自然界
「なにも止まらない駅の話をしましょう。会社の帰りに駅のホームで待っていた。電車が来たと思って前に進み出たら、止まらないでガアっと行ってしまった」
「急行電車だったんですね」
「その電車はそうじゃなかったはずなんだ」
「運転手のミスですか」
「と思ったんだが、ふと電車が去ったあとの壁をみると、なんと〈この駅にはどの電車も止まりません〉と書いてあるじゃないか」
「ほう」
「妙だろう? 第一、これじゃ駅の存在価値がないもの」
「キオスクだけになりますものねえ」
「元々そこには〈この駅には急行電車は止まりません〉と書いてあったはずなんだ。それに、私は朝、確かにこの駅で普通におりたんだ。走っている電車から飛びおりたんじゃないんだから」
「走っている電車からみんなが飛び降りなくちゃならない駅は怖いですね」
「えらく考えたあげくに出た答えが、ほら、あれだ。野球場のバックネット裏のフェンスのCMみたいに時々文句が変わる。ね、保険会社だったり化粧品だったりとね」
「なるほどなるほど。謎が解けてよかったですね、先生」
「うん。でも謎は解けたが、私はいつになったら家に帰れるんだとね」
「悩むんですか」
「まあね。今のは怖くないな」
平吉はさりげなくいって、欠伸をするふりをしながら用心深く男の顔をみた。気のせいか男の全体の輪郭が少し崩れたようにみえた。ごく最近もこんな風なことがあったな・・・
「いえ少し怖いですね。でも、もっと別の話を聞きませんと」
「そうだよね」
扉の前に、ごま塩模様の傘が一本、半分口を開いて落ちているのがみえた。どうしたんだろう。今日も昨日も雨なんか降っていないのに。
「小学校四年の時、学校の校庭でね、全然知らないで、バットをぶんぶん振っているやつの圏内に入ちゃったんだ。いきなり頭を叩かれて気を失った。覚えているのは火花のフラッシュと、病院で目を覚ました時に死ぬほど頭が痛かったことだけ。だから、今でもなんの前触れもなくいきなり衝撃が来るのは怖い。思うだけで怖いんだ。道路を渡る時など死角になっている方から猛スピードの車がやって来て、いきなりバンと跳ねられる。二十メートルほどぶっ飛んで、アスファルトの上にボロ鞄のように叩きつけられる。なにがどうなったのか判らない内に意識が消える」
「それは少し怖そうですね」
「だろう?」
いつのまにか雨傘が消えている。
「・・・傘が消えたよ・・・自然界はアナログだから、森羅万象ことごとく必ず連続性があるんだ。雨が降る時だってそうだ。青空に少し雲が出始め、段々厚く暗くなっていって、それからぽつりぽつり、そしてドシャアだ。にわか雨とかいったって、それは修辞というものでね」
「なるほど」
「だから、そこに非連続的なものが登場するのはだれも想像すらできない。人間も自然界の連続性の中にいるのだから。デジタルなものというのは、唯一、死だけだ」
傘はどこへ消えたんだ。ああいう具合にいきなり消えられては困る。
「先生。これまで嘘をついたことがありますか」
「それは有るね。思い出したくないからいわないけど。多分、いわないままで死ぬと思うよ」
「そういわずに、ひとつだけでいいですから」
「なら、こんなことがあった。あ、もう嘘をいうな」
(あなた、何をしているんですか)
庭の鶏小屋の戸に輪ゴムとテグスを通しているわたしをみて、女房が二階の窓から顔をだしてそう聞くから(雀をとるんだ)というと、女房はたじろいだようだった。
(またですか。捕ってどうするんです。飼えませんよ)
そんなことはわかっている。
(男は、雀捕りか、でなければ金チャンのように鯨捕りで一生を終わるものなんだ。女の君にはわからないだろうが)
(じゃあ、あなたは捕ったことがあるんですか。どちらでもいいけど)
俺が鯨なんか捕れるわけがないだろう。だから女にはわからない、といったのだがねえ。
そこでだ。とれなかった話ととった話をひとつづつ話そう。大事な話だよ。