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雀とり鯨とり  作者: 伊藤むねお
5/13

五穀豊穣

「あの女の人のケースですか」

「例えば」

「それはいえません。いうなという約束で引き受けたのですから」

「なるほど」

 平吉は首をひねってもう一度男をみた。すると奇妙なことに、男の顔が、まるで目の前に厚い波形ガラスを立てたようにゆらゆらと揺れ始めた。

 あれ、この男は。

 平吉は目元を指でこすり、さりげなく少し距離をとってもう一度見直した。さっきとどこかがちがう・・・が、思ったほどにはちがわないような気もした。

「あなた・・・」

 平吉はさらに目を凝らしたが、異変を感じたのは自分の錯覚だったのか・・・・

「どうかされましたか」

 男は平吉の顔を斜め下から見上げて、おかしそうに笑っていった。やはり気のせいだったようである。

「いや、なんでもありません。それより、わたしに話しかけたのも誰か依頼した人がいたからでしょうか」

「あなたの場合はちがいます。依頼人はいません。情報として仕込んだだけです」

「情報? で、どうするんです」

「交換情報として使えるんです。例えば、ほら斜め左に女の子がいますね、赤いジャケットを着た。あの子は西新河岸から乗ったのですが、さっきからあなたをじっと見てます。あの人、お稲荷さんは好きかなあって」

 正一位大明神がかい。待て待て、なにがどうしただって?

 いわれた方向を見ると、なるほど赤いダウンジャケットを丸々と着込んだ十歳くらいの少女が、無遠慮な目でこっちをじっと見ている。

「あの子に、それを教えてあげるから君がこの一番電車に乗っているわけを教えてね。と、そういう風に使えるんです」

 平吉は鼻先が尖ってる大人びて見える少女の顔を少し睨んでやった。しかし、少女は平然と平吉を見返し、すぐに、もう結構とばかりに反対方向に視線を転じてしまった。

「気の強そうな子だな」

「強いどころじゃありませんよ」

 平吉は、どころじゃない、というのが気になった。しかし、気の強い人間はどこにでもいるものである。男にも女にも、子どもにも大人にもいるのだ。

「しかし。面白くありませんな」

「どうしてです。あなたがご損をするというわけではないでしょう」

「そちらの注文どおりになったというのが不快なんだな」

「なるほど。謝ります。でも、あなたもその分は補えたんじゃないでしょうか」

「どうして」

「あの女の人のことを教えて上げましたよ」

「頼んでいませんよ」

「でも、私が教えた時、なるほどという顔をしたじゃありませんか。ね」

 馴れ親しんだ習慣からつい打ってしまった相槌を、平吉は悔しく思った。

「さあて」

 男は両手で膝をぱんと打つと、そういって思いがけないほどの弾んだ動作で立ち上がった。

「私は次の仕事に移りますので、これで失礼します」

「あ・・・」

 平吉はもっと話があったような気がしたのだが仕方なく、とにかくも少し頭を下げると、男は内緒話ですよ、というふうに声をひそめていった。

「一番電車は稼ぎ場なんです」

「でも、お客の数が少ないですね」

 男は声を出さずに唇だけで笑った。すると、また男の顔がぐずぐずと揺らぎ始め、平吉はまた嘔吐を覚えて少し顔をしかめた。

「でも、聞き出すのが楽なんです。・・・どうかしましたか」

「慣れない早起きのせいでしょう。うん、なるほど。ラッシュどきじゃ大変だ」

 平吉は納得した。

 たしかにぎっしり詰まった最中で携帯電話で喋りまくる人間に、なにゆえに今どこの誰となにを話したのかを聞いてくれ、というような依頼は難度が高い。そこに行き着くまでがひと苦労だし、相手から罵倒されることだってあるだろう。それはビジネスだからと辛抱するとしても、ぶん殴られることだってあるのではないか。往々にしてその種の人間は体力が自慢で、かつそれを誇示するのが好きなのだ。

「でも、お代もそれなりには頂きます」

「割り増しですな」

「そういうことです。先生」

「え?」

「平井先生でしょう。作家の」

「えっ」

 平吉がまたも驚き、それでも先生と呼ばれたことでぼおっとしていると、男は鳶を刎ね上げ懐に手を入れながらいった。

「雀捕り鯨捕りという作品、同人誌で拝見しましたよ。ま、以後ご贔屓に」

 平吉の掌には薄い珈琲色をした名刺が一枚置かれていた。急いで眼鏡をかけて眺めると、問屋といや/五穀豊穣、とのみあった。裏を返してみたが、なにもない。

「これでは・・・」

 どう連絡をといいかけて目をあげると、男の姿は消えていた。


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