31 ルシアスの運命
31 ルシアスの運命
3人はやがて、森の中をぐるっと周り村から離れたところで街道へと出ると、バルフォルトには寄らずに南下した。王領とトランサルを結ぶ街道沿いに宿を取りながら下っていき、アチウィッチへとついて、山越えのための旅装を手に入れた。
ゆく途中で目にするものすべてがルシアスには珍しかった。もともと閉じられた世界で生きていたためだ。
少しの間、重い気分から自由になれた。
今までに起こったことを忘れ、これから起こることに怯えるのをまた忘れ、目に見える世界を楽しんだ。だけど、宿屋で床に横になり、暗い中で天井を眺めるときに、考えるとはなしにあの男の死に際を思い出す。思い出してしまう。
あの男は自分の大切な人たちを殺したと言った。
それなのに、自分は相手を殺すことができなかった。
みかねてヘクターが相手を燃やしてしまった。
自分はあの場でどうするべきだったのか。
やはり、あの男をこの手で殺すべきだったのかもしれない。
でも、そんなときでさえ、自分はすくんでしまった。
ヒューを守るためには何も考えずに炎が出た。でも、それ以上は無理だった。
こんな自分で、大丈夫なんだろうか。
ぼんやりと思う。
そして、ふいにイーディスの言葉を思い出した。
いまわの際の言葉を。
運命を受け入れろ。
僕の運命は、やはり、人を殺すことなの?
わからない。それがルシアスにはわからなかった。
それから3人でモンスナ山を越えた。越えてからは楽な道のりだった。ゆっくりと移動して、トランサルの領都、モナチェスターへと着いた。名前の通りに華やかな美しい街。
モナチェスターへと着くと、ヒューは宿屋へとは行かずに街中の大きな薬店へと来た。何か薬を買いたいのかと思っているうちにすたすたと中に入る。
どっしりとした店構えの店だった。
「いらっしゃい」
中にいた若い男にヒューはなにやら話している。男はうなずくと、店の奥のドアの方に手を向けるとどうぞと言った。
「こちらに」
言われるがままにドアの向こうへと入る。
後ろにはたくさんの薬草がいろいろな袋に入れられておいてある。様々な薬のにおいがした。その中で数人の人が薬を調合しているみたいだ。なんでこんなところに入り込むのか分からないで、2人が戸惑っていると、更に奥のドアが開いて、50ぐらいの男が出てきた。
「いらっしゃい。」
にこにこしている。
「お世話になります。」
ヒューが頭を下げた。それを見て、ヘクターとルシアスも頭を下げた。
その店はもともとケンソルブリーの村人だった人が何代か前に建てた店だそうで、普段から村とも交流があり、連絡を取り合っている店なのだった。
3人はしばらくそこに世話になることになっていた。
店の裏には調剤室があり、更にその奥には中庭がある。その向こうが、店で働く者たちの寮となっている。
ヒューは昼間はどこかに出かけていることが多いが、夜には帰ってくる。2人は特に何も言われていなかった。だが、外に出て街をぶらついていいとは言われてない。ごく最近に命を狙われたこともあるし、そこはわきまえてこの狭い店の奥の狭い空間に潜んでいる。
ヘクターは相変わらず暇を見つけては中庭で体を動かしている。ルシアスはあまり興味がない。でもさすがに暇をもてあました。
もともと働き者の人間である。調剤室にちょこんと顔を出して、端っこのほうで皆が薬を作っているのを眺めているようになった。
「興味があるの?」
親切な大人がいて、そう聞いてくれる。こくんと頷くと、簡単な作業を手伝わせながら、ちょっとずつ薬草について教えてくれるようになった。
「こっちの薬草はうんと晴れた日に1日だけ、お日様の光をあてて乾かすのよ。」
「はい。」
「夕方に取り込んだら、きれいな布でほこりや汚れをとってから、こっちの袋に入れて。」
言われたとおりにせっせと手を動かしていると、ヘクターが寄って来る。
「別に給金もらえるわけでもないのに。」
「宿代だよ。お前もやれ。」
「それもそうか。」
2人でもくもくと作業をする。
薬屋の手伝いをしないときは、寮の掃除やみなの食事を作る手伝いをした。いつの間にか店の者もこの外に出ることを許されていない訳ありそうな2人の若者の存在に慣れた。時間が静かに過ぎていった。
