11 交霊会
11 交霊会
シャロンとロイがバルフォルトで顔を合わせた数日後、ロイの息子のサイラスは王宮にいた。先日、チャップマンの船がブライスで買い付けた中からいくつかの珍しい品を携えて、ヘンリーに謁見を求めた。
「こちらは、遠く東の地から渡ってきたと言われる陶器でございます。そして、こちらは象牙に細工をほどこしたものでございます。」
正面に王のヘンリ―、その左の席に皇太子のエドワード、右の席にレオナルド王子、隣には王女アデルが座っている。
「ふむ。なかなか見事だな・・・。」
ヘンリーは目を細めて喜んでいた。サイラスは深々と頭を下げた。
その日、謁見の間を離れてから少したった時、アデルは侍女らを連れて、宮殿の庭を散歩していた。ちょうど大臣たちの議会が終わったのか、前方の回廊を男たちが通りすぎていく。
(あら、レオナルドだわ・・・。)
息子の姿が見える。若干14歳ではあるが、息子も議会に参加している。母親に見られているのを知らない息子は、回廊をのんびりとした足取りで歩いて行く。何人かの者が、丁寧にお辞儀をしては、彼を追い越していく。
(もっと、てきぱきと歩けばいいのに・・・。)
のろのろと歩く様子が、頼りなく思えた。はらはらとした気持ちでそれを眺める。
今度は後ろの方からエドワードが歩いてきた。アデルは視界にエドワードが入ると、すっと体が冷たくなるような感じがした。エドワードはヘンリーのお気に入りの息子である。周囲の大臣からの評判も悪くない。だが、アデルはこの継子があまり好きになれなかった。それに、アデルはエドワードの母、オルガも好きではなかった。オルガがエドワードを産んですぐになくなり、もうすぐ16年になるが、今でもアデルとオルガを比べる連中がいる。死んだ者というのは、皆の心の中で美化される。現実に生き、長所もあれば短所もある人間であるアデルと、死んで美化されたオルガとを比較して、ため息をつく連中がいる。アデルにはその者たちが卑怯者に思えた。大体、下に就く者というのは、上の者にこうあってほしいとか、こうあるべきだとか、こうあってはならないとか、下にいるくせにあれこれと口さがない。そんなやつらは、どんな人間が上につこうと、延々と欠点を見つけては、延々とああでもない、こうでもないと言い続けるものだ。だが、一度も自分が上に立てばどうだろうとは考えない。そんな想像力のかけらも持ち合わせていないのだ。
アデルはオルガと比べられるのが本当に嫌だった。
大臣は王子であるレオナルドに対して十分に丁寧であったし、レオナルドが大臣たちの間で低く評価されていると聞いたことはない。実際、息子のレオナルドは、愚かではないし、勇敢でもある。だが、飛びぬけて優秀でもなく飛びぬけて愚かでもないというのは、時に悲しい。大臣たちは、レオナルドには全く関心がなかった。今も、エドワードは2、3人の大臣と話をしながら歩いているが、レオナルドは1人で歩いている。周りから関心を寄せられないことで、レオナルドが次第に自信を失っていっているようで、アデルは最近、心を痛めていた。
「アデル様・・・」
後ろの方から声をかけられた。振り向くと、一人の男が跪いている。
「お前は・・・?」
アデルと男の間に侍女がすべりこみ、尋ねた。アデルは手にしていた扇で口もとを隠した。男は顔を上げた。大臣の一人にしてはまだ比較的若い男である。顔を見たことがあるが、名前は覚えていなかった。
「サイラス・チェンバレンと申します。」
男はそういうと再び深くお辞儀をした。
「アデル様に何か用か?」
男は後ろの従者に持たせた大振りの箱を指し示した。
「実は、交易で珍しい物を手に入れました。ヘンリー様にご献上させていただいてもよかったのですが、この品は是非、直接アデル様に差し上げたいと存じまして・・・。」
侍女は眉をひそめた。謁見の間で献上する物とはわざわざ別にし、アデルが一人でいるときにわざわざ声をかけてきた。献上とはただのポーズで、アデルに内密に話したいことがあるという意味であろう。その裏の意味を無視して、この場で品物を受け取れば、それはそのままアデルが拒絶をしたこととなる。侍女はアデルの方を窺った。アデルは扇で鼻と口元を隠したまま、物を見るような下目遣いで男を見ていたが、視線を上げると侍女の方へ視線を滑らし、目だけで頷いた。
「こちらへ」
侍女がアデルの自室へと案内をする。
サイラスはアデルの前で、現時点ではまだ東方でしか作られていない絹の織物をいくつも広げて見せた。それは、贅沢になれたアデルの目から見ても、今までに見たこともないほどのあでやかな品で、サイラスが新しい布を広げるたびに、アデルの周りの女官たちが感嘆の声をあげた。当のアデルは、相変わらず扇で顔を隠し、特に興味もなさそうな様子で、数々の織物を見ていたが、全ての披露が終わると、侍女にその場を片付けさせ、品物を下げさせた。一通りお礼の言葉を述べると、アデルは扇を下ろして、その顔をまっすぐにサイラスへと向けた。
