【FACTOR】 悪意に満ちた要因が放つ凄惨と慕情
10:18 興奮する桜は階段を少し下ると、座っている鈴村を起き上がらせる勢いで襟首をつかみ、問い詰める。役職や立場を気にするほどの余裕はない。ただ、ただ、今までの生活から遠ざかる現実が、誰かに、何かの答えを聞かざるを得なかった。その理由を答えられる人間は、シンギュラリティ世界とモンストラス世界を合わせてみても、鈴村をおいて他にいなかった。
「か、管轄……きょ……恭介は……恭介はどこよ!!」
「そいつが刈谷だ。ANYにとって、この形の方が都合が良かったようだな」
「嘘よ!! こんな……馬鹿げた話。どうして……どうして連れて来たの!!」
「刈谷には任務を与えた。それはこの星、モンストラス世界が、永続出来るかどうかの重責だ」
「それを!! 恭介は知ってるの!?」
「知ってしまっては意味がない。約束しよう。刈谷が半年間我々の管理下に置いて、こちらの必要な情報が手に入った時、刈谷にシンギュラリティ世界への帰還を尋ねた後……彼の記憶を蘇らせ、元の環境に戻そう」
「記憶がない恭介が、拒否をしたら?」
「様子を見た後……強制的に記憶を蘇らせる。後は刈谷の判断だ」
鈴村の決断は揺らぐことのない意思を感じる。それは善と悪という区別したものでなく、「必要」と考えられた決断。その決断は鈴村自身の為ではなく、シンギュラリティ世界、またはモンストラス世界の星全体を考えたことであろうと、興奮する桜にも読み取れる。掴んだ襟首を持ち上げる力は弱くなり、過ぎたことの釈明を求めることよりも、春日の姿となった刈谷をどのように今までと同じ環境に戻せるかを考えるようになった。桜自身、何かに納得したのか、シワのよりそうになる鈴村の襟から手を離す。
「ふぅ……どちらにしても私の選択権はない訳ね」
桜は目を座らせ、普段見せる影が消える。
乱れた襟を直すこともなく桜を眺める鈴村は強引に進めた管轄としての事情を踏まえながらも、何か別の事情でおきる支障を避けることも考えなければならない。それは機械的な事情とは別の、人間として。それは鈴村の理想ではないのかもしれない。しかし多少のリスクを考えてでも、ひとりの人間の納得を得られること。その情状を理解することも管轄という立場には必要であった。
「心配なら……ある事をすればお前のRに、お前の今の状態のRを入れてやろう……護るのは、水谷、お前だ」
「ある事? いえ、先に……恭……刈谷が死ぬ様な目にあったらどうなりますか」
「なるべくそのような目に合わないよう、そんな瞬間は『ZONE』空間になる様にRを環境と適応させよう」
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『ZONE』。それは緊急時に危険な状態から回避するためのプログラム。未だ『実験的』という言葉で『LIFE YOUR SAFE』内では噂が広がっていたプログラムであったが、強制的にモンストラス世界を負荷の掛かったデータが重く感じる世界に変化させて、特殊なプログラムを組み込んだデータであるRのみ、目に映る情報をいち早く判断できるように思考時間を与えるためのもの。身体能力、判断力がある者であれば回避できる可能性が高まる。一職員には眉唾程度にゲームのような世界観な雑談のネタになっていたものであるが、管轄である鈴村の揺るがない言葉には、それらの噂話以上の効果あるプログラムであることが桜には伝わった。
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「『ZONE』……管轄並の重役に創った空間ですね……なら私のRにもお願い致します」
「いいだろう。Rが何度も更新されて劣化するのは良くない。特に自害という、生きる意思のない不自然な劣化が増えると、この世界のつじつまが合わなくなり、ANYに消される可能性が増える」
「ありがとうございます……そして、ある事とはなんでしょうか」
