1 テルマ・ノリス
1 テルマ・ノリス
キサルピーナ王国は、周囲を海に囲まれた島国である。南にはグラス海と呼ばれる海がある。
その海をずっと南へ進むと、対岸の国フレオに行きつく。フレオの隣にはゲラニオンという国があり、またその隣にはバブニアという国がある。
ずっと昔、このキサルピーナの地には大きな国はなかった。300年ほど遡った頃には、六つの小国があった。バルフォルトを中心とするキサルピーナ国、モナチェスターを中心とするトランサル国、リパマウスを中心とするソアル国、ハロチェスターを中心とするウェサル国、アプレシコットを中心とするイール国、ウィットベリーを中心とするノアルピーナ国。
小国は常に隣接する国と領域争いを繰り返していた。
ギディオン・ブラストがキサルピーナ国王の三男として生まれたのはそんな頃だった。
建国史によると、ギディオンはまだ青年だった頃、神より偉大な力を賜ったという。神はギディオンに『我に代わりこの地を治めよ』と告げたらしい。
お告げを受けたギディオンは、その年の秋、北のノラルピーナへと侵攻した。
それまでは決して他国に引けを取ることのなかったノラルピーナが、この時はあっという間に敗北した。玉座にあぐらをかいていた周辺諸国の王は我が耳を疑った。翌年の春には、東のイールを破った。そして、その年の秋に南のトランサルへ攻め入ったが苦戦し、一度停戦したが、その翌年の春に再びこの地へ攻め入り支配下に治め、そのまま南下し、あっという間にソアルをのみこんだ。最後に残った西のウェサルも、抵抗むなしくその翌年にキサルピーナの配下に下った。
建国史によると、ギディオンは不思議な術を使って、各国の大軍を屠ったとされている。その不思議な術は神より賜った偉大な力だとされているが、それ以上の詳しい記述は見られない。なお、ギディオンはウェサルを統一したおりに、神より賜った偉大な力を失ったと記されている。
ケンソルブリーは、キサルピーナ王国の首都バルフォルトから馬で西へ一時間ほど駆けたところにある小さな村である。テルマノリスはそこで、エドガーとトリーシャの長男として生まれた。
幼い頃、まだ父のエドガーがそばにいた頃のことをテルマはあまり覚えていない。父がどんな人間だったのかということに関しても曖昧な記憶しかない。だが、3人でそれなりに幸せに暮らしていたように思う。
だが、テルマが6歳のときにその生活は突然壊れた。
ある深夜、何者かがバルフォルトにあるローリー家に忍び込んだ。
代々王の配下として仕えている名家である。
護衛が見つけたが素早く逃げ去りつかまえることはできなかった。
賊が持ち出したものは金品などではなく、ケンソルブリーの成り立ちに関わる秘文書だったため、当主はケンソルブリーの長老のもとに伝令を飛ばした。
長老はすぐに村の者で行方が分からない者がいないか確かめた。
村に住んでいる者の中には行方をくらましたものはいなかった。
しかし、王宮に勤めている者の中に、きちんとした理由もなく行方をくらました者がいた。それは、テルマの父、エドガーだった。
長老は村の若者を何人か使って捜索させたが、行方はなかなかわからなかった。
長老は、自分の補佐であるユージーンに聞いた。
「エドガーは一体、あれを持ち出して何をするつもりなのじゃ?」
「はっきりとはわかりませんが、周りの者に尋ねてみたら、最近は熱心に建国時の歴史について調べていたようです。なんでもウェサル領へ行って、今まで知っていた正史とは違う話を聞いたとかで……。」
「まさかギディオンの偉大な力について探っていたのではあるまいな?」
「もしかしたら……」
ユージーンは眉をひそめた。沈鬱な面持ちの彼に長老は笑いかけた。
「心配するな。あの文書は目を通したことがある。あれだけじゃ、エドガーも何もすることはできん。肝心なことは何も書かれてないのじゃ。」
長老はあごひげをひねった。
「だが、知られて面倒なことを知られてしまったのは事実じゃな。いやはや、村人からこのような者を出してしまうとはな。残念じゃ。」
長老はカミラを呼んだ。村の占い師の女である。エドガーの行き先について占わせた。
「我々には手の届かないような遠い地へと渡りました。海を越えて」
「フランか?或いはゲラニオンか?」
ユージーンが長老の横から口を出す。
「再びこの地へ戻り、我々にあだなすようなことがあろうか?」
カミラはうつむいてじっと石の並びを見つめていた。
「彼が欲しい物はこの地にあるのです。彼自身はこの地に戻り、それを手に入れることを望んでいます。しかし、今、彼が持っているものでは、その欲しい物には届かない。」
