22 嫉妬
22 嫉妬
その日の午後、皆は馬術の訓練のために、モンコロナの西の裾野に広がるコロナの森の中にいた。リュケイオンの民はこのコロナの森の脇に自分たちの厩舎を持っていて、馬の世話をする役の村人が傍らに住んでいるのだ。
訓練中に、オーガスティンは馬術の師匠であるグラントの目を盗んで、なれない仕草で馬を走らせるルシアスの傍に寄ると、
「お前生意気なんだよ。」
そうルシアスにだけ聞こえるように囁くと、ルシアスの乗っている馬のしりに火をつけた。
火は一瞬で消えたが、馬は驚き興奮してするどくいなないた。後ろ足で立ち、前足で空をけると、全速力で駆け出した。
「うわぁぁぁぁ。」
すぐ前で並足で馬を歩かせていたデューイは、何が起きたのか分からなかったし、分かったとしても、自分も馬に不慣れなので追いようもない。グラントは、ずっと後方にいて騒ぎに気がついていない。唯一一人一部始終を見ていたヘクターが迅速に行動した。鞍から尻を上げ前屈みになると、手綱をぴしりとあててルシアスの馬を追った。
「うわぁ~。助けて~。」
ここに来るまで馬に乗ったことのないルシアスは、手綱をおとし目をつぶって馬の首筋にしっかと抱きついている。
「おい、しっかりしろ。目を開けろ。」
「できないよ~。」
ルシアスは、馬の上に乗っただけで怖かった。下から見るより馬の上は高かった。その馬が今は全力疾走している。しがみついているだけで、必死である。ヘクターは慣れた手つきで馬を走らせながら、横を向き、大声で叫ぶ。
「死にたいのか!」
『死』という言葉に、反射的に目を開けた。周りの景色がすごい速さで飛びすぎていく。そばを誰かが走っている。
「手綱を取れ!手綱だ!」
ヘクターが声をかぎりに叫ぶ。
(手綱・・・?)
馬の首にしがみついたまま、手さぐりで探す。なんとか探り当てた。
「引け!」
「できないよ~。」
しがみついた体を起こしたら、振り落とされそうだ。
「両足にぐっと力を入れろ!両足で馬につかまるんだ!大丈夫、落ちない!」
ルシアスは馬の背にしがみついたまま、横を見る。自分と並んで必死に駆けているヘクターの顔が見える。その顔が涙でゆがんだ。
(両足に力・・・)
歯を食いしばる。足を馬の体にぴったりとつけ、右手と左手で手綱をぎゅっと握ると、体を起こした。
「止まれぇ。」
思いっきり引っ張った。馬が鋭くいななき急停止して、後ろ足で立ち上がる。
「うわぁぁぁ。」
もう一度首にしがみつく。暴れまわる馬の背で、尻が何度も鞍から浮いた。ヘクターはルシアスの馬が急停止すると、すぐ手前で自身の馬を停め、飛び降りた。ルシアスの馬の脇へよると、馬の首筋をぽんぽんとなで『どうどう』と掛け声をかけながら、なだめる。馬は次第におとなしくなっていった。
「降りれるか?」
ルシアスは馬の背にぴったりとくっついていた。だるそうに顔をあげる。顔色が真っ青だ。
「跳べ。俺が受け止めてやるから。」
ルシアスは片足を鐙から外し、跨っていた足を外して片側から降りようとしたが、途中で手が滑り体が後ろに倒れた。ヘクターが支えた。ゆっくり地面に座らせると、揺さぶられた衝撃に参ったのか、胃の中のものを吐き始めた。ヘクターはゆっくり背中をさすってやった。少し落ち着いたときに、グラントと何人かが追いついてきた。
「どうしたんだ?」
グラントのじいさんが、ほえるような声で聞く。ヘクターは、見たことを言うべきかどうか迷った。
「あの・・・。」
ヘクターの肩をルシアスがつかんだ。ヘクターが振り向くと、青白い顔をしたルシアスが、軽く首を横に振った。
「急に、馬が暴れ出したんです・・・。」
じいさんは馬を下りて、近くへ来た。
「なんで、暴れたんだ?」
眉をしかめている。
「・・・分かりません。」
じいさんはいぶかしげな顔でこちらを見ていたが、ルシアスの顔色の悪さを見ると、ルシアスを自分の馬に乗せ、ルシアスの馬はヘクターに引かせた。他の者は、馬を厩舎に戻させ、家へ戻らせた。ルシアスは部屋に運ばれ、そのまま寝込んでしまったらしい。夕食には、顔を見せなかった。
