第三話「委員会」――その二
亜紀雄とスズランの担当場所は、第二体育倉庫だった。
この部屋は体育館の建物の隅の方にひっそりとあるもので、外からしか入れない造りになっている。コンクリートで固められた立方体に明かり取りの窓がついているだけの、こざっぱりとした閑静な場所。跳び箱を四つくらい並べればそれだけで足の踏み場がなくなってしまうような、至極狭い倉庫なのである。
この部屋の使用方法はというと、準ゴミ置き場のようなもの。
表面がボロボロで使いようがなくなったバスケットボールや、十数年前から置き放してある剣道の防具など、近々捨てる予定のものをとりあえず押し込んでおく場所である。そんなことのためにしか使われないので、ここに出入りする人間は限られている。ゴミを放り投げに来た体育教師や、今回の亜紀雄やスズランのような委員会の特命で掃除を仰せつかった生徒くらいのものだ。他には滅多に人の出入りがないため、床にはホコリが溜まり、部屋の隅にはクモの巣がかかっている。
そして今回、中に詰まっていたゴミ予備軍は先月にすでに全部出していたので、倉庫の中は空っぽ。ドアと窓とゴミ箱と天井の電球以外何もない空間が出来上がっていた。
というわけで、今月の亜紀雄とスズランの掃除対象はただ一つであり――
「――だからさあ、スズラン」
亜紀雄は倉庫の床をホウキで掃きながら、彼の傍らにしゃがみこんでチリトリを構えているスズランに話しかけた。
「僕は別に、この国を征服するつもりなんて全然ないんダ。だから手駒なんて集める必要もないし、そのために君があれこれ動く理由は何もないんだヨ。その十三人に対して好意があるわけじゃないんならさ、お互いのためにちゃんとお断りした方がいいと思うんダ」
腕をせっせと動かしながら、諭すように訴える亜紀雄。
それを黙って聞いていたスズランは、チリトリを握ったまま立ち上がり、それをゴミ箱の上でひっくり返しながら、
「……なるほど。つまり亜紀雄様は、自身の戦はできるだけ避け、頭脳戦で国を我が物にする主義なのですね」
納得顔でうんうん頷く。
「だからできるだけ柔和に他人と接しろ、と。そういうことですね、なるほど……。そのようなアウトローな戦法は、私としては狡くていただけない部分もあるのですが、亜紀雄様が言うのでしたら仕方ありません。私もその命に従いましょう」
「……もう何でもいいから、とにかく十三股はどうにかしてクレ」
亜紀雄は疲れたように肩を落としながら呟く。
スズランはチリトリを握り直しながら、
「では、その辺りのことは明日以降、おいおいやっていくことにいたします。……とりあえず掃除も終わりましたし、今日は帰りましょうか。私も早く夕飯の支度をしなければなりませんし」
「……そうだネ」
亜紀雄は五十キロを完走し終えたランナーのような声で答えた。そして片手にホウキを握り締めたまま、この倉庫唯一のドアのノブを回し、押し開こうとしたところで――
――ガタンッ
「…………え?」
思わぬ反発力に、首を傾げる亜紀雄。そしてもう一度ノブを回し、
ガタンッ
ガタンッ、ガタンッ、ガタンッ、ガタンッ、ガタンッ
「…………あれ?」
「どうしました、亜紀雄様?」
「いや、それが……」
亜紀雄は額に縦線を入れた顔で、スズランの方を振り返りながら――
「――ドア、開かないんだけど……?」
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****
亜紀雄が腕時計を見ると、時針は八時過ぎを示している。
今日学校に来てから十二時間、放課になってから四時間、第二体育倉庫の掃除を始めてから三時間――――そして倉庫に閉じ込められてから二時間が経ったことになる。
あれから、二人でドアに体当たりを食らわしてみたがびくともせず、外に届くように叫んでみたが誰かが助けに来る気配もない。出入り口はこの扉一つだけだし、窓もはめ込み式で開閉しないので、完全に閉じ込められたことになる。八方塞である。
何でこんなことになったのか?
