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The story of Quisalpina  作者: 汪海妹
32/47

28① 2人だけの旅













   28 2人だけの旅












   

ホッピアンヴィは、バルフォルトから真っ直ぐ南へ、馬で一日ほど行ったところにある小さな村だ。村の東にはウィットの森と呼ばれる森がある。古くからこの森にはルヘアが住むと信じられていた。そのため、村人はこの森を大切にし、森の木を切る時も、森で狩りをする時も、ルヘアに祈りを捧げてから行ってきた。自分たちが必要な分だけを手に入れ、必要以上に森を荒らすことはなかった。


森の入り口には、ルヘアを祭る古い神殿がある。この神殿がいつ頃できたのかはっきりした記録は残っていないが、ギディオンが国を統一する前からあったらしい。神殿ができた頃から、ホッピアンヴィの村の人々は、ルヘアのために一年に一度供物を捧げ、祈りを捧げる祭りを行うようになった。その際に祭りを取り仕切る者が村人の中から一人選ばれた。女性だったらしい。


その女性が結婚すると、その女性の末の妹が祭りを取り仕切った。その妹が結婚する頃には、姉の娘が跡をついだ。何代も何代も同じことが続くうちに、その家系の女には、ルヘアの声が聞こえ、姿が見えるようになったという。


レイラの祖先の話である。


テルマは、レイラの村、ホッピアンビィでユージーンの便りを受け取った。


便りには次のようなことが書いてあった。


 ・今回の事件はノラルピーナ公ダグラスとアデル 

  が首謀者である可能性が高い

 ・宮廷大臣のサイラス・チェンバレンとトランサル

  領のレイバン・チャップマン伯爵も関わっていた

  疑いが濃厚

 ・モナルデでエドワードの葬儀が行われた

 ・ダグラスが、モンブレウで部下に何かを探させて

  いたよう。ギディオンの力が封印された地ではな

  いかと思われる

 ・時機を見て、トランサル大公のハロルドを頼るよ

  うに。援助が得られるはず

 ・術者の娘がどうやらバルフォルトのチャップマン

  商会の商館に、父親らしい年代の男と滞在してお

  り、その父親らしき男の様子がエドガーの様子と

  一致


その最後の数行がテルマの胸を揺さぶった。


(親子…?)


術をかけた猿を通して、見かけた娘の様子が脳裏に蘇る。


(父は、国を出てから、母以外の人と結婚していたというのか…。)


母、トリーシャの顔が浮かび上がる。いつも怯えるような顔をしていた母。棺に入れられた青白い顔。


(わたしと母にあれだけの苦労をかけておきながら、自分は外国で新しい家族を持っていただと?)


手紙を持つ手が自然と震えた。テルマはそれを握りつぶすと、足下に落とした。テルマの足下で、紙は青い炎に包まれて燃え上がった。


エドワードの体が動くようになってから、4日が経っていた。テルマは明日、ホッピアンヴィを出る事に決めた。


「もう少し、休んでいけばいいじゃないか。」


明日の朝発つと告げたとき、レイラはそう言った。


「なんだ、寂しいのか。」


テルマがからかった。


「こいつ、まだ具合悪そうだぞ。」


無視してレイラは続ける。口調に少し非難するようなものが混じった。テルマはまじめな顔になった。


「分かってる。だけど、あまり長くここに留まっていたくない。できるだけバルフォルトから離れたいんだ。」


レイラは少し眉を寄せて、テルマとエドワードを交互に見た。


「ま、行かなきゃいけないってんなら、しょうがないね。止めないよ。」


軽い調子でそう言うと、レイラはにやりと笑った。どこへ行くのかについて、尋ねなかった。

 

皇太子エドワードがいなくなったバルフォルトでは、新しい皇太子レオナルドの母アデルの権力と発言力が否がおうにも高まるだろう。と、いうことはその伯父であり、アデルを王宮へと入れたダグラスの権勢が強まるということでもある。王宮内の権力構造も徐々に変化するだろう。


今は、エドワード王子が生きていることを秘密にしておかなければならない。しかし、いずれエドワードの生存を明らかにし、バルフォルトの勢力と対抗するには、こちらにもダグラスに対抗できる人物が必要である。そこで選ばれたのが、トランサルのハロルド公だった。


トランサルは、王領キサルピーナに次ぎ裕福な領である。中心はモナチェスター、モナには月、チェスターには砦という意味がある。バルフォルトのバル(野生の猪)が獣の名前であることからなんとなく荒々しいイメージがあるように、モナチェスターには優美なイメージがある。モナチェスターは毛織物業で栄える街だ。王族、貴族、皆王都バルフォルトの仕立よりも、モナチェスターの仕立の服を喜んで着るらしい。アデルなども季節ごとにわざわざモナチェスターの仕立職人をバルフォルトに呼び寄せて、ドレスを仕立てているらしい。


ユージーンとカミラからの手紙には、時機を見てハロルドを頼るようにと書かれていた。ハロルドに頼るということは、ハロルドに現在の王宮、ダグラスとアデルの勢力に対抗せよということだ。もともとはエドワードが正統の後継者だと言っても、一度王宮を追われた身である。生きていたからはい、そうですかと向こうがみすみす王座を渡すわけはない。エドワードが偽者なのではないかと言ってくるのに決まっている。


向こうも皇太子殺しという大胆なことをやったのだから、ここでエドワードが認められたら後はないわけだ。必死である。あの手この手を使って、エドワードをつぶしにかかるに違いない。そのエドワードを守ってハロルドが動くためには、そうすることでハロルド自身が得をする場合でなければならない。


言ってみるならば、ハロルドがダグラスをつぶすべきだと思い始めた頃なら、すんなりとエドワードと手を組むだろう。今はまだ政権はヘンリーの手の内にある。テルマはもう少し様子を見てみるつもりでいた。だから、真っ直ぐにハロルド公のところへと行くつもりはない。先にモナチェスターに身を隠すつもりでいた。


テルマはエドワードの長い髪を後ろで軽く束ねられる程度に短く切ってしまった。服も粗末な服に着替えさせた。エドワードはまだ自分の力で歩けるほど回復していなかったので、馬車を用意した。


ホッピアンヴィを出て、まっすぐ南へ、2日ほどで領境のアチウィッチという村についた。村の後方に王領とトランサルの境に置かれたゲートと、モンスナ山の白い峰が見えた。


翌朝ゲートを抜けた。通行証はブレアが準備させた商人用のパスが使えた。深い渓谷を進んで行く。冬には通る人のいない、険しい道だ。5月の今は、爽やかな風が吹いている。高い空を大きな鳥が翼を広げて飛んでいる。エドワードには鷲のように見えた。


半分ほど進んだところで、一度馬車を止め休憩した。日の当たらないところへ馬を繋ぎ、藁で体を拭いてやる。エドワードが馬車の外へ出てきた。今日は後ろに青いぼぉっとしたシュバルツの影が見えた。エドワードとテルマは道の脇の岩の上に腰を下ろした。


「お体の調子はいかがですか?」

「うん、それが、今日は不思議だ。体が軽い。疲れもない。」


シュバルツの効果かもしれない。今も、少し離れて後ろにぼんやりと立っているのが見える。テルマは荷物の中から小さな袋を探り出し、中から乾燥した小さな赤い実を取り出した。


「どうぞ。」

「ありがとう。これはなんだ?」

「ジュジュの実を乾燥させたものです。力が出るんですよ。真ん中に種がありますから、そのまま飲み込まないように。」


エドワードは前歯でその実を齧った。ほんのり甘かった。甘い物は余り好きじゃなかったが、我慢して食べた。


「あと、3つくらい食べといてください。」


テルマが手にのせる。味のことを考えず、もくもくと咀嚼した。テルマは立ち上がって、空を見ている。


「お前は、大丈夫なのか?疲れたりとか全然しないのか?」

「わたしは慣れていますから。」


エドワードが実を食べ終わると、今度は小さなガラスの小瓶を出した。


「一口だけ、この水を飲んでください。一口だけです。」


(また、どうせ不思議な薬かなにかかな?)


