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雀とり鯨とり  作者: 伊藤むねお
2/13

煙草

 金造は老いた銛撃ちの心情を気遣うという細やかさの持ち合わせがないが、それを補う可愛げというものがあるらしく、海に放り込まれもせずに生き残り、いまだにキャッチャーボートに乗って鯨を追っている。

 体長三十メートル強、体重百二十トンあまり。地球上最大の動物である白ナガス鯨を、一度でいいから南氷洋で撃ってみたかったというのが金造の夢であるが、おそらくは幻に終わるだろう。なぜなら、来年から三番ボートはお前が砲手だと船長からいわれたその年に、理不尽にも(金造はそういう)大型鯨の捕獲が禁止され、日本の五十年にわたる南氷洋捕鯨が幕を閉じてしまった。

 会社はミンクなどの小型のものに限定したミニ船団を出漁させたりしたが、それもすぐに停止せざるをえなくなり、調査捕鯨の名目のもとに沿岸捕鯨のみが細々とおこなわれているにすぎない。金造が焦がれた白ナガス鯨は獲るはおろか目にすることさえできないというのが現実である。専らミンク、ニタリ、などの小型の鯨と、希に中型のマッコウ鯨あたりが対象であった。

(ミンキーなんて)

 金造はそういいながらも鯨捕りに憑かれてしまい、還暦に近い今もまだ現役の砲手である。

 平吉は思い切り強く息を吐き返してみた。すると、これまでになかったほどの長い潮吹きができた。

 こいつは白ナガスだ。

 全盛期の鯨捕りなら、数キロ彼方の噴気をみただけで種類や大きさ、子連れか否かまでがわかったという。


 次の角を曲がれば三富駅であり、平吉の知っている時間帯なら常に人の匂いが満ちている区画だが、この早朝とあって左右の住宅は塀も生垣も無愛想で路上に生き物の気配はない。等距離に立っている街灯が苦しそうに小さな半球をつくっている。

 コンコンースに入ると、平吉のほかにもぽつぽつと俯いたまま改札口に飛び込んでくる人の姿がみえた。平吉もポケットの中のパスを確認し、足を早めてゲートをくぐり、扉を開いて待っていたエレベータに乗って深い地下ホームにおりた。

 平吉は時刻を確かめて来ている。ホームに立つと、天井から吊された発着ランプが冴えたチャイム音と点滅を始め、一番電車の進入を告げた。

 バッタの頭のような形をした先頭車両が目の前を勢いよく通り過ぎると、発着ランプは次第に点滅を緩やかにしてゆき、電車は合わせて減速をし、とととと、と停止した。

 ふうん。結構いるものだ。

 平吉は冷たくなってしまった鼻を手のひらで暖め、そう思った。意外だった。通り過ぎる車両の中には、少なくからぬ乗客の姿があったのである。

 この西武蔵野線のように地中深くを走る新線は、機構や部材に特殊な技術を駆使されており、振動や騒音は従来型の電車とくらべると桁違いに少ない。車内は図書館さながらに静かである。

 手近なところのシートに腰を下ろし、また鼻を暖めながら徐に周りを見回すと、そこは一番電車であり、多いとはいってもそれぞれのベンチに一人か二人、ひとつの車両にざっと十人というところであった。だが、平吉のもつ常識的感覚からは多いと思う。いったい、この人達は、どういう事情で、暗い寒い眠い一番電車に乗っているのか。皆、自分と同じように何年かぶりの幼馴染みを掴まえに久里浜まで行くのだろうか。平吉は左右に首を回し、そのあたりの個別の乗客を観察し、持ち前の好奇心からそのあたりの事情の洞察をこころみようとした。

 だがそのとき、鼻を撃たれたような強い刺激を味わった。平吉は人差し指で鼻梁をさすりながら目をしばたかせた。車内灯がにわかに眩く感じたからである。

 刺激の根源はすぐにわかった。斜め前に座っている男が燻らす煙草の煙であった。熟した無花果のような暗い肌をもったその男の太い鼻穴からは、間断なく灰色の煙が漂いだしている。平吉は傷み始めたものを食ってしまったときのような、悔いにも似た嘔吐を覚えた。

 平吉は煙からくる刺激臭よりも男の公徳心のなさが不快だった。平吉は決まりごとに鈍感な人間が嫌いだった。そういう人間が多い企業は平気でひとを裏切る傾向がある。

 ろくなやつじゃないな。

 しかし同時に、長年の会社人人生で身に付いたバランス感覚も働き、鈍感ではあるが男の行為はいまどき珍しいし、その希少価値は認めてもいいのではないかとも思い始めた。

 実際、喫煙者が犯罪人のような指弾を浴びたこの数十年の間に、人前で煙草を燻らす人間はトキのように激減してしまった。公共車両の中での喫煙などは、滅多におめにかかれるものではなく、全く古典的であり、あるいはトキ以上といってもよいのかもしれない。

 ふむ。

 平吉は唸り、そして思った。いったい、この男はどういう人か。いつもこうなのか。そもそもなぜ一番電車に乗っているのか。そのことと喫煙には因果関係があるのだろうか。

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