「今日、昼間に何かあったの?」
ルシアスの祖母、エイプリルが心配をして聞いた。彼女はこの村に来てから、村の簡単な農作業を手伝うかたわら、三人の子どもの世話をしている。グラントに付き添われて帰ってきたルシアスは、エイプリルの顔を見ても何も話さなかった。
「訓練中にね、馬が急に走り出しちゃって…。なんとか止めたんだけどさ…。」
デューイがぺらぺらと話した。ヘクターは何も言わずに食事を続けた。エイプリルは暗い顔をした。
「大丈夫だよ。一晩寝たら治るって…。」
デューイはエイプリルを慰めた。
翌日は、皆長老の庭に集まった。ルシアスの姿はそこには見えなかった。
「死んだらどうするつもりだった?」
ヘクターは、オーガスティンを見つけると、近寄って一言つぶやいた。オーガスティンの顔がみるみる青くなる。
「死ぬかもしれないって思わなかったのかよ。あいつは、馬に乗ったことほとんどなかったんだぞ!」
いつもは冷静なヘクターが珍しく声を荒げたので、周りの皆は驚いた。ヘクターはそれだけ言うと、むすっとした顔で向こうへ行ってしまった。
重苦しい雰囲気が残った。
「あれ、どういう意味だ。」
その日の夕方、アベルはオーガスティンの家を訪ねた。彼の部屋でオーガスティンはこちらに背を向けて机に座っていた。
「あれって?」
「ヘクターが今朝、お前に言った言葉だよ。」
アベルは極力、相手を責めるような口調にならないように気をつけながら、空いているベッドに腰を下ろした。
「お前、あのちびの馬になんかしたのか?」
低い声で問いかけた。オーガスティンは両手で頭を支えながら下を向き、身じろぎもしない。聞こえなかったのかと思って、アベルが再び口を開こうとすると、
「あいつ、生意気だから・・・。」
そのままの姿勢で、ぼそりとつぶやいた。アベルはため息をついた。オーガスティンはこちらを振り向いた。暗い目をしていた。
「アベルだって、嫌いだろ?ロージーだってさぁ、あいつが来てから、あいつのことばっか追いかけてさぁ。アベルだって、俺がしなきゃ、やっただろ?」
「俺のことは関係ないだろ。俺を言い訳にするのはよしてくれよ。お前があいつにむかついていたから、やったんだろ?」
机に置かれた蝋燭が、オーガスティンを背中のほうから照らす。冬の日暮れは早い。外はもう薄暗かった。
「アベルは俺よりヘクターやあのちびのほうが大切なのか?」
唐突にオーガスティンが聞いた。思わず、アベルは微笑んだ。こいつのことは小さい頃から知っている。出来の悪い弟のようなものだ。オーガスティンがほっと頬をゆるめる。
「俺が心配しているのは、お前だよ。お前、自分が何をしたのか、ぜんぜん分かってないな。もし、傍にヘクターがいなかったら、あのちびは馬から振り落とされて、大怪我してただろ。打ちどころが悪かったら、死んでたかもしれない。それから、お前が何かしたって分かったらどうなる?」
オーガスティンの顔が少し硬くなった。
「百年ぶりに現れたヘロスだぞ。リュケイオンにとって、ヘロスの血が大切なことはお前だって知ってるだろう?それが、がきのまま死んじまったら、次のヘロスが現れる前に俺たちの血は絶えちまう。お前は、もう村にはいられないさ。追放だよ。」
アベルは穏やかな声で話した。愚かで軽率なところがあるが、こいつは話してわからないやつじゃない。
「あんなに、すごいことになるって思わなかったんだ。ちょっとだけ、おどしてやろうと思って・・・。」
オーガスティンの声が少し震えていた。
「ヘクターに感謝するんだな。たいしたことにならなかったんだから。それに・・・」
「それに?」
「あのちびにも・・・。」
怯えを全面に出していた顔に、さっと怒りの表情が走った。
「なんで、俺があのがきに感謝しなきゃいけないんだよ。」
(お前も十分がきだけどな…。)
