【シュレーディンガーの猫】 生50%死50%な確率の重複
9:58 突然後ろから麻酔銃で撃たれ、振り向こうとして殴られる。刈谷が倒れた後ろには、鈴村が殴った麻酔銃を握り立っている。
「わし の願い は 能力 の 根絶だ」
「それはモンストラス世界で解決してくれ。少なくとも、この世界にいなけれ……」
「恭介~……」
鈴村が言葉を言い切る前に、館の玄関を開ける音と、地下室まで聴こえる高い声。刈谷と別れて40分程経過した今、桜が館に到着し、刈谷を呼ぶ声。鈴村の目の前で倒れている刈谷。この場を桜に見られれば、複雑で面倒な会話になると考えた鈴村はすぐに地下から出る。
階段の裏側より気配を感じる桜は、音がする方に向かってゆっくり近づく。一見はなにも争った形跡すら感じない一階の様子。感じるものは、微妙な甘い香り。ふと桜の目に触れたものは、階段の一段目に落ちていた葉巻。使用したとわかる先端のコゲにはいつ消えたかもわからない無煙な様子。匂いの原因かと想像もしたが、目についただけで、特に拾うほどのことにも見えないため、気配のある階段の裏側を確認しようとした時、鈴村が静かに現れた。
「水谷桜、だな」
初めて鈴村と会う桜。堂々とした眼差しに近づきすぎない距離感は、桜を必要以上に警戒させるものではなかった。
「あの……あなたは」
「管轄の鈴村だ」
「あ! はい! いえ! お疲れ様です!!」
「あぁ……今深い説明は出来ないが、噂程度には聞いたこともあるだろうが、実験的に、この建物をモンストラス世界にリンクさせる」
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噂程度、それは鈴村にもわかっていた。本部で大きな計画があると、本部の誰かが支所の役職者に、面白半分か、雑談のひとつか、大袈裟に伝えたりする者がいる。特に最近は、計画のひとつとして刈谷をはじめとする候補者を選んでいた。その候補者は、きっとモンストラス世界へのリンクと関わりがあると噂されていた。鈴村が言葉に付け加えていた『実験的』。それは多少の噂を抑えるための言葉である。すでに鈴村からすれば、『実験』ではなく、『慣行』と呼べるほど、慣れた技術のひとつであった。完成された技術と思われるより、未完であり、実験を繰り返していると思われるほうが動きやすく、都合がよかった。それは、高度な技術を奪ったり、盗んだりする者が現れないための懸念からでもあった。その技術の漏えいを防ぐセキュリティに、現在疑問があったためである。
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「あ! そうなんですか!? わかりました……あの……専任の……刈谷は」
「さっき俺の車で支所に帰った……この件は終わった。お前ももう帰って大丈夫だ」
「え!? そうなんですか!? そんなぁ」
「俺はリンク完了を見届けてシンギュラリティ世界に戻る。町田にはそう伝えておいてくれ」
「わかりました!! お疲れ様です!! 失礼します!!」
桜は正しく一礼すると鈴村の前から去る。桜自身、その技術は咲との会話で噂には聞いていた。けれども難しいシステムや技術には興味が薄く、目の前の業務と自分の心との葛藤、刈谷との生活、それが全てを満たしていた。
――変よ……恭介が何も言わずに帰るなんて……携帯。
桜は刈谷の携帯電話に掛けるため操作する。顔を上げれば、深い森林がまだ残っている地域。しかし、現在は都市部を中心にドームを拡張しようと世界は動いている。まだ覆われていない館の周辺でも、ドームの骨組みとなる路線は運搬用に所どころ貼り巡らされていた。その路線が館の周辺で稼働している機械的な音がする。路線を走る滑車の音。運搬滑車が視界から遠ざかり、別の目的であろう見慣れないいくつもの細い筒が装備された物体が集まってきた。リンク(連結)するソース(根源)であるのは加藤の館。いくつものドームの路線からリンクソース(連結源)に集まり、空から無線ファイバーのレーザーを建物に浴びさせている。四方からの放射は合わさり、館を線で囲みかたどり、範囲を決めているように微調整をしている。
――マズイ! 早く去らなきゃ!