小瓶を目の高さに持ち上げて、まじまじと見る。普通の水にしか見えない。


「ご安心ください。変なものではありません。」


テルマが、無表情にたんたんと言う。エドワードは栓を抜いて、直接瓶に口をつけると水を飲み込んだ。すると、口の中からのど、腹の中へと水が通った通り道の順に、初夏の森のようなかぐわしい香りがひろまった。香りは口の中から鼻を通り抜け、頭の中もかけめぐるように感じた。体中にキラキラとした光が満ち、自分が輝き出したように思えた。


あくまで思えただけで、目を開いて自分を見ても、自分の体はなんともなってなかった。


「なんだ?今の?」


香りと光の洪水が流れ去ったあとに、テルマに向かって言った。


「驚きましたか?特別な霊力を持つ泉から汲んだ聖水なんです。」


手ににぎっていた小瓶をもう一度まじまじと見る。中身をこぼしてはいなかった。やはり見た目はただの水に見えた。驚いてしまって、言葉が出ない。


「お前は飲まないのか?」

「わたしは旅に慣れてますし、病気はしておりませんので、必要ありません。」


エドワードは小瓶をテルマに返した。


「俺を襲った連中について何か分かったのか?」


テルマは、チェンバレンとチャップマンが絡んでいるらしいということと、術士の親子がバルフォルトのチャップマン商会に潜んでいたらしい話をした。エドガーとその娘と自分の関係については、話さなかった。また、ギディオンの力に関することも何も言わなかった。


「そいつらが首謀者じゃないだろう。誰が後ろにいるのかは分からないのか?」

「証拠がありませんが……」

「俺がいなくなってレオナルドが王座につくのだからな。義母と、ノラルピーナ大公あたりというところか。」


テルマは何も言わずにちらりとエドワードを見た。エドワードは平気な顔をして見せた。もやもやと考えていたことをはっきりと口に出してしまうと、少しすっきりした。


「そういえば、これからどうするのか聞いてなかったな。」

「しばらくはモナチェスターに身を潜めます。」


エドワードは少し驚いた顔をした。


「あんなに人の多い所へ行って大丈夫か?」


テルマは少し笑った。


「木を隠すなら森の中。人間を隠すなら人間の中ですよ…。」

「そういうものか。」

「それから、時機を見てトランサルのハロルド公を頼ってはどうかと…。」

「頼って、レオナルドたちと対抗しようと言うのか?」


テルマは頷いた。エドワードは眉をしかめた。


「それと、エドワード様、一つわたしと約束してほしいのです。」

「なんだ?」

「我々は今、2人しかいません。もし、今敵に襲われたら、防ぎきれません。ですから、わたしが敵をひきつけている隙にエドワード様は逃げてください。」

「お前を見捨てろというのか?」


エドワードは、信じられないといった目でテルマを見た。


「もしもの話です。エドワード様が生きていることを知っている者は、我々以外におりませんから、たぶん追っ手がかかることはないと思いますが…。」


エドワードは苦々しい笑みを浮かべた。


「そこまでして守るべき者か、わたしは。今では死んだことになった。皇太子でも何でもない。ただの人間だ。」


言葉に自分を嘲る皮肉な調子が滲んでいた。


「別にいいではないか。レオナルドが国を治めてうまくいくんなら…。」


テルマは少しの間、返す言葉がなかった。慎重に言葉を選んで話した。


「もしレオナルド様が王になり、全てがうまくいくのなら、どうして大地の女神はエドワード様をそのまま死なせてしまわなかったのでしょうか?」


エドワードの脳裏にあの女神の冷たい顔が浮かんできた。


「あの人は俺の命は俺のものじゃないと言ってた。生きなきゃいけないのに、死にたいってのはだめだと。」

「エドワード様は今、死にたいのですか?」


エドワードは弱弱しく首を振った。


「そういうのじゃないんだ。生きているのはうれしいよ。だけど、俺が生きるために、テルマが死ぬというのは、ちょっと違うだろう?」

「わたしはエドワード様の従者ですから、それが務めなのですよ。」

「だけど、俺はそうやって守ってもらうほどの人間なのか?王宮にいるときは、こんなこと考えもしなかったけど、今の俺はただの一人の人間だ。よく分からないよ…。俺にはお前に守ってもらってまでしてなさねばならないことが、あるんだろうか?都を追われ、位を奪われた身でも?」


ついこの前までは、何十人という人間に身の回りの世話をさせ、別の何十人に警護をさせていた人だ。それが、全て消え去り、今目の前には頼れる者が一人しかいない。エドワードが心細く思うのも無理はない。


「生きる意味のない人など、この世に一人もいないのですよ。」

「では、わたしは何のために生きているのだろう?」


エドワードが怯えた瞳でテルマを見た。


「苦しいのですか?答えが見つからなくて。生きる意味というのは一人一人にとって、とても大切なものではないですか。皆、それが見つからないとき、とても苦しむものです。だけど、それは必死で生きているうちに、少しずつ見えてくるものではないですか?誰かに尋ねて教えてもらう、そんな答えは本当の答えにはならないでしょう?」


エドワードはこくりと頷いた。


「今までそんなこと考えたことなかった。ただ、立派な皇太子を務め、いつか立派な王にならなければならない、毎日そんなことで頭がいっぱいだったから。」

「わたしは今でも、エドワード様が王になるべき人だと信じていますよ。」

「なぜだ?」


シュバルツが選んだ者であること、カミラの占いのことはテルマには言いかねた。


「わたしはエドワード様をお守りする者です。わたしが主を信じずに誰がエドワード様を信じるというのでしょうか。」


これで少年の疑問に対する答えになったかどうかは分からなかった。


「さ、時間があまりありません。行きましょう。」


テルマは立ち上がった。話を切り上げるために…。

その日の夜、シェッパーハムに無事着き、テルマとエドワードは街道をそのまま南下した。モナチェスターに着いたのは、アチウィッチを出てから3日目だった。


311年 9月 モナチェスター


レオナルドが即位し、ダグラスがレガレとして権勢をほこり始めた頃、テルマとエドワードはモナチェスターにいた。


テルマとエドワードの2人がモナチェスターに入った目的は、領主のトランサル公に会って公の保護を得ることにあった。エドワードが亡くなった頃には、今後の時勢を静観していたハロルド公も、最近のダグラスの横行ぶりは面白く思っていないに違いない。機は熟したと言える。


とはいえ、現在死んだことになっている王子が、正面から公を訪ねるわけにはいかない。このようなときのために、予めトランサル公の館にも一族の手の者が何人か、使用人として入り込んでいた。だが、使用人が直接、公と話し連れ出すわけにはいかない。一介の使用人の言葉を、どうして公が信じようか。2人には、2人の身分を保証し、トランサル公との間を取り持ってくれる人間が必要だった。公の配下の城主、騎士等の家来で信頼の置ける者に、或いは、ご子息に、こちらが確かに本物のエドワード王子であるということを証明してみせた上で、取次ぎを頼むのが賢明だろう。


「問題は、たとえトランサル公の家来であっても、バルフォルトの一味とつながりがないとは言えないことです。選ぶ相手を間違えると、王子の生存がバルフォルトにばれ、もう一度命を狙われるかもしれませんから。」