オーガスティンの興奮して鼻を膨らませた顔を見ながら、アベルはそんなことを考えた。
「よく考えろよ。あいつ、グラントのじいさんにお前が馬になんかしたって、言わなかったんだろ?」
そのことにはもちろん、オーガスティンも気がついていた。
「さっきも言ったけどな、リュケイオンでヘロスになんかしたって分かったら、お前、村にいられないぞ。何か言われてたら、いろいろややこしいことになってたよ。今頃・・・。」
「じゃ、これからは、あいつの機嫌をそこねないように、あいつの言うことひたすら聞いてろってことかよ。」
アベルはあきれた。
「お前、言うことが極端だなぁ・・・。そうは言ってないだろ?」
「じゃあ、どういう意味だよ。」
アベルは片手で自分の首の後ろをかいた。
「お前が、誰を気に入らないで、誰にいたずらしようが、誰とけんかしようが、俺は何も言わないさ。だけど、今日お前がやったことは、いたずらやけんかの度を越してるだろ?下手すら人が一人死んでたんだ。」
オーガスティンはアベルの言葉にぐっと下を向いた。アベルは優しい声を出した。
「本当は、お前もまずいことしたって思ってんだろ?ヘクターのおかげで、たいしたことにならなくて、良かったって思ってんだろ?」
アベルは、沈黙が肯定の印だと考えた。
「お前、明日、あのちびに謝れ。」
「嫌だよ。」
「いいから、謝っとけよ。」
オーガスティンは膨れ面で目をそらした。アベルは、また、一つ大きくため息をつくと、
「言いたいことは言ったからな。」
と言って立ち上がった。そして、もう一つ言いたかったことを思い出した。
「あ、そうそう、念のため言っとくけど、俺はロージーのことはなんとも思ってないからな。別にロージーがあのちびを好きだろうと、誰を好きだろうと構わないよ。」
「うそ・・・。」
「こんなことで嘘をついてどうする。俺の名誉のために言っておくが、俺はあんなにうるさい女はごめんだよ。」
『あいつを好きなのはお前だろ?』とつけ加えてみたかったが、やはり言わずに部屋を後にした。
アベルとオーガスティンが二人で部屋で話した時間から遡ること、四、五時間。
玄関の方に誰か来たらしい。ベルの音がして、キャリーがドアを開ける音がした。あら、とか、まぁとかひとしきり何か話している声がして、それから、主の名前を呼んだ。
「イーディス様~?」
ちょうど、イーディスは鼻の上に小さな丸い眼鏡をちょこんとのせて、文献を読むのに集中していた。どの地方にどんな植物が分布しているか、それぞれの地方でそれらの植物がなんと呼ばれているか、どのように利用されているかなどが書かれている。イーディスは、一日の大半をこういった知識を吸収するために使っている。もっとも手に入れたその知識を使って何かすることはほとんどないのだが・・・。
「なんだよ。うるさいねぇ。」
不機嫌に玄関のほうへ出て行く。イーディスの世話に慣れているキャリーは、主が不機嫌そうにしていても、動じることはない。
「誰が来たと思います?」
キャリーは、楽しそうに笑っている。後ろの人影が、おそるおそる顔を覗かせた。
「ルシアス!!」
ルシアスは怒られるのではないかと言わんばかりの顔で、こちらを見ていた。イーディスは口をぽかんと開けたまま、しばらく黙っていた。来てもいいとは言ったが、まさか本当に来るとは思っていなかった。しかも、こんなに早く・・・。
「相談があったら、来てもいいって言ったでしょ。」
キャリーは傍に立って、面白そうに二人の様子を眺めていた。キャリーは二人に言った。
「中でお座りになってお話したらいかがです?」
「で?何だ?」
昼食にはまだ早いので、キャリーが紅茶とバターを添えたベスク(小麦粉に牛乳を混ぜて焼いた丸くて小さいパン)をいくつか盆に載せてきた。いつもの、客間で向かい合った。先ほどまでイーディスが見ていた文献が、乱雑にテーブルの上に重ねられている。ルシアスがイーディスの家を出てから、まだ三、四日しか経っていない。
