第四話「転校生」――その三
亜紀雄は眠りに落ちるように、堕ちるように、静かにまぶたを閉じた――その瞬間、
――ふわっ
頬に風が当たった。
亜紀雄は驚いて顔を上げる。
自分は部屋の中にいる。空調は何も点けていない。そして窓もベランダのガラス戸も完全に閉まっているはず――――この空間に風が巻き起こるはずがない。
そう思いながら亜紀雄は目を凝らし、風を感じた方向――ベランダの方を見やった。
窓から差し込む月明かり。ゆらゆらと揺れるカーテン。半開きのガラスドア。そしてそこに佇む一つの影。よく見ると、それは――
――小麦色の散切り頭、高校の制服をまとった女の子。
「す、スズランッ!」
亜紀雄は起き上がり、影の方に駆け寄った。
「ど、どうしたんだ、スズラン? 帰ってきたのカ? っていうか、どこに行ってたんダ? というか、リーネさんが変なこと言ってて、君が帰ってこないなんて言うから――」
「申し訳……ありま……せん……亜紀雄様」
スズランはサッシに手をかけ、床に片膝をついた姿勢で、息も絶え絶えに答えた。
その苦しそうな声にいぶかしみ、亜紀雄は改めてスズランの姿を見る。
スズランは、夕方見たときと同じように学校の制服を着ていた。が、その布は所々切られており、所々焦げており、頬や手は所々汚れていた。日常生活のみで被るような汚れ具合ではない。体育倉庫に閉じ込められた時ほどではなかったが、それでも誰かと争っていたと感じるには十分すぎる状態だった。
「な、何があったんダ? そんな傷だらけで…………け、怪我してるのカ?」
「申し訳ありません、亜紀雄様……」
スズランは再度言う。
「この身が滅ぼうとも、隆久様に受けた恩は必ずお返しするつもりでしたが――三百年前からそう誓っていたのですが――どうやらそれは、叶いそうもありませぬ。誠に申し訳ありません、申し訳ありません、申し訳ありません、申し訳ありません、申し訳ありません、申し訳ありません、申し訳ありま――――」
「い、いや、だから何が申し訳ないんダッ?」
亜紀雄が声を荒げて言うと、スズランは視線を落として、まるで謝罪するかのように俯きながら、
「――私は、もう、あなた様の側に仕えることはできません」
「……………………え? 何で……そんな、いきなり……ど、どうして?」
「彼らに見つかった以上、私がここに留まれば亜紀雄様まで危険にさらしてしまいます。彼らは使命を全うするためなら、いくばくかの犠牲はいとわないのです。恐らく、級友である亜紀雄様のことすら…………。ですから――」
「だ、だから何でそんな危険な状況になってるんだって聞いてるんダッ!」
苛立ちに任せ、叫ぶような亜紀雄の声。
その声量に一瞬ひるんだスズランは、諦めたように息をふっと吐き、
「……そうですね。家臣ならば主に隠し事などもっての他。きちんとすべて説明せねばなりませんね。……分かりました。時間もありませんし、手短に説明させていただきます。まずはどこから――――そうですね、まだ亜紀雄様には精霊というものについて、お話しておりませんでした。私は樹脂製人形に宿り人間界を生きている精霊ですが、精霊というのは各々、天命あるいは属性のようなものを持っております。それは自然に起因するもので、例えば草木や風、水などを育み愛しむことを存在意義としているのです。それは私も例外ではありません。私にも司るものがあり、それはすなわち――――死です」
「…………死?」
「はい。私は死の精霊。草木を枯らし、動物を息絶えさせることが私の使命。三百年前まで、私はこの世を歩き回り、周囲のすべてに死を与えて続けておりました」
スズランの説明に、亜紀雄は黙り込んだ。
「当然のごとく、死とはすべての生きとし生けるものが忌み嫌うもの。私自身、嫌われ、疎まれ、恐れられていました。しかし当の私は、ただ天命に沿って動いているだけなので、そのような周囲の感情を意に介することもなく、ただ黙々と周囲を殺して回っておりました。孤立しながらも、それを気にすることなく、死を与え続けておりました」
亜紀雄は話を聞きながら、スズランの顔を見つめている。
「当然、この『死』に抗おうとする者は少なくなく、私に対して力に訴えてくる者さえいました。そのような者が現れるたび、私は傷つき、それでも死によって彼らを滅ぼし、しかし傷が癒える間もなくまた攻撃を受け、それに対抗するように死を与えて、という日々を送っていました。今思えば、ひどく虚しい日々を送っておりました――――しかし三百年前、私に転機が訪れました」
亜紀雄は少しずつ、顔を俯けていく。
「亜紀雄様の五代前の当主――――鞘河隆久様によって、私は人間界に呼び出されたのです。……これはまったくの偶然でした。隆久様が部下に精霊を降ろす術を教わり、実際に試してみたのだそうです。そうしたら偶然、私のようなはぐれ者が降ろされたのです」