「では、ご子息のいずれかを選ぶことになるか。」

「そちらの方が確実でしょう。チェンバレンや彼の頼りにするアデル王女やノラルピーナ公と、トランサル公はお世辞にも仲がいいとはいえない。仮にやつらがトランサル公配下の者を味方につけたとしても、トランサル公ご本人や、ご子息を取り入れることは不可能です。」

「だが、ご子息であっても、同じだ。一介の使用人の言葉を信じると思うか?わたしは死んだことになっている。」

「そうですねぇ。」


王子はトランサル公とも面識がある。息子や娘とも、先月祝いの儀で会っている。だが、そんなに親しく話したわけではない。それにあの時は王子として立派な身なりをしていたが、今は身分を隠すために雰囲気も変えてしまった。果たしてこれが確かにあの王子だと信じてもらえるだろうか。テルマは不安だった。

ふとエドワードが顔をあげた。


「彼女もトランサルの娘だったな。」

「彼女?」

「あの蛇にかまれた。」

「ああ、そうでした。エミリア様ですね。」


あの少女がいた。たしかに彼女もトランサル公の娘である。


「ですが、彼女はたった12歳ですし、エドワード様の顔もきちんと覚えているかどうか。」

「いや、彼女とは短い時間だが、直接話したことがあるんだ。」


エドワードは夜に書庫でエミリアと会ったことを話した。


「あの時のことはあの子とわたししか知らない。それを使えば、エミリアにわたしが本物だと分かるだろう。」

「なるほど。それに、彼女には、命を助けてもらったという感謝の気持ちがある。よろこんで手伝ってくれるかもしれない。」


そういえば、どうしてシュバルツがエドワードをわざわざエミリアに近づけたのか、不思議に思っていた。それは今回のことと関係があるのだろうか?エミリアはエドワードとトランサル公を引き合わせるための鍵だったのだろうか?だとすれば、あの蛇にかまれた時から、我々は不思議な運命の糸に導かれて、ここにいるのかもしれない。


運命が導いたのなら、きっと全て順調に進むだろう。テルマにはそう思えた。


その侍女が話しかけてきたとき、エミリアは城の中庭にある池のほとりに立っていた。水鳥に餌をあげたくて、パン屑を厨房からもらってきていた。その侍女は姉付きの侍女だった。傍らに寄ってきて、


「いいお天気ですね。」


と挨拶したあとに、エミリアにしか聞こえないような小さい声で、


「エドワード様を覚えていらっしゃいますか。」


とささやいた。エミリアは驚いて、息をのんだ。侍女は構わず続けた。


「他の方には決してご覧にいれないでください。」


ドレスのポケットに何かをそっと差し入れると、


「失礼いたします。」


挨拶をして、離れていった。


一瞬何が起こったのかよくわからなかった。エミリアはポケットをそっと覗いた。手紙のようだった。さっきの侍女はどうやらこれを渡したかったらしい。ここで開けて読んでみようかと思ったが、侍女の尋常でない様子を思いだして止めた。自室へと戻ってあけることにした。エミリアは手にしていた袋の中のパン屑を一気に池にばらまいた。袋を振って中に残った屑も全て落とす。


ガー、ガー、ガー、


茶色、灰色、緑色、いろいろな羽根、いろいろな頭、水鳥がわっとエミリアの足下に集まった。お互いをつつき合いながら、パンをむさぼっている。


「またね。」


軽く手を振って、館へと歩き出す。


(エドワード様ですって。)


エミリアはその名前を聞いて、胸が痛んだ。優しい王子様。1度だけ話した人。もう2度とあんなふうに親しく話すことはできないだろうと思っていたけど、本当に話せなくなってしまった。


エドワードの死を聞いて、エミリアはただ驚いた。身の回りで人が死ぬのは初めてだった。それも、死のにおいを周りにまとわせた老人ではなく、あんなに若い王子がなくなるなんて、信じられなかった。


モナチェスターの貴族階級の間や、バルフォルトとモナチェスターを行き来する商人の口などから、エミリアの耳にもいろいろな噂が入ってきた。


『崖から足を滑らされて、落ちられたとか・・・。』

『ご遺体は川に流されて、見つからなかったとか・・・。』

『王はひどい心痛で、お痩せになられたとか・・・。』


それらの噂が、実際には目にしていない王子の死という事実に、少しずつ肉をつけていった。それとともに、エミリアの心に最後に見た王子の姿が蘇る。にっこり笑っておやすみなさいと言ってくれた人。


(かわいそうなエドワード様。あんなにお優しい人だったのに。)


侍女がエドワードの名前を出したので、一ヶ月前のことをいろいろと思い出した。


それにしても、この手紙は何だろう?

どうしてあの侍女はエドワード様の名前なんて出したのだろう?


「エミリア様、お帰りなさいませ。お茶か何かお持ちしましょうか。」


初老の男が声をかける。紅茶とビスケットが食べたいと伝えると部屋に戻った。暖炉には火が入っている。エミリアは手紙を取り出した。なんということはない、ありふれた封筒だった。赤い蝋で封がされている。印は見たことのないものだった。エミリアは手紙の封を開けた。中から一枚の便箋が出てきた。滑るようになめらかに書かれた文字が目に入る。その手紙にはこう書かれていた。


『エミリア様

わたしを覚えていますか。怪我をしてわたしの邸で休んでいたときに、夜に一度書庫でお会いしましたね。わたしはあなたに本を選んであげました。わたしはエドワードです。驚かせたでしょうか。王都ではわたしは死んだことになっている。でも、信じてください。本当はまだ生きているのです。このことは秘密です。誰も知りません。悪い者に命を狙われているのです。だから、隠れています。エミリア様、今、あなたの助けが必要です。どうか、助けてください。』


(これは夢?)


手紙を持っている手が震える。手紙の最後には、エドワードが滞在している宿屋の名前とエドワードの署名が入っていた。なめらかな美しい文字だった。


(それとも誰かのいたずら?)


エミリアは短い手紙を何度も読み返した。


(エドワード様が生きている?)


それも、それを知っているのは、どうやらわたしだけらしい。父上も母上も、兄上も姉上も知らない。そんなことをわたしが知ってる。もしかしたら、このことは王様も知らないのかな?


頭がくらくらして、目がまわりそうだ。


もう一度手紙を読む。命を狙われているというくだりでぶるっときた。


(これ、本当に本当なの・・・?)


国を挙げて国王が葬儀を取り仕切ったのだ。王子様の棺はアブハン川の湧き出る源泉、代々の王家のご遺体が沈められる泉に沈められたと聞いた。ちょっと時間をかけて考えてみると、やっぱり王子様は死んだんじゃなかろうかと思えてくる。


エミリアは考え込んでいて、ノックの音に気がつかなかった。バトラーがお盆に紅茶とビスケットを載せて入ってきた。エミリアのしかめ面を見て驚いた。


「エミリア様?どうされました?」


エミリアははっと手紙から顔をあげ、バトラーと目を合わせた。


「何でもないわ。」


バトラーは紅茶とビスケットをサイドテーブルに置きながら、尋ねた。


「お手紙ですか。」

「そう。お友だちからいただいたの。」

「それはよろしかったですね。」


老齢の執事は、真っ白な髪、眉、ひげをしている。白い眉をさげてにっこりと微笑みお盆を小脇に抱え直し一礼すると、部屋を出て行った。


エミリアは視線を下に戻し、もう一度最初から最後まで手紙を読んだ。あの夜書庫でお会いしましたねというくだりで目が止まった。そうだ。この時、わたしと王子様は2人きりだった。他には誰もいなかった。もし、あの時、外から誰かが見ていたか、このことを王子が誰かに話したのでない限り、2人が書庫で会ったことを知っている者はいないはずだった。


(本当に、王子様?生きているの?)