「・・・。」
「お前、今日は訓練に出てないようだな。お前がここにいることを、エイプリルには言っておいたのか?」
ルシアスは首を振った。
「なんだ、姿が見えなきゃお前のばあ様、心配するだろう…。」
ぱんぱんと手をたたく。キャリーが入ってきた。
「お前、外に出る用事があったらついでにエイプリルのところへ行って、こいつがここにいるってことを伝えて来い。」
キャリーはルシアスににこりと笑ってから出て行った。
「ごめんなさい。」
イーディスは別に怒っていなかった。
「それより、早く何があったのか、聞かせな。気になってしょうがない。」
イーディスは紅茶を一口のんで、ベスクを一つ手に取ると、むしゃむしゃ食べた。
「やっぱり、僕、ここで修行させてもらえない?」
イーディスはルシアスを見ながら、むしゃむしゃ口を動かした。
(そんなこったろうと思ったがね。)
「なんで?何があったか聞かせろと言っただろ?」
「僕が、あそこにいると、みんなおもしろくないみたいだし・・・。」
「いじめられたのかい?」
ルシアスの目が暗くなった。イーディスはちらりと、自分がまだ子どもだった頃を思い出した。今でこそ、自我の強い自他ともに認める術士になったが、子どもの頃のイーディスはもっと控えめな性格だった。ひがみからくる周りの嫌がらせに、人並みに傷ついたものだった。誰だって、最初から強い者なんていない。
「誰に?」
ルシアスはきゅっと口を結ぶと、ぶんぶんと首を振った。
「言いたくないのかい?じゃ、何をされた?わしにだけ話せ。その内容次第で、どうするか決めるから・・・。」
ルシアスは、テーブルの上の紅茶をじっと見ながら、口を開いた。
「馬が暴れ出して、すごい勢いで走り出して・・・。落とされそうになった。必死につかまって、なんとか、止められて助かったけど・・・。すごい、怖かったんだ・・・。」
「どうして、馬が暴れたんだい?」
「おしりに・・・火がつけられて、馬がびっくりしたの・・・。」
(こりゃ、ちょっとひどいね。)
イーディスは心の中でつぶやいた。
「お前の周りの誰かがわざと馬に火をつけたのかい。」
こくんとルシアスがうなずいた。
「お前、このことを他の誰かに言ったかい?」
ルシアスは首を横にふった。
「やれやれ・・・。」
イーディスは親指と人差し指で、みけんの下、目と目の間のあたりを軽く揉んだ。
「わしは、別にお前の一人や二人、エマの代わりに教えてやったっていいさ。だけど、お前はそれでいいのかい?だって、友だちがほしいって言ってたじゃないか。」
「もう、いいよ・・・。」
ルシアスは、手元のフォークで、ベスクをつついた。
「リュケイオンの子も、ヘカト村の子も一緒だよ。やっぱり俺が嫌いなんだよ。」
ぐさっと、フォークをさした。
「まだ、ほんの少ししか一緒に暮らしてないじゃないか。そう、決め付けるのは早すぎるんじゃないのか?」
ルシアスは暗い目を上げた。
「僕、馬なんて触るのも、乗るのも、ここに来て初めてなんだ。そんなの、ちょっと見れば、みんなわかるでしょ。そういうの分かってて、火、つけたんだ。すごい勢いで走り出して、ほんとうに死ぬかと思った。火、つけたやつ、そのくらい僕のこと嫌いなんだよ。いなくなってくれって思ってる・・・。そんなに嫌われているのに、そいつの近くで暮らせる?」
イーディスは説得できる言葉を探した。
「みんなが、そんなふうに思ってるわけじゃないだろ?」
ルシアスは小さくため息をついた。
「わかんない。そうかもしれない。・・・でも、もういいんだ。」
***
夕方、ヘクターがデューイより一足先に家へ帰ると、人気のない家にエイプリルがしょんぼりといた。
「ルシアスが、イーディス様のところに?」
事情を聞いて、ヘクターは眉をしかめた。
「あんた、昨日、馬が暴れたとき近くで見てたんだろ?なんか気がついたことなかった?」
(話したほうがいいのか?)
