第2回
老女の横を通り抜け、二人は開きっぱなしの扉を抜けて、日光の入らない薄暗い廊下に出た。そのすぐ右手には二階に行く階段があり、二人はそれを上へと向かう。シヴィルは木製の階段がめずらしく、踏みしめた板が抜けやしないかと密かに心配した。だが、二人は無事に階上へとたどり着いた。
暗い一階とはうってかわって、二階は明るかった。彼らがたどり着いた部屋は広い一間だ。壁付け収納棚が一つ、小さなお茶用テーブルとその周りに小さな椅子が二つ。寝椅子が、窓辺に付けるように置かれている。調度品の趣味が統一されておらず、決して上品とはいえない部屋だ。続く奥の間がどうやら寝室になっているようで、小さな寝台の一辺が見える。奥で、人の動く気配がした。
「エレノア?」
何かがきしむ音がして、奥の部屋から、たおやかな、長い金髪を持った若い女が現れた。
「まあ、アドレー?」
彼女は嬉しそうに、瞳が落ちそうなほどに表情を崩して笑った。
「どうしたの、今日は早いのね。もう終わり?」
「いいや、そうじゃないんだが……」
――妻だろうか?
こんな大男からは想像できないほど、彼女の前ではアドレーが子供のように照れている。彼があまりに優しい表情になって態度が軟化したので、シヴィルはその変貌ぶりにびっくりした。
「それより、体は大丈夫か? ばーさんにこき使われてないだろうな?」
「うふふ、大丈夫よ。のんびりやっているわ。あの人、口は悪いけど根は優しいのよ」
近くに来た彼女を労わるように、アドレーが彼女の頭をなでた。女がますます笑顔になる。
「――ところで、その子はどうしたの?」
「ああ、そうだった」アドレーがシヴィルを見て、照れたように笑う。
「エレノア、悪いがな、俺の仕事が終わるまで、こいつを預かってくれないかな?」
シヴィルは仰天し、奇声とも言える声を発した。
「いやだ! なぜ私が、子供のようにこんなところで面倒を見てもらわなければいけない! 私は外に出たいんだ!」
エレノアのびっくりした表情とは対照的に、アドレーは手で顔をおおっていた。あきれているらしい。
「おまえなあ……」
「勝手に私をこんなところに連れてきたのは、おまえだ! すぐに私を街に戻せ! 私はさっさと街に戻り――」
バッチンという音が耳元でしたかと思うと、シヴィルは何かに吹っ飛ばされて床に倒れた。視界が閉じ、次に見えたものは床板だ。おまけに右の頬が熱い。
まさか自分が床に倒れたとは信じられず、シヴィルはほてった頬を押さえながら、アドレーを見上げた。アドレーが不機嫌そうに仁王立ちし、その目は怒っている。
「アドレー、なんてことを!」
エレノアがあわててシヴィルの元に走り寄って助け起こそうとしたが、シヴィルは思わず彼女の手を払った。すぐに、シヴィルはアドレーに頬を殴られたことがわかり、わなわなと震えて、自分の手と床と、彼を見つめた。
「わ、私に……私に、手をあげたな……!」
「そうだ。あんまり聞き分けがないからな」
「よくもこの私に手をあげた! 誰も私にそんなことをする者はおらぬというのに!」
「だろうな。だから、甘ったれの世間知らずの坊主は困るっていうんだ」
シヴィルとアドレーはお互いに臨戦態勢のまま、相手の出方を覗った。
そのうち、エレノアがシヴィルの肩を優しく抱き起こし、それによってシヴィルは冷静さを若干取り戻した。そして、それを見たアドレーの表情がいく分和らぎ、ため息まじりに言う。
「小僧、いいか? 鼻っぱしらが強いのもいいが、所詮、子どもが大人の力にかなうわけはないだろ? おまえみたいな高慢な態度の子どもは、盗人のいいカモだ。しかもその風貌だ、人売り商人にすぐにでも目をつけられるぞ。……見た目のきれいな子どもは高く売れるんだ。金品を盗られるならまだしも、親に二度と会えない外国へでも売り飛ばされたいのか? おまえ、奴隷になりたくはないだろう?」
――人売り? 奴隷、だって?
シヴィルの頭から急激に怒りが消えた代わりに、混乱が頭を覆う。
……人間が、物みたいに売買されるのか?
