを警備している際に、エドワード様がお一人で歩いていかれるのを見かけまして、不審に思い後をつけさせてもらったのです。」
「そんなことを信じろというのか。」
「そう言われましても・・・。」
「お前は、さっき、『あれは、あなたの命を狙っている』と言ったではないか。どうして、そんなことを言ったのだ。まるで、あの賊のことを知っているようだったではないか。」
エドワードの腕の中で、少女がうめき声をあげる。はっと視線をおろすと、顔が青ざめ、呼吸が荒い。男が慌てて、一歩前に踏み出す。
「動くな。」
鋭い声が発せられた。エドワードが再び、男を睨みつけている。
「お前、何か武器を持っているか。」
男は黙って、腰からダガーをはずし、見せる。
「こちらによこせ。」
男はその場から動かずに、ダガーをベルトごと投げた。エドワードは視線を男に向けたまま、ゆっくりと少女を地面に寝かせると、手探りでダガーを引き寄せた。持ち上げて立ち上がり、少し後ろに下がる。男が少女に近寄り、覗きこむ。頭、顔、首筋、両腕、体、上から順に視線をすべらし、左のくるぶしで止まった。
「何かにかまれたようですね。」
「蛇か?」
男はうなずく。
「毒蛇です。」
「どうしてそんな物が・・・。」
「誰かが、持ち込んだのでしょう。」
男は、唇を少女のくるぶしにあてると、血を吸出して、ぺっと脇に吐き出した。幾度が繰り返したのちに、今度は少女の手首をとり、右手の人差し指と中指をそっと中ほどにあてた。しばらく経つと、今度はその手を首筋にあてた。最後に頭をかしげ、片耳を彼女の胸の上にあてた。静かに、心臓の鼓動を聞いているようだった。それが終わると、今度は目を閉じて、なにやら難しい顔をしている。
「お前は医術ができるのか。」
男はまっすぐこっちを見た。きれいな緑色の目をしていた。
「多少はできます。これは、ただの毒蛇じゃなさそうだ。少し時間がかかります。この近くに誰にも見られずに、手当てできるような場所がありませんか。」
「俺の館ではだめなのか?」
「それはまずい。これはただの傷ではない。あまり皆に見せないほうがいい。それに、時間がありません。」
少女は、苦しげに呼吸を繰り返している。エドワードは改めて、周囲を見渡す。前方の林を少し抜けたところで、きらきらと水面が輝いている。
「池のほとりに、園丁の道具や古いボートなんかをしまっている小屋があったはずだ。」
「案内してください。」
男は、少女を軽々と抱き上げた。
小屋の中に入る。
「何か下に敷くものはありませんか。」
エドワードは奥の棚から古びた毛布を引きずり出す。ほこりが舞い出て思わず咳き込む。
「はやく」
床に広げると、男はそっと静かに少女を寝かした。
「この方はどなたですか?」
「わからない。でも、この服装じゃ、侍女じゃなさそうだ。」
小屋の中は暗くてよく見えない。エドワードは明かりとりの窓を開けようとした。
「いえ、いいんです。しめておいて。それと、そこもしめてください。」
扉を指差す。言われたとおりに閉めると、光は壁の板と板の合間からわずかにもれこむものだけ、お互いの姿、形がぼんやりとしか見えない。
男は人差し指と薬指を立てて、片手を口の前にあてると、なにやらごにょごにょと唱え始める。すると、不思議なことに指の先だけが少し青白く光ったようだ。
エドワードは目をまばたいた。
少女の額に人差し指をそっとあてる。次はおなか、右手首、左手首。小さな声で何かつぶやきながら、そっと体に触れた。触れられた箇所が今度は青白く光り始めた。エドワードは、息を呑んだ。青白い点は次第に線となり、体の四方に伸びていく。
「お前は、術使いなのか?」
「聞いたことはあっても、見たのは初めて…ですか?」
男は、だからどうしたとでもいうふうに涼しい顔をしていた。
「今、この子を治療しているわたしも術使い。襲ったのもまた・・・。」
「蛇にかまれたんじゃなかったのか?」
「普通の蛇じゃない。普通の蛇の毒は、こんなに速く体内に回らない。見てください。」
少女の体を指す。
「今、私が術で浮かび上がらせているのは、血の流れる道です。毒はこの流れに乗って体内に広がる。足の方を見てください。青白い光が黒くよどんでいるでしょう?血が毒によって汚されているんです。片足はもう全部回ってて、腹部までよどみが来ている。これが、心臓にまで達すると、助からない。」
エドワードは、先ほどこの男が言った言葉を思い出した。
「お前は、さっき確かこういったな。『あれは、あなたの命を狙っている』と。」
男がこちらを見た。静かな目だった。
「あの時、逃げたのが、術使いか。あれは、本当に、俺を狙ってたのか?」