312年2月
モナチェスター
ルシアスはそういう日々に呪わしい自分の生い立ちについてさえ忘れようとしていた。年が明け、春の訪れを間近に感じようとしていた時に、束の間の休息は終わった。
彼は不思議な夢を見た。
「息子よ……」
夢の中で美しい青年にそう呼びかけられてめんくらった。
「僕にお父さんはいません。」
思わずそう言ってからふとまじまじと相手の顔を見た。
白くてきれいなたっぷりとした服を刺繍の施された美しい帯でしめている。この服装がなんだか、古めかしい。それにこの顔。完璧な左右対称の顔と美しい金髪。イーディスの語りで聞いたことがある。
村の始祖のアルヴィンの話。
「あなたは……」
「デュース神の七番目の息子ヘカトーだ。」
「……」
「何か言ったらどうだ。」
「初めまして」
笑われてしまった。
「変な奴だ。感動の対面の雰囲気が台無しではないか。」
「はぁ。」
そんなこと言われても、こんな若くてきれいな男にいきなり父親だと言われても困る。自分と大体どこも似ていない。
「今日は何か御用ですか?」
「事務的なやつだな。ふん。まぁいい。」
そう言って青年は少し顔をゆがめたが、ちょっとついてこいと言って、夢の中でルシアスの肩にそっと触れた。
次の瞬間に2人は丘の上に立っていた。夜だったはずなのにいつの間にか昼になっている。そして、その丘の上から一望できる平野にルシアスは見覚えがない。
右手の奥の方に砦が見える。その前方に兵が布陣している。左手にもまたたくさんの兵が布陣している。歩兵がいて、その奥に騎馬に乗った兵たち。
「なんですか?戦ですか?ここはどこ?」
「人間のつけた土地の名前はいちいち覚えていない。」
ヘカトーはあっさりとそう言った。
「息子よ。またもやクリオスをよみがえらしてしまった者がいるぞ。」
「え?」
「お前は、クリオスが暴れるところを見たことがないだろう。だから、今日は連れて来たのだ。」
そう言って、ヘカトーはすっと前方を指さした。
「あれを見ておれ。」
ヘカトーが指さしたほうをじっと見る。兵と兵が平原でにらみあっている。開戦間近だ。
一体どうしたと言うのだろう?ここはキサルピーナのどこなんだろう?戦が起きているなんて話は耳にしてなかった。
そして、それはふいに起こった。
左手の砦のほうから、最初は小さな黒い渦のような物がぐんぐんと大きくなり、黒い風となって、右のほうへとのびていく。
右手の兵はそれを見て、慌てて後方へと下がっていく。その風から逃げようとするかのように。対して、左手の兵が動揺するのがこんなに離れたところからでも見てとれた。
「なんですか?あれは。」
「お前は言い伝えを聞いているのではないのか?あれがクリオスの黒い風だよ。」
大きな生き物のように、或いは意思を持った黒い虫の大軍が襲いかかるように見える。離れたところまで大勢の人の恐怖にのまれて逃げ惑う声が聞こえてくる。そして黒い風にのまれた人からばたばたばたばた倒れていくのが見える。おびただしい人が風に触れただけで簡単に倒れていく。
「助けられないのですか?」
ルシアスは駆け寄ろうとした。でも、駆けても駆けても前に進めない。
「無駄だ。今、我々は魂だけでここにいる。実体はない。」
「あなたは、でも、神でしょう?」
ヘカトーはじろりとルシアスを睨んだ。ルシアスは構わず続けた。
「人間が困っているときに助けるのが神様でしょう?」
「だが、その困った状況を生み出しているのも人間だ。」
「……」
「神は人間同士の争いには関与しない。だが、あれは困る。」
「あれ?」
「クリオスだ。あいつももともとは神様だからな。あんなふうに神の力を人間の争いに使われては困るのだよ。」
「……」
ヘカトーはじっとルシアスの顔を見つめる。
「お前はあそこでばたばたと倒れていく人間たちを助けたいのか。」
ルシアスは遠方を見る。見たこともないような数の人たちが顔を黒くして倒れている。逃げ惑う人々。さながら地獄絵図だ。
「助けたい。」
「それならお前がやりなさい。もともとわたしにはできない。」
「神様なのに?」