「で?本題は何だ?」
サイラスは唾を飲んだ。この大商人の長男は、他の大臣たちに比べてまだ若い。40になるかならないかである。体つきもがっしりとしており、会った者に精力的な印象を与える。
「何か話したいことがあって声をかけたのだろう?」
アデルの目が強く光っている。サイラスは低い声をあげた。
「恐れ入りますが・・・、お人ばらいを・・・。」
アデルは華奢な左手をあげて、さっと振った。侍女や小間使いがお辞儀をして、部屋の外へと出て行く。傍らに護衛の者が一人残った。アデルは椅子に座ったままでややサイラスの方に身をのりだして言った。
「この者は気にしなくてよい。さあ、何だ?」
「アデル様は、エドワード様を廃し、レオナルド様を王位につけたいと思われたことはありませんか。」
アデルは、サイラスの言葉を聞くと、傍らのテーブルに置いてあった花瓶をつかみ、立ち上がるとサイラスの頭の上に切花ごと水をぶっかけた。サイラスは身じろぎせずにそれを受けた。護衛の者もまた、一歩も動かなかった。アデルは花瓶をもとに戻した。サイラスの濡れた髪が顔にはりつき、上半身から水がぽとりぽとりと落ちる。
「濡れたほうがいい男じゃないか。眠ってたようだから起こしてやったよ。目は覚めたかい。」
サイラスは黙ってアデルの方を見た。
「わたしは冗談を申し上げているのでも、アデル様を試しているのでもありません。」
2人は黙って見詰め合う。次の瞬間に、不届き者として拘束されてもおなしくないことを自分は口にした。だが、もしアデルがサイラスを拘束するような妃なら、中庭で献上品を受け取り、自分をこの部屋まで導くことなどなかったろう。
「もし、思ったことがあると言えば、どうなるのだ。」
アデルが美しい唇から、その言葉をこぼした。サイラスは賭けに勝った。
サイラスは、アデルとエドガー親子を引き合わせた。2人の話に興味を持ったアデルは、2人をレオナルドに引き合わせることに同意したが、いい場所がなかった。バルフォルトの王宮では人目につきすぎる。もちろん、ヘンリーに話せることではなく、エドワードにばれるようなことがあってもいけない。そこで、アデルは時期を待たなければならないが、伯父のノラルピーナ公の屋敷でレオナルドを2人に引き合わせることとした。ダグラスの所へ出かけるのは、毎年の夏の恒例のことだったので、怪しまれずに済んだ。アデルとレオナルドは例年より早くノナルピーナのウィットベリーにある伯父の屋敷へ出かけることになった。
バルフォルトからウィットベリーまでは馬車で6日ほどかかる。街道沿いの比較的大きな街に寄ると、その街を治めている伯爵がもてなしてくれる。これも、毎年恒例のことであった。狭いバルフォルトを出て、いろいろな街を見て、いろいろな人に会える夏が、レオナルドは好きだった。
7日目の昼にようやく馬車がダグラスの屋敷へと辿りつくと、レオナルドは、従者が扉をあけるのを待ちきれずに自分で開けて降りた。ずっと座りっぱなしで疲れた体をぐんと伸ばす。ダグラスや従兄弟たちに挨拶をしようとして、客間に入ると、そこにはダグラスと見知らぬ男と、少女がいた。従兄弟たちの姿は見当たらなかった。
「ごめんなさい。来客中だとは知らなくて・・・。」
頭を下げて、出ようとすると、ダグラスが手を挙げて、制止した。
「いや、いいんだ。こちらが、レオナルド王子。わたしの甥でもある。」
男と少女は跪いた。服装から見て貴族のようには見えない。
「この人たちは?」
「うん、まぁ、あとで紹介しよう。」
ダグラスが手で合図すると、跪いていた2人は立ち上がり部屋を出て行った。
ダグラスが昼間の二人について話してくれたのは、夕食が終わってからだった。伯父は自分と母だけを客間の一つに呼び寄せて座らせた。
「レオナルドも、南の大陸について、知っているだろう?」
レオナルドは頷いた。キサルピーナ王国の対岸にはフレオという国があり、その東にはゲラニオンという国がある。その更に東にあるのが、たしか、バブニアという国だったはずだ。
「2人はね、その大陸のゲラニオンからはるばるこのキサルピーナへとやってきたのだよ…。」
「へぇ…。」
レオナルドは昼間見かけた2人の様子を思い浮かべた。外国人を見たのは初めてだった。
「ゲラニオンから来た術士なのだ。珍しいだろう?わが国ではあまり聞かないからな。ゲラニオンにはまだいろいろな術を使う人がいるのだそうだよ。中でもコズマという術士は高名だ。わしはフレオなどを行き来する商人の口から、この名前を聞いたことがある。」
伯父はグラスに入れたブラックル(クラペ酒を蒸留し熟成した酒)をちびりと口に含んだ。開け放した窓から気持ちのいい風が入り込んでくる。
「実は2人をわしに紹介したのも、同じ商人でな…」
