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短編

十年後、いつかの君に会いに行く

作者: やしろ慧

「月島さ、学校やめるってよ」


 放課後の屋上でいちごミルクをパックから音を立ててすすっていた慎吾は、あと一口、と名残惜しげに飲み干す前に息を止めた。


 慎吾と同じく高校二年生。かつ、同じく野球部に所属する柴崎は屋上の錆びたフェンスに身を預け、重たげな二重目蓋をゆっくりと上下させた。

 特徴的な天パとがっしりとした体格とあいまって、柴崎のあだ名は――「大仏」。

 見た目と同様、中身も本人の徳が高いのか、同級生や上級生は元より一年生から「大仏さん」と呼ばれても、柴崎は鷹揚に微笑むだけだった。

 慎吾なら下級生にあだ名で呼ばれた時点でムッとしている。

 どうにも、短気なのだ。


「月島が学校、やめる?なんで?」


 ストローを噛むのをやめ、慎吾は後光さながら背に太陽の光を浴びる柴崎を見上げた。


「海外、行くんってさ」

「へ、ぇ」

「もう会えなくなるな。残念だな」

「べつに」


 つまらない事を聞いた、というポーズをとって慎吾はくしゃりとパックを潰した。


 ていっと間抜けな声をガイドに、バスケのフォームを真似てシュートする。(いびつ)にゆがめられたパックは綺麗な放物線を描いて屋上入り口付近に何故か設置された屑カゴへ吸い込まれていく。

 屋上には、屑カゴに限らず代々ここで休憩してきた生徒たちの便利品が溢れていて、サボるには都合の良い場所だった。


「ナイッシュー。いいコントロールだな。さすがピッチャー」


 呆れ口調で煽る柴崎に、慎吾は殊更明るい声で返した。


「俺、転部しようかな、野球部からバスケ部に」


 うそぶく慎吾に、大仏は慈悲深い笑みを浮かべて素っ気なく言い放つ。


「やめとけ、無駄だから」

「……なんで」

「どうせ、またユーレイになるって」

「なんないよ」


 慎吾が口を尖らせながら立ち上がると、大仏は、それを見計らったかのように、そろそろ行くわ、と手を振った。


「俺は部活行くから、お前、今日は来るのか」

「……腹痛だから、行かない」

「あっ、そう。じゃあちゃんとトイレ行って寝ろよ?じゃーな」


 大仏(しばさき)は拗ねた顔の慎吾など一顧だにせず、ゆったりとした歩調で踵を返す。


 柴崎は野球部のレギュラーで、次期部長だ。

 慎吾と一緒に、さぼってくれるわけでは、無い。

 柵にもたれかけ、柴崎が校舎を出てグラウンドに急ぐのを見送る。大仏みたいにがっしりとした体格に似合わない軽やかなスピードだった。

 柴崎の身体能力はえぐい。

 打率は三割半ば、走っても速い。

 でかい体のおかげか、肩も強い。

 野球選手としては後5センチほど背が欲しい175センチの慎吾としては羨ましい限りだった。


「速ぇな柴崎。さすがランニングホームラン出来るだけあるわ」


 真横を高速で走り去る柴崎をぎょっとした様子で見送るソフトテニス部の女子達のリアクションに思わず笑ってしまい、……笑ったことに気づいて、慎吾の気分は下降する。


 いつまでも沈んだ気持ちで「何も楽しまず」に、いたいのに、……そんな気分を持続することはひどく難しいのだ。


 何を、やってんだろうなあと思う。

 と同時に、何をしたいんだろうか、と考える。

 柵に手をついて腕を伸ばし、頭から腰までをゆっくりと伸ばしながら、深くため息をつく。


 顔をあげ、ぼんやりと校門を眺めた……。

 そこで、背筋の伸びた女生徒の後ろ姿が視界に飛び込んできた。



 月島。



 理由(わけ)もなく、心が騒ぐ。

 遠くからでも目立つ際立った姿勢の良い背中は、同級生の月島薫に間違いようがなかった。


 きっちりと結わえた髪が、揺れている。


 遠くにいるせいで人形のように小さく見える月島がこちらを振り向いたので、慎吾はたじろぐ。

 屋上から校門までは十数メートル離れている。向こうからこちらが見えているわけがない。

 わけがなかったけれども……目があった、気がした。


 月島の口元が、動く。


 さよなら。


 そう、言葉が紡がれた気がする。



(――――月島、学校、辞めるってよ)