「お前も随分いうね。」
ヘカトーは口元を歪めて笑った。
「神は人間の世界には干渉しないし、したくてもできない。だから、お前がいるんだよ。わたしの力を半分持っている。半分は人間だ。人間として、あれを止めなさい。それから、今度こそきっちりクリオスを封印しておくれ。」
「……」
「なんだ、返事をしないのか。」
「わたしにそんな大それたことできるでしょうか?」
「それはやってみなくてはわからない。」
「……」
ルシアスが不安そうな顔でヘカトーを見ると、彼はふっと笑った。初めて優しそうに笑った。
「お前はこの前会った者よりまだ随分若いのだな……。」
「そうですか?」
「人間は、あれだ。何か大変なことが起こったとき、皆で手を合わせるだろう?」
「はい。」
「お前も誰かに頼りなさい。」
「へ?」
変な声が出た。
「なんだ。だめか?こういうのは。」
「いや、あまりに当たり前の事を言うので。」
そういうともう一度ふっと笑った。
「大事なことというのは意外と単純なものだ。息子よ。でも、頼る相手を間違えてはだめだぞ。」
そう言って唐突にヘカトーは消えた。
そしてぱっと目が覚めた。自分は部屋のベッドの上にいた。外を見る。日が高い。昼間のようだった。
なんとなく何かがおかしいと思いながら体を起こす、しばらくぼんやりとしてから、ベッドから出て立ち上がった。とたんにへなへなと床にへたりこんだ。立てない。
なんだ?
頭がくらくらする。床に座り込んで、ベッドにもたれかかったままぐったりとしていると、きぃっと音がして顔がのぞいた。ヘクターだった。
「ヘクター」
座ったままの姿勢で呼びかけると、目玉が落ちてしまうかと思うくらい。ヘクターが目を見開いた。そして、何も言わずにとってかえして行ってしまった。
なんだ?
もう一度そう思うと、力をふりしぼってもう一度ベッドに戻る。横になっていないと目が回るのだ。
しばらくもしないうちに廊下がばたばたと騒がしい。そして、いろんな人が部屋になだれ込んできた。先頭にヘクターがいる。
「ルシアス」
「なんだなんだ。この騒ぎは。」
「お前、一か月近く目が覚めなかったんだぞ。」
「え?」
「もう、このまま目が覚めないんじゃないかってみんな心配して。でも、ヒューが大丈夫だろうって言うし。」
「ああ……」
そう言えば言い伝えでも、アルヴィンがヘカトーと過ごしたときに神といっしょにいる時間は短くても、現実での時間は飛ぶように過ぎたと言っていたではないか。
「腹へった。」
「そりゃ一か月何も食べてないからな。」
誰かが厨房から鶏で取ったスープを持ってきてくれた。本当はもっとがつがつ食べたいところだが、一か月も何も要れてない胃に急に何か入れたら死ぬとヒューに言われた。
「食わせてやるか?」
「いや。いい。」
手が少し震えたが、ゆっくりと飲んだ。いやはや。ほんとに気の利かない父親だ。こんなになると分かっていたら、無駄話などせずさっさと用件を済ませばいいものを。たった一杯のスープで、それでも見違えるほどに力が戻ってきた。
そして、思い出した。夢の内容を。
「何か、大変なことが起きていませんか?僕が寝ている間に。」
部屋の片隅に立ってルシアスの様子を見ていたヒューに向かって尋ねた。
「なんで、それを?君は寝ていたのに。」
「教えてください。大きな戦が起きたのでは?」
ヒューとヘクターが驚いて顔を見合わせている。その顔を見て答えを聞かなくてもわかった。ヘカトーは嘘を見せたのではない。きっとあれは本当だったのだ。
そして、あれはもう起きてしまった。
自分が止めなければきっとまた、どこかで起こる。
「あれは、どこだったんですか?」
ヒューはため息をついた。
「ウェサルと王領の境の砦です。反乱を起こそうと押し寄せたウェサル軍を王領の軍が打ち破った。その際に、ギディオンの偉大な力が使われたと。我々もまだ詳細ははっきりとはつかんでないのですが……。」
312年 3月
デオルフォード
