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雀とり鯨とり  作者: 伊藤むねお
11/13

少女

 ホームには人が多勢いて、虫が這うように一斉にホームの縁に進み出た。平吉も一歩踏み出しながら何気なくうしろを振り返った。すぐうしろに、あの少女が立っていたのである。

 少女は平吉の方は見ず、黒々とした瞳で入ってくる電車を見ていた。右手に小さな手提げがあるが、あの黒いおにぎりはまだあるのだろうか。

 車内は空いていた。平吉は中に入って手近のシートに座り周囲に目を走らせたが、すぐうしろから乗ったはずの少女の姿はどこにもなかった。

「今日はどこまで」

「青物横丁」

「そう。じゃ、景気がいいんだ」

「いいといったってしれてるがさ。でも、この前の大風の日にずいぶんたくさんあがったもんだから」

「いいんだねえ。あんたのとこは、風が吹くと儲かるんだから」

「はははは、桶屋じゃないよ」

 声は斜めうしろのボックスからだが、中年女どうしのようである。

 風が吹くと儲かるというのはなんだろう。それにしても、他人の話が本当によく聞こえる日だ・・・と、朝からの色々を思い巡らしていると、にわかに眉のあたりが重くなった。早起きをした今朝からの疲れと倦みが、ここで出てきたようである。

 桶屋じゃなくてなんだ・・・

 平吉は観念して目を閉じた。


 どれくらい眠ったのか。平吉は向かいにだれかが掛けた気配で目を覚ました。

「目が覚めたかい」

「お、金チャンじゃないか。どうしたんだ。久し振りだなあ」

「なにをいっているんだ。さっきからずっと一緒じゃないか」

 金造は頬といわず顎といわずに伸び放題に伸びた髭面を歪めると、でこぼこの歯並びをみせて笑った。

「そうかい? とにかく十二年ぶりかな」

「そのくらいだね。寝顔をみていたが平チャンも年をとったなあ」

「お互いさまさ。鯨髭は」

「もってきたとも」

 金造はごわごわした黄土色のセータをたくしあげると、胸のあたりから幅広い鳥の羽のようなものを取り出して平吉の目の前に立てた。

「どうだい」

「おっほう。懐かしいなあ。昔、小学校で見たとき以来だ。ほう、結構弾力があるものなんだ。これは白ナガスのやつだろうね。よく手に入ったもんだ」

「なあに」

 電車の音が変わった。大きな川を渡っているようである。

 カワダカワッタ、カワダカワッタ。

「川だ。変わったといっている」

 平吉がいうと、金造は呵々と笑った。

「まだ、やってるね、先生」

「先生? なんだい、急に」

 見ると、いつのまにか金造はセーターの上に鳶のようなものを羽織っており、葉巻のような煙草を口にしていた。

「あれ、君は」

「五穀豊穣ですよ」

「そこにいたのは、わたしの友人だったはずだが」

「友人の五穀豊穣ですよ」

「そうか」

 それなら、と平吉は思いついた。

「五穀くんは調査もやるのだろうか」

「ええ、もちろんです」

「それなら、ちょっと調べて欲しいことがあるんだが、お代はいくらだね」

「先生なら話をしてくれればいいです。怖い話を」

「そうかい。それじゃね」

「ええ」

 五穀は満足そうに目を閉じた。

「海の大滝の話をしよう」

 潮の流れが急に速くなって船はどんどん引かれてゆく。舵はもう全く利かない。ブリッジに行ってみると、船長も航海士も帽子を床にたたきつけ、髪を掻きむしっているありさまだ。蛇輪が軸から抜けている。サモアで雇った舵取りがあんまり力まかせに回そうとしたからだ。船の周りを見ると大小の船が、他にもいっぱいる。みんな潮に引っ張られてる。大きな鯨も引かれている。海の中だけじゃない。海鳥の群までが大風に煽られるようにみんなが同じ方向に引かれているんだ。ああ、ついに掴まってしまったか。海の果てに有るといわれていた巨大な滝は本当にあったんだ。ほら、もう何千何万もの太鼓を打ち鳴らすような潮流の落下音が聞こえてきた。濃い霧も出てきた。大小の虹がいっぱいでて、みな笑ってる。もう最期だ。船は肋骨が折れそうなほどに身を震わせ、霧笛を力一杯に鳴らす。ぼおおおい。ぼおおおい。鯨どももみな涙をこぼしながら哀れっぽい声で泣く。うおおおん。うおおおおん。

「おいおい、五穀くん、しっかりしてくれよ。これは夢だよ。鯨の涙なんかみえるわけがないだろう? 君は意外と気が小さいんだねえ。いやいや、でもね。結構結構。それは想像力が豊かな証拠なんだ。うちの女房なんか、きっとこういうよ。あなた、鯨なら滝壺に落ちたって平気でしょう、泳げるんだから、なんてね。どうも、女にはロマンがないよ」

「ああ怖かった。でも幸せでした。さあて先生、なにが知りたいのですか」

「実はね」

 しかし、と平吉は首をかしげた。疑問はすべて過去のことばかりだったから、玄人といえども調べるのは難しいのではないかと思ったのである。

「ときに君、どうしたの、その顔は」

 五穀の目の縁が黒ずんでおり、唇の右端も少し血が滲んでいる。耳はミッキーマウスのように大きく腫れ上がっていた。

「やられてしまいました」

「殴られたの」

「ええ。でも、これで尻込みしては商売にはなりません」

「なるほど」

「さ、どうぞ」

「しかし無理だろうな。なにしろ君はその場にいなかったんだから」

「わたしの力をみくびられては困ります。よろしい。では申し上げましょう。お聞きになりたいのはお稲荷少女ですか。それとも公園のベンチで寝ていた男のことですか。それとも金造さんのことですか」