亜紀雄は無言。
「私も、当時の人の世のことは少なからず知っておりました。そして当時の人間界では戦が耐えなかったことも……。降ろされた精霊は、降ろした主の命に従うことが必定。そして私の能力は『死』。ですから、隆久様は私を戦の前線に立たせ、敵軍を殺して回ることを命じるものだと思っておりました――――しかし隆久様はそのようなことは一切せず、私をいち家臣として側に置いてくださいました。道具ではなく、一己の存在として扱ってくださいました。私に声をかけ、私にものを尋ね、私の話に耳を傾け、頷き、そして私に笑いかけてくださいました」
亜紀雄はただ、無言。
「そこで私は、生まれて初めて心が安らかになるのを感じました。そしてそれと同時に、自分の心が今まで荒みきっていたことをようやく知りました。それまでの日々が苦しいものだったことに気付きました。悲しかったことに感づきました。誰かに必要とされ、誰かを必要とし、誰かと共に生きていくこと。それがこんなにも心安いものであることを知り、またそれが私の願望であることを知りました。私の幸せであることを知りました。そしてそれを教えてくださった隆久様に、深く深く感謝いたしました」
亜紀雄はただただ、無言。
「隆久様がご病気で床に伏した折、その一瞬の混乱をついて東本家の者が私に襲い掛かり、あえなく私は精霊界に封じられてしまいました――――が、封の効力が切れるまでの三百年間、私は隆久様への恩を返すことばかり考えておりました。そして封が切れた瞬間、私は再度人間界に降り――――あなた様の元へ向かったのです」
ここまで言うと、スズランは口を閉じた。
さっきまでずっと無言で話を聞いていた亜紀雄は、ここでようやく口を開き、
「……今君を襲っているのは、つまりその『東本家』のやつなのカ?」
「そうです」
スズランは静かに首を縦に振った。
「彼らは、人間に害を与える精霊に制裁を加えることを生業としております。そんな彼らには、私のような存在は存在しているだけで恐ろしいもの。この上ない危険因子なのです。恐らく私の封がこの時期に切れることは一族で伝えられていたのでしょう。だからこそ、私が人間界に再度降り立ってからふた月という短い期間で私を探し出し、私を消そうと動き出したのです」
ここでようやく、亜紀雄は合点がいった。
スズランを追い詰めている存在、東本家――――つまりはあの転校生、東リーネがその黒幕なのだろう。最初亜紀雄が彼女の世話係を命じられたのは偶然だったはず。しかしその後、彼女はやたら亜紀雄とスズランに話しかけてきた。絡んできた。つっかかってきた。
――おかしいとは思っていたんだ。
つまりは、東リーネは最初からスズランに目をつけ、スズランと、それに近い存在である亜紀雄に近づいてきたのだろう。そして二週間ほど観察した後――――つまりは今日、動き出したと、そういうことなのだろう。
「……じゃ、じゃあ、どうする? 勝てそうにないのカ? だったら、逃げるしかないナ。とりあえず待ってくレ。荷物をまとめて、あとお金も――」
「なりません」
スズランは首を横に振った。
そして亜紀雄にしなだれるように近づいてきて、腕を肩にかけ、額を胸に当てて、抱きこむように体重をかけてきた。それが人形だとは信じられないくらいの柔らかく温かな感触が、服を伝わってくる。
「危険です。亜紀雄様を危険に晒すなど、隆久様に申し訳が立ちません。亜紀雄様はここに留まっていてください。決してここから動かないでください。彼らの標的は私のみ。私が離れていれば、あなた様に危険が及ぶことはないはずです」
亜紀雄を抱えるスズランの腕に、ぎゅっと力が入った。
「……恐らく、私はこの世から消滅するでしょう。三百年前は何とか封じられるのみで助かりましたが、今度の相手は比べ物にならないほどの手練です。私が人間界は愚か、精霊界からも消えてなくなることはもはや避けられません。僅かしかあなた様にお仕えできず、申し訳ありませんでした。この二ヶ月、恐縮ながら大変楽しい日々を過ごさせていただきました。これからあなた様のお世話をできないことは心残りですが、後悔は何もありませぬ。私が消え去った後も、私の心は常にあなたと共にあります。どうぞご自愛くださいませ。それだけが私の願いです」
透き通るような声でそこまで言うと、スズランはゆっくりと腕をほどいた。
そして亜紀雄に、毎朝出かける間際に見せていた愛しむような微笑を見せ、
「さようなら」
そう言った瞬間、ぶわっと風が巻き起こった。
亜紀雄が驚いて目を閉じ、そして再度目を開けると、
――もうそこには、誰もいなかった。