レオナルドが即位し、王宮での権力の構成図が徐々に変貌を遂げ、そして、大陸での情勢が不穏になるに合わせて、王宮ではフランへ攻め込み領土を拡大し、パーシアが攻め込んでくるのに対抗すべきだというダグラス公に寄った意見を持つ物と、フランに攻め込むなどとんでもない。近隣諸国と同盟を組み、防御に徹するべきだという反対派とに分かれていた。
そのような背景のもと、ダグラス公は軍備拡張を盾に王領で新たにいくつかの税金の徴収を始めた。そして、フランへ攻め込む船の建造に着手しようとする。
限りある国のお金を成功するか失敗するか分からないようなことにつぎ込もうとするダグラスを阻止しようと議会は乱れに乱れ、揺れている中で、皆を震撼とさせるニュースが飛び込んできた。
とうとうパーシアが沈黙を破って、再び西へと侵略を開始した。
そんな中、3月、ダグラスとレオナルドは新しい法令を発布した。
それは今までそれぞれの領であがる税収のうちの3割を中央へと差し出すと建国以来から取り決められていたものを、4割へとあげるということと、また、各領で兵を徴兵し、その兵を中央へと差し出せというものであった。
議会は紛糾した。
大公たちは今度ばかりは首を縦に簡単にふらずそれぞれ自領へ戻ってしまい、大臣は絶句した。そして、はいともいいえとも言わずに自領へ戻った後に、王領へとこともあろうか軍を伴って引き返した者がいる。
ウェサル大公エミールである。
エミールがもともと、本気でダグラスやレオナルドと刃を交えるつもりだったかはなぞである。ただ、砦を囲み、ダグラスたちに新しい法令の施行を止めさせるのが目的だったのではないかと思う。
しかし、願いは裏切られた。ダグラスは、これ幸いとばかりにエミールの軍を壊滅させた。そして、近隣の大公たちに知らしめた。
王には、レオナルドのもとにはまた、建国の際のギディオンの偉大な力が宿られたと。
皆はフランだろうが、パーシアだろうが、おそるるに足りない。この力さえあれば、大陸へ赴き、好きなだけ領土を勝ち取ることが可能だ。この力さえあれば。
そして、ダグラスは血にまみれた戦場からエミール以外の大公たちに書状を送った。
曰く、今回の発令に従い、王の命のもとに、大陸への領土拡大に対し協力貢献を惜しまぬかを問う書状で、そこには暗に答え次第によってはウェサルと同等の結果が自分たちにも降りかかると示されていた。
自領の防衛に自信があったとしても、噂として流れ込んでくるウェサルの状況を耳にして、皆震えあがる。ダグラスに逆らうことはもはや、不可能なように思われた。
このまま自分たちは大陸侵略への道へ足を踏み込むことになるのだろうと皆が思い始めていた。
3月のとあるある日にハロルド公がデオルフォードまで息せききって駆けこんできた。
「王子」
その時、エミリアと一緒にいたエドワードは、ハロルド公が大きな声で隠そうともせずに王子といったことに慌てた。
「ハロルド公、いったいどうされた。そんなに慌てられて。」
エミリアがきょとんとしてエドワードと父親を交互に見ている。
「大変なことになりましたぞ。テルマが、テルマ殿が言ってらしたことは本当だった。」
青い顔をしていると、どこからともなくその当のテルマが顔を出す。
「わたしがなにか?」
「お前は、どこから聞いたのだ?ギディオン王の偉大な力のことを。」
「と言いますと?」
「レオナルド様にその力が発現しましたぞ。」
「え?」
エドワードが固まった。
「ウェサルのエミール公が兵を起こした。領境の砦へ迫ったところで、恐ろしい黒い風に遮られたのだと。兵がみな、それは簡単にばたばたと倒れていったということなのです。」
「なんだ。それは。」
「それはもうひどい有様だったそうで、国中大騒ぎになっております。」
懸命にまくしたてる父親の様子をエミリアは眉間に皺を寄せて聞いている。
「なに?なにか大変なことが起きたのですか?」
皆が彼女を見た。エドワードが口を開く。
「エミリア様、大丈夫ですよ。心配なさらないでください。」
「でも、人がたくさん死んだって。」
「みなで相談して、そんなことがまた起こらないようにきっとしますから。」
「本当?」
「ええ、本当です。」
少しだけ顔がゆるんだ。
「さぁ、我々はまだ難しい話をしなければなりません。エミリア様はお部屋へ戻ってください。」
「ここにいてはだめなの?」