「おそらくは・・・」
(この子は俺の身代わりか・・・。)
ふいに、腹の辺りが鉛でも呑み込んだようにずしりとした。
「助かるのか?」
「やってみましょう。」
男はマントの内側のポケットから、小瓶を取り出した。すばやく栓を抜く。ぽんと音がした。中で何かが白く光っている。指を差し入れ、そっとそれを引き抜いた。よく見るとそれはまだ生きて動いている小さな虫だった。足をじたばたさせているそれを、左手の平の上にのせ、ぎゅっと握りつぶす。虫がつぶれる乾いた音がする。またごにょごにょと何かつぶやいたのち、今度は左手で、額、腹部、右手首、左手首に触れ、最後に腹部に手をあてる。目をとじ、小さく口で何かをつぶやいている。
すると、徐々に少女の体を覆っている青白い光の流れが強く速くなり始めた。特に腹部を中心に明るく輝き出したその流れは、その範囲を押し広げてゆく。どす黒いよどみが、その輝きに押されて、小さくなっていく。すると、彼女の左くるぶしの蛇にかまれた傷口から、どす黒い血がどろりと流れ出した。エドワードは、少し気分が悪くなった。
「うぅ・・・」
少女が苦しげにうめく。血はどろりどろりと流れ出し、足下にたまっていく。男は厳しい顔で、その黒い血を見据えている。低い声で、ぶつぶつと何か唱えている。
エドワードは何かが腐ったような嫌なにおいを感じた。息がしにくい、苦しい。
男は腹部からぱっと手を離し、さっとマントの内側から、砂のようなものを流れ出た血にふりかけた。血の上に青い炎があがった。炎に包まれると、その黒い血はまるで生きているかのように、身をくねらせ始めた。男はまた、マントに手をつっこみ、今度は注意深く、少しずつ砂をかける。ひとふりひとふり手をふるごとに、くねくねと動き回っていた血のかたまりが、少しずつ小さくなっていき、ついに跡形もなく消えてしまった。
三度目は、小瓶に入った液体を取り出した。かまれた傷の周囲にかける。つーんと鼻につくような強い香りが立ち上った。
「何か、清潔な布を。傷口を押さえなければ。」
「布・・・。」
ダガーを抜くとシャツの肩のところを少し破った。今度は手で思い切り袖を引きちぎった。
「これでいいか。」
「十分です。」
「う・・・ん」
少女の顔は真っ白になった。
「おい、大丈夫なのか?」
「たぶん。」
「たぶんって・・・」
「血がね。ちょっと足りないんですよ。」
「足りないって、どうするんだよ。」
「いや、どうしようもない。絶対安静、動かさずに休ませ、栄養を取らせるしかない。心配なさらないでください。できるだけのことはした。彼女が死ぬようなことはない。」
男は立って、窓とドアを開放した。
何事もなかったかのように、日差しが降り注いでくる。
悪夢が過ぎたようだった。
「さっきの質問に答えろ。『あれはあなたの命を狙っている』とは、どういう意味だ。どうしてそう思うのだ。」
エドワードの声は鋭かった。男はちらりとエドワードの顔を見た。
「昨夜、わたしが東の宮に張った防御陣を、術で破ろうとした者がいたのです。今日、術を使ってこの少女を傷つけたのも、同じ連中かと…。」
「術?防御陣?なんのことを言っているんだ?もっと分かるように説明しろ。」
男は首を横に振った。
「すみません、エドワード様、わたしには今、時間がない。彼女はとりあえずエドワード様のお邸にお連れし、看病してあげてください。人を呼び、お邸までお運びになったほうがよろしいでしょう。但し、その際にお願いがあるのですが・・・。」
「なんだ?」
「わたしのことをお話しにならないでください。」
返事が一拍遅れた。
「お前は、やはり、普通の衛兵ではないな。」
「わたしの存在は、秘密なのです。いずれ、きちんとご説明にあがりますので。」
「医者が診たら誰かが治療したとばれるのではないか。わたしではこんなことはできない。」
「わたしの知り合いの男を呼んでください。王室付きの医者です。下っ端ですが…。」
紙片と小型のペンを取り出して、膝の上でさらさらと書いて渡した。
「これがその男の名前です。詳細はわたしから直接その男に伝えておきますので、ご心配なく。」
男は、立ち上がって、早々に立ち去ろうとしたが、ふと振り返り付け加えた。
「王子、身辺に十分ご注意を。2度目があるかもしれません。」
そして、扉のほうへ歩み出す。
「おい、お前!」
慌てて呼び止めた。男が振り返る。
「名前を、まだ聞いていなかったぞ。」
男はにやりと笑った。
「テルマとお呼びください。」
男は出て行った。男が出て行ってから気がついた。ダガーを預かったままだった。