前編「出会い」
己の容姿が武器になることは、自分でもよく分かっている。今までの俺は疑いもなく、その武器を振り回し続けて来た。
小学生時代からテレビなんかに出て子役をやって、高校生になると有名雑誌のモデルに抜擢された。顔だけをフォーカスされないように勉強を必死でやって、難関大学にだって合格した。それでまた妙な箔がつき、紙媒体で引っ張りだこになる俺の容姿。まあ、別にそれはいい。それでいいんだ、大学生までは。
でも。
大学を卒業して、一個肩書が取れたら、急に俺の「何か」が減った。
きっと年齢を重ねれば重ねるほど、俺のモデルとしての価値は目減りするんだろう。
容姿が崩れたら、それで終了。
そんな人生じゃだめだ。
だめなんだ。
スーツを着た自分は、どこか様になり過ぎている。
鏡の前、トレードマークにまでなっていた金髪は黒に戻し、量販店のスーツに袖を通す。ネクタイなんかしたの、高校生以来だ。
新卒でどうにか大手百貨店に滑り込めたのは良かったが、ちょっと今までの日常と落差があり過ぎて精神的にキツイ。
(まさか自分がモデルから足洗って、サラリーマンになるとはなぁ)
ちょっと前までは、リーマンなんか絶ーっ対ならねーと思っていたのに、意外や意外。人生どう転ぶかは分からないものだ。
(それに……)
俺はあの研修での出来事を思い出し、深い深いため息を吐いた。
つい先週までホテルで缶詰めになってやっていた、新人研修会でのこと。
今年我が百貨店に新卒入社したのは二十名。まず全員東京の百貨店で学び、その後は全国各地に配属されるらしい。
採用されたのは、女子16名、男子4名。男子の方が少ない。
これが、本当に良くなかった。
「安岡航平です。よろしくお願いします」
俺が壇上に立ってそう自己紹介した時、なんと女子の一角から、黄色い声が上がったのだ。
多分あの子達は俺のことを知っていたんじゃないかな、雑誌とかで。
まあそれは別にいい。
問題は──新卒男子たちの、白けた視線、敵意の視線。
うはっ。俺、なんかやっちゃいましたか?顔が良くて雑誌出てただけっすよー!?
……なんて言えるはずもなく。
(あーあ。入社早々印象最悪だな、こりゃ……)
だから男からは爪弾きにされる。一方で、女子達は俺の周りに集まって来る。だから更に男に嫌われる。この悪循環が俺を待っていた。
分かっている。男子は全員、幹部候補生なのだ。
ということは、こいつらに出し抜かれたら、俺の出世は絶望的だ。
顔が良ければイージーモードなんてのは、虚構と恋愛の世界だけ。
現実では顔に足を引っ張られ続けるのだ。教師に嫉妬されて成績落とされるなんてことはざらにある。付きまといや痴漢なんかの犯罪被害も被る。好意と悪意が猛スピードで交互に俺を押し倒しに来るんだ。みんな、知らないだろうけど。
(男も女も、顔顔顔……俺の顔ばっか見んじゃねーよ)
俺は内心苛ついていた。
顔だけじゃない場所を求めて飛び込んだ販売員の世界も、結局は顔に振り回される世界だった……
そんな時。
「安岡くんて、字、上手ね」
俺はノートを取っている顔を上げた。ああ、確かこの人は先輩社員で、新人研修の指導員。さっき指導員の自己紹介があったみたいだが、色々あって聞いていなかったな。
この人の名前、なんて言ったかな?すげー地味な名前すぎて思い出せないや。
「何か習ってたの?」
「……はい。書道を」
「そんなこと、自己紹介カードに書いてあったっけ……?」
「書いてません」
「じゃ、書いて。ここに」
目の前にファイルが差し出された。俺はそこの「資格」欄に「書道・師範」と書いた。
「師範?へー、凄い!」
「親が書道の教師なんです」
「履歴書には書いた?」
「そっちには、確か書きました」
「じゃあ筆耕が出来るの?」
「はあ、まあ」
その先輩はファイルを受け取ると、さっさと去って行った。
(筆耕……)
それは、俺の唯一の特技だった。勉強以外は何をやっても駄目で無趣味な俺の、ただひとつの特技。
(そういえば、字なんか久しぶりに書いたなぁ)
俺はすぐさま研修初日に受け取ったプリントを取り出し、「指導員」欄から先程の先輩の名前を探す。
そうだそうだ、こんな名前だった。
「伊藤祥子」