「ということは、戻っては来ぬということか?」
カミラはちらりと長老の目を見てから、注意深く言葉を選びながら話した。
「彼自身ではどうにもできない運命です。彼の運命を左右する女性が2人いる。もし、この2人の女性が協力すれば、彼の前に道が開け、彼はこの地へと帰ってくるでしょう。」
「なんと!それを防ぐことはできぬのか?」
「大陸へ我らの者を旅立たせ、追わせれば或いは……。ですが、彼をみつける可能性は少ないでしょう。」
長老は苦い顔をした。ユージーンが言葉をはさんだ。
「帰ってくるのはいつだ?」
カミラは首を振った。
「帰ってくるかもしれないという兆候はほんの微かに見えるだけ。いつかなどとはとても読み切れない。早くても10年、或いは20年は先のことになりましょう。」
「そんな先のことか……。わしはもう生きておらんだろうな。お前に一つ面倒ごとを残してしまったようじゃ。」
長老は苦笑しながら、ユージーンの肩をたたいた。
***
テルマの母、トリーシャは、夫のエドガーが村に関わる文書を盗み出し行方不明になるという罪を犯したせいで、しなくてもいい苦労をしながら生きた。そして、テルマが10歳のときに風邪をこじらせてあっさりと逝ってしまった。それから後、テルマはおばのシルビアに預けられて大きくなった。18歳になったときにバルフォルトの王宮の近衛兵に志願し、4年が過ぎ、テルマは22歳になった。近衛兵になってからはおばの家を出て、王宮内にある宿舎に住んでいる。
310年12月
バルフォルト
そろそろ新年の儀の準備で忙しくなる12月、テルマは西ノ宮の衛兵として勤務していて、西ノ宮に出入りする皇太子エドワードの姿を時折見かけることがあった。その日も、大臣たちとの議会に参加していたエドワードが側近のストレーチを携えて広間から出てきた。西ノ宮の裏の扉はそのまま王宮の中庭へと通じている。エドワードが中庭へと開かれたガラスの両扉へと近づいたとき、ドアの傍らで槍を片手に立っていたテルマは皇太子の後ろに青い影を見た。不審者と思い、テルマは思わず槍を構えた。
「おい!」
慌てた同僚が前方から強い声で怒鳴った。テルマは頭を軽く振り、まばたきをしてもう一度よく見た。エドワードの驚いた顔、視線を後ろにすべらすと、ゆらゆらとゆらめく青い影の武人と目が合った。
二つの暗い闇がこちらを静かにみつめていた。
(まさか……)
慌てて槍を持ち直した。側近のストレーチが咳払いをした。
「立ちながら居眠りでもしていたのか。」
テルマは深々とお辞儀をした。エドワードは涼しい横顔で通り過ぎた。青い影もゆらめきながら彼の後ろをついていった。
次の日も、その次の日も、テルマの目には同じものが見えた。
三度目に見えた日にテルマは意を決した。
***
ケンソルブリーは小さな村である。ちょうど建国のときにローリー家の先祖の一部がバルフォルトを出てこの地に移り住んだのが始まりだと言われてる。表向きはただの静かな村にはでも秘密があった。
この村に生まれる人々は大なり小なり不思議な力を持っている。
そして、この村の人間には代々伝わる役目があった。
建国当時、ギディオンの配下にヴィクター・ローリーという男がいた。この男はギディオン王が国を統一し、その偉大な力を失ったのと前後して、不思議な力を得た。その力はその後生まれた彼の子供達、次男と長女、三男にも遺伝した。
ヴィクターは自らが得た力を人前で使うことはせず、表向きは今まで通りギディオンの家臣として日々を過ごし、子供達にもそれを使うことを禁じた。
月日が経ち、当主の座を長男に引き継ぎ隠居の身になったヴィクターは末っ子の三男とともにギディオンの息子である皇太子が成人したお祝いのパーティーに出かけた。
「お父さん、あれは何ですか?」
息子がそっと、皇太子の後方を指さした。ヴィクターには何も見えなかった。
「青白いぼおっとした影が見えます。」
息子は声をひそめていった
「人の形をしています。鎧と兜を身に着けている。」
(ああ、あの男がいる。今も、我々を見ている。)
しばらくしてギディオンは病にかかり位を皇太子に譲った。そして、少したって亡くなった。ヴィクターは背筋が寒くなった。
(まるであの青い影は王の病と死を予言していたようだ……)
ヴィクターは、あの男-シュバルツとの約束を果たすこととした。
末っ子を新しい王にこっそりと引き合わせ、自分の一族はブラスト家に生まれる王を守るために神より不思議な力を授かったと話した。そして、自分の一族の者を代々、王を陰から守る者として仕えさせてほしいとお願いした。王は喜んで承諾した。普段は別の身分で王宮に仕え王だけに正体を明かし、そのほかの者に身分を明かすことはなかった。
