姉とは恐ろしいもの
台所に三つの音が響いていた。
一つは蛇口から流れ出る水の音。
もう一つは皿と皿とがぶつかり合う音。
最後の一つは少女の鼻歌だった。
水音が止まれば次は皿がきゅっきゅと鳴る。
棚に積まれていくたびにカチャカチャとまた白い皿は響いた。
そして、玄関のチャイム音が鳴ったところで少女の鼻歌が止まった。
「はーい? どちら様ですか?」
食堂から通じる廊下をパタパタと早足で渡って、紫色の長髪をなびかせながら少女は玄関口に到着する。
再度キンコーン、とまたチャイムが鳴らされる。
「はいはーい」
急かす呼びかけに応じながら少女は扉を開く。
佇んでいたのは、見知らぬ男性だ。
真っ白な頭髪に琥珀色の瞳という妙に神秘的な容貌を持ちながら、野性味を感じさせる鋭い目つき。その姿は白狼を連想させ、そして、その左腰には二本の剣が携えられていた。
ともなれば、自然。少女は警戒をする。
「どちら様ですか? また機関の方ですか?」
怪訝とした表情で少女は問いかける。
「は? 違う違う。ちょっとした届け物だよ」
「届け物? って……あ」
白髪の向こうから覗く灰色、担がれて来たその少年を少女はよく知っていた。
「リアム! 一体どうしたの!?」
警戒をそっちのけにして駆け寄る。合わせて、男も身を傾けて少女にその背の荷物を委ねた。
「あー、そのだな。間違って俺の酒を飲んじまったみたいでよ」
その発言に少女の目は光り、より鋭くなる。
「リアムがそんな間違いをするわけがありません!」
抗議を叫んで、立ち上がる。少女の凜として高い声がビリビリと男の肌を刺激する。
更に、その身に受け止めていた少年の体は解放され、石畳の上に落とされた。居合わせた人間なら誰しもが少年の身を少しは労っただろう。
男も内心、お前も大概そんなことしていいのか。とか思っていた。
「リアムは真面目で努力家でいい子なんです! 間違ってもお酒を飲むなんてあり得ません!」
「いや、でもな? えーっと……」
少女の思わぬ圧力にたじろぎ、なんとか誤魔化さんと知略する。が、少女はそれを見逃さないし、聞き逃さない。
「俺の酒……と言いましたよね?」
ぎくり、と肩を竦め口元が一瞬強張る。
「もしかして、貴方が推めたんじゃないですか? いえ、推めただけじゃリアムは飲みませんね。お酒とも教えずに飲ませたんですか?」
「あ、あれぇ? いつの間にか俺が飲ませた前提になってなぁい?」
「……違うと?」
ジリジリ、二人の距離は徐々に狭まっていく。
それは決してロマンティックな意味ではない。それは物理的にそれはバイオレンスに。
吹き出る汗が顔面を濡らす。誤魔化しは通じないと潜在意識が告げる。
ジー、と半開きの目で問いかけ続ける。
数秒が経って、滞留した沈黙を少女のため息が流した。
「ともあれ、リアムを運んで来てくれたお礼をしないわけにもいきませんからね。中に入りましょうか」
「い、いや、俺は用事があるからここで帰るよ。あはははは」
「入りましょう?」
ニコリ、と少女は可愛らしい笑顔を浮かべた。と同時に「お話ししましょう?」とやたらとドスの効いた女性の声が聞こえた。気がした。
「ははは…………はい」
少女は泥酔した少年を引きずりながら、男は肩を落としながら、彼らの家へと入って行った。
家。と言っても彼らの家は孤児院だ。
一階建ての平屋で、玄関から右側に伸びる廊下が子供達の寝室に繋がり、左側に伸びる廊下を辿れば食堂や図書室に繋がっている。
「随分と綺麗だな」
「みんなで住んでる家ですから、大切に使っているんですよ」
埃一つ残さないほど清掃された廊下を渡りながら、なるほどな、と男は素直に感心する。
「あ、そうでした。まだお互い名乗っていませんでしたよね?」
少女はくるりと回転して、紫色の髪がふわりと靡かせた。
そして、軽く腰を曲げ、自身の胸に手を当てる。
「私はアイリーン・デンゼルです。こっちはリアム・バージェス」
ニッコリと笑いながら、ひょいと背の少年を持ち上げてアイリーンは名乗る。
その一連の行動にそこはかとない恐怖を肌に感じながらも男は名乗り返す。
「俺はウィルフレッド・ローグ。まあ、冒険者だ」
「冒険者なんですか? こんな昼間からお酒飲んでたのに!?」
「うっせぇ! 冒険者は昼間に酒飲んじゃいけねぇなんて法はねぇ!」
がなるウィルフレッドに対してアイリーンはクスクスと笑う。
「さ、お茶くらいは出しますよ」
言いながらアイリーンが開いた扉は先は食堂だった。
孤児院の昼食時間はとうに終わっているようで、奥の台所に水が滴っている皿が積み上げられているのが見える。
「片付けの途中だったのか? そりゃ悪かったな」
「いいえ、気にしないでください」
ちょっと待っててください。と言いながらアイリーンは引きずっていたリアムを窓際のソファーに寝かせた後に台所へとパタパタ足音を立てて駆け込む。
少女が食器棚からティーカップを選り好みしてるのを尻目に食堂全体を軽く見回してウィルフレッドは一番近くの椅子に腰かけた。
「ちょっと聞かせて貰っていいですか?」
台所でお湯を沸かしながらアイリーンは問いかける。一言、なんだ? と返す。
「リアムがお酒を飲めるような所に居たってことは多分ダミアンさんのお店ですよね?」
「そうだな。っていうかお前も面識があるのか?」
「もちろんですよ。えっと、ちょうど十年くらい前ですかね。この孤児院にリアムを連れてきたのはダミアンさんなんですから」
