2 エミリア
2 エミリア
310年12月
バルフォルト
現在の王ヘンリーには、子供が二人いた。皇太子であるエドワードと次男のレオナルド王子である。この2人の王子は、腹違いの兄弟だった。エドワードの母オルガは、エドワードを産むと同時に亡くなった。次男のレオナルドの母アデルは、もともとは第二夫人であった。ヘンリーはオルガが亡くなってからは、新しい夫人を迎えなかったため、現在ヘンリーの妻はアデルのみである。
***
ユージーンと話してから数日経ったある日、テルマは自分が属している西の宮の近衛士隊の隊長に呼び出された。明日付けで東の宮に異動になる。
正式な命令書をもらった。テルマはそれを両手で押し頂き、隊長の部屋を出た。荷物といえるほどの荷物はない。夕方、すでにうす暗い中を北の宮を回って東の宮へと急いだ。冬の冷気が身に染みる。
東の宮の駐屯所で手続きを終え宿舎に落ち着いた頃には辺りはすっかり真っ暗になっていた。
宿舎の部屋は2人部屋で、同室の人間は同じケンソルブリーの出身だった。ティモシー・フロストという名の青年である。何かと動きやすいように誰かが手を回したのだろう。
その日、深夜になるのを待ってテルマはそっと部屋を抜け出すと、東の宮へと向かった。
夜空を見て、月と星の位置で方角を確認すると、まず宮の裏手の東の地点に赴き、懐から手の平に軽くのるくらいのすべすべの白い石を取り出した。ぶつぶつと何かを言いながら地面を掘ってそれを埋める。次は北へと行く。
王宮の中は昼も夜も衛兵によって守られている。巡回が途切れることはない。見つかっては厄介だった。テルマは闇夜をすべるように動いた。一番苦労したのは西だった。中庭に面する宮の正面でもある西側は、身を隠す場所がない。常に兵の立っている駐屯所から丸見えなのである。
テルマは物陰で低い口笛を吹いた。しばらくすると上空をばさばさと飛ぶ音が聞こえた。もう一度低い口笛を吹くと、その鳥が下りてきて彼の肩に泊まった。
大きな黄色い目、立派な梟だった。
テルマは梟に向かって低い声でぼそぼそと何か話して、しばらくして梟を再び夜空へ放った。テルマがいた北側とは正反対の南側のほうで、巡回中の衛兵が叫び声をあげた。その声に驚いた衛兵が正門を空にして走り去った。後には駐屯所に1人の衛兵が残るばかりである。
(すまん)
心の中でそうつぶやくと、テルマは懐から小さな筒を取り出し、その衛兵の首もとめがけてふっと吹いた。筒から飛び出した吹屋が刺さった。男はぐらりと力を失い倒れこむ。頭を打つところを駆け寄って支え、ゆっくりと地面に寝かした。
あとあとが面倒なので、矢は抜き去る。死んではいない。眠らしただけ。
時間がない。テルマはぱっと表へ出た。
今夜のうちにやってしまわないと、また別の日に一からやり直さなければならない。最後に真西の方向に白い石を埋め終わった。
これで東の宮を囲む防御の陣ができた。
これで、他の人間や動物、或いは紙や布、人形などに自らの魂をのせて操り、呪術者が入り込むことはできなくなった。
テルマはまっすぐ宿舎へと戻った。
3週間ほどは何事もなく過ぎた。
その頃には新年の儀が始まり、王宮は貴族たちでにぎわうようになった。
その夜、エドワードの屋敷の門の傍らでテルマは夜勤についていた。
ぴーん
ふいに体全体に不思議な振動を感じ、体がびくりと震えた。
(まさか)
ぱっと身をひるがえし、波動を感じた方向へと駆ける。誰もいなかった。テルマは視線をめぐらした。動く物は何もなかった。今度は後方を見渡す。こちらにも何も見られない。
地面をさっと見渡した。何か落ちていないかと目をこらしたが、何も落ちていなかった。
(気のせいか?)