ヴィクターは同じく力を持った次男と長女もそれぞれの役職で王宮へと上がらせた。代々の王だけがその存在を知り、使役できる者たちとして王宮に入り込んだのである。
王の一番身近に仕える者は、背後に青い影を見た者と決められていた。その者は村の中でいつも1人しかいない。村の人間は幼い頃から、親からこの村の役目について聞かされて育つ。そして、力を駆使する方法を幼い頃から学んでいる。青い影を見たものはまず王に仕え、新たな王が生まれその役目を終えたときには村の長になる。それはこの村の人たちしか知らない決まりだった。
***
(運命とは皮肉なものだ。)
テルマはそう思った。村の秘密が書かれた文書。それが具体的にはどのようなものだったのか自分は知らないが、それを父親が盗み行方をくらましてから、母と自分は村のはじっこで肩身の狭い思いをしながら暮らしてきた。そんな自分が村でいちばん重要な役目を担うことになってしまった。
「皇太子の背後に青い影を見ました。」
今は長老となったユージーンのもとへ行ってそう告げた。かたわらにはヒュー・オーデンという男もいた。現在の王の従者となっている者で、ユージーンの次に長老となる男だった。
「今、ちょうどその話をしていたところだ。王の後ろから影が消えたとな。」
ヒューはつまらない物でも見るように自分を見ている。テルマはうつむいてその視線を避けた。
「それにしても早すぎます。ヘンリー様はまだお元気ですし、エドワード様はまだ若い。」
ユージーンは黙っている。
「なにか嫌な感じがします。」
「嫌な感じというと?」
「なにか起こるのではないでしょうか?」
静かな日常の中にこのときぽたりと何かが落ちた。
晴れた空のはるか向こうに黒い雲が広がるのを見たような嫌な感じがした。
しばらく2人が話しているのを黙って傍らで聞いていた。ユージーンはしばらくすると、ヒューを先に帰らせた。
二人っきりになると長老は口を開いた。
「浮かない顔をしているな。」
「……」
「話してみなさい。」
「どうしてわたしのような者にあれが見えたのでしょうか。」
「お前のようなとは?」
「わたしは忌まわしい身です。」
長老はテルマをじっと見た。
「それはお前の父親のことを言っているのか?」
「わたしは…怖いのです。自分で自分が信じられない。わたしもいつか父のように皆を裏切るのではないでしょうか。」
「お前とお前の父は別人だ。」
「ですが、同じ血が流れている。」
「子供が必ず自分の親と同じようになるというものでもないよ。」
テルマは黙ってうつむいている。
「しかし、周りの者はわたしが従者になったと知ればどう思うでしょうか?」
「どうも、思わないさ。」
ユージーンは肩をすくめてみせた。
「やつらがなんと言おうと、シュバルツがお前を選んだんだ。文句は言えないさ。」
テルマは眉をしかめてユージーンを見た。
「お前は何も悪いことをしてはいないじゃないか。いい加減に自分を許してやったらどうだ?自分を大切にしろ。お前はまるで自分で自分の存在を憎み、罰しているようにわしには見えてならん。いつまでたっても周りの者に溶け込もうとしない。テルマ、お前の父のことばかりでなくて、トリーシャのことを忘れないでおくれ。お前をとても愛していたんだよ。」
テルマは母の名前を久しぶりに聞いた気がした。その名前が心を刺した。もう母が死んでから何年も経っているのに、胸を刺す痛みは生々しい。
テルマは挨拶をして、ユージーンの屋敷を辞した。
***
17年前にヒュー・オーデンが現在の王ヘンリーの後ろに青い影を見たとき、彼には息子が一人いた。名前をウィリーと言った。時が経って今、その時子供だった息子は18歳になり、王宮で医術士見習いとして働いていた。
ある日、ウィリーは長老に呼び出された。長老の家に着くと、そこには父のほかにテルマがいた。ウィリーはこの場にテルマがいることに違和感を覚えた。
「ウィリー、実はな」
長老は口を開いた。
「ヘンリー様の傍らからシュバルツの影が消えて、エドワード様の傍らに現れたんだ。」
ウィリーは目を見張った。
「本当ですか?」
知らず知らずのうちに声が大きくなった。長老は大きくうなずいた。
「どうしてこんなに早く?」
ヘンリーはまだ40代、皇太子であるエドワードはまだ16歳だ。そして、ふとまた思う。どうしてこの4人でこんな大事な話をしているのか。
どうしてここにあのテルマがいるのだろう?