 柴崎の言葉を思い出して、慎吾は正門の向こう、坂をくだる月島の背中が見えなくなるまで、じっと彼女を見つめていた。



 月島薫は、物静かな女生徒だった。


 いつもきっちりと髪をまとめていて、背が高い。

 痩せてはいるが貧弱ではない。

 成績は優秀で真面目だが、友人は多くない。けれど「はぶかれて」いるわけではない。気が弱いのかと思っていたが、誰にでも言いたいことはキッチリと言う。


 一年の頃、同じ美化委員になった慎吾は、教室内で必要事項を交わすたびに、とっつきにくそうな彼女が案外気さくで――、何かの拍子にお笑いが好きなことも知った。

 教室で月に一度提出する美化アンケートをまとめている時に、慎吾はぼそりと月島に言った。


『意外だよな。月島はお笑いとか興味ないと思ってた』

『そう?好きでよくみるよ――実は私も、ちょっと意外だったかな』


 何がよ?と行儀悪く椅子の上で片脚を立てて彼女を見上げる。

 アンケート用紙を束ね、机で縦横をトントン、と調整する。上下を揃えながら、月島は首を左に傾けた。

 黒髪はさらりと揺れ、教室にさしこむ柔らかな西陽は、月島の白い頬をオレンジに染めあげている。


『案外、慎吾って真面目だよね』

『は?』

『野球部って忙しいんでしょう?名目だけの委員になってどうせ来ないだろうな、と諦めてたの、実は』

『……』

『月一の委員会、きちんとくるでしょう?……委員会の仕事、面倒かもなあって思ってたけど、慎吾と一緒になれて、正直助かってる。ありがと』


 月島が笑うと八重歯がのぞく。

 おおむね綺麗な歯並びなのに、左の八重歯だけが少し惜しい。


『どうも』


 女子に褒められる事など、縁遠い学生生活を送っているのだ。

 慎吾は目を逸らして、ふん、と鼻を鳴らし……その実、おおいに照れてしまった。


 慎吾だけでなく、月島はつねに声と態度のでかい女子の中心グループからでさえ、妙に親しげな態度をとられている。

 噂に疎い慎吾にはなぜだか理由がわからなかったが、とにかく月島は『一目置かれている』ている女生徒で、その理由がわかったのは高校一年の冬のことだった。


 月島は、海外のバレエコンクールで入賞者の一人になり、一躍、校内で時の人になった。ローカル放送で――数分の事ではあったけれども化粧をして踊る姿が放映された。




 まるで赤い傘のような奇妙なスカートをまとって舞台袖からゆっくりと現れた少女は右手にもった扇をもち、背筋をぴんと伸ばす。

 天井から糸で釣られたみたいにまっすぐに立ち、時が静止したかのように片足を後ろにまっすぐに伸ばして微笑む。

 次いで、体重を感じさせない動きで、流れるように水平に回転しごく自然に足を床につける。

 静止した、と思った次の瞬間にはまた両足は床を離れて自在に宙を駆ける。回る。矯める。しなる。

 柔らかに……速く、ゆっくりと、長い腕が空気をまあるく切り取って、暖める。


 そして、天へ返す。


 彼女は拍手の中で堂々と微笑み、慎吾はそれを見知らぬ人間のように思った。


『踊って、踊りを仕事にして生きていきたいと思うので……もっと努力して、このチャンスを次に繋げられるように、しっかり努力していきたいと思います』


 月島は画面の中で、いつもより凛々しい表情で宣言した。


 翌日の月島不在の教室はちょっと異様な雰囲気だった。


 誰もが少しだけ高揚して、僅かばかり落胆している。

 熱心にそればかりを話すわけではないが、素知らぬふりをしながら、一度は彼女の名を口にのせて、冷やかしたり、褒めたり……、勝手な噂話をしている。


 自分達が海のものとも山のものとも知れずに、四角い箱の中で互いを品定めしている間に、月島はさっさと自分が何者かを見極めて、歩む道を定めてしまっているのだ。

 なんて眩しくて妬ましくて、悔しくて。

 少しだけ誇らしい。