亜紀雄が先ほど上の空で聞いていた体育委員長の話を思い出してみたところ、そう言えば第一体育倉庫の用具を入れ替えると言っていた。第一倉庫にはバレーボールのポールやマット、跳び箱など、重量のあるものが置かれていたはず。そして入れ替えと言うからには、それらを倉庫から追い出すことになるだろう。
その用具群によって、この第二倉庫の入口は塞がれたのかもしれない。
ドアノブはちゃんと回るので、鍵が壊れたというわけではない。押し開こうとすると扉が何かに当たり、動かないのである。明らかにドアの向こうにある何かが邪魔をしている。二人がかりで押しても動かない何か。……やはり、体育用具の類だろう。
――その用具を戻してくれれば出られるんだが……。
しかし、それは望み薄なことだった。時間はもう八時を過ぎている。下校時刻はとっくの昔だ。十中八九、生徒も先生も帰ってしまっただろう。
そう言えば、この第二倉庫の入口には軒下スペースがあった。その内側に置いておけば、たとえ雨が降っても用具が濡れる心配はないだろう。それを考慮してそこに放置したとも考えられなくもない。
しかしだからって、入口付近に置き放しておくのは不注意すぎる。誰の指示で動いていたのかは亜紀雄の知るところではないが、その人は中に誰かがいることまで頭が回らなかったのだろうか。
「……まったく、どうしたもんか」
亜紀雄は顔をうつむけながら呟いた。壁によりかかって、体育座りをしている体勢。扉を叩いたり叫んだりするのにも疲れ、一時間前からずっとこの姿勢なのであった。
――きゅるる
亜紀雄の腹が鳴った。無理もない。夜の八時といえば、いつもなら夕飯など食べ終えている時間である。さらに言えば、今日は夕飯前のつまみ食いも叶っていない。昼食以来七時間、亜紀雄は何も食べていないのである。
「申し訳ありません、亜紀雄様。私がもっと注意していれば……」
亜紀雄の隣で同じく体育座りをしているスズランが、申し訳なさそうな声で言ってきた。
「亜紀雄様にひもじい思いをさせるなど、このスズラン、一生の不覚です。……せめて私が、こんな樹脂製の人形ではなくアンパンかメロンパンあたりに憑いていれば、亜紀雄様に頭の一部を差し上げることもできたでしょうに……」
「……まあ、一体どこからその二つがインスパイアされたのかはあえて聞かないけどさ――」
亜紀雄は頬に冷や汗を垂らし、
「――ただ、実際にそんなことすると、腐らないように数日に一回パンを焼かなきゃいけなくなるから、たとえ出来たとしてもやらないでクレ」
あごを引きつらせた表情でそう答える。そう答えたところで、
――きゅるる
再度、亜紀雄の腹が鳴った。腹時計のなんと正確なことだろう。現在亜紀雄の胃袋では、クーデターでも引き起こしそうな勢いで腹の虫のデモ行進が行われている。
亜紀雄は空腹感に苛まれつつ、打ちひしがれたように天井を見上げて、
「……しかし、このままだと明日の朝までずっとこのままダ。それまで水も飲めないなんて、餓死してしまフ……。ああ、せめてあの窓を蹴破って出れたら……」
そう言いながら、ドアの隣上方にある、一メートル四方くらいの窓ガラスを恨めしそうに見つめた。
スズランは、亜紀雄のその視線を目で追い、
「…………あの窓、壊してよろしいのですか?」
「ん? ……ああ。本当はいけないんだろうけど、できるならそうしタイ。この際しょうがないダロ。後で怒られるかもしれないけど、数時間も空腹に耐えるのよりはマシだヨ」
「そうですか……」
そう呟くと、スズランはすくっと立ち上がった。そしておもむろに、窓の方へと近づいていく。
「……ちょっと、どうする気?」
「決まってますわ」
そう答えながら右拳を握り、肩の上に持ち上げるスズラン。
「ちょ、ちょっと待った! その窓、結構硬くて――」
しかしそんな亜紀雄の声を無視して、スズランは上半身を回し、腕を突き出しながら、その窓ガラスにストレートのパンチを繰り出した。
――ゴンッ
しかし、聞こえてきたのはガラスの割れる音ではなく、もっと鈍い音。
その衝撃音から一秒置いて、何か小さいものが亜紀雄の目の前に飛んできた。顔を近づけてよく見ると、それは白くて、人の手の形をしたもの。マネキンの手のようなものだった。