この手紙を目にして初めて、信じる気持ちが少しわいた。


命を狙われているという部分でも、思い出したことがあった。あの青い衣の女、間違えて別の人をおびきだしてしまったという言葉、そして王子の言ったわたしに責任があるという言葉。


(あの女はやっぱり、わたしじゃなくて王子の命を狙っていたんだ。)


あの時は、失敗したけど、あの後で成功したんだ。あれは事故なんかじゃなかったんだ。


(この手紙はやっぱりエドワード様だ。)


疑う気持ちが完全に消えたわけじゃないが、直感的に本当な気がした。エミリアは逸る気持ちをおさえてしばし考えた。それから、自分のライティングデスクに向かって、短い手紙を書いた。もう一度エドワードからの手紙を見て、滞在先の宿屋の名前を諳んじると、封筒ごと暖炉にくべて燃やしてしまった。


***


その日の夜、そろそろ皆がベッドに向かい寝る準備をしているかと思われるような時刻。宿屋の窓の外枠にテルマの梟が留まった。小さな紙片を足に結び付けていた。テルマはそれをほどいて読むと、微笑んだ。


「なんだ?」


テルマは黙ってその紙片を渡した。


『あの日、お借りした本のお名前は?』


「なかなか慎重な方ですね。」


その言葉を聞いて、エドワードもほほ笑んだ。

エミリアの字を見ていると、少し心がなごんだ。


その翌々日の夜、エミリアは次女のフェリシアと共にモナチェストで一番大きい劇場の最上席にいた。風邪をこじらしてバルフォルトに行きそこなった姉である。ジーンが世界は全て自分を中心に回っていると思うタイプの人間であるのに対して、この姉はもっと現実的で要領のいいところがあった。無駄なことは一切しない。何かしようと思っても、無理だと思えばすぐあきらめる。ジーンのように常に高みを望むようなところはない。そして、この姉は妹のエミリアに対してあまり関心がなかった。


今日のような場合、フェリシアのような姉は好都合だった。ジーンや兄のクレイグは何かとエミリアに干渉する。一緒にいるときには目を離さないからだ。


「お姉さま、二幕目の間、少し外のテラスから外を眺めていてもいい?三幕目には戻るから。」


一幕目が終わり、観客の盛大な拍手のあとにいったん幕が閉じた。また幕が開くまでの幕間に、横にいる姉にささやいた。姉は美しい扇を閉じたり開いたりして遊んでいたが、エミリアをちらりと見た。


「あら、つまんないの?あんた、いつもはそんなことないじゃない。珍しいわね。」


扇で顔を隠しながら、ま、別にいいけどと言った。エミリアは席を立つと、はやる気持ちをおさえて、わざとのろのろと動いた。


「あ、あんまり遠くに行っちゃだめ。すぐそこのテラスまでよ。あそこはうち以外使えないはずだから。」


妹の背中に向かって、フェリシアが一応姉らしく声をかけた。素直な声で「はーい」と返事をすると、脇の垂れ幕をくぐって廊下に出た。


廊下の向こうの方のテラスに人影がちらほら見える。美しく正装した男女が飲み物を片手に談笑している。その中には見たことのある顔もあった。立っている廊下の一番奥には誰もいない。この席はトランサル公専用の席で、招かれた人間しか立ち入ることができないのだ。エミリアはしばらく廊下に立って、上流階級の若い男女がひそひそとささやき合う、さざ波のような音を聞いていた。場内で楽団が曲を奏で始める。第2幕開幕の合図だ。廊下やテラスに出ていた人たちが、連れ立って自分の席へと吸い込まれていく。夜を照らす劇場のうすぼんやりとした灯り。とうとう一人残らず客席へと消えた。場内の音楽はだんだん大きくなり、嵐を告げるような激しい調子で響き始める。皆、演劇の世界へ吸い込まれていった。エミリアは、自分の心臓がとくん、とくん、と音を立てるのを聞いた。


(正門から来るのかな?)


正門と2階の貴族の席へと続く階段には、ガードがいる。


(ガードに顔を見られても大丈夫かなぁ。)


ふとその時、視界の中で何かが動いたように思った。一つ向こうのテラスの影に誰かいる。暗くて気がつかなかった。その人がこちらを向いて、廊下の方へ出てきた。ほっそりとした体をタキシードに包んでいる。帽子をまぶかに被った紳士がこちらへ歩いてくる。エミリアの傍までくると、帽子を取った。短い髪をきれいに後ろになでつけている。以前お会いしたときよりも、顎のあたりの線がきつくなったように思えたが、やはり、エドワード様だった。


「こんばんは。エミリア様。」


エミリアの目を見て微笑んだ。エミリアは頭が真っ白になってしまって、言葉を失ってしまった。そう言えば、エドワード様に会ったら何を言おうかと考えるのを忘れていた。本当に目の前に現れるかどうかに気をとられていて、会ったらどうするかとは考えられなかった。エミリアはもう一度目の前に立った人を頭のてっぺんから、つま先までじろじろと見た。


「どうしたの?」

「本当に・・・生きてた・・・」


そういうと、なぜだかふいに涙が出てきた。眉をしかめて、口を一文字に結び、泣くのを懸命にこらえたが、涙が一筋頬を伝い、短く一度ひっくとしゃくりあげた。エドワードは慌てて、エミリアをテラスへと促した。


「こんなに喜んでくれるとは思いませんでしたよ・・・。」


ポケットからハンカチを取り出して、差し出した。彼女は、素直に受け取って目の下に広げてあてた。エミリアは赤いドレスを着ていた。袖はひじのあたりからゆったりと広がり、幾重にも重なる美しいレースがのぞいていた。髪にもドレスとお揃いの赤いリボンをつけていて、それが華やかな顔によく映えていた。その顔をしかめてひっくひっくとしばらく泣き止まなかった。


「あまり泣くと、目が赤くなってしまいますよ。お姉さまが変に思うでしょう?」


エドワードは彼女の小さくて柔らかな手をとると、テラスの隅に置いてある籐椅子に座らせ、自分も傍の椅子に腰を下ろした。


「もう、大丈夫です。」


エミリアは顔にあてていたハンカチを外すと、まだ涙ににじんだ目を何度かまばたいた。


「エドワード様、なんか雰囲気が違う。今日は前より大人っぽいです。」

「こんな格好をしているからかな。エミリア様も今日はドレスがお似合いですね。」


エミリアははにかみながら微笑んだ。


「あの手紙、本当にわたしからだとすぐに思いましたか?」

「最初は、誰かのいたずらかと。とても信じられなかった。王都ではもう、お葬式が済んだと聞いてましたし。どうしてこんなことになったんですか?」


エドワードの眼に暗い影が宿った。


「わたしに生きていられては困る人がいるんです。」


エドワードは眼をそらして続けた。


「その人たちはレオナルドを王位につけたいのです。」

「ひどい。じゃ、やっぱりあれは事故じゃなかったんですね。」


エドワードは顔をあげてエミリアの顔を見た。悲しい目の色をしていた。


「でも、もう大丈夫。お父様に言って、みんなにエドワード様は生きているって教えてあげたら。」


エミリアは明るい目で言った。エドワードは苦笑して顔を左右に振った。


「エミリア様、バルフォルトでは、わたしは正式に死んだことになっている。いくらトランサル公がわたしが生きているとおっしゃったとしても、誰も信じられません。わたしをよく知る父や大臣たちの前に生きて立たない限り、みな、トランサル公が嘘をついていると思うでしょう。」