 あいつは自分達とは違うのだ。あいつは、本物なんだ。


 それが、彼女が一目置かれている理由だった。



 月島が凱旋(・・)登校した日、女子たちは殊更なかよしを演出して月島に構い、慣れているのかその全てを否定も肯定もせずに「ありがとう」と微笑んで受け止めた。


 慎吾が委員会の終わりに「おめでと」と短く言うと、月島はニッと無言で、笑った。


「見てくれてたんだ?意外」

「地元のニュースで何度もやってたから目に入った。俺も、さあ」

「うん」


 慎吾は、ぼそりと言いいながら鼻の下をこする。


「行きたいんさ、甲子園」

「今年、惜しかったもんね。あと二つで行けた」


 月島の口元から、八重歯が覗く。


「俺も、野球しながら生きていけたら、いいな。月島みたいに世界で認められたりしてないのに何言ってんだってアレだけど。……踊りで生きていくとか、ああいう所で、キッチリ、宣言できるのって。――おまえ、かっこいいなあ」


 ボソボソと早口でまくし立てると、月島の目が丸くなって、慎吾はたまらずにそっぽを向いた。

 何を言っているんだと、自分でもおかしくなり、熱くなった気がする両耳を抑えてぶんぶんと首を横に振る。


「やべ。やっぱ今の何でもねえ。何言ってんだろな、俺。……アホ言ったから笑って、忘れて」


 恥じ入る慎吾を、月島は茶化したりはしなかった。

 いつものようにまっすぐに立って、慎吾をまじまじと眺めていたが、やがて、フワリと笑う。


「笑わないよ。いいじゃんその夢、かっこいいね。お互い、頑張ろね」

「おう」



 月島薫は――飛び抜けて美人ではない。

 けれど。

 慎吾の知る限り、世界で一番、綺麗に笑う女の子だった。






 子供の頃から慎吾はスポーツはなんでも出来た。

 足も速かったし、鉄棒もクラスで一番多く回れた。水泳だってトップスリーには入ったし、野球も小学校の頃は、同年代の中では誰かに負けたことがなかった。

 だから当然子供のころから夢は野球選手で、地元の有名校に進むのも当たり前だと――合格するものだと思っていた。


 ところが。

 私立の中高一貫校には呆気なく落ちた。


 滑り止めで入学したこの私立は、野球部もそこそこ強かったが、常に県下の二、三番手を彷徨っている。

 新興の部だから雰囲気は明るいが、夢は野球選手だなんて、真面目腐って言える空気は漂っていない。


『俺たちは、野球は高校まで』

『常連校に勝てるわけはない』

『楽しくやろう』


 真面目だが、野心はない。

 慎吾達の野球部は、そんなチームだった。

 それでいいのか?……いいや、それでいい。子供の頃の夢なんて、中学と高校で諦めていくものなんだと、そう無理に納得しかけていた慎吾には、月島の姿は衝撃的に目映く、まるでヒーローのように見えた。


 自分の夢を叶える為に努力して。かつ、夢に手が届く位置にいる……、すごいやつ。

 そんな月島が慎吾の夢を笑わずに「いいね」と言ってくれたのがたまらなく、嬉しかった。




 二年次になってレギュラーに抜擢されると、野球部の練習にも知らず、熱が入った。

 月島とは二年でクラスが別れた。

 別に残念じゃないけど。

 ……ひょっとしたら、と思って、慎吾はしぶしぶを装って美化委員になる。委員会で一番遠い席に座った月島の横顔が、何故だか少し笑いだしそうに見える。会議の終わりに月島は慎吾をこづいた。


「やっぱり、慎吾もいた」

「……何が、やっぱりなんだよ」

「ううん?慎吾は、綺麗好きだから美化委員になるのかな、と思ってたんだけど、その予想があたって嬉しい。……また一年、よろしくね」

「うん」


 口元がむずがゆいので、真一文字に引き結んで耐える。

 変な顔、と月島は笑った。クラスの違う月島と以前より深く話すようになったわけでもなかったが、月に一度か二度、委員会の後で、最近どうよと近況報告を交わせるのは……嬉しかった。