先輩の伊藤さん。ぱっつんの前髪に黒髪をひっつめて眼鏡をかけ、新卒のような黒いスーツを着ている。それなりに化粧はしているが随分控えめ。多分、今日寝て起きたら忘れてしまいそうな、パーツがことごとく切れ長の、特徴の薄い顔。
……のはずなんだけど、妙に顔を覚えてしまった。
俺が配属予定の店舗に、あの伊藤さんもいるらしい。
あとから聞いた話だが、あの指導員たちは販売の成績優秀者たちなんだそうだ。
俺はものをほぼ入れていない革のビジネスバッグを持って、電車に飛び乗った。
満員電車の、空虚な風景。
駅から出て遠目に百貨店が見えた時、なぜか俺はほっとしていた。
俺は百貨店の家具売り場に仮配属された。しばらくここで現場のやり方を習い、配属先が決定次第、そちらに移るのだそうだ。
その朝礼で、俺はあの伊藤さんを発見する。
あれ?先週と違って今日は何だかあの人、面構えがキツい。笑顔がないな……
ここで研修を行う新人は十名。おや……と俺は思う。
男子新入社員がひとりもいない。俺だけだ。
目の前にいる、九人の女子。俺を見て、何か囁き合っている。
まあいいや。今日は初めて現場に立つんだ。しっかりやらなきゃ。
あ、伊藤さんがやって来た。
「じゃあまずは、研修でやった接客用語の暗唱とお辞儀の練習よ。みんな、向かい合って」
新人同士で向かい合って、研修の流れを確認する。次に、伊藤さんは俺たちを率いて百貨店家具売り場内を案内してくれた。レジ操作、レジ周辺の様々な価格リスト、パソコンで在庫の確認業務、掃除などの雑務を、きびきびと一通りレクチャーする。
そろそろ百貨店の開店時間だ。
すると伊藤さんはさっさと売り場に向かってしまった。代わりにフロアマネージャーの田崎さんがやって来る。
「次はバックルームの使い方だ。みんな、付いて来い」
俺は伊藤さんを振り返る。ぴんと、どこか張り詰めた背中。
何だか凄い颯爽としてるなあ、あの人。
「おう、君たち、あの、伊藤な」
田崎さんが、秘密でも漏らすかのように俺たちに言う。
「この店舗で家具売り上げナンバーワンの社員だ。大卒入社でなく高卒の中途入社だから、なんと君たちの二歳下」
新人たちがどよめく。俺も「へー」と声が出てしまった。てっきり年上だと思っていたのだ。
それからじわじわと、言い知れない感情が沸き起こって来た。
なんか、かっこいい。俺もあんな風になりたい。
俺は思う。ごちゃごちゃと解決しないことを考えていないで、実力をつけたらいいじゃないか。
この百貨店のボーナス査定は個人の売り上げによるのだという。
誰にも文句を言われぬよう、売り上げに貢献したらいい。そうすれば、きっと顔抜きでの評価が得られる。
簡単な理屈じゃないか。
目の前が開けたような気がして、俺は高揚する。ひとつの答えが見つかった、そんな気がしたのだ。
と。
とんとん。
背中をつつく指がある。振り返ると、新入社員の女子のひとりがそっと俺に囁いた。
「安岡くん。今日、帰り、暇?」
俺は少し視線を周囲に移してから、おやと思う。
他の女子の視線が痛い。俺に向けられた視線ではないはずなのに、それはとても痛々しく俺に刺さった。
とっさに俺は言う。
「暇じゃない」
「どうして?」
「どうしてって、その……」
あっ、田崎さんまでこっち振り返ってニヤニヤしやがって!くそむかつく。
「勉強だよ、勉強」
俺はからかい半分、やけくそ半分でそんなことを言った。
「えー?勉強?」
馬鹿にすんじゃねえぞ、同期女め。
「みんな勉強したら?研修で配られたインテリアデザインのテキストにマニュアル、色々あったじゃん」
「あ、うん……」
「俺、伊藤さん目指すから」
「へ……へーえ」
「悪いけど、歓迎会までそういう誘いはパス!」
何やらさざ波がさーっと引いた後のように、俺にかかっていた圧が消滅した。
あ、これか。答えはこれなんだな?
そうだ。何かを真剣にやろうとしている人間に、みんな顔顔言うわけないよな。
俺は胸がすく思いがした。
しかしいざ勢い勇んで売り場に出てみたものの、俺は何も出来ていなかった。
まず商品知識がない。接客なんか今までしたことがないから、何をすべきかよく分からない。話しかけてくれる女性客なら、ちらほら。そんなところだ。もちろん売れないし、何も手ごたえはない。
そんな中、伊藤さんはどんどん売っている。まるでフロアの一人だけが忙しいみたいに、他の追随を許さない速度で次々に売る。
一体どんな手を使っているんだ?