その刹那。刈谷に掛けた携帯の着信音が聴こえる。正確には、刈谷を含め、職員のもつ社用の携帯電話は単純な電子音であった。しかしそれは、あまりにもタイミングが良すぎた。桜は音の出どころを確認するかのように、館の前で自分を中心に振り向き、傾け、繊細な動きをするアンテナのように左の耳と右の耳から聴こえる違いを吟味した。やはり、何度耳で探っても、聴こえてくる方向は館の方向。奥行が薄くない建物を想像しても、館の中であるという疑いしかもてなかった。
「恭介! 中!? でも、違ったら……でも……あの窓!」
桜は一階の部屋の窓が少し開いた所に走り、飛び込むように部屋に入る。更に聴こえてくる電子音に、館の中である確信がもてた。握っていた携帯電話を自ら切ると、ほぼ同時に音は止んだ。その音に神経を集中させていた矢先、次の自覚できる感覚は、倉庫ともいえるこの部屋の色を黒くよどませそうなほどに感じる臭覚をつく臭いだった。
「この臭い……え!!!? これは!?」
建物は光に包まれリンクソースは細い筒状に分散されジャンプするように吸収される。館が消えた形跡には多少の特殊プラスティックの素材が故意に残されており、別のリンクソースからリンクしてきた情報が、その建物の形跡の上に、芝や草のリンクソースデータにより加工され、館があった痕跡を消す。
この出来事は一瞬なのか、それとも長いデータ情報としてどこかに流れているのか、少なくとも、桜は館が分散されジャンプした気配は感じなかった。すでにシンギュラリティ世界には加藤達哉の館は存在しない。そのことよりも、桜は目の前に横たわる者に青ざめる想いで座り込んだ。
――これは……え!? 誰の死骸!? 制服……恭介!? い、いや……嫌よ!!
横たわる死体。力なく泣き出してしまいそうな桜は、それでも死体から目を離せず、死体を刈谷ではないかと思い込みそうな気分でもあったが、死体を眺めるうちに、刈谷が普段横たわる姿と比べ、明らかに見慣れない体格に少しの希望と冷静さを取り戻す。そして、腰を上げ、恐る恐る死体に近づく桜。死体の確認を行いたいが、頭部が酷い状態の為、別の部位を確認する。
――違う……恭介が履く靴下のガラじゃない……身長……体格「違うわ……はぁぁ……喜んじゃいけないけど、良かったあ?」
刈谷でなかった事での安心感から、先ほどとは別の意味で身体の力が抜けそうになるが、刈谷の消息を確かめる為にドアに近付く。
「管轄はどこに……あ!!」――気配が!
音に気をつけてゆっくりドアを開き、辺りを見回す。目には止まらないが、誰かが階段を一歩一歩、木の階段を軋ませながら、重く登る気配がある。軋み。それは桜にとって不思議な音であった。なぜなら、桜の生きてきた世界。それはほとんどの建物が特殊プラスティック。木が軋むという、もろく、不安と頼りなさを合わせた音は、桜にとって新鮮であり、桜自身こころが軋む想いになりそうであった。ここはどんな歴史ある館であり、自分のいた世界なのだろうかと。
音を理解した桜は足元に気を付けながら少しずつ階段に近づき、一階から三階をのぞきこむように見上げるが、シャンデリアが見えることと、気配のみで人影は確認できなかった。ふと、階段の裏側に視線をうつした。それは桜が最初に館に入館した際、気配を感じた場所。想像の範囲であった階段の裏側には、地下室への広い引き戸が開いている。
――あの下には何が。
足音を消し、地下に近付く桜。そしてゆっくり階段を降りていく。一定した機械音。漏れてくる光。その雰囲気と控える人物を桜は認識する。想像していたよりも若く見えるその姿と、自宅だからこそくつろげるその落ち着いた雰囲気に、尋ねる名前は自然なものであった。
「あなたは……加藤達哉?」
ベッドではなく、ロッキングチェアに座っている加藤はゆっくりとうなずく。
「君 は……彼 の同僚か な」
「彼!? 刈谷恭介という男の事ですか!?」
「あぁ……君は つい て 来たの か」
「はい……あの……刈谷は……無事ですか?」
「どう だろう。彼は……この世界の つじつま合わせ に される かも な」
「つじつま!? 誰? 鈴村管轄によって?」
「彼はもう 彼では ない……かも しれない。この世のRと された よう だ」
「何をされたの!?」
「鈴村は言った。 この モンストラス世界は モンスターの 世界。モンスターの 能力に より 星が進化して しまった それは 『新天地』とす る『この星』の 脅威。これ 以上 モンス トラス世界 に 死者は 出さないと」
「この星? 新天地?」
この星。桜にとって、この星とは、やはりもうシンギュラリティ世界ではないのかと。そうだとすれば、新天地とはモンストラス世界を意味しているものかと。そして死者を出さないという意味はどれだけ深読みをして聞いてみればよいのかと。そんなことを考えさせられながらも、今、一番気になるのは刈谷の行方であった。
