第四話「転校生」――その二
亜紀雄は、鍵穴に鍵を差し込んだ。
時計回りに回すと、ガチャリと言って鍵が回る。
ドアを押し開くと、そこは真っ暗な玄関だった。
――見慣れた、我が家の玄関。
中学二年までずっと住んでいた家であるし、アメリカから帰ってきてからのこの一年間も、毎朝毎夕通っている場所だ。何百回、何千回、何万回と目にした内装。目新しいものなんて何一つない。
しかしそれでも、違和感が拭えない。
そう――――今日は静かだ。
この二ヶ月、この場所を通る時は、いつも隣にスズランがいた。朝は「さあ、学校に参りましょう」と言って、夕方は「では、私は夕飯の支度をいたしますね」と言って、亜紀雄と並んで微笑んでいた。当然のようにそこにいた。
しかし今日は、二ヶ月ぶりに彼女がいない。
彼女がここに存在しない。
もしかしたら先に帰っているのかも――という一縷の望みは、完全に裏切られた。玄関も、廊下も、その奥の居間も完全に真っ暗だ。真っ暗で静かだ。一目でそこに誰もいないことが分かるくらいの暗闇と静寂だった。
あれから亜紀雄は、一時間校舎中を探し回り――一時間学校中を探し回り――一時間学校の近所を探し回り――一時間通学路を探し回った。
――しかし、スズランはどこにもいなかった。
しかも探し回っているうちに、リーネのことまで見失ってしまったのだった。
最初教室で問い詰めてみたが、リーネは思わせぶりな表情のままシラを切るばかりで、何も答えてくれなかった。そして何も言わずに教室から出て行ってしまった。後を追いかけて廊下に飛び出したが、そこにはもうリーネの姿はなかった。風のように、あるいは霧のように、リーネは忽然と姿を消してしまったのだ。
何でリーネがあんなことを言ったのか、分からない。
何でスズランがいなくなったのか、分からない。
どこにスズランがいるのか、分からない。
どうすればいいのか、分からない。
分からない、分からない。
分からないままガムシャラに探し回ってみたが、結局見つからなかった。四時間探し回っても見つからなかった。手がかりすら見つからなかった。
そして家の近所の商店街を走り回っている最中に急に立ちくらみ、膝に力が入らないことに気付いて、亜紀雄はようやく自分の体力が限界に到っていることに思い至ったのだった。
とりあえず家で空腹を満たして、少し休んでからもう一度探そう。そう、そうだ。もしかしたらあれはリーネの悪ふざけで、スズランは先に帰っているのかもしれない。
そんな思考に至り、亜紀雄は家に帰ったのだったが、
――やはり、スズランは帰っていない。
亜紀雄は力の入らない足を無理矢理動かしながら、自分の家の暗闇の廊下を、リビングに向かって進んでいく。
――考えてみれば、これが元々じゃないか。
――スズランが来る前は、これが当たり前だったじゃないか。
高校に入学し、この広い家で一人暮らしをするようになってからは、この暗闇の玄関も、暗闇の廊下も、暗闇の部屋も、毎日目にするものだった。見飽きるほど目にしたものだった。これが当たり前だった。
確かに、亜紀雄が中学二年の頃までは、この家で両親と弟と共に暮らしていた。どこにでもいる四人家族の一般家庭の一つとして――あるいは比較的恵まれているような状況で――暮らしていた。
しかし、亜紀雄が中学三年に進級する春――すなわち亜紀雄の弟が小学校から中学校へ上がる時期になって、生活が一変した。
亜紀雄の弟――――鞘河望は、俗に言う『天才児』だったのである。
小学生の時分から私立の有名校に通い、そこでもさらに逸脱した成績優秀。中学に進学するにあたって、世界的名門の学校を紹介されたのである。
亜紀雄の両親もそれに乗り気で、父親はそれに合わせて転勤を会社に申し出、運良くこれが通った。望の私生活の面倒も見なければならないということで、母親も同行することになり、家族四人揃ってアメリカに引っ越すことになったのである。
しかし何の才覚もない亜紀雄にとっては、この転校が至極ハードルの高いことだったことは言うまでもない。
英語で生活するだけでも大変なのに、その英語で授業まで受けなければならないのは困難を極めた。亜紀雄は望とは違い近所の一般的な高校に入学したのだが、それでも勉強についてはいけなかった。
結局一年後、亜紀雄だけが日本に帰ってくることになったのである。
元々天才である弟と比較され続け、自分を卑下することに馴れ親しみ、あまつさえ『歩くマイナス極』とまで呼ばれていた亜紀雄には、これは決定打となった。
自分は敗者、愚者、負け犬、無力、無意味、無価値、不毛、不必要――そう思い知り、認識し、認証し、確証を得るには十分な出来事だった。
両親の期待に応えるどころか期待すらされず、しかも単なる予定や予想や予測すら裏切ってしまった。負担をかけた。迷惑をかけた。
ここまで恥を晒しておいて、それでものうのうと生きていて、一体自分は何なんだろうか? 何様なんだろうか?
今までずっと嘲笑され続けていた。
今までずっと侮蔑され続けていた。
今までずっと否定され続けていた。
自分が生きる意味が分からない。
生き続けている意味が分からない。
自分が存続している意味が分からない。
自分の存在価値が見えない。
自分の存在理由が見えない。
自分の存在意義が見えない。
アメリカでは、両親と弟の三人で和気藹々と暮らしている。未来に期待して生きている。輝かしい未来を目指して生きている。
しかし、自分はこの暗く静かな家で、一人侘しく生きている。
当然だ。当然で当然で当然なことだ。予定を予想を予測を裏切り、負担をかけて、迷惑をかけて、それ以上に自分は何を求める権利があるというのだろう? 何を望んでいいというのだろう? 何を願っていいというのだろう?
自分は一体何を考えて生きていけば――
――と、ここで亜紀雄はふっと気付いた。
今日は、このネガティブな逡巡が切れない。止まらない。停まらない。やけに長い。やけに永い。やけに不快で、やけに深い。やけに苦しい。
――そうか、これもスズランがいないから。
思えばこの二ヶ月、この後ろ向きな思考をいつも遮っていたのはスズランだった。悩む暇もないくらい、スズランは何かしらを引き起こしていた。部屋の中でドラを鳴らしたり、人の弁当を盗み食いしたり、男子を大人数手玉にとっていたり。そんなことを引き起こし、考える暇も与えてくれなかった。
だが、そんな日々ももう終わりかもしれない。
スズランがいなければ、部屋の中でドラが鳴り響くこともないし、毎朝通勤ラッシュに巻き込まれるし、昼食は購買の弁当に戻るし、色恋沙汰で右往左往することもない。そんなアクシデントに巻き込まれることはなくなる――――なくなる代わりに『歩くマイナス極』はさらなる負のベクトルへと進んでいく。
廊下を渡り、階段を登って、いつの間にか亜紀雄は二階にある自分の部屋にたどり着いていた。
スズランが来てからやたらきれいになったフローリングの部屋。整頓された棚。きちんとメイキングされたベッド。塵一つ落ちていない床。透き通るようなガラス窓。
もしこのままスズランがいなくなったら、この部屋もまた元通りになってしまうのだろうか。
亜紀雄は崩れ落ちるように、床の上にどすんと倒れこんだ――もう、足に力が入らない。
上体を上げようとして床に腕をついたが、体が持ち上がらなかった。手にも肩にも腕にも、力が入らない。
――これは走り回って疲れたから?
――空腹だから?
――それとも、スズランがいないから?
亜紀雄は眠りに落ちるように、堕ちるように、静かにまぶたを閉じた。