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雀とり鯨とり  作者: 伊藤むねお
7/13

こわいはなし

「平井先生。ここいいですか」

 不意に名前を呼ばれて平吉が顔を上げると、いつのまにか目の前に男がひとり立っていた。どこかで会った顔なのだが頭の調子がどこかおかしい。濃い霧がたち籠めているみたいですぐには出てこない。

 平吉は、こういう場合の常套手段を使ってみた。その人にいろいろな職業の服装を着せてみるのである。三富駅の駅員、タクシーの運転手、銀行員、花屋の店員、会社のそばのラーメン屋の親爺、図書館の事務員、鳥屋の店員、駅前の駐車場の管理人・・・どれもはまらない・・・

 平吉は置いていたショルダーバッグを除けて、どうぞといった。

「ええと・・・」

「五穀豊穣です」

「ああ、五穀さん、か」

「思い出していただけたようですね。ときに、隣のふたりですが」

「は?」

 五穀は、隣のボックスのことですよ、というように、そちらの方にちょっと首を傾げてみせた。

「ふたりは大井町にあるデパートの食品売り場で働く同僚で恋人どうし。今日は職場の慰安旅行なんです。でも別々のマイクロバスに割り当てられてしまったので、別行動をとって電車で行くことにしたんです。行く先が三浦半島ですから、こっちの方がいいのですがね」

「なるほど」

 あ、馬鹿だ。

 平吉はまたも軽率に頷いてしまったことを悔いた。隣の二人組のことなど知りたいと思っていなかった。どうせただで教えてくれるのなら、神奈川でおりた四人連れの方を聞くんだった、と。

 でも、本当にタダなのか。

「先生。なんかお話をしてくれませんかね。今のを教えてあげたお返しに」

「今のって」

「隣のふたり組ですよ」

 やっぱり、そうきたな。

「ところであなたは、ええと」

「五穀豊穣です」

「どこかでお会いしましたね」

「今朝、お会いしましたよ。西朝霞の辺りでしたね」

「今朝?」

 五穀豊穣は深緑色の一見して高級とわかるウールのオーバーコートで身を包み、足元は蜜柑色をした柔らかそうな革のブーツで決めていた。そういう身なりなのに、お話をして欲しいとは子どもみたいだが、まあ、自分も嫌いじゃないから。

「どんな話が好きですか」

「どんなでもいいです」

「そうですか。ところであなたもやはり三浦海岸まで?」

「いえ、横須賀までです」

「横須賀なら防衛大学校と戦艦三笠だな。防大の受験のとき、呼吸停止試験というのをやるのを知ってますか」

「初耳です」

「金盥に顔をつけてストップウオッチで時間を計るんです。ある年、えらくタフな奴が来て三分たっても顔を上げない。試験官たちはすっかり興奮して、それがんばれがんばれと声援したのだが、そのうち心配になってきた。五分過ぎてもまだ顔をあげない」

「ほほう」

「試験官たちは興奮と心痛で、わずかのあいだだが失神をしてしまったらしい」

「あれまあ・・・」

「気がついたら、受験生の姿がない」

「ほう」

「ふと金盥の中をみると、なんと鮒が一匹泳いでいた」

「なんです?」

「試験官たちは鮒を合格させていいものかどうかと迷ったらしいが、ひとりが、鮒じゃどうせ筆記試験で落ちるだろうからといって、大きなはんこを押したそうだ」

「鮒はどうなりました?」

「どうせ最後は不合格なんだからということで、洗面台から下水に流しちゃったらしい」

「へええ」

「この話、どう?」

「え? なんか比喩が隠れてるんですか」

 五穀は困ったような顔で聞いた。

「ためになる教訓とかかね? ないのじゃないか。それじゃ、三笠の周りのコンクリートを毎日少しずつ削って、もう一度海にもどそうとした男の話だ。聞く?」

「いえ。そういう話はどうも」

「それじゃ、怖い話にしましょう」

「あ、その方がいい。ずっといいです。怖い話を聞きながらどんどん進んでゆくなんて、鯨を追って南氷洋まで行くみたいで、とってもいいですねえ」

 この男、金造か?

 五穀は窓際に肘をついてうっとりを目を細めた。袖口から濃い体毛がはみだしているのがみえるが、金造もそうだった。見ればこの男は全体が金造と似ていなくもない。鯨を追って行くともいっていたし。だが、声がちがう。そうだ、年齢が全然ちがう。

「どんな話が怖いですか」

「水色がみな水になって、地球が水浸しになる話なんか怖いですね」

「なるほど。他には」

「草食動物と肉食動物が入れ替わってしまうという話はどうです」

 五穀はなかなかのアイデアマンである。

「あ、いいな。象が肉食動物だったら最強だもの。縞馬の群がライオンを襲う場面などは最高に壮絶だ。しかし、ライオンも必死になってもがくのじゃないかな。縞馬の歯と蹄を逃れるために夢中になって手足を振り回していると、それがたまたま縞馬の顔に当たる。するとどうなる?」

「それはもう、そこからは先生が話してくれなくちゃ。さっきから案を出しているのはわたしじゃないですか」

 気がついていたんだ、こいつ・・・

「しかし、どうせなら水色よりは緑色の方が良かったね。緑なら草とか木とか森とか一杯有るから。いやいやそうじゃないぞ。水色にも大きなのが有るぞ」

「有りますか」

「空だよ」

「空は空色じゃないですか」

「いやいや、十色くらいのクレオンなら水色も空色も同じだよ。要するに青だから。空が水になったら・・・。待てよ。空がみんな水になって抜け落ちたら、そのあとは何色だろう」

 さあ、と、五穀は考え深そうに首を傾けていたが、

「色は無いのじゃないでしょうか、きっと。だから黒。真っ暗闇ですね」

「そうか、闇か」

「怖い話はまだでしょうか」

「お、金沢八景だよ。すっかり変わってしまったなあ。君。わたしはね、昔、ここに住んでいたことがあるんだ」

「さあ、先生、怖い話を早く」

 五穀は蠅のようにもみ手をした。


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