 月島と同じ位置まで頑張りたいなと思ったけれど、同じ位置ってどこまでだろうと時折、考える。

 単純な慎吾は、寝室の壁に、昔書いて剥がした三文字を再度デカデカと掲げた。

 簡潔に、「甲子園」と。



 二年次の夏。


 慎吾は夏の大会で上級生を差し置いて「背番号1」(エースナンバー)をつける事になった。

 レギュラーの中で二年生はキャッチャーの柴崎と慎吾だけ。くすぐったくて誇らしかった。

 大会までの練習も、楽しくて仕方なかった。

 三年生に言いたいことは全部言い、生意気だと争いになっても頑として曲げなかった。


 だって、野球が好きなのだ。勝ちたいのだ。

 勝ち進んで、野球選手になるのだ。

 そのためには『皆で』全力で頑張らないといけない。

 慎吾をかわいがる部長に強請って練習時間だって増やした。チームは確実に強くなった。


 楽しくて、苦しくて、それでも慎吾は無敵だった。


 準決勝に辿り着くまで、慎吾はかつてない好調だった。

 失点は多くても二点。監督に直訴して全部の試合で一回から投げた。疲れさえ、心地よかった。痛めつけた身体がなにかの勲章のような気さえした。



 準決勝の九回裏。

 一点差。

 慎吾はランナーを一人背負いながら、相手の四番に対峙していた。

 柴崎がベンチからの指示を伝える。


 ――「敬遠」

 そんなの、フェアじゃない。

 首を振る。


 ――「内角低め」

 投げたいのはカーブじゃない。

 首を振る。


 何度か首を振った後、柴崎は諦めたかのように小さく首を振り、慎吾の望むところにミットを構えた。

 慎吾は渾身のストレートを柴崎のミット目掛けて振り下ろす。

 革がきしむ鋭い音が聞こえると確信して。


 けれど。


 青空を切り裂いたのは甲高い、白球をスタンドに打ち返す無情な音だった。


 試合後のロッカールームで俺のせいで、すみませんでしたと頭をさげた慎吾に、三年生達はどこか余所余所しく笑った。気にするなよと肩を叩く者もいた。

 副部長はユニフォームを脱ぎながら赤くなった目を向けた。


「……真っ直ぐでアウト取ってゲームセットの方が、かっこいいよな、そりゃ」

「すいませんでした……。俺の、ミスです」

「一点差だぞ?あの場面でなんで勝負したんだよ、おまえ。その必要あったか?普通、首とか振らねぇだろ。プロ気取りかよ。何考えてんのお前」

「……すいませんでした」

「そもそも、なんで初戦から一人で投げてんの?上級生信用しないのも大概にしろよ。そのせいで……おまえ、前の試合からバテてたろ。そんなんで飛ばしすぎるから最後の真っ直ぐ、球威落ちてたじゃねぇかよ!」


 ガン、とロッカーが音を立てて蹴られる。


「別にいいけどよ。負けたって。夏の大会早く終わって受験に専念できるし。ありがとうよ慎吾」


 副部長は自嘲した。


「一人で熱くなって、一人で勝ち上がって……、んで、自分で終わらせてんのかよ。だっせぇ、なんなんだよお前……お前の大会かよ、これ。俺たちは最後の試合だったのによ。そんなに……自分だけ楽しい試合やりたけりゃ、一人で壁に向かって投げてろよ。お前がやってんのは野球じゃねえだろ!自分がきもちいい球投げてただけじゃねえか」


