第三話「委員会」――その一
――自分にしか出来ないことというのは、この世にいくつあるのだろうか?
――そもそも、そんなものが存在するのだろうか?
この疑問は、亜紀雄が中学の頃――あるいはそれ以前――から、ずっと自問自答しているものである。
例えばスズランの場合は、掃除、洗濯を如才なくこなすし、料理の腕前も結構なものである。頑張りどころを間違えてはいるが、その他諸々のことでも割と気が利くし、性格も比較的温和。成績も優秀である。
それに加えてミテクレもなかなかなもので、学校に来てからの一ヶ月、彼女がもらった恋文の数は百を下らない(スズランはその手紙をすべて亜紀雄に見せてくるので、亜紀雄は必然的にその数を把握することになっている)。亜紀雄が
「誰かいい人がいたら付き合ってみたら?」
と何気なく提案してみたところ、一週間くらい前からめでたく陸上部のキャプテンである三年生と交際を始めたらしい。最近は彼と昼食をとったりしているそうだ(この事実を知ったクラスの男子達は、存外そうな顔を亜紀雄に向けてきた)。このことからも分かる通り、スズランに異性を楽しませる性質があることは、もはや疑いようのない事実だろう。これは彼女が彼女たる意義の一つと言える。
あるいは、東香々美にしてもそうだ。その真っ直ぐな性格は、大変親しみやすいといたるところで賛美されている。その上成績は学年トップテンで、クラスでの彼女の人気は男女共に高い。香々美はクラス――――引いては学年において、なくてはならない存在として収まっているのである。
小林雑音だって、そのやたら落ち着いた性格は、将来いっぱしの人間になることを期待させるに足るものだ。体育の授業の最中、グラウンドに野犬が侵入してきた時も、他の生徒が逃げ惑う中、彼だけはまったく動じずに黙々と長距離走をこなしていた。良い悪いはともかくとして、雑音がそのうち何かしらで名を馳せることになるのは、亜紀雄にも断言できる。
――そう、別に日本一とか世界一とか、そういう技能だけを求めているわけではない。
――自分が周囲の誰にでも誇れるものを言っているかどうかである。
例えば亜紀雄は、一年間アメリカに留学していたおかげで日常会話程度の英語は話せる。しかし、別にネイティブほどペラペラというわけではない。この高校には帰国子女が三人いて、彼らに比べれば亜紀雄の英語力など石ころのようなものだ。それに、難儀な文法問題ともなればテストで上位のやつには到底敵わないし、加えて言うなら、英語が話せたところで日本における日常では活かすべくもない。亜紀雄がこのスキルを他人に誇る機会はまったくないのである。
――それはつまり、この能力は亜紀雄がここにいる理由にはならない、ということ。
他に、他に何かないのだろうか? 亜紀雄が人に誇れるものは? 人より秀でているものは?
勉強?
――否。テストの順位など、下から数えた方が断然早い。
運動?
――否。亜紀雄は今まで体育の授業以外のスポーツをしたことがない。
趣味?
――否。彼の趣味は寝ること、それだけである。
特技?
――否。部活にも入らず、それ以外の活動を何もしない亜紀雄に何かあるはずもない。
性格?
――否。ネガティブを絵に書いたような人物たる亜紀雄に、人柄で褒められた経験は皆無である。
……やはり、僕には何もない。スズランにも東さんにも小林君にもちゃんとあるのに、僕には何もない。僕がここにいる理由がない。ここにいる意義がない。
――ここにいるのは僕でなくてもいい。
ギリッ、と亜紀雄は唇を噛んだ。
深く重い虚無感、無力感、脱力感。自分を肯定できない逡巡。このまま頭を目の前の机に打ち付けて、今すぐ意識を飛ばしてしまいたくなる衝動に駆られたところで――
「――もう、鞘河君、ちゃんと聞いてますか?」
舌足らずな声が聞こえてきて、亜紀雄は思考を中断した。
声がした方に目を向けると、亜紀雄の隣の席、そこにちょこんと座っている背の小さい女子生徒が視界に入った。亜紀雄と同じ委員会に属する一年生、花塚まいみである。
まいみはポニーテールを揺らしながら、呆れたような諦めたような顔で、
「仕事の割り振りくらい、きちんと聞いてください」
「……あ、ごめん」
亜紀雄は謝りながら、机の上のプリントに視線を戻す。
『○○年度、体育委員会仕事分担表』
プリントの上段にそう書かれている。そしてその下には表が乗っていて、学年、クラス、名前、担当月がマスを埋めていた。
――現在は放課後、委員会の時間なのである。
亜紀雄の通うこの高校では、毎月第一木曜に委員会で集まり、それぞれの職務を遂行することになっている。美化委員や園芸委員など全部で十二個の委員会が存在していて、全校生徒がそのいずれかの委員会に属しているのである。
そして、亜紀雄が在籍しているのが体育委員。
体育委員の仕事とというのは、簡単に言えば体育関連の設備の管理。体育館や体育倉庫、グラウンド、プールなどの設備や、その他ボールや跳び箱などの道具を管理するのである。体育と十派一絡げに言っても、担当する場所、物品はなかなか多い。効率的に仕事をこなすためには、クラスごとに担当場所を決める必要がある。
なので仕事の前に、委員会のメンバー全員で空き教室に集まり、仕事の分担をしていたのである。