一時は取り乱した桜。そして桜の要望や疑問に適切に対応する鈴村。簡単なようで難しい相手からの協力を得られる同意は、ひと言の感謝で協力者としての合意を得たも同様であった。それを短時間の間に得た適切さは、管轄という重責を若くして全うしてきた鈴村ならではと言えるところである。大胆なことを当たり前に行う鈴村は、静かな口調で当たり前のように難しいことを伝える。
「シンギュラリティ世界とモンストラス世界は今、なるべく似た環境で進むように、出来事の時期を合わせている。邪魔にならないように刈谷をここまで運んだのだが、お前がこの件に絡む事で手を汚してもらう。簡単に言う……ここに間もなく来るRを……殺せ」
胸の鼓動が自覚できるほどの緊張。その言葉をそのまま受け止めてよいものか、何かの比喩かと考えてしまう前に驚嘆の言葉がでる。
「え!? 誰のRが来るんですか!?」
「今回の加藤達哉の解約日にリンクさせた……来るのは「お前と、刈谷と、春日」だ。刈谷以外の『春日と水谷』の二人。自分を殺せ」
何故そのような凄絶なことを行わなければならないのか。データであるRならば、鈴村の命令によりANYにRの消去をすることが困難なのだろうか。そのようなことを考えながらも当たり前に理由が知りたい。口を抑えたい気分になった桜ではあるが、胸が膨らむような深い呼吸を二度、無意識に行ったあと、その理由を訪ねた。
「殺す必要性を教えて下さい」
桜は話し方に余計な感情を見せず、落ち着き、冷静な、そして冷たさを滲ませる雰囲気で、鈴村に質問を続ける。胸中は穏やかでない様をなるべく見せないように。
「今話したRを俺とお前の都合に合わせられるように更新するためだ。この刈谷は……春日として泳がせる。まだシンギュラリティ世界の記憶があるだろう。刈谷の性質はそのままだが、記憶は春日の記憶データに更新し、更新情報は俺がシンギュラリティ世界に戻り直接指令する」
「ANYにRのデータ消去は出来ないのでしょうか」
「元々春日の予定で、自らこのモンストラス世界に出向いてもらう予定だったからな。急遽刈谷に決まったことにより、ANYへの指示は直接行わなくてはならないが、どう変化するかわからなかった刈谷も放っておくことは出来なかった」
鈴村の予想通り変化した刈谷の姿。それはRがすでに存在している人間の桜にとっても危険性はあった。刈谷の安否と桜の希望、そして桜の危険性。それらを含めると、Rを直接的にこの世界から痕跡を消す方が簡単ではあった。急遽刈谷に決まったことにより、鈴村はRの春日を殺めることになるはずだった。しかし、桜が予定外にモンストラス世界に来たことにより、それらの危険性を早くなくすことができた。
桜がそれを実行できたのち、しばらく人間である桜がRとしてこの世界に存在することでつじつまを合わせることが出来たであろう。その間に新しいデータを入れた桜のRを鈴村が直接ANYに指示をすることが出来れば桜の希望に沿うこともできる。
桜の質問に答える鈴村は、そのような事情を想像する桜を眺めながら、続けざまに語った。
「いま、モンストラス世界のR人類が発展するために最低必要な人口密度の限界がきた。モンストラス世界にもたらしたフェムと呼ばれる超自然現象の力を暴走させないためにも、作戦開始後ANYはこの世に死者を出さない。Rが死を認識した瞬間に、その出来事が無かったかの様に自動更新されるだろう……そのほかでこの世界で強制的にRの更新をする時は、基本そのRを消すか壊す時だ」
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桜は鈴村の言葉を聞きながらも自問自答する。それは今まで『LIFE YOUR SAFE』でのシミュレーションにより何度もRと同様のデータと銃撃、格闘などの実戦に限りなく近い『死なない』戦いは繰り返してきた。けれどもそれは歴史を積み重ねたRでも自分でもなかった。胸の鼓動は穏やかではない。いつもの平和な日常でもない。その重みを仕事と割り切り、義務や責任感という形にするには時間も掛かるが、心で決めたことを静かに言葉に出すだけだった。納得するために。刈谷の任務も理解するために。
