ビジネス
男は平吉の問にはすぐには答えなかった。
「人というものは、百人いれば百の事情があるんです」
「それは、そうでしょうな」
「例えば向かいの右端に女がいます」
平吉はいわれた方をみて、おやと思った。そこにいたはずの喫煙男はいつのまにかいなくなっており、代わりに着物で装った女がいたからである。
女は小豆色の和風のコートで身を装い、腫れぼったい瞼に濃い化粧を施していた。首には白っぽい羽根のついた襟巻きがあり、星屑を吹き付けたような髪飾りもしていた。
「着飾っているでしょう?」
「そうですね」
「着飾って一番電車というのも妙でしょう?」
「妙とは思いませんが、あれだけ着飾るのなら四時には起きなきゃならんでしょうな」
「いいえ、三時半ですよ。だってあの人は熊谷から乗ったんですから」
「熊谷からですか。じゃあ、あなたもそうですか」
「いえ、わたしは西川越からです」
なんだって?
平吉はたまらず、体をよじって男をみた。
男は無地の黒っぽい着物の上に古びた鳶のようなものを纏っていた。足元をみると、黒い先のとがったブーツのようなものを履いて、顔はこれといった特徴のないごく平凡なものだった。しかし、どこかで見た顔のようでもある。平吉は、ははあと納得した。よくあることだ。つまり、有名人を含む複数の知人の顔が混じっているのだ。
「じゃ、どうして知っているんです。あの人が熊谷から乗ってきたなんてことを」
「聞いたんです」
男は前を向いたまま短く答えた。
「誰にですか」
「もちろん本人にです」
「ほう」
平吉はこれだけを呼気とともにいった。
「あの女はこれから久里浜まで行くんです。夫が久し振りに帰って来るというので、迎えに行くんです」
へえ・・・一緒か・・・・
「お知り合い?」
「いいえ」
いいえだって?
それでは、この男は今わたしにしているように、女の傍にすり寄って話を聞き出したというのか。社交的? いやあ、社交的というのはこうではあるまい。
四十年近い会社人稼業のあいだに、気が狂いそうになるほどに様々な人間をみてきた平吉ではあったが、この男のように易々と他人に話しかけられる人間は初めてだ。
人懐っこい、というのであれば何人かがいた。しかし、その種の男はみなどこかにオモネリが有り格の低さを感じさせられたものである。しかし、この男はちがう。自分には話しかけるだけの確固たる社会的な(会社的なではなく)理由が有るのだという硬い張りがあり、話もまた巧みなのだ。振り返れば頗る頭が良いともいえる。まるで、平吉の頭の中を覗き見しているかのようなタイミングで受け答えをする。
そういえば、と、平吉は、男の自分に対する話しかけも、巧みに心理を衝いたものだったことに気がついた。
電車はまだ地下深くを巨大モグラの如く、粛々と走っており、どこかの駅に止まるたびに短いチャイムと共に扉が開いて、ひとりふたりと乗客を加えてきた。
「失礼ながら、あなたはなんです。探偵ですか」
「いえいえ、これはわたしのビジネスなのです。こうやって他人にものを問うのが商売なんです」
「は?」
「問屋と書きますが、トンヤではなく、トイヤと読ませます」
「ほ、ほう」
平吉は思わず出た大きな声に驚き、慌てて周りをみた。
「収入はどこから入るんですか」
「もちろん、依頼人からです」
「そんなことを一体誰が頼むんですか」