エミリアはエドワードのほうへ身を乗り出し、あたりをはばかって低い声で熱心に話した。


「じゃあ、バルフォルトへ行けばいい。お父様はきっと兵で守ってくださいます。わたし、お願いします。」


エドワードは、弱く頭を振った。


「わたしはすぐにバルフォルトへ戻らなくてもいいのです。今、戻るのはとても危険なのです。行き着く前に殺されてしまえば、やつらの思うつぼです。それに無事たどり着いたとしても、証拠がなければわたしを殺そうとした者を全員捕らえることはできません。やつらは再びわたしを狙うでしょう。これでは、わたしはもう一度殺されるために戻るようなものです。」

「じゃあ、どうするんですか。」


エミリアは、暗い気分になった。


「そんなに心配しないで。大丈夫。今、わたしが生きていることは誰も知らない秘密です。今、わたしは安全なんです。」


エドワードは落ち着いた声でエミリアをなだめた。


「エミリア様、わたしはこれからどうするかについてトランサル公に相談したいのです。考えを聞きたい。その上で今後のことを考えたいのです。ですが、わたしが生きていることはトランサル公以外の誰にも知らせたくない。」


エミリアは真剣なまなざしでうなずきながら、エドワードの話を聞くと、すかさず言った。


「何かできることがありますか。」


エドワードはうなずいた。後ろになでつけていた髪がひとすじ、額に落ちた。廊下からもれる柔らかい光が、彼のあどけなさの残る顔の輪郭を浮かびあがらせている。


「トランサル公とわたしと2人だけで会えるようにしてもらえませんか。」


(兄さんの言葉ならともかく、わたしの言うことをお父様が信じてくれるかなぁ。)


エドワードに会った次の日、エミリアは父にエドワードのことをどうやって話すか考えていた。果たして父が自分の言葉を信じるか、それが心配だった。だけど、誰かに相談することはできない。家族にも、秘密だと約束したから。だから、わたしが直接お父様に話さなきゃいけない。


(変な夢を見たとか、嘘をついているとか、変な物を食べて頭がおかしくなったとか。お父様がどう思うかなんて、今から想像がつくわ。)


父は末っ子の自分を非常に可愛がっていた。それはありがたいのだが、末っ子というものは、親からみていつまでも頼りなくあって欲しい存在であるらしい。確かに、まだエミリアは12歳だが、父が思っているほどには子どもじゃない。ただ、ハロルドがエミリアには子どもでいてほしいと思っているようなので、わざと子どものようにふるまうことがある。


わざとそんなふるまいができるのは、つまり、もう子どもではないということだ。


(フェリシア姉さんが言うことだったら、絶対にまじめに聞くのに。)


女にしておくのはもったいないほどに、(本当にクレイグ兄さんより頭が切れる)いつも冷静で客観的な姉を思い浮かべる。難しい問題が起これば、何をおいても真っ先にこの姉に相談する。ときどき、ぐさっとくることをストレートに口にする姉だが、こういうときには頼りになるのだ。父もひそかにこの娘のいうことには、一目置いているのをエミリアは感じている。


(でも、フェリシア姉さんにも相談できないな。)

 

ぐずぐずしている間に、父は領内の見回りに出て行ってしまった。各地の収穫の様子と、税の納め具合を点検しに行ったのだろう。秋のこの時期は比較的忙しい。


「バトラー、お父様、どこへお出かけになったの?」


執事が後ろを振り向くと、エミリアがドアの陰にかくれんぼをするように立ちながら、こちらを見ている。執事は軽く微笑んだ。


「オルクトンのバーナード様のところへお出かけです。南の麦の収穫の様子をご覧になるとおっしゃっていましたよ。」


モナチェスターから馬で2、3時間。直轄領の最南端。バーナードは父に派遣されたセネシオ(地方役人)だ。


「いつ帰るの?」


エミリアの顔がこころなしか暗い。


「さぁ・・・。いつもは、あちらへお行きになると、一晩はお泊りになられることが多いですが。」


(ああ、ぐずぐずしている間に。)


がっかりして、部屋へ戻っていくエミリアの後姿をバトラーは、首をかしげて見守った。


部屋で一人になると、だんだん自分を責める気持ちが起こってくる。自分がぐずぐずしている間も、エドワード様は街の汚い場末の宿屋で、(実際に見たわけじゃないが、エミリアの想像ではそうなっている)自分の命が狙われている恐怖に怯えながら、エミリアが助けてくれるのを待っているのだ。自分は、エドワードに父が守ってくれる。わたしがお願いすると言ったじゃないか。エドワードには今頼れる者が父しかいない。


そして、その父にこの事実を伝えられるのは自分しかいない。


(こんなときにのんきに小麦の心配なんかしている場合じゃないわよ。お父様!)


バーナードの所なら、家族で何回も行ったことがある。もっとも、あの時は馬車だったが、直轄領の中だ。父や兄なら供を連れて、馬で一駆けの距離だ。


(お母様や、お兄様や、お姉さまたちに話したら、きっとうるさく騒ぐに違いないわ。)


それに、何をそんなに急ぐのか、明日まで待てと必ず言う。急ぐ内容を言うわけにもいかないし、十中八九オルクトンへは出られない。


そこまで考えると、決意した。机の上に簡単な書置きを残すと、ワードローブへ入り、動きやすい服をひっぱりだし、乗馬用のブーツも引きずり出した。手早く着替えると、髪をぱっと束ね、日差しを避けるためにひさしのついた帽子を被り、上からスカーフを巻いて顔が見えにくいようにする。そして、そっと階段を降りると一階の客間に飛び込み、テラス伝いに庭に下りた。泥棒のようにそそくさと庭を横切ろうとしたところを、庭師のガードナーに見つかった。作業の手を止め帽子を取って、エミリアの後姿に挨拶をした。


「お散歩ですか?エミリア様。」


エミリアはぱっと振り向くと、囁き声で言った。


「静かにして!」


ぽかんとしている庭師をそのままに、そそくさと厩へと急ぐ。幸い、馬丁のマーシャルの姿は見えない。そっと中に身を滑り込ませると、愛馬のスーに近寄った。スーは近寄るとよろこんで鼻を鳴らし、足をぱかぱかさせる。柵をはずして、手綱を引き、馬房の外へ出す。


「誰だっ!」


背中に鋭い声を聞き、びくりとして後ろを振り返ると、厩の入り口にマーシャルが両手を組んで仁王立ちになっていた。


「エミリア様・・・。これは、失礼いたしました。」


険しい顔が、慌ててゆるんだ。


「ちょっと、スーに乗ってそこらへんをまわって来ようと思って・・・。」

「お散歩ですか?それなら、フィップをお供につけましょう。今、呼んで参りますよ。」


フィップはマーシャルの息子で、エミリアに馬の乗り方を教えてくれた。


(どうしよう・・・。着いてこられると困るんだけど・・・。)


でも、フィップ一人くらいなら、わたしがわがまま言えば嫌とは言えまい。それに、いれば、道にも迷わないだろう。


「エミリア様、俺、親父に叱られます。ハロルド公にも。戻りましょう。」


屋敷を出てしばらく行ったところで、このままオルクトンまで行くと言うと、フィップは顔を真っ青にした。


「じゃ、1人で戻ったらいいわ。」


エミリアはフィップに背を向けて、ぱかぱかと走り出してしまった。


「エミリア様~」


困りきった声を出して、追いかけてくる。


「一人で行かせたら、もっと叱られます。殺されます。」

「じゃ、ついて来ればいいじゃない。」


そうこうしているうちにも、屋敷からどんどん離れていく。


「一体、オルクトンに何のご用事なんですか?」

「お父様に会いに行くの。」

「明日にはお帰りになるでしょう。お屋敷でお待ちになってはいかがですか。」


エミリアが横目でちらりとフィップを見た。


「明日じゃ、遅いのよ。」

「えぇっ~?」


(いったい、どんな用事だよ。)


