おいなり
ペリー記念公園に着いたのは開館時刻の少し前だった。公園は海から防波堤と道路ひとつを隔てただけのところに有った。ペリーの二度目の来日は冬だったようだから、彼もこの暗く重い海を見たにちがいない。
広く膨らんだ海水が浜に寄ってくると、渚近くでまるで蕨のように立ち上がる。そしてすこし歩むが、すぐ崩れて何本もの太くて白い綿糸ができる。繰り返してやってくる青黒い蕨はこう語っていた。
だあだあだあ、だあれもいない。
海鳥らしいのが、強い風に会って黒いシェルエットのまま横ざまに吹かれていくのを見送っていると、植え込みのうしろから、竹箒を持った老人が現れて近づいてきた。
「風が冷たいですね。今開けますから」
老人は、平吉を記念館を訪れてきた人だと思ったようである。
「どうも。少しあとで拝見させていただきます」
武蔵三富からここまで来ることは滅多にないのだから、見学をして帰りたいとは思っていたのだが、金造はいつどこから現れるかわからない。みつけ次第、有無をいわせずに駅に連れて行きたかった。
立ったまま海を眺めていると、背後から人の話声が聞こえてきた。始めは海風の仕業かと思っていたが、女の声だとわかり、振り向いてみると玄関脇の小さなベンチに人影がふたつみえた。ちょうど植木の陰になっていて、これまで気がつかなかったところだった。ひとりは、むくむくと厚着をしているが、明らかに男で手足を縮めて横たわっていた。
おや。
その傍で男に覆い被さるようにしてなにかを口説いている和服の女に、平吉は見覚えがあると思った。女は薄紅色のハンカチで目元を押さえており、泣いている。平吉はどきりとした。金造かもしれない。
さりげなく近づいて女の斜め後ろから覗いてみると、そうではない。いくら暫くぶりとはいっても見間違うものではない。それよりも、平吉には気になることがあった。こっちを向いている男の鼻孔に潮吹きがないのである。
平吉は館の中に入り、さきほどの老人にたずねた。
「あの人、凍えてませんか」
「は?」
老人は、玄関のガラス扉越しに平吉の視線を追うと、
「ああ、あの男は一年中ここで寝てる人ですから。大丈夫ですよ。女の方は毎週土曜日になると朝早くやってきて、いろいろと身の回りの品を渡していくんです。どういうのでしょうなあ」
と、首を横にふりながらそういい、入らないのですか、と不満そうな目をした。
公園の丸い時計が十時を示したが、金造は姿をみせない。
(鯨捕りというのは本当にあてにならない)
平吉は舌打ちしたい気持ちを殺して、携帯で希世子に電話をしてみた。
「こっちにはなにもないですよ。あらあ、兄さん、現れないんですか。相変わらずですみません」
希世子は申し訳なそうな声でそういった。「いや、いい。あと十分だけ待つ」
そういって受話器を置いたとたんに、さっきの男がやはり金造だったのではないかと思えてきた。よく確かめもしないで判断してしまったことを悔いながら、平吉が小走りでさきほどのベンチにいってみると、ふたりの姿はもうなかった。老人にも聞いてみたが、知らないという。平吉は急に疲労を覚え、あれは金造ではなかったのだと自分にいい聞かせた。そしてそのまま館には入らずに急ぎ足で駅にもどった。
なにかの手違いで、久里浜駅構内に居るのかもしれないという期待がわずかながらあったのだが、金造はやはりいなかった。
あきらめて電車に乗る決心をし、発着案内をみると、次の電車が来るまでに十五分ばかりの間があった。平吉は改札をくぐり、近くのベンチに腰をおろした。風に晒されている上のホームに行くのは、もう少し時間が迫ってからでいい。
正面に紺色の暖簾を吊した立ち食い食堂があり、見るともなしに視線をやっていた。
「トミさんがさ、まただって」
「またなの。あらあ」
すぐ耳元で大きな話声がした。背中合わせにある椅子に腰を降ろした地元の女性連のようである。
「もう駄目なんじゃない」
「血管がもうぼろぼろだって倅がいってたもの」
「長いからねえ」
なんだろう。糖尿でも患っていた人の話だろうか。気の毒なことだ。それにしても今日は過敏なまでに人の話が聞こえる。
食堂のカウンターの前に赤いジャケットを着こんだ女の子がひとり立っていた。小学四、五年くらいだろうか。なんとなく見慣れがあり、どこかで会ったかと平吉が頭をひねっていると、
「お稲荷さんね」
と、カウンターの内側にいた白い割烹着を来た女性が言って左奥に消えた。少女は稲荷寿司を頼んだようである。
徒労感の余り、眼筋を休ませながらぼんやりと少女を見やっていた平吉だが、かさっ、という、物が落ちた音に急いで目の焦点を合わせた。その正体はすぐにわかった。少女の足もとに落ちているセロファン包みの海苔巻きのおにぎりだった。カウンターの上の網皿にピラミッド状に積んでいたものが滑り落ちたようである。少女はかがんで素早くそれを拾い上げ、そのときに平吉と目が合った、網皿にもどすと思いのほか、自分の手提げにぽいと入れた。
(お)
平吉は声が出そうになった。お稲荷を注文し、カウンターの中に誰もいなくなった隙におにぎりを盗み取ったのである。肝心な時に手が滑ったのはとんでもないミスで、おまけに平吉と目まで合わせてしまったのは大ドジなのだが、それにも関わらず行為を完遂させてしまったのだから、その少女はよほどしたたかである。
「お稲荷、お稲荷、おいなあり」
少女は、平吉に背中を向けたままウンターの奥に向かって無邪気そうに、注文したお稲荷が早くこないかなあ、というように節をつけた。
小皿に乗ってきた稲荷寿司を食べ終えた少女は、平吉には一瞥もくれずに足軽に階段を上っていった。平吉は腰をあげて後を追い、ホームにのぼって少女の姿を求めた。もう一度目を合わせて、どういう表情をするのかみたいと思ったのである。だが、赤いジャケットはどこにもみあたらなかった。凹凸の多いホームなので支柱のでっぱりや売店の蔭になっているのであろう。
その時、海風が強く正面から吹いてきた。背中を向けてコートの襟で鼻を覆うと葉巻のようないやな煙草の匂いがした。平吉は鼻を撃たれたように感じ、涙腺が痛んだ。だれかが喫ったものが染みこんだもののようだが、いったいいつのことだろう。
ううんと喉を鳴らすと、胃のあたりに刺すようなむかつきを感じた。
電車が来た。