「ま、とにかく、おまえはしばらくここにいろ。ここに盗人は出ないからな。うるさいばーさんにだけ、気をつけてりゃいい」
シヴィルは、笑いながら言うアドレーをぼんやりと見上げた。そして、ふらふらと立ち上がる。
「……おまえは人売りではないのか?」
「俺がか? ははは、そう見えるか? ……安心しろ、俺はただの馬番アドレーだ。俺がもし人売りならば、金になる商品のおまえをぶん殴りなんぞしない」
男は初めて自分の名を名乗り、友好の印として手を差し出した。シヴィルはその大きな毛むくじゃらの手を見るとなぜか恥ずかしく思えたが、少しして、自分の手をその上に重ねた。アドレーは驚いた顔をしたが、すぐに笑顔となり、シヴィルの小さな手を自分の手で力強く握った。シヴィルがぎょっとしてアドレーを見返すと、彼はげらげらと笑い声をあげた。
「友達になるときは、こうやるんだぜ?」
男の手の温かさに安心し、シヴィルもおずおずと力を込め返した。
「おまえさん、名はあるんだろ?」
「私の名か? ……私はシヴィルだ」
エレノアがゆっくりと微笑んだ。
◇ ◇
ラ・ヴィスコン城。
第一王子の姿が見えなくなった王城では、大騒ぎになっていた。王子は普段から行儀がよく、単身であちこちに冒険に出るようなタイプではない。けれど、王子は何度となく暗殺の危機に遭遇している。誰も知らないうちにどこかで落命していたとなれば、それこそ大変な問題だ。王子の教育係や王子付きの衛兵たちは、顔面蒼白となって城の地下や庭を捜し回った。
やがて、ある給仕が厨房へと続く通路で王子の姿を見かけたのを最後に、行方不明になっていると判明した。そのことから、王子は何らかの方法で城外へ出たのだ、と判断が下される。そして、誰もがその身を案じて、顔面蒼白となる。
「早急に追っ手を出さねば! その時間帯に外出した業者の行き先を調べて、その先へ急げ! 何としても無事に王子を城へ連れ帰らねば! 王子の身を確保せねば、我らの首が飛ぶぞ!」
それから約三十分後、六人の近衛兵と“間者”と呼ばれる表舞台には出ない裏の密使三人が、城下町ヴィスコンデールへ向けて一斉に馬を走らせた。
◇ ◇
夕方近くなって、アドレーが戻ってきた。その頃までには、シヴィルとエレノアはかなり仲良しになっており、シヴィルは明るい笑い声をたてて、彼女との会話を楽しんでいた。
「よお、いたな」
「アドレー!」
「おかえりなさい、アドレー」
シヴィルがばたばたと走り寄っていくと、アドレーから笑みがこぼれた。
「退屈だったろう? おまえに土産があるぞ」
「私に?」
そして、彼はシヴィルの前に麻袋から取り出した白い物を差し出した。シヴィルが興奮してそれを広げてみると、それは一式の服。しかも、街の子供が着るような、粗末で地味な服だ。
「……これは何のつもりだ?」
「それに着替えな。おまえ、外に出たいんだろう?」
シヴィルは興奮してアドレーを見た。アドレーは満足そうにウインクしている。
「ほんとに!? いいのか?」
「早くしろ。何か食いに行くぞ」
狂喜したシヴィルは、服の袖を伸ばす時間も惜しんで乱暴に服を広げ、服を上から被った。上級の貴族は自分で着衣もできないものだが、シヴィルは一般貴族出身者の子供たちとも遊んでいたため、自分で服が着られる。このときばかりは、自分で服を着る習慣が身についていて良かった、と彼は思った。
薄い黄土色の服、白い上掛けを着たシヴィルは、その勇姿をエレノアに自慢するように見せた。その腰には、その服に似つかわしくない立派な剣の鞘がのぞく。
「おい、その剣は置いていけよ」
シヴィルはそれを拒否した。
「無理だ、これは置いていけない。私は、この剣を片時も離したことがない」
置いていくのが嫌だというより、剣を身に着けない生活などしたことがない。剣がない身なりなど、シヴィルには思いつきもしなかった。
「いや、でもなあ、街のガキどもはこんな剣は持ってないんだぜ、シヴィル?」
「これは私の命と同じもの。絶対に、持っていく」
エレノアが小さく肩をすくめ、アドレーに頷いてみせた。仕方なく、彼もシヴィルに折れる。
「……いいだろう、持っていけよ。うん、外から見えないように、それを少し隠すか」
かくしてシヴィルは、上掛けの上から茶色の帯を締め、大きな剣を布で覆い隠した。傍から見れば、上着の裾が垂れているだけのようにも見える。
夕日に向かってゆく二人を、エレノアがいつまでも戸口の前で見送っていた。