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「承知しました……ところで刈谷の重責とはどんなものでしょうか」
「ファクターとの接触だ」
「ファクター?」
「人間とR……気質の違うところはない。だが平和なシンギュラリティ世界で脅威となる行動を取る者は、なかなか目につかない。一般人は簡単に目に付くが『LIFE YOUR SAFE』の職員の中では巧妙だ。世界を護る機関、そしてシンギュラリティ世界のANYを護る、『LIFE YOUR SAFE』本部に近い者の存在で間違いが起きてはならない。その「不安因子人物」である「ファクター」を特定する事が目的だ。悪意のある人間は、不安定なこのモンストラス世界でこそ行動が目立つものだ」
「では何故、刈谷が選ばれたのですか?」
「刈谷の身体能力、判断力、生活環境による精神面。一番落ち着いた人物像であり、危険を回避出来るとANYは判断した。つまり刈谷は、職員含め、一番正義感の強い人間と言う事だ。そういう人間は身近にいるファクターの者と必ず揉める。その自然な形で揉めた相手をマークする。無理矢理ではあったが、この内容を知ってしまうとファクターに感づかれる可能性がある。お前達の未来のためだ。自分の働きで運命を決められる仕事は、そうそうないぞ」
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ファクター。不安である要因、要素である不安因子をひと言で用いた言葉。それはどのような根拠で探し始めたのか。それとも、まだ見ぬファクターの恐れを回避するための備えであるのか。シンギュラリティ世界であればわからない存在でも、同じ性質を持つRであれば、その心に潜むファクターとなる者が見つかるかもしれないという大胆な探し方。そしてその事を刈谷自身が知らずに生活していくという不確かな環境ではたして見つかるものなのかと桜は考えたくなる。どのようにして監視していくのか、どのようにしてRからファクターと判断するのか。
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「わかりました……あと一つ、何故ファクターが存在すると思ったのですか?」
「俺のRからの情報だ」
「管轄のR……何故Rがそんな事を」
「モンストラス世界の者で、シンギュラリティ世界を知っていて、世界を脅かすようなことを言われたと聞いた。ファクターの一人なのかもしれない。俺は、モンストラス世界とシンギュラリティ世界を行き来する。両方の世界を監視しRと情報を共有する。それぞれの目で感じた違和感や不安要素を俺からANYに伝え分析する。このモンストラス世界はシンギュラリティ世界の中で管理され、自然に膨張する重力の引力を無理に締め付けすぎず広げすぎないように、そしてモンストラス世界を囲む壁に穴を空けないように要管理されている。その最重要管理室に今回、侵入者の形跡があった。それがどれだけ危険な事かはわかるな?」
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職員のRがあるのであれば、鈴村のRがあるのも必然的であった。同じ組織がモンストラス世界にあるのであれば、その組織を取り仕切る者は大抵シンギュラリティ世界と同じ、又は同等の者に任せることが安心であった。桜や刈谷などの役職者であっても、自分のRがモンストラス世界にいることは知っているが、どのような生活をしているかはわからない。そしてRと交流する人間がいること自体は冗談話以外は噂話にもならないことであった。
桜にとって鈴村の分身であるRが本体に対して物申すことが想像しづらかったが、鈴村の二度聞きが必要ないほどの詳しい説明に納得は早かった。