眉のあたりをくもらせて、じっとこちらを見つめるエイプリルを見ながら思った。だが、あの青白い顔をして自分の肩をつかみ、首をふったルシアスの顔が思い浮かんで止めた。
「いや、特に、何も・・・。」
「そう・・・。」
気遣わしげなエイプリルの様子を見て、少し悪い気がした。
「俺が行って、様子見てきましょうか?」
エイプリルがひょいとヘクターの顔を見た。
「俺が行ったほうが、あいつも気が楽なんじゃないですか?何か、戻りづらい理由があるのなら、俺のほうが話しやすいかもしれないし・・・。」
エイプリルはじっとヘクターの顔を見た。
「驚いた・・・。」
「え?」
「いつもは、あんまり自分からしゃべんないけど、あなた、優しいのね。」
ヘクターは顔が赤くなった。エイプリルはにっこり笑った。
イーディスの家につくと、キャリーがドアを開けた。珍しい客に、目をぱちくりさせている。ヘクターが自分の名前と、来意を告げると、キャリーは奥に引っ込み、ほどなくイーディスが出てきた。
「お前は?」
「ヘクターです。」
「エマんとこで修行してる?」
ヘクターはうなずいた。リュケイオンの民は六十人あまりと少なく、普通はお互いに知らない者などいないのだが、イーディスはあまり外には出ないし、自分から積極的に周囲と関わろうとしないので、ヘクターを知らなかった。イーディスの目が上から下までを、品定めするように動く。最後に『ふん』と鼻を鳴らされた。
「何しに来た?」
ヘクターはキャリーにした説明をもう一度繰り返した。
「ルシアスの様子を見に来ました。」
不機嫌そうな顔で、もう一度じっと見られた。
「あんた、あのちびの友だちかい?」
(友だち・・・)
デューイだったら、きっとためらわずに、『はい』と即答しただろう。でも、ヘクターは何も言えずにいた。少しの沈黙のあとに、ヘクターはぽつりと言った。
「あいつのこと、心配で、来たんです。」
イーディスの眉が『ほぉ』というふうに持ち上がった。
「お前、昨日本当は何があったか、知ってんのかい?」
「ええ。近くで見てましたから・・・。」
「ふぅん・・・。」
午後の光が次第に弱くなっていく。
「あの子はさ、体は平気なんだけど、心が傷ついちゃったみたいだね。ここで、わしと一対一で術の修行をしたいんだと、さ・・・。」
イーディスは、玄関前のテラスのゆり椅子に腰掛けた。ヘクターは、直立したまま、かしこまって話を聞いている。
「でも、わしは、さ。あいつもやっぱり、おまえらと一緒にいたほうがいいと思うんだよ。たった十歳のがきが、こんなばぁさんと一緒にいて、何が楽しいっていうのさ・・・。」
イーディスは椅子に体を埋めて、斜め上の空を見上げた。
「お前、説得して連れ帰ってくれよ。あのがき、わしの言うことはききゃしないんだ。かわいい顔してるけど、頑固だよ。」
そういうと、ヘクターのほうをみてにかっと笑った。
「家の裏にいるからさ。」
ヘクターがイーディスに言われて、家の裏手に回ると、遠くモンコロナの頂上へと続く緩やかな傾斜が一面に広がっていた。丘の中腹の木の下に、ルシアスが一人でぽつりと立っている。こちらには気がついていない。ルシアスは顔を斜め上に上げて、木の上のほうについている枯れ葉を見ている。ヘクターはルシアスのほうへ向かって、ゆっくりと傾斜を登り始めた。ルシアスとヘクターが見ている前で、木の上のほうの枯れ葉にぽっと火がついた。そして、風に揺られて枝を離れ、ゆらゆらと揺れるうちに全てが灰になって風にさらわれていった。
「修行は休まないんだな。」
少し大きい声で、話しかけると、ルシアスがくるりとこちらを見た。
「体はもう大丈夫なのか・・・。」
「ヘクター・・・。」
初めて、ルシアスに名前を呼ばれたな、と思った。
「イーディスのばあ様に、裏にいるからって言われてさ。」
ルシアスの涼しげな目が、ヘクターをひたと見た。
「呼び戻しに来たの?」
「まぁ、そうだけど・・・。戻りたくないっていうんなら、一人で帰るよ・・・。」