ダグラスはロイ・チャップマンとサイラス・チェンバレンのことを暗に言っている。だが、本当はアデルから紹介されたのだった。ダグラスはレオナルドを納得させるために、作り話を聞かせているのである。
「驚くじゃないか、あの少女はコズマの弟子だというのだ。本当かどうかはわからんが、遠くキサルピーナにまで名を轟かせている術士の弟子なら、一目見たいと思ってな、屋敷に招いたのだ。2人はどうも、生国のゲラニオンで何かやらかしたらしい。ゲラニオンにいられなくなって、キサルピーナに逃げてきたのだ。これから、この地で生きていくために、わしに召抱えてほしいというんだな。じゃ、お前は例えば何ができるのだと問うと、なんと、あの娘は死者の霊を呼び出し、話ができると言ったのだよ。」
レオナルドは眉をひそめた。ダグラスはその表情を見逃さなかった。
「わしも、最初は信じなかったんだ。きっと、適当にそういう振りをして、話のつじつまを合わせれば、それらしく見えるだろうからね。ま、それでも話の種ぐらいにはなるだろうと思ってな、試しに名前を言ってみた。誰だと思う?」
ダグラスは茶目っ気のある顔で見た。年を取ってしまったが、若い頃はなかなかの美貌だったろう。レオナルドは昨年亡くなったダグラスの妻の名前を言った。ダグラスは快活な笑い声をあげた。
「いや、わしは悪い夫だな。だが、是非会ってみたいと思ってた人がいてね。ギディオン王をと、お願いしたのだよ。」
ダグラスは1人で楽しそうに話を続けた。
「そしたら、あやつらはしれっと『それは残念だができない。』と言う。なぜかと聞いたら、身内の者が呼び出しの場にいなければいけないのだというんだ。きっと、無理難題を言われたら、いつも同じようなことを言って逃げているのだろう。そこで、わしは言った。身内の者なら明日来る。明日までここに滞在して、明日の晩には、わしの願いに答えよ、とな。」
「身内のものというのは?」
「もちろん、お前だよ。お前にはギディオン王の血が流れているだろう?」
ダグラスの声は陽気だったが、レオナルドは気が進まなかった。身内の者を呼び出すのなら、多少怖いがこんなに暗い気分にはならなかった。ギディオンはこの王国を築いた王である。軽々しく余興で呼び出してもいい者じゃないだろう。
「特にこれといった目的もないのに、呼び出して怒りはしませんか?」
ダグラスは少し真面目な顔になった。
「いや、目的はある。わしはずっと以前から知りたいと思っていたことがあったんじゃ。」
「知りたいこと?」
「ギディオン王が手に入れた偉大なる力についてだよ。」
「ああ…。」
正史で語られているその力については、レオナルドも知っていた。
「どこで、その力を手に入れたのか。もう一度、我々がその力を得ることができないのか、聞いてみたいんだ。」
ダグラスが立ち上がって、ドアの方へと歩み寄った。
「ああ、来た来た。さぁ、こちらへおいで。」
娘が一人で入ってきた。
「ここにいる人で、同席する人は全部ですか?」
少女が静かに聞く。それから、儀式の用意をし始めた。まず、丸いテーブルを部屋の中央に置いた。一切の光が外部から入らないようにカーテンを閉め、窓も閉じた。部屋中の蝋燭の灯りをテーブルの上に載せ、廊下から灯りがもれこまないように、廊下の蝋燭も消した。ダグラスはしばらく誰もこちらへ来させないようにと、執事に伝えた。娘は大人びた調子で話し始めた。
「霊は灯りを嫌うのです。人が多く楽しい所は好きですが、自分は外からそれを眺めるのみです。自分が出てきてもいいと思えるのは、灯りのかけらもなく、静かな場所です。だから、儀式を始めれば、ここに集めた蝋燭も消してしまいます。全くの暗闇になります。霊と血筋のある方以外は声を立てないでください。音もできるだけ立てないように・・・。自分と関係のない者の前には、出たがりません。関係ない者がいることが分かれば、何が起こるか保証できません。暗闇が怖い、声を立てずにはいられないと思われる方は、今、この部屋を出て行ってください。」
娘の淡々とした声が響く。ダグラスもアデルも席を立たなかった。
「ダグラス公、お呼びになりたい方のお名前をここに書いてください。」
ダグラス公は、小さな紙片に何か書き込んだ。少女はそれをテーブルの真ん中に裏側にしておいた。
「では、始める前に、霊に聞きたい質問をこの方に教えてあげてください。始まってから声を出せるのは、この方だけですから。」
(俺が聞くのか?)
レオナルドは、そんなことは聞いていなかった。ダグラスが咳払いをした。
「あなたはどこでどのようにして力を得たのですか。どうすれば、もう一度力を得ることができますか。」
「ねぇ、本当にこんなことするんですか。」
レオナルドはやはり嫌だった。臆病者と言われてもいいから、この場を去りたかった。
「怖くなったのか?」
ダグラスはレオナルドを少し気遣った。
(レオナルドが落ち着くのを待ってからやったほうがいいか?)