街中の雑踏に戻った二人は、夕食にありつく前にアドレーの知り合いでもある肉屋に寄り、活気のある市場をすりぬけ、“パル”と呼ばれる中央広場に行った。広場のりんご売りから焼きりんごを“買う”という初体験をして、シヴィルは大興奮だ。彼のあまりの世間知らずぶりにアドレーは呆れていたようだが、彼が喜ぶことには一緒になって喜んでくれた。さらに、今まで口にしたことのないピンク色の砂糖菓子をこわごわと味わい、魔除けの木彫りの人形を手にすると、シヴィルは一連の恵まれた体験全てに感激した。
中央広場の裏手にある通りでは、水路の水で野菜を洗いながら、近くで走り回っている子ども達を怒鳴りつける豪快な母親たちの姿を目にした。シヴィルは、彼女たちの姿に衝撃を受けるとともに感動した。
彼の知る母親には、あんなふうにたくましい女はいない。
ましてや、シヴィルの母は自分で手を煩わすことのない高貴な貴族であり、常につんとして、声を荒げる様など想像もつかなかった。
「おい、坊主、おまえは何が食いたい?」
シヴィルがはしゃぎ疲れた頃、アドレーが言った。
「アドレーの選ぶものなら何でもいいよ」
「……おまえ、子どものくせに大人みたいな気を使うなよ」
けれど、シヴィルにはアドレーの選ぶものなら本当に何でもよかったのだ。彼の選択には信用がおける。
結局、アドレーは市場の入口近くにある大衆食堂にシヴィルを連れていった。そして、店の主人と親しそうに言葉を交わした後、シヴィルの聞いたことのないメニューを何品か注文した。
「ここはさっきの肉屋の弟がやっている店だ。うまくて、安い」
その言葉どおりに、まだ食事を頼むには少し早い時間にもかかわらず、店の半分は常連客らしき人で埋まっていた。
その後すぐに、小さなプレート状の固パンと溶かしたチーズ、干し肉と青野菜の和え物、匂いの強い酒が出てきた。シヴィルがこれで食事の全てかと戸惑っていると、アドレーはにんまりと笑い、シヴィルの肩を力強くたたいて言った。
「これは前菜だぞ。主菜が出てくるからな、満腹になるなよ!」
シヴィルは周りを見渡して、それぞれが食べている食事を見た。どれも全部おいしそうだ。それぞれの食べ物から漂う匂いで、シヴィルのお腹はさらに空いた。
「はい、どうぞ!」
丸々と太った女中が運んできた大皿が、二人のテーブルの上に大きな音をたてて置かれた。
「う……わあ!」
それは、地酒をたっぷりとかけて蒸し焼きにした鴨の丸焼きだった。盛んに上がる湯気と香ばしい匂いに加え、あちこち焦げているところもまた美味しそうな、艶のある茶色い鳥皮。その中には、鴨肉と栗、干し葡萄、麦、パンを出汁で炊いた詰め物がめいっぱい入っている。
相当に空腹だったシヴィルは早速、木製の棒と小さなナイフで肉を薄く削ぎ落とそうとした。それを見たアドレーは口をあんぐりと開け、肩で息をつく。
「おい、そんなもの使って食べるんじゃない。こいつはな、こうやって――」
シヴィルの上品な振る舞いをとがめ、アドレーは鴨の足の部分を力任せに引きちぎって、大口を開けてかぶりついて見せた。それを噛み締めながら、彼はにんまりと笑う。シヴィルの目の前で、彼は手についた汁を床にとばし、指についた汁も舌できれいに拭い取った。
「おい、見てないで早く食え。うまいぞ!」
取り去った肉の間に見える詰め物から湧き水のように肉汁がにじみ出て、食欲をそそる。シヴィルがおずおずと鴨の足に手を伸ばすのを見て、アドレーが嬉しそうに目を細めた。シヴィルは思い切って、できるだけ大きく口を開き、手で掴んだ肉を口の中に突っ込んでみる。
「……うまい!」
シヴィルが驚くと、アドレーが肩を揺らして笑った。
「当たり前だ! まずいわけがない」
指の間にこぼれた肉汁も舌で拭い去り、シヴィルは鴨肉に貪りついた。
二人とも、よほど空腹だったのに違いない。無言のままに食べ続けた後、彼らの前には山のような皿が積み上げられていた。
「ここまでの量を食べきったのは私も初めてだ。ああ、美味しかった……!」
いまだかつてない満足感も味わっていたシヴィルは、アドレーに感謝の面を向けた。彼は食後の酒をゆっくり呑んでいたが、シヴィルの満足そうな様子に嬉しがっているようだった。
城下町の賑わいを体験し、たくましい女たちを目にして、質素だが活気ある庶民の生活を垣間見た。さらには、こんなにも美味しい食事。側近たちの警護をまいて、ここまで一人で出かけてきた甲斐があった。シヴィルはしみじみとそう思った。
城内での今の生活を考えると、ここでの生活の方が余程、自分の身にあっているようにも思われる。
――だが、シヴィルの満ち足りた時間はそう長くは続かなかった。