そして、そのことに気がつき、顔から血の気が引いた。
「誰が、シュバルツを見たんですか?」
声が少し震えた。
「テルマだ。」
ウィリーの心臓がドクンと脈打った。思わずうつむいて自分の表情を皆に見えないようにした。
「ヘンリー様のお体の様子はどうだ?調子を崩されているといったことはないか?」
ウィリーはうつむいたまま首を横に振った。まだ、半人前なので直接王を診ることはないが、情報は入ってくる。今のところ、王の体調が優れないといった話は誰からも聞いてない。
「ふむ……」
ユージーンは難しい顔つきになると、ヒューと目を合わせた。
「なんだか嫌な感じがするな。」
「というと?」
「誰かが故意に王の退位を早めようとしているのではないか……」
「いったい、誰が?」
長老は首を振る。
「わからない。だが、少なくともエドワード様じゃない。」
今まで黙っていたテルマが口を開いた。
「もし、王宮の中にヘンリー様の退位を早めようとする者がいるとしたら、その者は同時にエドワード様も狙っているのではないでしょうか。」
しばらく誰も何も話さない。
「ありうることだね。」
「そんな、じゃ、シュバルツが選んだ皇太子が暗殺でもされてしまったら、我々はどうすればいいのですか?」
ウィリーが言うと、父がたしなめた。
「めったなことを口にするな。そうならないようにするのが我々の務めだろう。」
長老はウィリーに向かって言った。
「ウィリー、お前は今、医術士として王宮にいるだろう?いろいろ情報を集めてくれ。それと、エドワード様の後ろに青い影が現れたということは、しばらく皆には黙っていてくれ。この場の4人だけの話にしてくれ。よいな?」
「はい。」
「それと、テルマ、お前は今、近衛兵だったな。所属はどこだ?」
「西の宮です。」
「所属を西からエドワード様付きの東へと移動させるようブレアにわしから言っておこう。」
ブレアというのは、現在のローリー家の当主で宮廷大臣の一人である。
ユージーンはそれだけ言うと、深く息を吸っていすにふかぶかと身を沈めた。
「話は終わりだ。また何かあるときは声をかける。もう行ってよいぞ。」
3人は礼をして、扉へと向かった。
並んで部屋を出て、廊下を外へと向かいながら、ウィリーは思う。
どうして父の後をつぐものが、よりによってこいつなんだろう?
自分ではないだろうと思っていた。親子二代で従者になるなんて聞いたこともない。だけど、テルマだとは思っていなかった。
なぜと言えば、うまく言えない。だけど、昔からこいつは、どちらかというと輪のはじっこか、でなければ輪の外にいるといっても過言ではない。簡単に言えば、こいつの存在を俺は忘れていた。
そんなやつが急に輪の中心に飛び込んでくるのか。違和感とも嫌悪感とも言える感情が沸き起こってくる。
扉を出て、村の出入り口に向かって歩く。そっとテルマの顔をうかがった。テルマは無表情に前だけを見つめていた。
声がかけづらかった。昔からそう。こいつはこういうやつだったと思い出す。
そのまま、長老の家の厩の方へ行く。馬で来たのだろう。
自分は今夜は村に泊まり、明日の朝、バルフォルトへ行く誰かの馬車に同乗するつもりだったので、そこで分かれた。