「エミリア様がいると皆が気を使ってつまらない話をできませんから。」
エミリアはしばらくしかめ面をしていたが、わかりましたと小さく言うと部屋を出て行った。彼女が出て行くのを待って、ハロルド公が口を開く。
「エドワード様。わたしはどうすべきですか?このままでは皆ダグラスの言いなりになってフランへの出兵についていきますぞ。言うことを聞かなければ、ウェサルの二の舞だ。」
エドワードは難しい顔をして黙りこくっていた。
「その、ウェサルの様子をもっと詳しく知ることはできないか?」
「わたくしがお手伝いしましょう。」
テルマはそう言うと、小間使いに命じて部屋に大きな銀の鉢をもってこさせた。それから水差しに水をいっぱいいれたのをいくつか取り寄せる。
そして、部屋のカーテンを閉め始めた。
「何を始めるつもりだ。」
「ハロルド公、本来はあなた様にはお見せする類のものではないのですが、本日はいたしかたない。これから目にされることは他言無用に願います。」
「何の話だ。」
「何か術を使うのか?」
エドワードがそういうと、テルマがそっと頷く。ハロルドがぽかんとする。
「術ですと?」
「ハロルド公、テルマは、というかテルマだけではなくこの者の一族の者がみなそうなのですが、術使いなのです。」
「なんと!」
ハロルド公は目を丸くした。そういえば初めて会ったときにそのようなことを聞いていたかもしれない。
「噂で耳にすることはあっても、本物を目にするのは初めてですな。」
「昨今ではわたくしめのような者もずいぶんと数が減りましたからね。」
そう涼しい顔で言うとテルマは水差しの水を銀色の鉢の中へといれる。鉢を水で満たした後に、その水に向かってふところから取り出した小瓶の中の液体をひとつぽつんと落とした。それから小さい声で歌うように水へと向かって語り掛ける。
すると、しばらくしてその水に変化が起きた。もくもくと煙を出し始めた。
見てる2人はぎょっとしたが、テルマは眉をぴくりとも動かさず、慣れた調子でまた何かを唱え続ける。
テルマが何かを唱えるたびに、水から出る煙が色を変える。青くなったり赤くなったりした後にもう一度白い普通の煙に戻り、そして、徐々にその煙が量を変えていく。いつのまにかほんのわずかな煙以外なにも出てこないようになった。
「どうぞ。お覗きください。」
そうエドワードに声をかけると、自分は脇へとさっと寄る。エドワードは立ち上がって、鉢の水を覗いた。
「なんだ、これは。」
「今、現在のウェサルの戦のあったところの様子です。」
エドワードはもう一度鉢を覗いた。ハロルド公も立ち上がり寄って来る。
「なんとどうなっておるのだ?これは。」
水の表面に像が映っている。おびただしい数の兵士が重なり合って倒れている。あちこちにカラスが集まり始めていて、死人の体をつっついている。死人の体の皮膚は不自然に黒ずんでいる。禍々しい色だった。禍々しい光景。
よほど水の上に像が映るのが不思議に思えたのか、つとハロルドが指で水面に触れようとしてテルマに止められた。
「触れられては消えてしまいます。」
「すまん。」
エドワードはじっと難しい顔をしてその様子を見ている。それはまるで鳥の目から見たもののようだった。上からゆっくりと旋回しながら映される。
「これ以上は近寄れないのか?」
「申し訳ありません。これが限界です。」
「というと?」
「この亡くなった兵士たちの体にはまだ病気のもとが残っております。」
「病気?」
「ええ。伝承で伝わっている偉大な力というのはですね。人の体に急激に病を起こす力なのですよ。そしてそれは人に伝染るのです。」
エドワードとハロルドが驚いてテルマを見る。
「お前は、最初から……」
「はい。我々の一族は最初からこのことを知っております。最も一部の者だけですが。」
「どういうことだ?」
「我々の一族の役目は、300年前にこの国に起こったようなことが再び起きたときにそれを封印するために手を貸すことなのです。」
「封印?」
テルマはさっと頭を下げた。
話さなければならない。だが、話してしまっていいのだろうか?
この人を信じても大丈夫なのだろうか?