 やめろと部長が止めたが、その他の上級生は遠巻きに見守って、ひとり、ふたり、と身支度を整えて、ロッカールームを去っていく。


 慎吾は去っていく面々の背中にもう一度頭を下げた。


「すんません、でした」


 ロッカールームには、柴崎が慎吾と二人で残される。

 柴崎はどかり、と床に座り込んだ。


「あーあ……悪いな慎吾。俺が真っ直ぐを最初っから指示しときゃよかったなあ。お前が投げたがるって想像付いたのにな。そしたら二人のミスだったのによ」


 慎吾が顔をあげると、柴崎が悄然としていた。


「柴崎、おまえ、悪くないじゃん」

「知っとるわそれくらい。でも一応、バッテリーだし、庇っとこうかと思って」


 なんだそりゃ。と涙声で言うと、柴崎がぽんぽんと肩を叩いてくれる。


「最後の真っ直ぐ、よかったのになあ。ありゃ打者が良すぎたんじゃね?実力で負けだわ、しゃーねーわ」


 大仏に良く似た同級生は悟りきった表情で何度も頷く。明るい声で責めもせずに、慰めてくる。

 あまりの申し訳なさに俯くと柴崎は首を傾げた。


「何日かたったら、先輩たちにもっかい謝ろうぜ?許してくんないかもしれんけど……ま、その時は、その時な」


 慎吾は鼻をすすりながら、首を振った。


「謝んねぇ」

「慎吾、お前なぁ……」

「俺が、謝ったら……副部長も多分、許してくれるんだ。俺の我儘、いつも最終的には折れてくれたみたいに……だから、謝んねぇで……、いいや。三年生の試合台無しにした……だから、俺は、許されねぇまんまで、いい……。野球部も、辞める」


 柴崎は頭をかいて深いため息をついた。


「おまえ、ほんっと……、頭悪いうえに、めんどうくせぇ……」






 敗戦翌日の放課後。

 慎吾は足取り重く、会議室へ向かった。

 月に一度の委員会のためだ。

 部屋へ行けば、月島と顔を合わせることになる。別に、何かを月島に宣言して頑張っていたわけではないけれども……無様に負けたのは恥ずかしい気分がした。

 甲子園に行きたいからと周囲を巻き込んで勝手に頑張って、自分の実力を過信して、一人善がりに部員を振り回した。

 昨夜からそればかりを思い出しては消えたい気持ちになる。


 のろのろとドアを開けた慎吾はいつも一番早くに席に着いている月島がいないことに気付いた。会議が終わって、月島と同じクラスの委員である楢崎に尋ねる。


「月島、今日って休み?」

「そうだよ、お前知らんかったんか?あ、そっか、野球部は昨日試合か」

「負けたけどな」


 楢崎は、「気の毒ぅうう。かわいそおおおお。ま、来年頑張れ~」といとも無神経かつ気楽に戯ける。


「楢崎おまえ……酷いことサクッと言うのな?」

「他人事だもん、関係ないもーん。俺だけじゃなく、皆そんなもんよ?あんまり気負うなって」


 楢崎は肩をすくめてから、少し声を顰めた。


「月島、バレエの練習中に怪我したみたい。しばらく検査入院だってさ」

「え」

「膝。ツイてないよな、あいつも」




 月島の足の怪我はあまり思わしくはなかったようだ。

 プロを夢見て努力する月島と同じ立場、などと言ったらきっと、おこがましい。けれども、慎吾は一方的に月島に親近感を抱いていた。あんな風に夢を目指したいと思っていた。


 慎吾の夢が絶たれた準決勝の日に月島が怪我をした。そこに因果関係(つながり)があるわけがない。

 けれども、この偶然は酷く気分が落ち込むことだった。



「手術、まだしないらしいよ」

「そうなの?」

「月島のお父さんってお医者さんじゃん、一緒に外国行って手術するか診てもらうんだって」

「へー、いいよね、金持ちは」

「カワイソウ、月島、もうバレエ出来ないじゃん。あの子、バレエしかないのにさぁ。これから、どうすんだろうね?」


 教室は噂で満ちる。

 月島がコンクールで受賞したときは一番の友人だと無言で主張していたおさげ髪は同情に悪意をまぶして粉砂糖みたいに、あたりに振りまいた。

 それを甘い、甘いと周囲の人間は争って食すのだ。


「いいんじゃない?別に。バレエだけが全部じゃないじゃん。プロになんてなれるわけないし。諦めが早くつくなら、それでよかったんだよ」


 いたたまれない気持ちで、慎吾は席を立つ。椅子の音はやけに大きく響いて、おさげが一瞬だけ、小馬鹿にしたように慎吾に視線を動かした。




 あれから、一ヶ月弱。




 月島は淡々と授業を受けているようだった。慎吾は肩が痛むとあからさまな仮病で、部活には半分ほどしか顔を出していない。

 仮にもエースだったのに、これでは示しがつかない。

 そろそろ、腹をきめて退部届を出すべきだ。そう思うのに、グダグダと続けてしまう。

 一度、引退した部長が遊びに来て「そろそろ立ち直れよ」と怒ってくれた。副部長は、「受験が忙しいから」とグラウンドには足を踏み入れない。柴崎はうじうじと悩む慎吾に呆れつつも、たまに屋上に慎吾の様子を見に来て構っては去っていく。