俺はベッドリネン類を畳んでいるふりをして、そうっと伊藤さんに近づく。彼女は今、高齢女性の接客をしている。どうもお客様は、ベッドを買おうとしているらしい。
「そのマットレスでしたら、別のと交換も出来ますよ。……はい、ですが人間は人生の三分の一の時間は睡眠に費やしているわけですから……それでしたら、色は三色。……デンマーク家具のヴィンテージがお揃いでしたら、この形よりももっとカーブの多いデザインの方が。……いえいえ、お取り寄せに日数はかかりません、この製品なら輸入はせず、国内倉庫から直送です」
これは凄い。流れるようなセールストーク。コツは、お客様が考える0.3秒前に答えを導くように出す、というところか。にしてもデンマーク家具って何だ?曲線が多いの?俺には分からないことだらけだ。
やっぱり、売るには知識が重要なんだろうなぁ。
俺がじっと考え込んでいると、
「安岡くん」
急に伊藤さんに話しかけられ、俺はびくつく。
「はっ……え……?」
「いいところにいたわね。実際の在庫確認のやり方と、注文のやり方を教えるわ。ついて来て」
伊藤さんがお客様に向けていたような笑顔は、もうそこにはない。だけど。
──何か嬉しい。
レジ脇のタブレットを操作し、在庫を確認する。そこに入力をし、例のベッドを仮確保。
ファイルを取り出し、紙とタブレット入力の両方でお客様から個人情報をいただく。配送業者向けに出入り口の大きさや階段幅も入力して、レジでの支払いも済んだ。
それらを終えると、お客様は帰って行った。
「はい、仮を外して、確定を押す。どう?意外と簡単だったでしょう」
俺は我に返った。
いつの間にか、俺の操作で家具がひとつ売れていたのだ。
「あんまり考えすぎないで、お客様に話しかけてみて。駄目なら退く。いけそうなら押してみる。それだけだから」
いやいや、そうはおっしゃいますけどもねえ。
俺のその心の声を察してか、彼女は言った。
「お客さんは基本、買いたいのよ。お金さえあれば」
ほう。
「でも、お財布と相談しているわけ。お財布に叶う商品かどうかを見に来ているのよ。特に家具は高い買い物だから、皆様本当に慎重に検討していらっしゃるの。そのタガを外すのが、我々の知識。分かった?」
な、なるほど……
伊藤さんはそれだけ伝えると、再び家具売り場に戻って行った。
なんかすげー。
カッコイイ!
(もっとあの人と話が出来ないかな……)
何の脈絡もなく、俺はそう思った。
(そうだ。今日は二人とも早番だから、ちょっと帰りにでも話しかけてみよう)
伊藤さんの、小さくも大きな背中。
あの背中に、何か俺の行き詰まり感を突破するヒントが隠されているような気がする。
夕方、俺は再びベッドリネンを畳むふりをしながら、そーっと伊藤さんに近づいた。
ひどい話をするが、俺は女性を誘って断られた経験がない。正直、自分から告白して女の子と付き合ったこともない。だから、こと女性の動向に関しては楽観主義なのだった。
てっとり早く、話しかけてみることにした。
「あの」
夕方は客が少ない。俺は怪訝な顔で振り返った伊藤さんに、意を決して言った。
「勤務終わってから、少し時間ありますか?」
「ないわ」
はい?
……えええええ。
あっさり断り過ぎ!
「……そうですか」
「何でそんなこと聞くの?」
「ええっと、ちょっと相談が」
「ここで言って下さい。言えないようなことなの?」
それで、俺はようやく我に返る。
確かに俺、この人に何を話そうと思ったんだろう?
俺は内心焦った。なぜ、話すこともないのに誘ったんだろう。でも、何か話したいし……。
そうだ。この人と話している内に、俺の中のもやもやが解決しそうだからなんだ。その言語化出来ないもやもやは何なのか、俺自身にすらよく分からない。でも、この人なら知っていそうな気がする。
伊藤さんはそんな俺の困惑顔をもの珍しそうに眺めて、こう言った。
「聞きたいことがあれば、勤務時間内ならいつでも聞きますので」
言うなり、さーっとバックルームに引っ込んで行く彼女。
ふと時計を見上げれば、退勤の時間だった。
じわじわとやるせない感情がこみ上げる。何だよ、少しくらい……と思った自分に、また惑う。
(うわっ。何か俺、めちゃくちゃかっこ悪い……!)
何なんだろう、これは。初めて体験した感情だった。
でも、それでようやく気づけたんだ。
顔を一番気にしているのは、みんなじゃなく、俺の方。
伊藤さんは後輩の顔のことなんて、何も気にしちゃいなかった。
(恥っず……)
何だか感情が迷子だ。
「帰るか……」
俺もふらりとバックヤードに入って行った。伊藤さんは、もう帰っていた。
駅前を歩く。
春の陽気に、少し汗ばむ。俺はスーツのジャケットを脱いだ。
駅前の宝くじ売り場に、長蛇の列が出来ている。ここが「当たる」と評判の売り場なのだそうだ。
ふと目を移し、見慣れた人影を見る。
まさか。
俺はその人のいる場所まで歩いて行く。
「……伊藤さん?」
近付いて声をかけると、はっと彼女が顔を上げた。
「や、安岡くん、どうしてここに……!」
とたんに伊藤さんの顔は真っ赤になった。