下げていた顔をあげて再びエドワードと目を合わせる。やや青ざめた顔をしているエドワードのすぐ横にぼおっと突然シュバルツの影が見えた。
そうだ。この人は、この人には、300年前にこのことを封じた人がついている。
その人が選んだ人だ。何を迷うことがあろうか。
「エドワード様はどう思われますか?この、この国では偉大な力と言われているこれを本当に偉大なもので、利用すべき力だと思われますか?」
エドワードはまた鉢をのぞいた。
「一体これでどのぐらいの人が亡くなったんだ?」
「今はなんとも。ただ、少なくはないと存じます。」
ハロルドが答える。
「エミール公はこんなことのために一体自領の軍をどのぐらい動かしたのだ?」
「わかりません。ただ、おそらくこの像から見ますに……」
ハロルドはちらりと鉢をのぞく。
「各地においておかなければならない最低限の軍をのぞいて、ほぼ動かせる軍を全て動かしたのではないかと思われます。」
「そして、その数の人々が、たった一瞬でこのようなことになったのか。」
「はい。」
エドワードはしばらく黙った。それからまたぽつりぽつりと話し出した。
「ウェサルはこの国の中で一番民の数の少ない地域だ……。」
「はい。存じております。」
「それは、300年前の建国の折に一番人が亡くなった地域だからだ。そして、300年経った今でも、王家に対する反発が一番強い。」
「はい。」
「そういった者たちに対して、どうしてまた同じようなことをするのか。この一瞬で亡くなった人たちが生まれてからここまで育つために一体どれだけの時間がかかったか。それに、このウェサルが、ウェサルの人たちが今の数まで増えるのにかかった時間もだ。一瞬でだ。それが、一瞬で、また……。」
そう言って黙ってしまった。それから、きっとテルマを見た。
「これをやったのはレオナルドなのか?」
「おそらくは……」
「それはたしかなのか?」
ハロルド公が横から口を出す。
「この力はギディオン王の血を継ぐものにしか扱えないもののはずです。」
「俺か、父か、レオナルドしかいない。俺ではない。父は病に伏している。」
「……」
黙り込むエドワードの傍でテルマもハロルドも何も言えない。
「もし、力を見せて、兵をひかせるだけなら、こんなにたくさんの人を殺すまい。」
「はい。」
「我々の目的は、外の国から自国を守ることなのだろう?ウェサルの兵は、もう一度恭順を誓えば、自国の兵だ。なぜ、それを簡単に減らしてしまうのか?」
「おっしゃる通りです。」
「この力がそうさせるのか?人の命を簡単に奪える力が。」
「……」
「このような力を持って、フランを攻めてみろ。こんな形で自分の家族や友人を殺されて、殺した相手を許せるだろうか?深い禍根を残してしまう。そのような状態であるときに、この偉大な力がまた消えてみろ。どうやって支配するというのだ?我が国がフランを支配下に治めたら、一気に国土が二倍になるのだぞ。ウェサルだけでも手こずっていた我々がどうやって治める?」
テルマはエドワードと知り合って初めて、彼が怒っているのを見た。いつも穏やかで冷静な王子が怒っている。
「この国はパーシアの侵略を待つまでもない。内側から崩れる。なぜそんな簡単なことがレオナルドにはわからない?」
「レオナルド様はやはりダグラス公に従っておられるのでは?」
「些末なことであればそれでよかろう。だが、このような根幹を揺るがすようなことでも従うというのなら、もはや王とは呼べない。」
「ですが、レオナルド様はまだお若い。」
「年齢の問題ではない。」
はっきりと否定された。
「王とは国を守るべきものだ。それすら分かっていないのであれば、レオナルドは王とは呼べない。」
そして、今度はテルマを見た。
「お前はさきほど封印といったな。」
「はい。」
「それは、この、忌々しい力を封印する方法をお前は知っているということか?」
「はい。」
「教えてくれ。」
少しの躊躇もせずにそう言った。テルマはエドワードを見た。彼の目はただ怒りに燃えていて、そして……、澄んでいたのだと思う。
「王子はこの力を惜しいとは思われないのですか?」
「威力が強いだけではない。たくさんの人を惑わすという意味でも、危険なものだ。そんな危ないものはさっさと封じてしまおう。」
大丈夫だろうか?今はこう言っていても、実際にその威力を目の当たりにして、そして、その力が自分の意思でコントロールできるとわかったら?
クリオスの力だけではない、ヘカトーの力もある。
この大陸の情勢が不穏なときに、このような力を持っていれば、国を守ることにだって使えるではないか。
正しい者が使えば或いは、有用なものではないのか?
「お前自身の目的も、これを封印することなのだろう?なぜ、そんなに言いよどむ。」
そしてまたシュバルツの影を見た。そのほのぐらい眼光を。
「少し長い話になりますが……。」
テルマは覚悟を決めた。