ああ、とウィルフレッドは納得した表情を作る。カフェ・クロウスの店主ダミアン・メイソンという人物は話好きの子供好きで孤児など見捨てては置けないたちだった。
「で、なんで昼からあのお店でお酒を? クロウスは確かにお昼でもお酒は出しますけど、やっぱり普通は夜じゃ?」
「え、そこ、そんな気になる?」
「はい」
あー……、と腕を組み暫し悩んで。
「まあ、なんだ。さっきは冒険者って言ったが、今はギルドに入ってるわけでもフリーで依頼を受けてるわけでもないんだ。貯蓄はあるから、それ削って今は食ってる」
「つまりは無職なんですか?」
「ぐはっ……!」
オブラートという人情の利器を持たない少女の言葉の弾丸に貫かれている男を尻目にアイリーンはおもむろに台所から出てくると、盆に乗った二つのティーカップの内一つをギルバートの前のテーブルに置いた。
そして、向かいにもう一つを置いて席に着く。
「ま、まあ……言ってしまえば、そうだな」
震える指先で紅茶が注がれたティーカップを持ち上げる。ピチピチと跳ねる赤褐色の水面がテーブルに落ちないでカップへと戻っているのは奇跡か。
「何故依頼を受けないんですか? 貯蓄はある。ということは元は働いていたんですよね?」
「…………」
ウィルフレッドは喰らう様な琥珀色の双眸を鋭く光らせ、少女の発言を沈黙で叱咤する。
気圧され、アイリーンの瞳が震えた。
「すみません……あまり言いたくないのであれば結構です。でも、その……リアムの力になって欲しいんです」
口をへの字に曲げた。
眼光は鈍くなり、同時にため息を吐き出して、それを補填する様に紅茶を一口啜った。
「何を言いだすかと思えば、今さっきお前が言っただろ俺は無職だ。なんでそんなやつに頼るんだ」
「刀……ですよね? その腰にある二本の剣は」
男は左腕を垂らし、腰に携えられた二本の刀を無意識の隠すように二つの鍔を手のひらで覆った。
「よく知ってるな。こいつを打つ職人は少ねぇから滅多に見ることもないはずだが?」
「少し知っている方が持っていたもので……」
「へぇ、そいつは興味があるな」
逸らされないように、とにかく。と言い放って少女は話を進める。
「そんな珍しい武器を持っている以上、貴方はただの冒険者ではない……少なくとも調達ギルドに所属しているような人ではなかったと思うんです」
——紅茶を啜り、無言の肯定。
「ヴィクターは強くなりたいと言っているんです。ですから、どこかの討伐ギルドを紹介してくれるだけでも……!」
「お断りだね」
少女の懇願をウィルフレッドはあっさりと切り捨てる。
「なんで、俺がそんなことをしなくちゃならない。討伐ギルドに入りたいってんなら、まずは相応に鍛えて、調達ギルドでキャリア積んでくるのが道理……」
「違うんです! リアムは強いんです! でもっ……誰もそれを評価しない……」
少女の言い分は一見して過剰な身内贔屓もいいところにしか聞こえない。
しかし、一つ。周囲が悪いと言いたらしめるだけの理由が一つだけウィルフレッドには思い当たった。
「大凶作の八十期生……か」
「……そうです」
ポツリと呟いて、少女はそれを静かに肯定。
三年前から巷で細々と噂が流れていた『今年入ったクーヴレールの学生は出来が悪い』という話。
冒険者育成学校は三年制であるから、今年はその噂の生徒たちが卒業した年であった。
その出来の悪い。という話の出所はたった一つの偶然からなるもの。今年の学生には、八十期生には『魔術師が一人もいない』ただ、それだけだった。
毎年、クーヴレール冒険者育成学校を卒業して冒険者になる魔術師は約二〇人。少ない年でも五人前後はいる。
一学年の定員が二〇〇人であるから割合としては少ないが、魔術師はそれだけあって即戦力として有望株であり、どこのギルドもこぞってその年の優秀な魔術師を引き抜いていく。
そして、魔術師よりも優秀な成績で卒業した魔術師ではない生徒もまた然りである。
しかし、クーヴレール第八十期生には魔術師が一人としていなかった。
故に元から期待度は底に落ちている。
故に『大凶作の八十期生』
「リアムは、首席として卒業しているんです。クラスメイトの誰よりも頑張って、毎日鍛錬を惜しむことはありませんでした……しかし」
「魔術師がいないって理由で学年全体の評価が落ちていたおかげで、上がっても高くはならなかったって訳か」
こくりと少女は頷いた。
手に持つカップを横に揺らして水面を弄びながら、男は自身の見解を述べた。
「世間は魔術師ってやつを過剰評価し過ぎだな。確かに魔術師は強い」
だが、と否定の一言を加えて
「強いやつと魔術師はイコールじゃあない」
琥珀色の瞳を光らせて、確固たる意思と確信を持っているかのように言い捨てる。その気迫にアイリーンは気圧された。
「だ、断言しますね……」
「してやるさ。そんじょそこらの魔術師よりも遥かに強くて魔術師じゃないやつを俺は知っている」
顔に濃く陰を作りながら、くっくとウィルフレッド・ローグは笑う。そして、ポツリと呟く。
「八十期生か……なら、ちょうど俺はあいつよりちょうど十年先輩ってことになるな」
「ウィルフレッドさんもクーヴレールを出て冒険者に?」
「ああ、つっても俺の場合。そこで寝てる主席様とは違って下から二番目だったがな」
自嘲。
「だから仕事がないんですか?」
「それは関係ない」
笑えなかった。