いやだと言えば、やめさせてくれそうだ。レオナルドがそう感じたときに、少女がふっと蝋燭を吹き消した。あたりは闇につつまれた。
「おい!」
レオナルドが声をあげる。少女の声が響く。
「お静かに。皆さん、この闇を直視しないで。レオナルド様以外は目をつぶって、危険を避けるためにお互い手を結びましょう。人の輪が一つの防御陣となります。」
「おい!やめろ。俺はしないぞ。」
「お静かに。もう、そこまで来ています。ここまで来たものを挨拶もせずに追い返すのですか?」
パシーンと、不思議な音がした。初めは遠くの方で、だんだん近づいてくる。冬の真夜中に一面凍った湖の氷にふいに大きくひびが入ることがある。そんなとき起こる音に似ている。ある人はそれを神が向こう岸からこちら岸へと渡る足音なのだと言う。
ギィー
「誰だっ!」
レオナルドが声をあげる。暗くて何も見えない。こちらには誰も近寄らないようにと言っていたのに・・・。きっと誰かが、いたずらでこんなことをしているに違いない。そう思った時に、ふいに目の前の少女が青白く光始めた。下を向いていた少女が目を閉じたままゆっくりと顔をあげる。そして、ふいにかっと瞼を開いて白目を剥き、レオナルドを真正面からにらみつけた。
「あぁ~あぁ~」
荒い息で呼吸をする。ふいに白目を剥いたままで、少女がつないだ手をはずそうともがき始めた。アデルとダグラスは、ぎゅっと力を入れて、その手を離さない。少女は獣のように荒く呼吸をしては、また手をはずそうと一層強くもがいたが、ふいに静かになると、ふと声を出した。かすれたがらがらとした声で、さきほどまでの少女の声とは違っていた。
「お前は誰だ?」
白目を剥いた顔で、レオナルドの方をぴたりと見ている。
「お前のような顔は見たことがないぞ。誰だ?」
「殿下の子孫です。」
少女はふいに天井を見上げて、身をのけぞらせて笑った。
「おもしろいことを言う奴だな。わたしの子孫だと?ふん、まぁいい。なんでわたしを呼び出した?」
「聞きたいことがあるのです。殿下」
少女はまた、身をくねらせてひとしきり笑った。
「殿下だと?あほらしい、あほらしい、何年ぶりか、その呼び名は?」
「しかし、あなたはギディオン王でしょう?なぜ、笑うのです。」
また少し笑うと、言った。
「そんな、呼び名を喜んでいたこともあったなぁ・・・。」
レオナルドは手に、ぐっしょりと汗をかいていた。体がこきざみに震えている。
「殿下、教えてください。殿下はどこで偉大なる力を手に入れられたのですか。」
「偉大なる力?あれのことか?そんなの聞いてどうする?」
レオナルドは困った。人に頼まれて聞いているのだから、そんなことは知らない。
「…あの力がわたしも欲しいのです。」
適当に答えた。亡霊は口元をゆがめて笑った。
「ふん、手に入れてどうする?」
「それは・・・。」
亡霊は面白そうな顔でじっとレオナルドを見ている。
「そんなの聞かなくても分かるでしょう?」
亡霊は、ふんと笑った。
「お前の聞きたいことに答えてやってもいい。お前の名前は何と言う?」
「俺の名は、レ・・・」
ふいにダグラスが強く手を引いた。驚いてそちらを向いたが、暗闇で何も見えない。
(名前を言うな、ということか?)
「何を見ている?答えろ、お前の名前は何だ?」
「レオポルド・・・」
レオナルドは、嘘の名前を教えた。ダグラスは今度は手を引かなかった。
「あれをどこで手に入れたかって?山ん中だよ。あの頃、北の国で鉄が出たってんで評判になってたんだ。北で出るなら、ここでも出るだろうって、おりゃあ言ったんだが、親父も兄貴もみな信じやしない。だが、おりゃあほんの少しのやつらを連れて、山へ行ってな、穴掘ってたのさ。」
「どこの山ですか?」
「どこの山って、山の名前なんか忘れちまったなぁ。バルフォルトのすぐ近くの山だよ。あまり高くない。」
レオナルドには心当たりがあった。モンブレウだ。
亡霊は次のような話をした。鉄を探して穴を掘っていたときに、急に地面がどかんと崩れた。崩壊が止まってから、首を伸ばして落ちた穴を覗いてみると、下に大きな空洞が広がっていた。引き止める声を聞かずに、ギディオンは下に下りてみた。壁や床が白くつるつるとしたもので覆われていて、洞窟は奥に向かってずっと広がっている。
なぜだが、その奥の方へ行きたくなった。手下は大声で止めたが、そんなに心配ならついてこいと言うと、皆、しりごみをした。ギディオンは上にいる者に松明を用意させて、一人奥へと進んだ。一歩一歩奥へと細く曲がりくねった道を進むうちに、手下の声が遠くなりとうとう聞こえなくなった。しばらくいくと、少し開けたところに出て、そこで道は行き止まりになっていた。ギディオンの目に、きらりと何か光る物が見えた。そちらに松明をかざしてよく見ると、錆びた古い剣が鞘を抜かれ、地面に真っ直ぐささっていた。ギディオンはもっとよく見ようと前に進んだ。
『誰だ!』
すると、腹に響くような声がして、その円形の空間をこだました。ギディオンは驚いて、周りを見渡した。だが、そばには誰もいなかった。気のせいかと思って、剣の方へと手を伸ばすと、もう一度、
『誰だ!』