だが、さっきの波動ははっきりした強い物だった。間違えようがない。
(一体、誰が……)
朝、交替の者と替わるとすぐに馬をかけさせた。朝もやの中を休まずにかけ、一時間ほどで村についた。ユージーンはいつもの部屋でテルマを迎えた。
「まだ、朝飯もくっとらんぞ。どうした?」
白い髭をなでながらのんびりした声を出す老人を見ていると自分が心配しすぎているのだろうかとも思った。テルマが手短に昨夜の話をすると、長老はじっと黙った。
あまり驚いていないように思えた。
「やった者にお心あたりがあるのですか?」
あの強い波動。もちろん普通の人間ではない。向こうも術者だ。
長老は少しばつの悪そうな顔をした。
「はっきりしないうちは黙っていようと思ったのだが、最近、エドガーを見かけたという者がいてな。」
テルマは耳を疑った。衝撃を隠せない。ユージーンは両手を振った。
「いや、まだ分からない。見かけた男も、遠くからちらりと見ただけだから、自信がないというんじゃ。だが、気になってな。おばばに占ってもらった。」
「おばばはなんと?」
テルマの声が鋭くなった。ユージーンは咳払いをした。
「すぐ近くにいると出た。」
テルマはうつむいた。何の因果だろうか。自分が従者となったときに、過去の災厄が舞い戻ってくるなんて。
「まだ、わからんぞ。」
「ですが、今までおばばの占いが誤った答えを出したとは聞いたことがありません。」
長老は難しそうな顔でやれやれと頭を振った。
「父だとお思いになりますか?」
「この国で術を扱うことができるのは、我々の一族かどこかへ消えたと言われているシュバルツの子孫だけ。彼らは身を隠していて簡単に人前に出ようとはしない。異国から海を越えて何者かが侵入したのかもしれんが……。やはり、エドガーかと思う。」
「今更この地にどんな用があると言うのでしょう?」
「テルマ、相手は今エドワード様の傍に従者がついていることは知らなかったはずじゃ。術を使って何をしようとしていたのか?失敗したのだ。こちらが体制を整える前にもう一度何か手を打ってくるのではないか?すぐ戻りなさい。嫌な予感がする。」
ユージーンは渋い顔でそう言った。テルマは立ち上がり一礼した。
「何かあればウィリーに言いつけなさい。」
出て行こうとするテルマに長老が呼びかける。お茶を準備してきた小間使いとドアの所でぶつかりそうになった。
「まぁ、もうお帰りになるんですか?慌ただしいこと…。」
テルマはその声を背中で聞いた。
「相変わらず無愛想な子ですね。」
小間使いはぶつぶつ言いながら、一人分のお茶を長の前に置いたが、主はその声に応えなかった。
***
冬の冷たい空気の中を再び馬をかけさせる。
(まさか帰ってくるなんて……。)
ほどなくバルフォルトの街が見えてきた。まだ昼前だった。一度宿舎へ戻ると、簡単な食事を済ませて、ベッドにもぐりこんで少し眠った。
目を覚ましてベッドに起き上がると、少しめまいがするような気がした。
(少し寝たせいでかえって疲労が出たか。)
貴重な聖水をこんなことで使いたくなかったが、今日は嫌な予感がする。ベッドの脇の棚の引き出しを引くと、ガラスの小瓶を取り出した。
「う~ん。」
隣のベッドで寝ていたティモシーが寝がえりをうつ。目を覚ますかと思ったが、また深い眠りに落ちていった。ティモシーも昨日は夜勤だった。
テルマは小瓶のを抜き、中の液体を少しだけ口に含んだ。
口からのど、腹の中へとかぐわしい香りが広まり体中をかけめぐる。頭や手足のだるく重い感じが消えた。
テルマは衛兵の制服の上からすっぽりとフードのついたマントをかぶって顔を隠した。
何か起こる場合を考えてうちポケットにいろいろな物を入れておく。
テルマは外に出ると、東の宮へと下りる小道には向かわずに雑木林の中へと続く道を選んだ。少しいくと道が大きくカーブし、見晴らしのいいところへ出た。左前方に東の宮が見える。ここからなら宮に入り込む人間と出てくる人間を見張ることができる。
テルマは切り株に腰をおろした。まだ昼前だった。
一度北の道を通って馬車が来た。入口で衛兵が中を改めている。幌の中も見てから中に通した。厨房の料理人が乗っているはずだ。西の宮まで毎日食材を受け取りに行くのだ。
昼をすぎ、しばらくの間は何事も起きなかった。異変が起きたのはテルマが空腹と寒さにすっかり参ってしまっていたころ、昼の2時か3時を過ぎたあたりだったろう。宮の北のテラスに人影が見えた。ふらふらとした足取りで庭に下り、宮の木立の中に消えた。
エドワードだった。
この寒さに外套もつけず、供もつけずに1人で出るのはおかしい。
宮の周りを巡回している衛兵は誰も気づいていない。
テルマはさっと立ち上がり、宮へ向けて駆け下りた。
さきほどエドワードが林へと入り込んでいった所まで来た。エドワードの姿はもう見えない。テルマは迷わずに木立の中へ入った。枯れ葉をがさごそと踏みつけ前へ前へと進む。
(こっちだ)
人の気配がした。エドワードだけじゃない。もう1人、いや、2人?木立の合間に動く物が見えた。エドワードと、その奥にもう1人……。あれは誰だろう?