「だがな 人が 死なない と いう世界 は きっと 無理が 出る……その違和感が生じた時 人は レミング と なるだろ う 皮肉にも シンギュラリティ世界を 新天地 と 想像し……」
「先の事はどうでもいいわ! 今は! 恭介の居所を! さっき……階段を上がった? 行かなきゃ!」
不思議な世界観であり、空想めいた加藤との話より刈谷の安否が気になる桜は、独り言を大きく発するように加藤に背中を向け気持ちを言い切り、地下室の階段を登り、さらに一階から軋む階段を駆け登る。
「はぁ! はぁ! どこ!? 三階?」
二階を見渡し気配を感じない事ですぐに三階に走る。そして入館したときから少なからず感じた甘い葉巻の匂いを、今は強く感じる。二階から三階のあいだにある踊り場を振り返れば、その答えはわかるように。
「あ……管轄……恭……いや刈谷はどこですか!?」
そこには桜を待っていたように、階段に座る鈴村がいる。想像通りの匂いの元は、鈴村がくわえる葉巻。それは一階の階段の一段目に転がっていた葉巻と酷似した。
「水谷……来ていたのはすぐわかっていた。景色が変わっていたからな」
「え? もう一度お尋ね致します! 刈谷は……」
景色。不思議な表現をする鈴村。それは何かの比喩なのか。それとも、まだ見ていない窓からみる景色が違うものなのか。その意味を尋ねる間もつくらないほど、今は刈谷の消息が気になる桜でもある。その桜の様子をみれば、刈谷のいう、そばにいたい妻というのは、目の前にいる水谷桜であろうと察しはついた。
「このドアの向こうだ」
礼もなく、鈴村の横を走り、願い、期待し、ドアノブを握る桜。
「だが!! 中に居るのは……はたして刈谷かな」
「どういう事ですか?」
「刈谷のRはこのモンストラス世界に既にいる。お前のRもだ。春日も……これがどれだけおかしな世界かわかるか?」
鈴村の問いにドアを開く事を躊躇し、聞き耳を立て、問いに答える。
「春日? 私はここに存在してます! 管轄も! なら刈谷も!」
「まあ、一時的には問題ない……ただし春日の本体は既に骸だ」
「あれは! 春日の死骸!?」
「Rがあり、その本体がない。ならシンギュラリティ世界のANYはどう判断する?」
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LIFE YOUR SAFEに入社し、ANYの存在は知れども、自分がANYに関係することなど想像もしていなかった桜。桜からみれば、ANYは優秀な人工知能。その程度であり、その議論に近いことに関わることも興味も薄かった。初めての質問であり、その相手がANYに一番近い存在である鈴村。いったん冷静になった桜は、答えざるを得なかった。
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「Rを消すか……本体を……つくる?」
鈴村にとっては、『わからない』と言われる期待であった。しかし、桜の考えた答えは、桜の想像力と洞察力が期待以上に備わっている能力があると思える答えだった。鈴村は普段から、難しい話は、難しい話を聞ける能力のある者にしか話さない。話す相手が理解できないと思えそうな内容は、ただの自己満足でしかないとも思っていた。それでも、これからドアを開ける桜への覚悟と理解を吹き込みたく、ひとつのたとえを話し始める。
「『シュレーディンガーの猫』の状態だな」
「なんですか? それは」
「簡単に言えば、実験を考え出した学者の名前だ。その実験名は皮肉的に学者同士で使われる」
鈴村は桜との温度差を気にせず、その場が無限な時間の様な面持ちで、ゆっくりと話し出す。
「二人の学者がいた。ある危険な物質がある。それは、時間が経つと、青酸カリと同様の物質へと変化する。一匹の猫と、中が見えない箱がある。その物質と……猫。両方を箱に入れて、一時間経過させる。青酸カリへと変化すれば猫は死ぬ。変化しなければ生きている。物質変化の確率は一時間以内に50%。話を置き換えるなら、物質はシンギュラリティ世界からモンストラス世界への変化。物質変化の確率はANYの判断。青酸カリはお前にとって悪い結果。猫は刈谷。箱は……その部屋だ」
桜が真面目な面持ちで、それほどの時間もかけずに問いに答える。
「その結果は、開かなければわからない!」
「ああ……一人の学者はお前と同じように、そう言った。そしてもう一人の学者は違う言葉を言った。箱が開くまでは、『50%は生きているが、50%は死んでいる』……と……おかしな話しだ。人間なら前者を思う。開けなきゃわからない。だがANYの考えは……後者だ」
「どういう意味? 私は人間! この部屋のドアを開いてから判断する!」
力強く握るドアノブ。ノブを回し、箱の中の猫を確認する。
「恭介!! はあぁぁぁぁぁ!! イヤァーー!!」
ドアを開き凝視する。その箱を開いた結果に両手で頭を抱え膝をつく。
鈴村が比喩した刈谷という猫は、春日の姿で眠っていた。