と地面の方から太く低い声がした。普通の者ならば、この時点で驚いて、松明を取り落とし、逃げ帰っていただろう。だが、ギディオンは胆が据わっていた。
『お前こそ、誰だ!』
声は名を告げた。クリオスという名前のその者は、自分を古代の神だと言い、自分はここに封印されていると話した。当時、信仰されている神々の中に、クリオスという名を聞いたことはなかった。
『嘘だ!お前は神などではない。なぜ、神がこのような所に封印されているのだ!』
『わしらの後に生まれた若い神々とわれらが二つに分かれて争ったのだ。我々は破れ、若い神々によっていろいろな地に封印されてしまったのだ。』
確かに古い伝説の中に、神々が権力を争い、戦ったというものはある。
『それで、こんなところにずっと眠っていたというわけか・・・。そりゃ、ご苦労だったな。』
(面倒なもの見つけちまったな・・・。)
立ち上がって回れ右をして、ギディオンは立ち去ろうとした。
『どこへ行く?』
『帰るんだよ。お前さんが、ここにずっと封印されてるのはかわいそうだけどよ。俺には関係のないことだ。俺はただの人間だし・・・。』
そう言って、脚を踏み出そうとしたが、体が鉄の塊になったように重くなって、一歩も動かなくなった。頭ががんがんする。
『お前、力がほしくはないか?』
返事をしようにも、口がうまく動かない。
『なに・・・しやが・・・』
『この隠された場所に気が付き、お前は呼びもしないのにここへやって来た。お前、力がほしいのではないのか?力を求めているうちに、ここへと導かれたのではないのか?』
ふいに、体の呪縛が解け、ギディオンは床に座り込んだ。息が乱れた。
『力って・・・。何について言ってんだ?』
クリオスは何か望みはないかと尋ねた。ギディオンは、国がほしいと言った。今持っているちっぽけな領土でなくて、もっと広い国がほしいと言った。
『その願い、叶えてやってもよいぞ。我にはそのくらいわけもないことだ。』
『どうして俺が、お前の言葉を簡単に信じるのだ?』
『お前には野心がある。わしはそれを感じる。野心があるものは、危険でも可能性が高い方を選ぶものだ。』
『俺の願いを叶えて、お前に何の得がある。』
クリオスは高らかな声で笑った。
『我の望みなどたいしたことはない。ここから出られる・・・。それだけで十分だ。』
ギディオンはしばらく思案した。が、結局、誘惑に負けた。何もせずに後悔をするのは凡人のすることだ。自分は神に選ばれた特別な人間だ。クリオスは地面に刺さっている剣を抜き、その剣で左手の平を切り、剣がささっていた地面に血をたらすように言った。
『お前の血とわれは契約を交わす。この契約は未来永劫続く。お前が亡き後は、お前の血をつぐ者たちがわれの契約者だ。』
ギディオンは言われたとおりにした。己の血が赤く輝きぽたりと一滴落ちる。それだけで十分だった。地面からふいに強いつむじ風が湧き起こった。その風はみるみる大きくなって、小さな空間いっぱいに吹き荒れた。ギディオンはしりもちをついた。風の強さに目があけられない。腕で顔を覆って、体を地面にふせた。しばらくすると、あたりが静かになった。そろそろと身を起こしてあたりを見回すと、クリオスの声が聞こえた。
『今より、我は汝と一体なり・・・。』
***
「それでは、その同じ場所へ殿下の血をつぐ者が行けば、再び力を得られるのですか。」
レオナルドは尋ねた。
「たぶん・・・な。」
「それでは、その力はどうして失われたのですか?」
「そりゃ、あいつのせいさ。」
「あいつ?」
「俺が、各地をつぎつぎに征服して、とうとう最後のウェサルに攻め入ったときに、変な男が出てきた。奴は、クリオスと同じぐらい強い術を使って俺を攻めてきた。」
「強い術?」
レオナルドは聞き返した。
「炎だ。でっけぇ、炎を使うんだよ。あちこち焼き尽くしちまうんだ・・・。」
亡霊は、今でもその様子を思い出すと恐ろしいのか、両手で体を抱きしめると、震えた。
「周りの兵もどんどんやられ、俺は追いつめられた。とうとう、死ぬしかないかというときになって、やつは言った。『命が惜しいか』と・・・。俺は必死で首を振った。『このキサルピーナの地はお前にくれてやる。だが、クリオスの力は封印させてもらおう。』俺は狂喜した。国が手に入ったんだ。クリオスの力はもういらねぇ。男が、手を振ると俺の周りを炎が取り囲んだ。そして、俺に向かって迫ってくる。俺は、叫んだ。『約束が違うじゃないか。命は助けるって。』最後まで言う間もなく、炎が俺を包んだ。俺は狂ったように叫んだ。だが、ふと気がついた。その炎は熱くなかった。俺の体は燃えていなかった。だけど、俺じゃない誰かが俺の中で叫び声をあげている。クリオスの叫び声だった。その炎は俺じゃなくて、俺の中のクリオスだけを燃やしていた。」
クリオスの叫び声はあたりの木々を揺らし、大地を揺さぶった。ギディオンを中心にして、いつかのようなつむじ風が起こった。男は何がおきても動じずに、強い眼差しをギディオンの中のクリオスに向けていた。男の長い髪を、粗末な衣を風がなぶった。ギディオンは次第に、自分の中にあった巨大な何かが少しずつ少しずつ小さくなり、自分にまとわりついていた何かがふわりと離れ、体がとても軽くなった気がした。風がやみ、大地の揺れがおさまり、叫び声は消えた。