 慎吾の携帯にショートメールが届いたのは、そんな月曜日の朝だった。


 見知らぬ080ではじまる番号から、簡潔に用事が書いてある。


『月島薫が屋上で話があるので、今日の放課後に来てください、お願いします』


 ショートメールなんて迷惑なDM以外来たことがない。

 慎吾はスマホの画面を凝視した。

 SNSじゃないのが、なんだか月島らしかった。……そういえば、月島のSNSどころか、電話も住所も知らなかったのだとようやく、思い当たる。


『行く』

『じゃあ、後で』


 放課後、柴崎が部活に誘いに来るかと思ったが、なぜか奴は来なかった。


 柴崎に一言断ってから行こうかと思っていたのだが、まあいいか……と鞄を持って、慎吾は一段飛ばしで階段を駆け上がる。壊れたドアノブを回してドアを開くと、フェンス際に月島が腰かけてグラウンドを見ていた。

 月島は慎吾に気づくと無駄のない動作で立ち上がる。


 思いのほか明るい声で抗議した。


「遅いじゃない、自分が誘っておきながら」

「は?誘ったのは月島じゃねえの?」


 月島はきょとん、とした。


「私?……慎吾がショートメールくれたんじゃないの?」

「いや、俺は月島がショートメールくれたって……」


 二人で顔を見合わせていると……タイミングを見計らったかのように、慎吾の携帯が鳴った。

 例の080で始まる番号からだ。月島が「私もその番号から慎吾のふりしてメールきた」と訝みつつ覗き込む。


「はい!」


 勢い込んででると、いやに楽しげな、聞き覚えのある声が聞こえて来た。低い声の男子生徒は軽い調子で言う。それは、案の定、柴崎の声だった。


『もしもーし。月島ですー』

「ぶっとばすぞ、おめー、この大仏」

『罰当たりめ。いや、お前、簡単に騙されんなよ。純情か。そもそも俺の番号登録しとけや。何回言えばわかるわけ?このバカ。SNSだけじゃなくて、困ったときの連絡に、電話番号は必要だからな?』