ルシアスは木の下に座り込んだ。ヘクターはルシアスから、少し離れたところに足を投げ出して座った。
「ここ、すごい景色だな。」
「うん・・・。」
ヘクターは枯れ葉の上に上半身を倒し、寝っころがった。
「うわぁ~」
ヘクターは歓声をあげた。ルシアスは顔をあげた。
「なに?」
「お前もやってみろよ。」
ルシアスもヘクターの隣に寝っころがった。地面に寝っころがると、空が視界いっぱいに広がり、言葉を失った。
「なんか、空に落っこっていきそうだな。」
「うん・・・。」
ルシアスは上を見たままで、ヘクターに言った。
「昨日は、ありがとう・・・。」
「何が?」
「馬、追いかけて止めてくれたでしょ。」
「ああ・・・。」
高いところを、雲が流れていく。ほんのりと赤く染まっている。
「よかったな。なんともなくて・・・。」
「かっこ悪かったよね・・・。」
「馬に乗ったことないやつなら、誰だってああなるさ・・・。」
ルシアスはふと横を向いた。気になっていたことを思い出した。
「ね、ヘクターって何歳?」
ヘクターも横を向く。黒い髪に草が絡みついている。切れ長の目がすぐ近くにあった。
「十一だけど?」
「なんだ、一つしか変わらない。」
ルシアスは少し、ショックを受ける。
「それが、どうかしたのか。」
「なんで、ヘクターはあんなに馬に上手に乗れるの?まだ、子どもなのに・・・。」
「ああ・・・」
ヘクターは軽く笑った。
「俺は、さ・・・。小さい頃から馬に乗ってたから・・・。」
「じゃ、貴族かなんかなの?」
普通の農民は馬に乗るどころか、持っていない。例え持っていても、あんな見事な手綱さばきはできない。馬をあんなに速く走らせられるのは、馬術を習った者だけである。
「俺の・・・父親が、さ。ウェサル公の騎士だったんだ・・・。」
ヘクターは、空の遠くのほうを見ていた。
「ウェサル公って…?」
「このウェサルで一番偉い人…。公爵だからな・・・。公爵より偉いのはバルフォルトにいる王族だけだ…。」
「じゃ、ヘクターって、すごい家の子なんだ・・・。」
ルシアスは羨望の眼差しで見た。ヘクターは少し悲しい顔で笑った。
「でも、父さんはもう死んじゃったんだ。何かウェサル公を裏切るようなひどいことをしたって言われて…。」
「・・・いつ?」
「2年前・・・。」
ルシアスは、体のどこかが痛むように顔をゆがめた。
「お前がそんな顔するなよ。別にもう平気なんだから・・・。」
ヘクターはルシアスのその顔に思わずふき出してしまった。
「母さんは、父さんはそんな悪いことはしていないって、ずっと言ってた。でも、父さんが処刑された後に、やつら家族も全員処刑するってさ。俺の屋敷に来て…。母さんは俺を逃がそうとして、やつらに切られた。俺、その時に初めて炎を使ったんだ。皆焼け焦げた。」
ルシアスは黙って、ヘクターの横顔を見つめていた。普段、この人がきつく見えるのは、いろいろ悲しいことがあったからなのかな、と思った。
しばらく、二人とも、黙って空を見ていた。
「オーガスティンのこと、許せない?」
「…許せないんじゃない。怖いんだ・・・。」
ルシアスは、自分の気持ちを飾らずにそのまま話した。
「あいつが怖いの?アベルならともかく、あいつなら、お前でもけんかして勝てるだろ?」
「そういうのじゃないんだ。僕、あんなふうに、誰かに思い切り嫌われたくないんだよ。男のくせに、弱いかもしれないけど・・・。」
「今まで、誰からも嫌われたことがないから、そんなふうに思うのか?」
ルシアスは苦笑した。
「その反対。ばあちゃん以外に誰からも好かれなかったから・・・。みんなから嫌われていたから、さ。もう、誰にも嫌われたくないんだ。嫌われるくらいなら、みんなと離れていたい・・・。変かな?こういうの。」
「ううん・・・。ちょっと分かるような気もするけど・・・。」
「僕、どうすれば、みんなが喜ぶのか、わからないんだ。みんなの前で、あまりヘロスの力を見せたら、嫌われるんじゃないかと思ったから、最初隠した。エマ先生に言われて、隠すのやめたけど、そしたら、やっぱり嫌われたし・・・。」