「その男の名前は?」
「知らないな・・・。その後、行方を捜したこともあったが、見つからなかったしな・・・。」
「それでは、その時にクリオスは命を落としたのではないですか?」
「そうかもしれねぇけど、俺には自分が神だって言ってたあいつが、死ぬなんて思えなかったな。まぁ、一度何年かして山の中の同じ場所に行ってみたときは、俺の呼びかけには答えなかったけどな。」
レオナルドが黙ると、亡霊はひたりとレオナルドの顔に視線をすいつけた。
「レオポルド、お前、それだけ聞けば十分か?お前は、まだ重要なことを知らないぞ。」
レオナルドは眉をひそめた。亡霊は口をあけて、ゆっくりと上唇と下唇をなめた。
「重要なこと?」
「ああ、そうだ。」
「何ですか?」
ふいに亡霊がテーブルの下の右手を、すごい力でふりほどくと、手を正面に伸ばしてレオナルドの左腕をがっとつかんだ。指が肉に食い込む。亡霊の右側にいたアデルが思わず声をあげた。亡霊がきっとそちらの闇を見る。
「女!女の声がする。誰だっ!誰がいる?」
レオナルドが腕をつかまれた痛みにうめき声をあげた。
「まぁいい、邪魔をするな。レオポルド、お前のこの体を俺に寄こせ!」
レオナルドの右手を握っていた手が離れ、ダグラスが立ち上がる気配がした。
「俺の代わりにお前が落ちろ!お前が繋がれろ!タァトゥルーへ!」
バンとにぶい音がして、ふいに亡霊がテーブルにつっぷして動かなくなった。レオナルドは、自分の息遣いを聞いた。汗がぐっしょりと出ている。アデルが傍らですすり泣く声が聞こえた。
(痛い・・・。)
見ると、つっぷしている少女の指がまだ左腕に食いこんでいる。レオナルドは一本一本時間をかけて、腕に食い込んだ指をはずした。ダグラスが手さぐりで蝋燭に火をつける。暗闇の中に怯えた顔のアデルと、まだテーブルにつっぷしている少女が浮かび上がった。ダグラスがドアを開け、召使を呼んでいる。しばらく経つと、部屋に数々の蝋燭が照らされ、部屋はいつもの様子に戻った。
「大丈夫ですか?」
レオナルドはアデルに声をかけた。アデルは、頷いた。ダグラスも青い顔をしている。少女はまだ目が覚めないが、見たところひどいけがをしているようではない。ダグラスは召使に命じて、少女を彼女と彼女の父親が休んでいる部屋へと運ばせた。
「彼女に何をしたんですか?」
レオナルドはダグラスに尋ねた。
「背中を剣でひっぱたいた。何、痣ができるかもしれんが、たいしたことはない。」
レオナルドは袖をまくって、つかまれたところを見た。赤いあざが指の形にくっきりと残っていた。とても、少女の握力だとは思えない。
「大公は先ほどの亡霊の話を信じますか?」
ダグラスはため息をつくと、テーブルに両肘をつき、手を組むと、口もとを隠した。ふだん、レオナルドに見せることのない大人の表情だった。
「今晩のことだけで、判断はできまい。だが、今日話した内容が本当であれば、ギディオン王がクリオス神の封印を解いたという地が、モンブレウのどこかに見つかるはずだ。」
「探すつもりなんですか?」
レオナルドはきつい眼をして、ダグラスを見た。
「なぜ、そんな眼でわしを見るんだい?」
「探してどうするんですか?」
ダグラスはにっこりと笑った。
「どうもしないさ。だが、事の真偽は確かめるべきだ。探してみて何も見つからなければ、わしらは演技のうまい娘に騙されただけだと安心できるだろう。」
ダグラスはレオナルドの傍によると、興奮している彼の肩をぽんぽんとたたいた。レオナルドはまだ青ざめている。ダグラスは彼にブラックルをついでやった。レオナルドは一気にそれをあおった。
**
娘は次の日も、その次の日も目覚めなかった。周りの皆は心配したが、父親は落ち着いていた。
「わたしも多少術を扱うので分かるのですが、大きい術を行ったときというのは、体力も精神力も極限まで使います。このように2、3日眠り込んでしまっても、不自然ではありません。」
その次の日の朝、娘は目覚めた。目覚めたものの、ベッドを出て歩き回るほどの体力は戻らず、そのままベッドの中で食事を取り、体調を整えた。レオナルドは、部屋に行ってみた。ドアが開いていた。覗き込むと、娘はベッドの上に半身を起こし、窓から外を眺めていた。こちらに気がつかない。レオナルドは、開いているドアをコンコンとノックした。娘がこちらを見た。こうやって日の光の下で見ると、彼女は普通の少女だった。
「入ってもいいか。」
近くに父親がいなかった。何か用事で席を外しているのかもしれない。娘はこくりと頷いた。レオナルドは部屋へ入ると、窓際に置いてあった椅子に腰掛けた。
「もう、具合は大丈夫なのか。」
「ああ。」
レオナルドは両足を開いて、身をかがめ両腕を太ももの上に載せた。
「お前はゲラニオンで生まれたって本当か。」
「本当だ。」
「名前は?」
娘はレオナルドをじっと見た。美しい緑色の目をしていた。
「…シャロン」
「お前の父親もゲラニオンの人間なのか?」
「いいや、父親はキサルピーナの生まれだ。」