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「はい……万一穴が空いた場合、星の中でモンストラス世界の重力を保つ自然現象が膨張……シンギュラリティ世界は恐らく……」
「そうだ。消滅する。モンストラス世界では自分のいる星と見せられている宇宙が唯一と思われなければならない。この星でおこりえる『意味のあるように見える偶然や現象』は、全てシンギュラリティ世界からの影響を受けた「synchronicity」であり、その存在に気付いてはならない」
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シンギュラリティ世界からの影響。それはデータであるがゆえの劣化現象により様々なつじつまの合わない現象がおきる。認識する人間が別の人間に置き換わることもそのひとつであり、モンストラス世界が形ある惑星であること以外は、昨日まで当たり前のことが、今日は違い、それを認識するRもいない。劣化現象である自殺の多発が起きるまでは。
桜に今できること。それはいつもシンギュラリティ世界のシミュレーションで戦っているRと同じ『人間でない別のもの』という認識を強めることしかできない。そして、断ることは考えていなかった。
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「理由はわかりました……Rはいつ到着する予定ですか?」
「予定では12:00に到着する。今は10:34……心構えをしてお……」
鈴村は言葉を止めた。そして辺りを見回す。天井にぶら下がる大きく装飾に飾られた黒くくすんだシャンデリア。鈴村は眉間にシワを寄せ、ゆっくり立ち上がる。
桜にしてみれば、何に気を取られていたのかは理解できない。目の前にいた桜を中心に目線を左右上方に見上げ、明らかに何かを眺めている鈴村。それが共感覚現象である黒と緑が混ざったような音が、窓から流れてきてシャンデリアの細かい反射として映し出されている景色だとはとても考えられなかった。
「どう致しました?」
「どうやらファクターは……俺達の先手を打っているようだ。心構えはすぐに終わらせてくれ」
顔つきが変わる鈴村。それは桜から見て警戒ととれる表情。何をどう判断した結論であるのか、それがどれだけの危険性があるのか。
鈴村の言葉に無言で立ちすくむ桜は、風が窓に押し付ける風圧のきしみと、馴染みのない鳥の鳴き声、それ以外何も気配に気づかなかった。この古い館が、大きく開かれた扉の勢いに、手応えを感じる壁からの跳ね返る音が聞こえてくるまで。硬い、とても硬い足音を桜の耳に届けて、鈴村の目には共感覚が映し出す。
「水谷」
「はい」
「死ぬなよ」
駆け上がる足音。玄関からと感じられる距離感。それは目的を持って力強く、殺気ともとれるその意志に、桜の緊張は増す。その正体は、隠れては見つめられない。階段を下りる理由もない。ただ、そこに二人で立ち並びその正体を見なければならない。役職者に与えられている拳銃。シミュレーション以外で使用したことのない代物。シミュレーションで経験したことのない立ち位置。拳銃を収納するホルスターから抜いていいものか鈴村に尋ねたくなる刹那、鈴村からの指示が先だった。
「見えた瞬間……撃て」
「え、はい! は!!!?」
すでに二階まで気配は上がってきていた。桜が目視したものは、二階から三階の階段途中の踊り場に投げ込まれた物体。わざわざ自分が階段を昇る前に投げ込むもの。それは意思だった。強い意思。予告ともとれる血の引く無慈悲。それは直視をするだけで意識を別世界に誘うほどのストレスを与える、加藤の肩より上の部位だった。
躊躇の必要がない緊張感のはずだった。しかし、踊り場に現れた、斧を片手に持つ暴挙の人物に、桜は躊躇する。
「どうして!?」
「撃て!! Rだ!!」
「見ぃつけたぁ」