「キャー」
甲高い悲鳴があがった。
***
その日の午後、エドワードは東の宮の自室にいた。
窓際のソファーに腰かけ、ぼんやりと窓の外を眺めながらとりとめもないことを考えていた。
茶色い髪は父譲り。顔立ちはどちらかといえば母のオルガに似ていて、女性らしい優しい顔立ちをしている。
連日続く儀式や集まりの合間にぽっかりと時間が空いて、エドワードは疲れた体と頭を休めていた。立場上、大勢の人間と顔を合わせて言葉を交わすことには慣れてはいたが、この年初めの社交シーズンともあると、その忙しさ煩雑さは格別で、やっと1人になれてほっとしていたところだった。
(なんだろう?この香りは)
ふと嗅ぎなれない香りを嗅いだ。甘い香りである。
部屋を見渡すと、テーブルの上に見たことのない赤い花が置いてある。
香りがどんどん濃くなる。
エドワードは急に眠くてたまらなくなり、ソファーに腰かけたまま目を閉じた。
しばらくすると夢の中にいた。真っ暗闇の中でしゃがみこんでいて、周りには何も見えない。ただ、さきほども嗅いだ甘い香りが強く漂っていた。
(誰かがいる……)
目の前の闇の中に何も見えないのに誰かがいると感じた。それは、冷たい目でこちらを見ている。これは何だろう?闇の中から誰かの冷たい感じが漂ってくる。悪意とでも言おうか。殺気とでも言おうか。エドワードはぞっとして、腕に鳥肌がたった。
すると、急に体が勝手に立ち上がった。
(なんだこれ。嫌だ。)
そして、自分の左手にぽっと青白い炎のようなものが現れた。驚いてそちらを見たが見てすぐになぜか安心した。
これは前の闇の中にいる者とは別の者だ。それが分かった。
と、ふいにすごい力で前へ引きずられた。足が勝手に前へ出る。
一瞬おさまった恐怖が一気に燃え上がる。
(助けて!)
夢の中で叫んだ。力の第2波がおしよせる。ふらふらと前へ進みたくなくても足は進む。
(助けて!)
もう一度叫んだ。
すると、傍らで輝いていた青白い炎が大きく燃え上がり、一層強く輝いたかと思うとエドワードを一気にのみこんだ。
(うわぁ~)
驚いて叫び声をあげた。しかし、なぜかこの炎は熱くなかった。そして、ふっと前から惹かれる力が糸が切れたように途絶えた。
エドワードはバランスを崩して後ろに倒れた。
***
トランサルピーナ大公ハロルドの三女であるエミリアが、キサルピーナに行けることになったのは運がいいとしか言いようがない。
今回父に代わり名代を務めるのは兄のクレイグ、それにジーンが参加すれば十分なはずだった。
新年の儀には、大公と伯爵たちが集まる。自らが参加するところもあれば、子息が参加することもある。年の初めのひと月ほどを美しい都で過ごす。この時、都に集った才子佳人は美しい衣服に身を包みながらお互いに目くばせをしあう。この場で独身の貴族たちが知り合い、そこから縁談へと発展することもなくはない。新年の儀にはそんな隠れた目的があるのである。
また、今年は皇太子であるエドワードが16歳。ブラスト家の代々の王室は公爵や伯爵の家の娘から妃を選ぶ慣わしになっていて、これは貴族の最大関心事である。今年、来年、再来年あたりは、公爵、伯爵たちにとってはもちろん、やんごとなき姫君たちにとっても気の抜けない時期なのである。
ハロルド公はクレイグとジーンの2人を都へと行かせるつもりでいた。
だが、ジーンは2番目の姉、フェリシアを連れていくといった。
「お茶会とかに誘われたとき、1人だと何かと不自由なのよ。」
「クレイグがいるじゃないか。」
ジーンの目がちょっととんがった。
「お父様、女同士の集まりにお兄様は連れていけませんわ。」
「そういうものか。」
のほほんとしているハロルドの横で、母のフィオナが咳払いをした。ジーンは14になる妹のフェリシアをにこやかに見た。
「もちろんあんたも行きたいでしょ?」
「別に行ってもいいけど。」
フェリシアは無表情だった。この姉はあまりこういうことに興味がないのだ。横で聞いていたエミリアはがっかりした。彼女も一度王都へ行ってみたかったのである。
ところが、出発が近づくとフェリシアは風邪をこじらして寝込んでしまった。
「移動している途中で具合がよくなるかもしれなくてよ。」
ジーンはあくまでフェリシアを連れて行きたがった。
「だめだ。」
普段は娘に甘いハロルド公も今回はイエスと言わなかった。
「でも、1人で行くのはきづまりですわ。」
エミリアはもしかしてもしかするかもしれないと、父と姉のやりとりをそばで聞いていた。
「そんなに1人が嫌ならエミリアを連れていけ。」
エミリアは父の言葉を聞いて思わずにやりとしてしまい、慌てて下を向いた。
「え~」
ジーンは不満げな声を出した。フィオナがたしなめる。
「エミリアの何が不満だというの?」
「だって……」
ジーンはちらりと横目でエミリアを見る。エミリアは姉と目線を合わさないように下を見続けた。
「わがまま言うのはよしなさい。それが嫌ならクレイグとお前で行くんだ。」
父が少し怒った声で言う。
「しょうがないわね……」
ジーンがそう言った瞬間、エミリアは廊下を大声をあげながら走り回りたいほどに興奮した。
(行ける!出られる!トランサルを出て、バルフォルトへ!)