フィップには、この小さいエミリアに、たいした用事があるようには思えない。つまり、ただの気まぐれなのだ。


(エミリア様の気まぐれで、俺は怒られるのか・・・。)


がっくりと肩を落とした。


「大丈夫よ。心配しないで。」


そんなフィップの気持ちを知ってか知らずか、エミリアが声をかける。


「はぁ。」

「フィップが怒られないように、わたしからみんなに言うから、ね。」


小首をかしげる。エミリア様がどんなに言ったって、ハロルド公も怒るし、エミリアが見ていないところで、親父には殴られる。だが、いつもこのかわいらしい動作に負けてしまう。


2人は、昼食を終えて、ほどなく出発している。オルクトンまでは馬をギャロップで飛ばせば1時間半ほど。エミリア様にはギャロップは無理だが、それでも、2時間半から3時間ほどでつくだろう。


フィップはため息をついて、あきらめた。


ここは直轄領で治安も安定しているし、昼日中から、そうそう危険な目にもあわないだろう。帰りは、ハロルド公と一緒だし、バーナード様が馬車を出すだろうから、行きで何もなければ大丈夫だ。


「今晩は、公に珍しい料理を振舞わせていただきますよ。」

「ほぉ、と言うと?」


美食家のハロルドは目を輝かせた。モナチェスターの堅苦しい城を離れ、田舎でのびのびと野趣あふれる時間を過ごすのが好きだった。家では、好きな酒や肉を食べていると、まずフィオナが顔をくもらせ、ジーンとフェリシアが一言ずつ苦言を言う。おいしい酒も料理もまずくなる。女はうるさくてかなわない。


「昨日、狩りに出て大きな鹿を射止めましてな。」


話の途中で、部屋のドアが開き、執事が顔を見せた。


「何だ?」


執事は直立不動の姿勢で、表情を崩さずに、


「ハロルド公のご令嬢、エミリア様がいらっしゃいました。こちらにお通しいたしますか?」


と尋ねた。ハロルドは、我が耳を疑った。バーナードが聞き返した。


「どなただって?」

「ハロルド公のご令嬢、エミリア様です。」


執事は短く区切るようにゆっくりと発音した。バーナードとハロルドが顔を見合わせる。


「お呼びになられたのですか?」

「いや、わしにもなにがなんだか……。」

「とにかく、こちらにお通ししなさい。」


執事が出て行ってほどなく、本当にエミリアが入ってきた。


「お久しぶりです。バーナード。」


ドレスの裾を両手で持ち上げて、軽く礼をする。


「これは、エミリア様。お会いできて光栄です。」


バーナードはエミリアの前で片膝をつくと、手を取って手の平をそっと自分の額にあてた。ハロルドは立ち上がっておろおろと近寄ると、末娘の両肩に手をおいた。


「どうしたんだい。こんなところまで来るなんて。1人で来たんじゃないだろうな。」

「フィップと2人で参りましたの。」


ハロルドは眉をしかめて、鋭い声をあげた。


「たった2人で?馬に乗ってきたのか?」

「はい。」

「なんと、危ないことを。」

「大丈夫よ。お父様、危ないことなんて何もなかったわよ。」


エミリアは父の目をまっすぐ見上げた。ハロルドはしゃがみこみ、片手で娘の手を取り、片手で頬をなでた。


「お前は・・・、何もなかったからよかったものを。もうわたしをこんなにどきどきさせるのはやめておくれ。」

「でも、すぐに着いたし、何もなかったわ。」

「お前は知らないのだよ。お前は普通の娘じゃないんだ。大公の娘だと知られたら、どんな危ない目にあうかしれない。」


エミリアは小さな頬を膨らませた。


「お兄様なら、こんなに心配しないのに・・・。」

「あれは男だ。男は自分で自分の身を守れなければしょうがないのだよ。」


後方でバーナードが快活な笑いをあげた。


「エミリア様はなかなかお転婆ですな。うちの娘には負けますが・・・。」


ハロルドは立ち上がった。


「マーシャのことか?」

「ええ。女だてらに馬だ、剣だと、本当に頭を悩ませております。」

「お主の娘なら、なかなかやるのではないか?」


バーナードはセネシオ(地方役人)であると同時に父の筆頭のナイト(騎士)でもある。


「それが、兄を凌ぐ勢いでしてな。なぜあの子が女の子として生まれたのか、つくづく神も酷なことをしなさる。」


バーナードの目に父親らしい表情が浮かぶ。


「さ、こちらで夕食までお茶でもいかがですか。エミリア様。」


エミリアはハロルドの袖を引っ張った。ハロルドはエミリアを見た。


「お父様、お話があるの。」

「なんだい?」

「大切なお話しなの。」


ささやくように話す。ハロルドは再びしゃがみこんだ。


「ここではできないのか?」


エミリアは少し眉をくもらせ、首を振った。その様子を察したバーナードが声をかけた。


「よろしければ、エミリア様のお部屋をご用意させましょう。夕食までそちらでお休みになられてはいかがかな?」


「なんだい、お話というのは?まさか、そのためにここまで来たのではないだろうね?」


エミリアは緊張で顔を少し強張らせていた。


「そのために来たのよ。お父様、まじめに聞いて。大切なお話しなの。」


ハロルドは、娘の深刻な様子に一応こちらもまじめな顔を作り、対峙した。


「うむ。」

「お父様も、わたしが新年の儀で、蛇にかまれて、エドワード様のお邸でお世話になったことは知ってるでしょ。」

「うむ、あの時は本当に焦ったな。」


娘の看病のお礼に、トランサルで手に入るさまざまな品を差し上げた。大公の1人とはいえ、皇太子と親しく話す機会は少なかったので、品を献上するのをきっかけに王子と親しくなれるのではと密かに願っていたのだが・・・…。


「実は、私、王子様のお邸にいる間に、王子様と1度だけ直接話したの。」

「ほぉ。わざわざお見舞いに来てくださったのか?」

「うん。まぁ・・・。」


夜中に書庫に忍び込んでいるところを偶然見つかりおしゃべりした、というディテイルはこの際、省いた。


「いやぁ、そこまでしてくださって、せっかくお近づきになれると思ったのに。まさか、お亡くなりになるとは。」


エミリアは、父のぼやく姿を横目で見つめた。


「それが、・・・昨日、会ったの。もう1度。」


父がひょいと顔をあげる。


「会ったって、誰に?」

「エドワード様。」


ハロルドは娘の顔をじっと見つめた。眉間に皺がよる。


「冗談か?」

「本当だよ。」

「じゃ、幽霊か?」


(ああ、やっぱり信じていない。)


エミリアはエドワードから手紙を受け取り、昨日会ったまでの話をした。


「誰かがエドワード様のふりをして、お前を呼び出したんじゃないのか?」

「違うわよ。わたし、本物のエドワード様と話したことあるもの。間違えたりしないわよ。」


ハロルドは、エミリアを心配そうに見つめる。この子は急にどうしたんだろう。訳の分からないことを言い出して。


「お前、劇を見ながら寝てしまって、悪い夢でも見たのではないかい?」


(どうしよう。信じてもらえない。)


「お父様、お願い。助けてあげないと、エドワード様、今度こそ本当に殺されちゃうのよ。」

「殺されるって・・・。」


エミリアは真剣な顔をしている。


(この子は、こんなひどい嘘をつくような子ではないはずだが・・・。)


