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雀とり鯨とり  作者: 伊藤むねお
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一番電車

 平井平吉が一番電車に乗ったのは師走の土曜日、午前五時前である。玄関先で靴に足をいれたらきつい。

「会社を辞めてから肥ったんじゃないですか」

「朝だからだよ」

 そういって妻に靴べらをもどし、扉を押した。わずかな隙間をみつけた戸外で凍えていた冷気が侵入してきた。

「あら、寒いわ」

「こりゃ寒いわ」

「お帰りは昼ごろですね」

 銀色のキルトのガウンに小さな身を包んだ妻は、手をしわしわとすり合わせながら周りを憚るようにいった。

「そうしないとな」

「お願いしますね」

 ああ、とこたえて平吉は外に出た。

 ポーチの電灯が小さな庭をこじんまりと丸く照らしており、正面に、金網を張り替えたばかりのトリ小屋が浮き出てみえた。

 トリ小屋は、十年ほど前、家を建て直す建材を分けてもらい、平吉が二日がかりで作った。間口が一間、奥行きが半間の小さなものである。小屋の中は庇が灯りを遮っていて暗い。近寄ると、上の小窓に平吉が仕掛けた雀とりのテグスが見えた。むろん仕掛けた本人だから見えるのであり、他の人間にはみえない。平吉は手袋のままの指先でテグスを押し、張り具合をみた。

「こんなものかな」

 平吉のひとりごとに呼応するように、ココココ、とチャボが闇の中で喉を鳴らした。

「ルキイかい」

 名前を呼んでみたが応えはない。

 帰ったら、ビニールシートで風よけを作ってやらなくちゃ。

 門扉を出て、私道を十数歩行くと、たちまち濃厚な闇に包まれた。その先にある街灯が切れて、月がないうえに厚い雲が張っているらしく星も見えない。視力を失うというのはこういうことかと思うような闇である。平吉は足を止め、手袋をかけた手でポケットを探った。

 平吉は用心深い。冬の一番ならそういうこともあろうかと、昨夜のうちに小さなライトをコートのポケットに入れてあった。それが無駄でなかったことに少し得をした気分になった。取り出して強く握ると、細い光が冷気に圧されながらも白く流れ出て、足元を照らした。

 平吉は昔痛めたことのある肺を庇ってゆっくりと息を吸ったが、次には口先をすぼめて勢いよく白い光芒に向かって吐き出した。呼気は光を吸ってススキの尾花のように茫と広がり、すぐ闇に溶けた。

 ほほう。鯨だ。

 鯨の潮吹きを連想した平吉ではあったが、それをまだ見ていないのだ。退職の暁には妻の兄で幼馴染の金造の案内で鯨の潮吹きをみにゆくつもりだ。

 平吉の思考が、鯨、南氷洋、捕鯨船団、キャッチャーボート、射手、金造、と連想をつなげたとき、突如、真正面から強い風が襲ってきた。体を横に捻ると、風は音を立てて左の耳に当たり、波と風で織られた、しわがれ声を作った。

 ドンガラ、ドンガラ、ドンガラ。

 平吉には子どものころから奇癖、異能といった小学校時代の教師もいたが、自動車の警笛、風の音、物が落ちて砕けるなどの音が、人間の言葉で聞こえる。これを口にした場合、金造のように、たとえ冷やかしでも、詩人だねえなどといってくれる人も希にはいるが、少年期を過ぎてからは、それを他人の前で口にすることは滅多にない。

 どんがらか。

 平吉は顎をしゃくって笑い、またひと潮吹いた。銛が失中したと若い水夫が老いた射手をからかっているのである。声は幼馴染みであり妻の兄でもある、そしてこれから会うはずの鯨捕りの金造のものであった。なぜなら、この話を教えてくれたのが金造なのだから。


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