桜と鈴村の言葉に続いて静かに流れてきた言葉。特に桜にとっては聞きなれた声だった。遊び心の余韻が残りそうな間の抜けたような声は、この場において、鳥肌が立つ思い。
一瞬、桜は三階の部屋に倒れている春日の姿に横目を触れさせ、すぐに現実とは思いたくはない狂気の存在に目を止まらせる。その目の前に現れた人物は『刈谷』。血しぶきのついたその表情は冷たく、感情の篭らない言葉を発したと同時に階段の遊び場より三階に向かって近付いていた。覚悟を決めていた桜は、夫としての刈谷との違いはわかりつつも、引き金を引く事が出来ない。
「あれが刈谷に見えるか? 見た目に惑わされるな!」
「きょ……恭……介」
桜から名前が零れるその瞬間、鈴村は姿が刈谷に見える『怪人』の遊び場に向かって階段を蹴り飛ぶ。
「鈴村ぁ」
怪人は鈴村が階段を飛び降りると同時に斧を振りかぶり鈴村に飛び付くが、それを鈴村はわかっていたかのように、斧が振り下ろされる軌道より外側に体をねじらせ、振り下ろされる前に顔と腕を掴み、勢いに任せ掴んだ顔を、踊り場の壁に叩きつける。斧を足で弾き飛ばし、体幹部が桜にはっきりと見えるように押さえつける。
「むぐぅ……ぅがあ!!」
「撃て!! 水谷!!」
「ぅう……う」
「無理か……」
「はあぁ……恭……介」
拳銃が震える。構える腕には力が感じられない。無理やりあごを斜めに引いた今にも泣き出しそうな口の歪み。鈴村が抑えているとはいえ、既に右手から離れた斧を本来用いて、明らかな殺意を持って挑んでこようとしている怪人。その怪人への視野を外している桜。鈴村にとっても長い時間、この怪人を押さえつけておくことはできない。迷う桜に説得する余裕もなく、油断を作りたくない鈴村は、息をゆっくりと、刈谷の姿をした怪人に気づかれないほど静かに、深く吸い込み、吐き出す同時に両手を怪人の頭部に持ち替えて同じ方向に捻った。
「ふぅっ!」
「が……あ」
怪人の首を一息で折る鈴村。怪人は目を見開きながらも、抵抗する様子はもう見られない。音は階段の最上階でうつむく桜の耳にも届いた。その首を折られた刈谷の顔を見ると、両手の力は完全に抜け、崩れるように膝をつくた。
「水谷……お前には無理だ。お前がこれから殺す相手は、普通の人格をもった春日と自分だ。シンギュラリティ世界のシミュレーションで学んだ訓練とは訳が違う……帰るんだ」
桜は完全に腰を落とし、顔を下げ、シミュレーションで何度も条件反射のように行動し、Rを消去する攻略を想像した展開を実行出来ない自分の不甲斐なさにうなだれる。
「か、管轄……私は……無理……で」
「水谷!! 気配を感じるか……」
桜が弱音を口に出しきろうとする瞬間、それはゆっくり階段を上がる足音、軋み。ゆっくりであるが、その数の多さを簡単に想像出来る気配。どのような団体で押し寄せてきているのか、そしてその目的は、ここに誰がいるから起こり得たことなのか。モンストラス世界である加藤達哉の館の三階であるこの狭い空間では、まだ確かめるすべが何も見当たらない。そして予想外なこの事態は、今まで桜と話していた計画を進めること自体が難しいものだった。
「水谷……お前をシンギュラリティ世界に戻す」
戦意喪失した桜の様子とこの状況では当たり前に思うことであり、自分たちの身の安全を確保することが優先だと判断した鈴村は胸のポケットより葉巻を一本取り出し、ゆっくり力を込めて二つに割る。その剥き出しに散らばりそうになる黒に近い茶色の葉の中から、明らかに異質な小さな物体。小さな透明な物体は砂時計の形をしており、中には虹色に光る粒子が重力の方向に積もっていた。そのカプセルを桜に渡す。
「これは」
「シンギュラリティ世界への片道切符だ。今もどれる可能な方法はこれだけだ。そのカプセルを割り、中の粒子を体に振るんだ。その粒子の一粒一粒、ANYと連結している。空気に触れるとほんの数秒でその物体を認識し、シンギュラリティ世界へ送る」
「管轄は……どうやって戻るんですか!?」
そう言われると鈴村は右手で左腕の手首に近い部分に、親指で何かを確認するように触れながら言う。