「信じてくれないの?」

「お前、自分で何を言っているのか、分かっているのかい?もし、それが本当だったら、とんでもないことなんだぞ・・・。」


エミリアの様子を見ていると、嘘をついているようには思えない。また、ただ夢を見ただけで、現実と取り違えるほど幼くもない。それが本物かどうかは別として、確かに娘はエドワード王子の名を名乗る誰かに会ったのかもしれない。だとしたら、娘が何か危ないことに巻き込まれている可能性がある。


ハロルドは、自ら事の真偽を確かめようと決めた。


「それじゃあ、その人に城に来るように言いなさい。会うから。」

「だめよ。」


エミリアは即座に顔を横に振る。


「どうして?」

「お城に来たら、いろいろな人に顔を見られちゃう。危ないわ。王子様が生きているのは絶対秘密にしてって、言われたのよ。お父様以外には・・・。」


(どうも、胡散臭いな・・・。娘を呼び出して、次は娘を使って自分を呼び出そうと言うのか。エミリアをこんなに信用させて。)


「それなら、ここに来るように伝えなさい。ここには、王宮に出入りしているような人間はいない。それに、何かあったときに、バーナードがいれば安全だから、な。」


エミリアはほっと息をついた。


「どうやって連絡をするつもりだ?」


エミリアは、モナチェスターのとある薬店に手紙を渡せば、それがエドワードに渡ることになっていると伝えた。


「宛名は?」

「テルマという名前にしてほしいって…。」


ハロルドは、従者の部屋で控えていたフィップを呼び出し、用件だけを短くしたためた書状と、薬店の名前を書いた覚書を預けた。


「その薬屋を知っているか?」

「さぁ・・・。」


薬は馬の世話をしているフィップとは関係がない。


「ですが、街に戻って聞けば分かると思います。」

「じゃ、今から街に戻り、その薬店へこの書状を届けておくれ。」

「へぇ。」

「わたしの名前は告げずに、テルマ様へですと店の者に言えば分かる。」


フィップは頭をちょこんと下げて出て行った。


(怒られずに済んだな・・・。)


もう日が暮れかけている。今からモナチェスターに戻って、その薬店が開いているかどうか分からないが、怒られなかったことでフィップの足は軽かった。


「明日、こちらのほうにわしの知り合いが尋ねてくることになってな。」


夕食後、エミリアが部屋へ引き上げたあと、ハロルドとバーナードはブラックルを楽しんでいた。


「ほぉ。どなたですか?」

「バルフォルトの知り合いでな。お前は面識がない。」


名前を尋ねられたくない意を感じ取り、バーナードはそれ以上尋ねるのを止めた。


「ちょっと、訳ありでな。最初だけ、お前も同席してもらえないか。」

「と、おっしゃいますと?」


開け放した窓から、秋の夜の冷気が忍び込んでくる。バーナードは立ち上がり、窓を閉めた。


「もしかしたら、知り合いの名前を使って、わしに近づこうとしている者がいるかもしれんので、な。」

「それは物騒ですな。」


バーナードは、静かな声で言った。


「で、いつ頃着く予定ですか?」

「わからん。昼かもしれんし、午後かもしれん。ま、あまり遅くなるようなら、構わずにモナチェスターへ帰ることにするがな。」


ハロルドは、グラスを回しながら、琥珀色の液体が蝋燭の灯りにきらきらと輝くのを見ていた。


門番は、道の向こうから馬に乗った2人連れが近づくのを、身を硬くして見守った。1人は大人の男で、もう1人は少年のようだった。2人とも、頭からすっぽりとフードのついたマントをかぶり、顔はよく見えない。


(あれかな?)


門番は、主人のバーナードからハロルド公の知り合いが来ると聞いていた。一本道をどんどん近づいてくる。


(だが、ハロルド公の知り合いにしては……。)


身なりが貧しい。あれじゃ、そこらへんの村の者と変わらない。門番は、どきまぎした。男は門までたどり着くと馬をおり、フードをおろした。背の高い若い男で、肌の色は白く、金髪の長い髪を後ろで束ねていた。


「こちらが、バーナード様のお邸だと伺って参ったのですが・・・。」


もう一人の少年は、少し離れたところで、馬に乗ったまま2人の話を聞いている。


「お名前は?」

「ハロルド公とお約束した者ですと、お話いただければわかるはずです。」


事前に話は聞いていたが、2人の様子に奇妙な感じを覚えた門番は、そのまま待つように言うと、もう1人の門番に後をまかせて、バーナードのもとへ走った。


「2名の男が、ハロルド公にお会いしたいと来ておりますが。」

「思ったより早かったですな。」


バーナードは傍らにいたハロルドに声をかけた。まだ昼になっていない。


「こちらにお通ししろ。」


門番は立ち去らない。


「どうした?朝、話しておいただろ。」

「それが」


ハロルドとバーナードは顔を見合わせた。


「どうしたのだ?はっきり申せ。」

「本当にハロルド公のお客人なのかと・・・。その、格好が・・・。」


バーナードはハロルドの顔を見た。


「構わない。通しなさい。」


ハロルドは言った。顔が少し緊張している。門番は素早い動きで去って行った。


ほどなくして、遠慮がちにドアをノックする音が響き、執事が客人を案内してきた。


(これは門番がうろたえるはずだ。)


バーナードは納得した。豪華な調度の中に、場違いな2人が立っている。村の者が着るような粗末なマントを羽織っている。前の背の高い男は、フードを下ろし、顔を見せているが、後ろの者は、フードを被ったままで突っ立っている。


(大公の前で顔を隠すとは・・・。)


バーナードが注意しようとすると、ハロルドは手を挙げてそれを制した。


「わたしが、トランサル公、ハロルドだ。」

「こちらの方は・・・。」


背の高い男が鋭い目を向け、バーナードを指し示した。


「わたしの配下で、バーナードと申す。」


ハロルドが低い声で話す。バーナードは何かあれば、すぐに動けるようにしていた。目の前の男はただ目の前にすくっと立っているが、隙がない。

後ろの少年をかばっている。


(ただ者じゃないな。)


「フードを取って、顔を見せてください。」


ハロルド公が少年に向かってきつい調子で声をかけた。若い男が振り向き、少年に一つ大きくうなずいた。彼はゆっくりフードに手をかけて、顔を見せた。濃いブラウンの髪、すっきりと通った鼻筋、澄んだ目。ハロルドが体を硬くするのがバーナードにも分かった。ハロルドが動くより早く、少年が動いた。


「ハロルド公、ご無沙汰しておりました。旅の途中ゆえ、このような見苦しい姿でお邪魔したことをお許しください。」


少年はハロルド公に近寄ると目の前で膝を折り、頭を下げた。凛とした美しい声だった。気品すら感じる。


(どうやら、知り合いだったようだな・・・。)


バーナードは体の力を抜いた。


「バーナード、もう・・・よいぞ。」


ハロルドの声がかすれていた。長年仕えているバーナードには、ハロルドがひどく動揺しているのが見てとれたが、軽く頭を下げると何も言わずにさっと部屋を出た。


「エドワード様、どうか、お顔をおあげください。」


ドアが閉まる音を聞いてから、ハロルドがささやいた。声が震えている。エドワードが身を起こすと、その前にハロルドが跪いた。エドワードは慌てた。


「ハロルド公、誰かに見られるとまずい。顔をあげろ。」


大公であるハロルドが、誰かに跪くことなどまずない。相手が、王家の人間でもない限り・・・。外から誰かが覗いていたら、奇妙な光景であること間違いない。ハロルドは言葉の通り立ち上がった。