レオナルドはシャロンにいろいろ聞いた。シャロンはポツリポツリと答えた。父、エドガーはある事情からキサルピーナにいられなくなって、遠くゲラニオンへと移り住み、そこでシャロンが生まれた。ゲラニオンの有名な呪術師コズマに才能を見出され、6歳の頃から術を習っていること。
「6歳の頃?今、お前は何歳だ?」
「15…」
レオナルドは驚いた。もっと上だと思っていた。
「俺の一つ上か…。この前の夜のことは、お前も覚えているのか?」
シャロンはうなずいた。
「わたしは魂だけですぐ傍らにいたのだ。全部聞いていたし、見ていた。」
レオナルドは身を起こすと、椅子の背もたれに体をもたせかけた。
「お前は、ギディオンの話をどう思った?信じるか?」
「信じる…。体を貸していたのだ。あいつが嘘をついたら、それと分かる。あいつは嘘は言っていなかった。」
「クリオスというのは、本当に神なのか?聞いたことがないが・・・。」
シャロンは肩をすくめた。
「わたしも、この国の神については知らない。」
足音がしたので振り返ると、エドガーがドアのところに立っていた。
「すまない。ちょっと邪魔していた。」
腰をあげて出ようとすると、エドガーが制した。
「いや、構いません。何の話をされてたのですか。差し支えなければ、わたしにもお聞かせください。」
「あなたは、この国の神話について詳しいか?」
「一通りは存じておりますが・・・。」
レオナルドは恥ずかしそうな顔をした。
「俺は、一応一通り神学の講義は受けているのだが、あまり熱心な学生ではなくてな。クリオスという名前の神については聞いたことがないのだが・・・。」
「ああ、クリオス神ですか。それは、ご存知なくても当然です。ずいぶん古い時代に信仰がすたれていますから…。レオナルド様も、神々が2つに分かれて争ったという話はご存知ではないですか?」
「うん、それは知っている。で、負けた神はタァトゥルー(暗黒界)へ落とされたんだろう。」
「何人の神がタァトゥルーへ落とされたかご存知ですか?」
レオナルドは首をかしげた。
「12人です。クリオスはそのタァトゥルーへ落とされた12神のうちの一つですよ。」
「じゃあ、悪い神様なんだね。」
「どうしてそう思うのですか?」
レオナルドは変なことを聞くなと思った。
「だって、悪い神だから、負けてタァトゥルーへ落とされたんだろ。」
「悪いから負けるのではないのですよ。負けたから悪いのです。」
(その2つ、何か違うのか?)
「わたしはなんとなく分かるけど。」
シャロンがレオナルドを見て、少し微笑んだ。
「今、この世の中で信仰されているのは、争いで勝ち残った神々ですから、そう思われるのも無理もないでしょう。書いた人は、今の神々の視点から神話を書いていますからね。だけど、客観的に物事を見る歴史家は、そうは見ないのですよ。争いに負けた神はその頃にこの地にいた先住民が信じていた神々で、争いに勝った神々は、我々の祖先がこの地に入り込んだときにつれてきた神々だろうと言われているのです。もしも、我々の祖先がこの地で実権をにぎらなければ、或いは、ティタニア族の神々はタァトゥルーに落とされなかったのかもしれません。」
「ティタニア族?」
「争いに負けた12神のことを、まとめてそう呼ぶのですよ。」
「それじゃ、デュースを信仰している俺たちが、ティタニア族のクリオスの封印を解いたら、神罰が下るのではないか?だって、クリオスを封印したのは、デュース神だってことだろ?」
レオナルドは、そう言うと、シャロンが反論した。
「わたしは、気にしないわ…。だって、わたしの国ではどちらの神も信じられてないし…。信じる神様をもう一度交換してしまえばいいんじゃないの?」
「そんなこと、できるのか?」
「わかんないけど…。でも、神罰を恐れていては、何もできないわよ。そもそも、王家はそんなにデュース神を崇めているわけ?」
古代ならいざしらず、王は神託による政治を行っているわけではない。しかし、ヘンリーは一年に一度は必ずデュース神がおられるというモナルデの神殿へ参拝をする。
「父はきっと邪神を蘇らすと言って反対するだろうな。」
エドガーは、そんなレオナルドの言葉を注意深く聞いていた。レオナルドはエドガーのそんな様子には気がつかなかった。
(やはり、ノラルピーナ公とアデルのほうに話を持ってきて正解だったな…。)
「ギディオン王の霊は今、どこにいるんだ?あいつ、最後に俺のことをつかんでこう言ったんだ。『俺の代わりにお前が落ちろ!タァトゥルーへ!』タァトゥルーって、そのクリオス神が落とされたっていう暗黒界のことだろう?ギディオンもそこへ落とされたのか?」
エドガーは首をかしげた。
「さぁ、あるいはそうかもしれないですね。」
「やっぱり、それはデュース神の怒りに触れて…。」
「負けたからいけないのよ。負けないようにすればいいのよ。今度は…。」
シャロンが口を挟んだ。
(でも、もし負けて落とされるのはお前じゃないんだぞ。)
レオナルドは気分が悪くなった。
「そういえば、昨日、ギディオンに名前を聞かれたとき、ダグラスが止めたんだ。それで、とっさに嘘の名前を教えたんだけど、あれはどうしてだ?お前が大公に言っておいたのか?」