「……う〜ん、傷はつきましたが、割れませんね」
そう言いながらくるっと振り返るスズラン。見ると――――その右手がなかった。手首の部分が砕けている。
「……! ちょ、大丈夫ッ?」
慌ててスズランに駆け寄る亜紀雄。
しかしスズランの方はすました表情で、
「ええ、この体はただの器ですから、なんてことはありません。後で接着剤でくっつけておけばよいでしょう。……う〜む、しかし困りましたね。ここまで硬いとは。何か工夫をしなければ……。体当たりしようにも、あの高さでは届きませんし、周りに硬くて重いものもありませんしね。う〜むむ、一体どうすれば…………」
亜紀雄の心配などよそに、窓を睨んで考え込むスズラン。
確かに、スズランの体は元々はプラスチックのマネキンであり、物理的損傷はスズランには何のダメージも与えないことは亜紀雄も知っていた。人形を修理するように接着剤でくっつけておけば元通りになることも。
しかし、人間以外の何者にも見えないような少女が右手首を完全に失っている姿は、平和な世間しか知らない亜紀雄の気をもませるのには十分なものだった。スズランは痛がる素振りも見せないし、血も出ない。しかしその砕かれた手首は、亜紀雄にとって見ていて十分痛々しいものだった。
と、そんな亜紀雄の不安そうな表情に構うことなく、スズランは
「……そうですわね、あの手でいってみましょう」
ぱっと何かを思いついた顔になった。そして窓がある方向とは別の、まっ平らな壁に視線を移す。
(……今度は何をする気なんだ?)
亜紀雄がまた不安そうにスズランの行動を眺めていると、スズランは壁に相対して半身の姿勢になった。今にも駆け出しそうな体勢。
「……まさか」
と呟いた亜紀雄の予想通り、スズランはそのまま壁に向かって駆け出して、壁に体当たりを食らわせた。
――ゴンッ
さっきと同じ――もしくは少し大きく太い――音がする。そして、また何かがトスンと床に落ちた。
それはさっきよりも大きなパーツ――――スズランの右腕だった。
「……これならいけるでしょうか?」
そんなことを呟きながら、スズランは制服の上着をごそごそと脱ぎだす。そして残る左手で落ちた右腕を拾い上げ、脱いだ上着でくるんだ。
「……ちょっと、スズラン。何する気?」
「ふふ。まあ、見ていてください」
そう言うと、スズランはくるまった上着をまるで投げ縄のように頭上でくるくる回し、そしてそれを窓に向かって振り下ろした。
――がしゃあん
今度こそ、甲高い破壊音。ガラスの破片が飛び散った。
「ほら、割れましたわ。どうです、亜紀雄様。私の手際は?」
「……いや、まあ……」
得意げに胸を張るスズランに、亜紀雄は呆けたように答える。
「さ、亜紀雄様。ここから出ましょう。…………おっと、この割れ残りは危ないですね。払っておきましょう」
そう言って、スズランは自身の左腕でもって窓枠に沿って残っているガラス片を払った。当然のように手に傷がつき、服に切れ目が出来る。しかしスズランはそんなことを気にすることもなく、せっせと腕を破片にぶつける。
そして窓枠からガラス片が見えなくなったところで、
「さ、どうぞ。亜紀雄様」
「……う、うん」
促されるままスズランに手を引かれるまま、亜紀雄は倉庫から抜け出した。
窓から這い出すと、外は星空、満月だった。
ようやく出れた、という安堵感も亜紀雄の中には確かにあったが、それよりも亜紀雄には、スズランの現在の容姿の方が気になっている。
亜紀雄の目の前、月明かりに照らされている、右腕が壊れ、左腕が傷だらけで、汚れた上着を肩に掛け、切れ目があちこちにあるワイシャツをまとった少女は、それでも晴れやかな笑顔を亜紀雄に向けたままで、
「さあ、早く帰りましょう」
「…………」
ここで自分が言うべき言葉は、やはり「ありがとう」なのだろう。恩を受けたことに対する返答は、言うまでもなくそれが最適である。しかし亜紀雄は、スズランにはもっと言っておくべきことがあるように思えた…………思えたが、それはどんな言葉なのかまでは、亜紀雄には分からなかった。
分からず、思いつかず、結局亜紀雄は――
――押し黙ったままで、スズランの後ろを歩き出した。