「こんな格好でも、分かったか。門番にはずいぶん疑われたようだが。」


エドワードはおかしそうに笑った。


「まさか、本当に生きておられるとは・・・。娘が騙され、利用されたのだと思っておりました。」

「1度は危うかったが、今はこのとおりだ。」

「こちらは?」


ハロルドがちらりとテルマのほうを見た。


「いろいろあって、今、わたしの従者をしている者だ。」

「テルマと申します。」


テルマが深く頭を下げた。


「他にはお供の方は・・・?」

「今はこのテルマだけだ。」

「なんと……。」


ハロルドは声を失った。こんなみすぼらしい服に身を包み、従者がたった1人しかついていないとは。ハロルドは気を取り直して、王子とテルマを奥の肘掛け椅子へと案内した。エドワードが奥に座り、テルマがハロルドの左側に座った。


「一体、何があったというのですか?」

「わたしからお話しさせていただいてもよろしいでしょうか。」


テルマがハロルドに断る。


「先ほど、名前を申しました。わたしはテルマと申します。王室の警護の任についております。」

「というと、近衛兵の者か?」


テルマはうっすらと笑みを浮かべた顔で、かぶりを振った。


「ハロルド公は、王直属の護衛の話を聞いたことはありませんか?護衛といっても、陰の護衛で、決して表に出てくることはなく、その存在を目にし、それに命令を下すことができるのは、王ただ1人である・・・そういった護衛の話を?」

「それは、ただの噂ではないのか?」


テルマは目を伏せて、頭を大きく振った。


「実は本当なのです。わたくしめが、エドワード様つきのその陰の従者なのです。ハロルド公がどこまでわたくしたちのことをご存知かはわかりませんが、わたくしたちは一つの組織として王を陰からお守りしています。今、エドワード様についているのはわたし1人ですが、これは、少人数のほうが敵の目をやり過ごしやすいからであって、わたしのほかにも何人もの者が、エドワード様をお守りするために控えているのです。」


ハロルドは右手であごのひげをなでながら、テルマの話を聞いていた。


「これ以上、わたくしどもについてご説明さしあげるのは、恐れ入りますがご勘弁ねがいます。さて、ここからが本題ですが、わたくしどもは昨年の半ばより、宮廷内に不穏な動きがあるのを察知しておりました。」


ハロルドが、目を丸くした。


「去年、そんなに早く?」


テルマがうなずく。エドワードは顔の前で手を組んで、少し前かがみになって黙って2人の話を聞いていた。


「妙な人物に近づいた臣がいたのです。」

「妙な人物というと?」


ハロルドがテルマをじろりと見る。


「アデル王妃とレオナルド様です。」


ハロルドの脳裏に、アデルのあでやかな容姿がぱっと浮かび上がる。


「で、誰が近づいたのだ?」

「その者はもと商人、まだ宮廷にあがり3、4年と日も浅く、年齢も他の重臣と比べて若いことから、皆に特に気にとめられることもない目立たない存在でした。」

「・・・チェンバレンか?」


ハロルドは眉をあげて、尋ねた。テルマが大きくうなずく。ハロルドはため息をついた。


「少し前まで宮廷では、大公もご存知のとおり重臣はこぞって、王、そして皇太子であるエドワード様に取り入ろうと必死です。その中で、チェンバレンはアデル様とレオナルド様に注目し、取り入った。そして、頃合を見はかりこの度の計画を打ち明けたのでしょう。」

「計画というと?」


うすうす答えは分かっていた。


「エドワード様の暗殺の計画です。」


さらりともらす。ハロルドは、思わずちらりとエドワードのほうを見た。エドワードは、こくんとひとつうなずいた。


「チェンバレンはどうやら、王子暗殺のために、外国から術士を呼び寄せたらしい。」

「術士など、そう簡単に国内には入れないだろう。」

「ところが、それがチェンバレンならばできるのです。彼が宮中に上がる前の前身をご存知ですか?」


ハロルドはいつもバルフォルトに滞在し王宮の諸事に関わっているわけではなく、そういったことには疎かった。


「やつは、代々宮中に仕える身ではないのか?チェンバレン家といえば、財務の大臣を輩出している血筋ではないか。」

「彼は養子なのです。大公。前代のチェンバレン家当主は、なかなかの博打好きで借金をこしらえてしまった上、噂では、お城のお金に手をつけてしまったのだそうですよ。ここだけの話ですが。」

「なんと!」


目を丸くしているハロルドを、笑みを含んだ顔でテルマが見守る。


「代々大臣を務める名家であっても、このことがおおやけになれば罷免は免れない。にっちもさっちもいかず困っていた当主に近づいた商人がいた。それが、チャップマンだったのです。」


チャップマン商会。国内で最も大きい商会で船を何艘か持っており、近隣諸国との交易で財を築いている。


「当主には、息子がいなかった。これも目をつけられる原因となった。チェンバレンの家では、ゆくゆくは親戚筋から長女に婿をとって、次期当主とする話ができていた。ところが、借金で首が回らない当主は、婿の座を金でチャップマンに売ってしまったのです。そうして、宮廷入りしたのが、現在のチェンバレンの当主というわけです。」

「なるほど・・・。」


諸国を行き来しているチャップマン商会の船ならば、外国から物だけでなく、人を入れることもたやすい。


「なぜ、そのことがわかったのだ?」

「新年の儀のおりに、彼らはまず一度、エドワード様を狙いました。その目論見は失敗しましたが、その術式から、おそらく外国の者ではないかと。我々も多少術を扱うもので。」

「その時点で、事を公にして、チェンバレンを捕らえればよかったではないか。」

「確たる証拠がないのです。それに、チェンバレンを捕らえれば、ノラルピーナ公が彼を助けるでしょう。そして、捕らえた者が反対に捕らえられるかもしれない。」


ノラルピーナ公はアデル王女の叔父である。


「チェンバレンが異国から招きよせた術士の力は強大で、こちらがつぶされるのは時間の問題でした。そこで、我々はいちかばちかの賭けに出ました。早い段階で彼らの企みが成功したと見せかけ、彼らに王子が死んだと信じさせることにしたのです。」

「それが、今回の一連の騒動か……。」

「最大の防御とは、即ち、敵の目から守りたい物を隠してしまうこと。敵が狙うことを止めてしまえば、あとは見つからないように息を潜めているだけです。」


ハロルドはあらためて2人の粗末な服装を見た。


「王子がそのような服装をされているのも、敵から身を隠すため、か?」


テルマはうなずく。


「それでは、王はこのことを?」

「王もご存知ないことです。」


ハロルドの顔が強張った。


「王には、お知らせするべきでは……」


テルマの目が鋭く光る。


「危険なのです。たとえ王であっても、不用意にこのことをお知らせするわけにはいきません。」


ハロルドは反論しようと口を開きかけたが、ゆっくりと閉じた。体をいすの背もたれにどさりと預けて、ため息をついた。


「それで、これからどうするつもりだ?」

「エドワード様のことはふせたまま、相手の企みを探ります。チェンバレンは、まず皇太子であるエドワード様の命を狙った。次に、ヘンリー様が病に倒れ、レオナルド様が王位につきました。」

「そのことにも、まさか…裏があるのか?」


ハロルドの声は、少しかすれた。テルマは口を開き、少しためらった。


「このことは、我々しか知らないことですが、王の病は自然に発生したものではないと。やはり術を使って、毒がもられていたようだと聞いております。」

「そんなことまで。」


表向きは王家に忠実そのもののダグラスの顔が浮かぶ。


「あってはならないことだ。大公が自らの都合のよい王を立てるなど。」

「ハロルド様、王子がいずれバルフォルトへと戻り、王位につけるよう守っていただけないでしょうか?」

「もちろん、ご助力は惜しみません。」


ハロルドが即座にそう言うと、テルマとエドワードの顔が少し緩んだ。


 


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