ヘクターは、ぼそりと話した。
「みんなが、喜ぶ必要はないんじゃないか?」
「どういうこと?」
「例えば、お前が力を見せたら、俺たちの中で三人がお前を嫌いになる。でも残りの三人がお前のことを好きなら、それでいいんじゃないか?だって、デューイやロージーはお前のこと嫌ってないだろ?」
「うん・・・。」
「周りのやつ全員に好かれるなんて、普通は無理だよ。自分が好きなやつが、自分を好きならそれでいいんじゃないか?」
「僕を好きなやつって、いるの?」
ルシアスは体を起こした。ヘクターもルシアスにならった。ルシアスの顔は依然としてくもっている。
「だから、デューイだって、ロージーだってお前のこと好きだろ。それに、ニコラだって、お前のこと別に嫌ってないだろ。」
半信半疑な様子で、ルシアスはうなずいた。
「お前、あいつらのこと好きか?」
「・・・嫌いじゃない。」
「それなら、それでいいじゃないか。」
うん、と言いながら、いまいち元気の出ない様子をしている。
「俺だって、お前のこと心配して来てるだろ。」
ぽんとルシアスの肩をたたく。ルシアスがぼんやりとヘクターを見た。
「ヘクター、僕のこと好きなの?」
ヘクターは最初、目を丸くしてルシアスの様子を見ていたが、突然、ぶっと吹き出した。そして、腹を抱えて笑い出す。最初は、ただそれを見ていたルシアスも、つられて笑い出した。しばらく笑いこけたあとで、ヘクターが言う。
「悪いけど、俺、男は好きになったことない・・・。」
また、笑いがこみあげてくる。ルシアスも、涙を拭きながら言った。
「うん、僕もない。」
二人でひとしきり笑った後で、ヘクターが言った。
「だけど、嫌いなやつのためにわざわざ、迎えに来るやつはいないぜ。」
***
イーディスは、ヘクターと別れたテラスにまだ座っていた。向こうから二人が歩いてくるのが見えた。前をルシアスが歩いてくる。夕焼けに頬が赤く染まっている。その少し後ろをヘクターがついてくる。
「師匠。」
声の調子で、その続きを聞かなくても分かった。若造が説得に成功したらしい。
「僕、やっぱり今日、あっちに帰るよ。心配かけてごめんなさい。」
「誰も心配なんかしとらん。」
おほん、と咳払いをする。
(いや、してたよな・・・。)
ヘクターは心の中でさきほどの自分を刺すように値踏みしていた、イーディスの怖い顔を思い出していた。ヘクターがルシアスを傷つけるような人間なら、追い返そうと思っていたに違いない。
家へ戻ると、エイプリルがほっとした顔で二人を迎えた。
次の日の午後、ルシアスはアベルに呼び出された。呼び出されたところにいくと、オーガスティンもいた。
「さ、言えよ。」
アベルが促す。オーガスティンは、何かもじもじしている。
「おい」
アベルが、背中を軽くたたく。
「お、お前のことは嫌いだけど、な。で、でも、この前はちょっとやりすぎた。」
どもりながら途中まで言って、言葉が止まった。もう一度アベルが背中をたたいた。
「・・・悪かったな。」
ぼそりと言った。それだけ言うと、今度はアベルに向かって、
「これで、いいだろっ?」
とわめくと、たっと走っていってしまった。ルシアスは、呆然とその様子を眺めていた。
「あいつも、あいつなりに反省してるから・・・。」
アベルがまっすぐこっちを向いて言った。
「あんな、ひどいことする気はなかったんだよ。悪かったな。俺からも謝るよ。」
(なんか、大人だなぁ・・・。)
アベルとまともに口を利くのは初めてだったが、ルシアスはアベルの様子に感嘆した。
「それと、あいつのことグラントやハウエルに黙っていてくれて、ありがとな。」
少しだけ笑って、その場を去っていく。
(なんか、僕、一人でいろいろ考えすぎてたのかもなぁ。)
自分が知らないところにも、いろいろな人の自分に対する気持ちがあって、自分はそれに気がついていないだけだったのかもしれない。
(僕、ここでやっていけるかもしれない・・・。)
もう少しで、新しい年が来る。新しい年が来れば、ルシアスは十一歳になる。