「俺は体に埋め込んである。戻るのは簡単だ。ここは俺が抑える」
桜にとって何度この世界に足を踏み入れた経験があるのだろうかと経験を感じる用意周到な鈴村。そして今、一歩ずつゆっくりと階数を上げ、軋む音が大きく感じる距離感に臆しない強さを感じながらも、階段の遊び場で息をなくした刈谷の姿をした怪人と、今迫り来る者たちがどういう者なのかを納得したかった。
「あれは、一体」
「あれは、『ZOMBIE』だ」
「ゾンビ!?」
「アンドロイドのような類じゃない。哲学的……つまり『感じる』という主観的な感覚を消失させた物体。目的を最優先に行動する。喜怒哀楽を表現はするが、心で感じないZOMBIEを、刈谷の姿で複製させたRだ。この世では共感覚として見えるようだが、景色のノイズが酷い。これでファクターが居るのがハッキリした」
景色のノイズ。それは共感覚として目に触れた空気の乱れ。意識をしていない桜には見えないものなのか、それとも鈴村だけに見えるのか。その点は桜も触れず、今鈴村が迫り来るRに対して慌てずに説明をしてくれた「ZOMBIE」という初めて知る存在に、本当の刈谷ではないという安堵感と納得により目を瞑りながら右手を胸に当てて小さく息を吐く。そしてすぐに瞑った目を強く見開き、何かを決意したかのように鈴村へ言葉を返す。
「わかりました。ただ、この春日に変わった刈谷の分もカプセルを頂けませんか? 状況が変わりました」
少し考える鈴村。先に桜をシンギュラリティ世界に戻し、「ZOMBIE」との奮闘次第で今まで桜と話し合った計画の続行性を図ることも視野に入れていたが、刈谷に一番近い妻である桜からの言葉を無視することもできず、ゆっくりと、もう一本胸のポケットより葉巻を取り出し、桜に渡す。
「仕切直し……いや作戦は失敗だ。そして、ここで刈谷をシンギュラリティ世界に戻しても姿は変わらんぞ」
体を横に向けながら葉巻を手渡した鈴村は桜に背中を向けて二階にまで上がってきたであろう無数の気配に対しての臨戦態勢を取るべく腰に忍ばせたホルスターに収納された拳銃に手を掛けようとする。葉巻を胸のポケットに入れた桜は右に握り締めていたカプセルを指で眺めるように転がせたあと、両手の指でしっかりつまむ。
「はい……作戦は、予定通りにやります!!」
「何を!? 水谷!!」
桜はカプセルを割り、背中を向けていた鈴村に振り撒く。言葉と同時に鈴村が振り向いた時には、鈴村を中心に全身に付着し始めていた。
「馬鹿な事を!!」
「管轄! データの更新入力お願い致します!! それまでにZOMBIEを殲滅させ、予定通りに事を進めます!! 刈谷……恭介は……恭介は完全な形でシンギュラリティ世界に戻します!!」
鈴村に撒かれた粒子は、虹色に薄く光り、付着した存在の認識を始める。鈴村は自分を眺めながら、すでに事は始まり、自分が放つ言葉の無意味さを理解した様子で桜に返事を返した。
「やり遂げてみせろ……春日のRが消えた時、不死現象が始まる」
桜の行動を承認し、出来事の予測を伝えた鈴村の全身は光に包まれ、モンストラス世界から姿を消した。
「恭介……あなたを元に戻す。お家に帰るのよ……二人で」
倒れている春日の姿をしている刈谷を優しい眼差しで見つめ、語る桜。春日のRと桜のRを討ち果たす目的の前に迫り来る「ZOMBIE」であろう存在を殲滅しなければならない状況に、覚悟を放つ。
「さあ……来なさい!! クソZOMBIE!!」
二階から三階に上がる足音の数が減る。広くはない階段を少数ずつ様子を見るためなのか。桜の気合が聴こえたことで判断したことなのか。桜は願った。刈谷の姿で現れないことを。けれども、その願いは二階から三階の間の踊り場に現れた瞬間、周りの視野が狭まり、集団の先頭を歩いてくる複数の刈谷。刈谷の姿をしたZOMBIE達は桜と目が合う。
「桜だ……」
「妻だぁ……」
「次期チーフ……」
「殺せ……」
「殺せぇ……」
「命令予定通りにぃ」