 うっ、と言葉につまる慎吾から月島が端末を奪う。彼女は勢い良くまくしたてた。


「月島ですけど、あんた、誰?柴崎?」

『ごめんよ、月島ー、柴崎だよー。勝手にメール送ってごめんよー』

「キモイ、まじキモい、絶対許さないから!私の個人情報誰から聞いたのよ」

『美化委員の楢崎くんからでーす、メロンパンで買収しましたー』

「あの眼鏡……」


 低く唸る月島に柴崎はあっけらかんとスパイの名をばらした。


『眼鏡は個人情報とかいう概念を理解していないからな。……月島が元気ないから、あいつも気にしてたんだよ』

「私が元気ないのと、柴崎から迷惑メールが送られてくるのって何の関係があるわけ?」


 柴崎は電話口でへらへらと笑った。


『迷惑じゃないっしょ。元気がでたっしょ?……俺も、そこの元気のないバカのこと気にしてんだけど……、慎吾とお別れくらいしてやってよ、月島』


 一方的に言い放って、柴崎からの電話は切れた。

 かけなおすが、『電源が入っておりません』のアナウンスが淡々と流れる。


「あいつっ!電源切りやがった!」

「……柴崎、楢崎、あとでどっちも泣かすっ!」


 二人して憤慨して柴崎を罵る。

 罵りながら目があって、思わずふたりして……苦笑した。グラウンドからは、今日も、あちらこちらで部活に勤しむ生徒たちの声が聞こえてくる。

 慎吾はふいに訪れた沈黙に耐えかねて頭をかいた。


「月島さあ」

「ん?」

「学校、辞めるって聞いたけど」


 月島はああ、とほほえんで慎吾に並ぶ。

 長い髪がさらりと動く。髪を下ろしているのを、初めて見た気がする。


「急だけどね。転校するの」

「いつ」

「学校来るのは、今日が最後」


 言葉を失うと、月島は笑いながら慎吾に端末を返した。


「みんな大げさだよね。手術のために渡米するとかなんとか。私、悲劇の主人公みたい」

「違うのか?」

「悲劇のヒロイン?そりゃ、ヒロインっぽいですけど、私は」

「そっちじゃなくて、手術のほう」


 月島は黙って、校庭を見た。

 遠く、近く、生徒たちの……かけ声が聞こえる。


「……違うよ。別に手術のための渡米とかそんなんじゃないよ。お父さんの仕事の関係」

「医者の?」


 月島の父親は外科医で、以前からあった研修として数年間渡米する、という話が決まったらしい。家族でそれについていくと言うのだ。


「すごいタイミングで決まったよね。……楽しみだなあ、アメリカ。帰ってきたら帰国子女だよ私。きっと英語がべらべら」


 おどける月島を黙ってみつめると、少女はずるずると、フェンス際に座り込んだ。ほんとはね、と小さく、言って空を見上げる。


「手術、どうしようかなあ、って思ってるところなんだ。手術なしでもきちんと治療すれば別に日常生活には支障がないっていわれたし。このまま温存でもいいのかなあって。手術して、痛いリハビリ終わって、それでも前みたいに跳べなかったら、そう思うと、怖い」

「そうか」

「ちょうど……国内の大きめのコンクールの練習中だったんだ。コンクール、出られない事もショックだけど……、出られない事にほっとしたのがショックだった」

「プロは目指さないんか。治さないとなれないんだろ。やるしかないだろそれは」

「あっさり言うなあ」

「違うのか」


 間髪入れずに聞いた慎吾に、月島は苦く笑った。


「私さ。ちょっと恥ずかしかったの」


 何が、と聞くと月島はへへと笑った。


「コンクール出たときに、予想外に賞を貰っちゃって。フワフワした気分のまんま調子乗ってプロになりますとかテレビで言っちゃって。舞い上がってる、とか。結構陰口を言われてたでしょう?」

「そうだっけ?」


 慎吾はそういうの鈍いよね、と月島は目を細める。


「うん。言われてたの。でも、慎吾は……かっこいいな、って言ってくれたじゃん。あんな風に友達に褒められたの初めてで、すごい嬉しかった」


 月島は立ち上がる。


「それからさ、なんとなーく、野球部の試合とか結果をチェックしてたんだけど」

「うん」

「惜しかったね。あと二つ勝てたら甲子園だったのに」

「俺が、見栄張って、ポカやって、負けた」


 月島はふん、と鼻を鳴らした。


「チームプレイでしょ?誰か一人のせいで負けるわけないよ。……それに、負けたくらい何よ。一回、負けたくらい」


 月島が前後にぴんと両手を伸ばす。

 いつか映像で見た、回る直前みたいに。慎吾が慌てると、月島はニッと笑ってこんなとこでやんないよ、とゆっくり腕をおろす。

 それから、屋上近くに置かれていた柴崎と慎吾の私物……野球のボールとグローブを見つけると慎吾にグローブを押し付けた。置かれていたキャップを、変な匂いすると愚痴りながらも、深くかぶる。