「ああ、大公は覚えていたのね。あなた、命拾いしたわね。」
「なんだよ。命拾いって…。」
レオナルドは口をとがらせた。
「あなたが、交霊を嫌がり始めたから、説明している時間がなかったのよ。大公には事前に話してあったんだけど…。普通の霊なら、人の輪の防御陣だけで、十分なの。見えない複数の人間のパワーに抑えられて、霊は身動きができないのよ。だけど、力の強い霊はときどきこの防御陣を破っちゃうのよ。」
シャロンは続けた。
「霊はこの世に出て自由に動けるようにと、生きている人間の体をのっとろうとするの。わたしのような術士は、一時的に霊に体をのっとらせているのだけど、特別な訓練を受けているのと、精神力が並みの人間よりも強いので、自分の意志で用が済めば霊を外へ追い出すことができるのよ。つまり、霊にはのっとれない体なの。だから、霊は自分にのっとることのできる体をその場で見つけようとするわけ。それは、普通は、自分を呼び出した血縁者なのよ。その人しか見えないわけだから…。」
「それで?それが名前を教えないこととどう関係があるんだ?」
今度は、エドガーが口を開いた。
「呪術の基本は、名前なのです。名前というのは、その人間への入り口となるわけですよ。霊を呼び出すのにも、その者の名前が必要だ。偽りの名前からは、呼び出すことができない。呪いをかけるにも、正式な名前が必要だ。だから、昔、術士による呪術の盛んな頃には、高貴な者の本名は周りの臣下には伏せられ、臣下は主の仮の名前を呼んだのです。簡単に呪いをかけられることがないようにね。つまり、昔は、高貴な者は名前が2つあったということですね。一つはごく親しい者にしか教えず、秘密にしていた。反対に、自分の本名を教えるということは、愛の証でもあると言われた。おっと、話が少しずれましたな。」
「つまり、ギディオンには嘘の名前を教えたから、ギディオンは俺をのっとれなかったということか?」
「そうです。」
「なんで、そんな大事なことを、先に言っておかないんだ!」
「いや、お怒りになるのは、ごもっとも…。」
エドガーがレオナルドの表情を見て、シャロンの代わりに謝っている。
「いいじゃないか。結局、何もなかったんだから。」
「何もなかったわけじゃない。危うくのっとられかけてこの様だ。」
レオナルドは袖をまくって、腕に残った痣を見せた。シャロンはちらりとだけ見ると、
「そんな痣、少し経てば消えるだろ。あたしなんか、思いっきりなぐられて、痛くて背中を下にして寝られないんだぞ。」
「誰に向かって口をきいている。」
レオナルドは顔を赤くして怒った。するとシャロンはこちらも興奮して叫んだ。
「お前こそ、誰に向かって口をきいてるんだ?わたしはゲラニオンのコズマにお墨付きをもらった術士だよ。コズマといえば、ゲラニオンの王族も一目置いている。いくら王族と言えども、自らの運命には逆らえないからね。キサルピーナみたいな田舎の国の王子に下げる頭なんかないんだよ。」
声を聞いて驚いた小間使いが駆けてくる。
「おい、シャロン、謝らないか。」
エドガーが慌てて、片手でシャロンの頭を抑えると無理矢理頭を下げさせた。シャロンはふてくされた顔をしている。
「もう、いい。」
レオナルドは憤慨したまま、立ち上がった。勢い余って、椅子が床に倒れた。後ろで小間使いがおろおろしている気配が伝わってくる。後も見ずに部屋を飛び出した。怒りに任せて廊下をどすどすと荒々しく行く。
(なんだ、あいつ。)
王子として王宮で暮らす以外は、このウィットベリーぐらいしか知らないレオナルドにとって、今日のような経験は初めてであった。王宮内でなら、即、剣を抜いて首をはねても誰も文句をいえないだろう。もっとも、レオナルドは剣で人を切ったことはないのだが…。こんなに侮辱されて、こんなに怒ったのは生まれて初めてといっても過言ではない。しかも、ただの平民の娘にである。
「あの日、本当にギディオンの霊がわれわれに真実を教えたのかどうか、とりあえずわしは、配下の信頼のおける者にモンブレウの探索をさせてみようと思う。」
その日の午後、ダグラスはアデルとレオナルドにそう語った。
「クリオス神を復活させるというのですか?」
レオナルドは眉を寄せた。
「ただ、あの夜のことが本当かどうかを調べるだけだ。本当だったらどうするかはその時考える。」
「では、まず父上に話して…。」
ダグラスは快活な笑い声をあげた。
「こんな世迷言は王には奏上いたしかねる。霊がどうの、封印がどうの、とな。我々はあの場に居合わせたから、まだいいが、あの場に居合わせぬ者が、こんな話をして信じるかね?心配するな。レオナルド。ただ、調べてみるだけだ。それに、何かが見つかっても、お前か、ヘンリー王か、エドワード様じゃなければ、封印を解くことはできないのだから、な。」
「お母様はどう思われるのですか。」
返事は分かっていたが、聞いてみた。母は、いつも大公の言うことならなんでも聞く。王に嫁ぐことになったのも、このダグラスのおかげなのだ。
「わたしは、伯父上とお前がよく話し合って決めた結果に従います。」
なんだか釈然としない気持ちはあったが、それを言われてはレオナルドにはもう言うべきことは何もなかった。