ジーンは意地悪だったが、バルフォルトへ行ける喜びであまり気にならなかった。
***
そして、エドワードが自室で眠りに落ち奇妙な夢を見ていた頃、エミリアは新年の儀でバルフォルトにいて、西の宮のゲストハウスで本を読んでいた。クレイグとジーンは妹を1人にしてどこかへ出かけていた。小間使いのパティが尋ねる。
「空気を入れ替えましょうか?」
エミリアは読んでいた本から顔を上げた。
「寒いよ。」
「でも、空気を入れ替えたほうがいいですよ。」
「う~ん。」
パティは庭へと通じる窓をさっさと開けた。エミリアは膝にかけていたブランケットを広げて肩まで覆った。まだあどけないふっくらとした頬をくるくるとした巻き毛が縁取っていてる。灰色がかった茶色い髪が、つややかで愛らしい。
「さむい~。」
足をばたばたさせる。
「エミリア様」
口をきっと結び、傍らにいた侍女のサンドラがたしなめる。エミリアはしかめ面をしてみせた。
「モナチェスターを出てから、お稽古事もお勉強もないのはいいんだけど、ちょっと退屈。」
「一階にピアノがございましたからお借りして少し練習されてはいかがですか?」
「ピアノ……、あんま興味ないの。」
「でも、ある程度お弾きになれないと、あとあとお困りになるかと。」
「どうして?」
「エミリア様は大公のご息女ですから、一通りのことがそれなりにできませんと……。」
「げえ、またそれか。」
「エミリア様!」
かわいらしい顔をして、このご身分で、一体どこからこんな話し方を覚えてくるのだろう?お屋敷で働いている下男がこっそり教えてるのだろうか。サンドラは背筋がぞっとする。
「わたし、ピアノより馬に乗りたいなぁ。」
サンドラは聞こえないふりをした。
エミリアはしとやかに馬を歩かせるタイプの人ではない。それこそ、ドレスの裾が乱れるのも構わず男顔まけに飛ばすのだ。馬でぱっぱかぱっぱか走ってるのを近隣のやんごとなき皆様方にお見せするのはいかがなものか。そんな様子を見せるべきだと賢明な彼女は思わない。
エミリアは馬をあきらめて本に戻ったようである。
「午後のお茶の支度をしてまいります。」
サンドラはいそいそと部屋を出た。
エミリアは本の内容に集中できない。なんとなく頭が重く感じられ、まぶたが重くなり、次第に周囲の音や感覚が遠くへと押しやられていく。
エミリアは椅子に座ったまま眠りこんでしまった。
エミリアはいつのまにか闇の中にしゃがんでいた。
自分以外に何も見えない。
(いかなくちゃ)
なぜか強くそう思い、ふと立ち上がると前にすたすたと歩き出す。
何かが前にいてその何かに引っ張られている感じがする。
(急がなくちゃ)
必死で前へ進む。あと少しでたどり着く。
ふいに木立の陰から誰かが体を現した。フードの付いたマントを着ている。
フードで隠れているし、うす暗くて顔はよく見えないが、体つきから女のようだった。
その女の手がゆっくりとおいでおいでをするように動いた。彼女が手を振ると、マントの袖がずり落ちて、白い腕がひじまであらわになった。
驚くほど白い腕。
その白い腕を見て、今までの急がなくちゃという焦燥が一気に消え去り、恐怖が沸き起こる。冷たい水を浴びせられたように頭がはっきりとして、近づいてはいけないと何かが告げている。
エミリアは後ずさりしようとするが、足は意に反して一歩も動かない。
じりじりと前へひきずられてしまう。
女の赤い唇がにやりと笑う。
女はもう一度ひらりと手を振った。
(行きたくない)
今度ははっきりとそう感じた。それなのに自分の体はじりじりと前へ出てしまう。
(こわい)
心臓がどきどきして全身に汗をぐっしょりかいている。声をあげたいが、なぜか一言も発せない。
ふいにぴしりと空気が震えた。
それと同時に足元に何か黒い物が飛び出てきた。
「キャー」
悲鳴をあげた。左足に鋭い痛みが走り、エミリアはそのまま気を失った。