 この男は、どうして色々と知っているのだろう。そうだ、金造はどこにいった。夢か。平吉は奥歯で口の裏を噛んでみた。

「痛い」

「どうしたんだ。平チャン」

「あ、やっぱり金チャンか」

「どうしたんです。先生」

「五穀君か。あ、口から血が出てきたよ。痛かったなあ。ええと、どれにしようかな」

「全部でいいですよ。どうせ、みんなつながっているのですから」

「そうなのかい」

 男の気が変わらないように、うまく相槌をうたなくっちゃ。

「まず」と、男はいいかけて、にやりと笑った。

「公園で寝ていた男。あれはペリーの子孫です。シュウという名前なんです」

「えっ。ペリー提督の?」

「そうです」

 次の瞬間、平吉は吹き出しそうになってしまった。話の荒唐さもさることながら、自分の息子と同じ名前ではないか。

「冗談だと思ってますね」

「そうなんだろう?」

「あの男がそのように答えたというのは事実です。わたしの仕事は依頼人に代わって聞いてみるというところまでで、それから先の信憑を確かめるところまでは含まれません」

 五穀は真顔で答えた。

「よっチャンがどきどきするっていったら、わたしまでどきどきしだしてエ」

 その時、きゃあきゃあと前のボックスが突然賑やかになった。

「この賑やかさん達は上大岡バレー研究会の生徒たちです。今日早く発表会をやったんですが、まだほんの子どもばかりですから、みんなすっかりあがってしまって、互いに足を踏んづけ合って大変でした」

「それはいいから、ペリーのあんたのご説だがね。なにか状況証拠的なものでもいいから有りますか、ということ位は聞いたんだろう?」

「もちろんです。時は一八五四年の春、二度目の来航のときです」

「蒸気機関車や電信機を陸揚げして、わあわあ騒いでいた頃じゃないか。じゃあ、女がいたということかい。唐人お吉の先輩のような」

「メイドが急病になったんだそうです」

「メイド? 艦隊に女がいたの」

「そうです。ネルソンなどは常時十人くらいは召使いの女を乗せていたんです」

「ネルソンはともかくペリーがねえ。それは初耳だなあ」

「キヨという女が伊豆下田の在から呼び出されて船に乗った。あとはもうお定まりの話です」

「伊豆下田ならお吉と同じじゃないか。公園で寝ていた男は、その時にペリーとの間に出来てしまった子どもの子孫だというのか」

「ええ」

「ふうん。そうかねえ。ぼくも寝ている顔を少し覗いたんだよ。金ちゃんと似ていないことだけはたしかだったが」

「いえ。容貌は金造さんによく似ています」

「ええっ? 似ているって? それじゃ、傍で泣いていた女は、あれはだれ」

「女なんていませんでしたよ」

「それはおかしい」

「時刻がちがうのです。先生が見たのは九時頃でしょう。わたしのは七時頃ですから」

 やはりおかしい。そんなに早くこの男だけが先に着くわけはないのだから、どう考えても辻褄が合わないではないか。

 平吉がその疑問をただそうとすると、うしろで、ひーと女の子が泣き出す声がした。

「ああら泣いちゃったわ。みんな、よっチャンに謝りなさい」

「泣けばいいってもんじゃないわ」

 引率者らしい女性の窘める声に、気の強そうな、少女にしては野太い声で答えた。

 泣けばいいってものじゃない?

 昔よく聞いた嫌な文句だ。どういう子どもなんだ。

「口答えをしたのは先生の娘です。ルキイという子どものボスです。それよりだよ」

 五穀が声をひそめると、厚手のガラス板が立ち、ぐらぐらと輪郭が崩れた。

「駅じゃ危なかったんだよ。平チャン」

「誰が。僕が? どこの駅の話。あれ? 君は金チャンじゃないか」

「まだ寝ぼけているのかなあ。水を持ってこようか? 久里浜駅のホームでだよ。うしろにお稲荷少女がいただろう」

「うん。吃驚したよ。でも、それがどう危なかったんだ」

「カヨというのだがね、あの子は平チャンを線路に突き落とそうとしてたんだ」

「まさか」

 平吉は反射的にそうはいったものの、なぜか一概には否定できない奇妙な雰囲気が、そうだ、あの時は有った。

「見てたのかい」

「それはちょっといえないのだが、間違いないんだ。それにだね」

 金造は、ちょいとうしろのバレー少女たちを気にする素振りをしてみせてから、声を押さえていった。

「前にも有るんだ。それも、ここ二年の間に三件も飛び込み事故がね。謎の自殺というやつで片付いているが、それがじつは」

 金造は口を噤むと、両手で人の背中を突く真似をしてみせた。

「嘘だー」

「嘘じゃないよ」

「警察は?」

「気がついてない」

「なら金チャン。あんたが教えればいい。自信があるのならそうしなくっちゃ。市民の義務だよ。子どもとはいえ、それじゃ殺人じゃないか」

「いやだよ」


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