「一回、キャッチボールってやりたかったんだよね。付き合ってよ、野球部」

「いいけど」


 数メートル離れた所から、月島が不格好なフォームで投げる。

 ボールはバウンドして明後日の方向に飛んだ。


「下手くそ」


 投げて返そうかと思って、一瞬月島がビクッとしたので転がしてやる。月島はまたボールを拾って、力いっぱい投げてよこす。

 慎吾はジャンプしてそれをキャッチして、また、転がす。


「一回失敗したくらいで、何よ。根性なし」

「……根性、ねえもん。メンタル弱いもん」

「面倒くさい。馬鹿じゃないのあんた」

「それ、柴崎にも言われた」


 月島は慣れてきたのか振りかぶってなんだか慎吾がよくするみたいな投球フォームで投げた。横にそれたボールを慎吾は手を伸ばして、なんなく、キャッチする。


「いまの、慎吾の真似」

「似てねーよ」

「そ?いけてると思ったのにな。……慎吾は怪我して部活サボってるらしいけど。肩も足も腰も全部健康なんでしょ?」

「……うん」

「そっか、いいなぁ」


 月島から、今度は結構、ズシリといい球が来た。月島の頭に乗せていたキャップがずり落ちる。やった、と彼女は小さくガッツポーズをした。


「慎吾ってジャガイモみたいな顔してるけど」


 キャップを拾い上げた月島が、ゆっくりと近づいてくる。

 背を伸ばして慎吾にかぶせた。鼻が触れそうな位置にあって、思わずビクッと体を後ろにひく。


「ユニフォーム姿だけは、ちょっといいなって思ってたよ」

「だけってなんだよ」


 月島は笑った。

 笑いながらグローブとボールを元の位置に戻す。


「日本に戻ってきたら、また慎吾の試合がみたいし、続けなよ。いつまでも拗ねてないで。他に出来ることないでしょ、慎吾」


 慎吾はキャップをかぶり直した。


「お前だって、ねえじゃん、月島」


 月島が足を止める。

 振りむいた黒目がちな瞳を睨むみたいに見返した。


「お前も。バレエバカだろ。俺と同じでそれしかねぇだろ。可能性あるならしがみつけよ」


 月島はじっと慎吾を窺っていたが、やがて破顔した。


「気づいてた?さっきからお互いに言いたいこと言うフリして、――自分に言いたいことを言ってるよね、私達」


 一回の失敗で、まけんな。

 好きならしがみつけ。

 それしかないのだ。

 多分、二人とも。


 月島は、小さく、けれどもしっかりと頷いた。


「……やめんなよ、バレエ。つづけろよ。俺も、アメリカ行くし」

「いつ?」

「だ、大リーグとか」


 声が上ずる。月島は目を丸くしてから……、ふきだした。


「私よりでっかいこと言ってるじゃない!」


 ひとしきり笑った月島は手首に嵌めていたシュシュで器用に髪をまとめる。


「ばいばい、慎吾。またいつかね」

「連絡先。教えてくれねえの」

「大丈夫、自分の道で頑張ってたら、……なんかお互いに見つける手段があるでしょ、きっと」

「いつだよ、それ?」


 月島はいつもみたいに、綺麗に笑った。



「十年後とか。絶対、いつか、どこかで会うでしょ、私達!」



 じゃあね。

 

 そう言ってもう、月島は振り返らない。


 それは、いつもの見慣れた月島のぴんと伸びた背中だった。

 彼女の去ったドアをいつまでも見つめながら、慎吾は俺は振られたんかなあと、思った。

 

 月島が被っていた野球帽をつまんで、目深に、被る。


「くっせぇな、これ……」


 慎吾は、ぼやいて、笑った。

 見上げた空は、青い。


 飛行機の跡が、白く視界を2つに区切っていく。





 翌日、慎吾は野球部に顔を出して深々と頭をさげた。



「一月。部活をさぼっていて、情けない態度ですいませんでした。もっかい、一緒にやらせてください。試合でも、勝手なことしてしまい、申し訳ありませんでした」


 まだ若い監督はは数秒沈黙して、溜息をついてイチからやりなおし!と淡々と告げた。何人かの部員は冷ややかに、何人かはニヤリとしながら背中を叩いて、去っていく。

 柴崎がキャッチャーミットを手にしてニヤニヤと笑っていた。


「おまえの元気出てよかったわー。何が原因か知らねぇけど」

「どうも、ありがとう、ございましたッ!」


 ヤケクソで怒鳴ると柴崎はまたよろしくなぁ、相棒、と仏の如き笑みを浮かべた。慎吾は素直に謝った。


「心配かけてごめんな、柴崎。めんどくさくてごめん」

「許すわけねーだろ。次はねぇからな。あと、結果出せ、結果」

「……うっす、キャプテン」


 強めに背中をたたかれて、思わずむせた。


「うっし!おまえら、行くぞー、配置につけー!」


 柴崎の号令を合図に下級生はランニングに、レギュラー陣は各々の配置へと駆けていく。


 慎吾も呼吸をとめて、深く、吐く。

 目を閉じて、ゆっくりと開ける。

 目深にキャップを、被る。



 十年後、いつかの君に会いに行く。



 その一歩を、踏み出した。

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― 新着の感想 ―
[良い点] とても綺麗で切なくて、きゅんとくる素敵な学園ドラマでした……!
[良い点] 青春だー!と思いました。 夢を追うって一人だけで成し遂げるもんじゃなくて、人との触れ合いの中で更に磨かれて研ぎ澄まされていくものなのかもしれないと、感じさせてくれる短編でした。 挫折もあり…
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