まいみは、ようやく目の焦点をプリントに合わせた亜紀雄に、
「別に難しいこと言ってる訳じゃないんですから、委員長の話くらいちゃんと聞かないとダメですよ」
「そうだね……ごめん」
「……まったく、返事にも覇気がないですね。そんな暗そうな顔して変に思い悩まないで下さいよ。そんなんだから『歩くマイナス極』なんて呼ばれるんです」
「な、なぜ僕の中学の頃のあだ名をッ?」
「顔を見れば分かりますよ」
ぷいっと顔を背け、さも当然そうな声音で言うまいみ。
亜紀雄は顔を伏せた。
――――『歩くマイナス極』
この言葉が、やけに胸に響く。二、三年前、さんざん揶揄された言葉。呼ばれた名前。こんなネガティブなイメージしかないあだ名は、もちろん亜紀雄自身だって気に入っていない。しかしそれ以上に嫌なのが、自分をしてもこのニックネームが妥当だと思えてしまうことだった。
マイナスでしかない存在。ネガティブでしかない存在。負け続ける存在。それが自分。
ああ、何で僕は――――と亜紀雄が机に肘を突いたとき、
「申し訳ありません。遅れました」
という声と共に、ドアが開けられた。亜紀雄が顔を上げると、扉の横に立っているのは小麦色の散切り頭の女子生徒――――スズランであった。申し訳なさそうな顔で立ち尽くしている。
スズランが必須の会議に遅れてきたということで、彼女を知る委員会の他のメンバーは意外そうな視線をスズランに向けた。職務をきっちりこなすスズランにしては、ありえないほどの凡ミスである。しかし、スズランが遅れてきた理由を知っている亜紀雄は、当然のごとく驚いていない。むしろ案外早く済んだなと思ったくらいである。
スズランが遅れた理由――――それはつまり、恋文のお返事。
スズランが他の誰かと付き合っているのを知りつつも諦められない男が、懲りずに手紙を渡してきたのだ。そして誰にも邪魔されない時間として、委員会の時間を指定してきたのである。
委員会が始まる直前、別れ際にスズランは、
「では、行ってきますね」
と、初めてのお使いを任された子供のように鼻息を荒くして、手紙に書かれていた場所(校舎の屋上)に向かっていったのだった。何でそんなことを宣誓してくるのか亜紀雄にはいまいち理解できなかったが、それがスズランの性格なんだろうと思い直した。
とにもかくにもスズランは、そういう理由で委員会に遅れたのである。
スズランが常日頃品行方正な生徒であることを知っている体育委員の担当教官は、
「わかったから、ほれ、早く席に着け」
と、特に怒ることもせず中に招き入れた。スズランは再度「すいません」と言って、そそくさと亜紀雄の隣に座る。
スズランが椅子に腰掛け、プリントを取り出したのを見て取った亜紀雄は、まいみにも聞こえないくらいのヒソヒソ声で
「……雪代君に会ってきタ?」
「はい。面と向かって告白されました」
「……そう。……で、ちゃんと言ってきタ?」
「ええ、もちろん」
スズランは得意げな顔で、
「ちゃんと、了承してまいりました」
「………………………………へ?」
亜紀雄は裏返った声を上げた。
「……了承? って、つまり永田先輩とは別れて、雪代君と付き合うってコト?」
「いいえ」
「……じゃあ、二股?」
「違いますよ」
スズランは明快な否定。亜紀雄は余計に意味が分からなくなりながら、
「え? でも、永田先輩とも、雪代君とも付き合うってことだよネ? それは二股ってことじゃないノ?」
亜紀雄の疑問に、スズランは「うふふふふ」とやたらおかしそうな表情で、
「確かに雪代さんとも永田さんとも交際を続けますが、私はそれ以外にも紀野さん、安田さん、岩坂さん、小野さん、常盤さん、倉井さん、早野さん、上月さん、上村さん、五十嵐さん、夏目さんとも交際をしておりますから、二股ではありません。十三股です」
亜紀雄はあんぐりと口を開ける。
「……え? みんな遊びってこと?」
「そんなことはありません。みなさん本気です」
スズランはいたって真面目な顔で首を横に振り――
「――みなさんを本気で我々の〈手駒〉に代える予定です」
亜紀雄は口をさらに大きく開けた。
「私も日々女を磨いてはおりますが、すべては亜紀雄様のため。亜紀雄様の武器の一つとするために他なりませぬ。周囲を篭絡し、丸め込み、抱き込み、そしてしかる後に利用するために、私は私に出来る最大限のことをしているに過ぎませぬ。他の殿方を操り、情報を引き出し、時に捨て駒として使う。そのための私の外見なのです。最初に陸上部に在籍する永田さんを取り込んだのも、彼が兵としてなかなか使えそうな駒だったからです。戦の折には、どうぞ率先して使ってやってくださいまし。そのために私は昼休みの貴重な時間を彼と過ごしているのですから。うふふ。今はまだ何もありませんが、亜紀雄様のためになるならば、いくらでも体を張らせていただきます。もちろん、もし亜紀雄様が欲するならば、私は喜んで直接あなた様のお世話も――」
「いやいやいやいやいやいやいやいやいやいやいや……」
亜紀雄は首を小刻みに振り、
「……そんなことして、みなさんがかわいそうじゃ――」
「そんな、駒の心内などいちいち考えている暇などありません。国のためならば、使えるものから使っていかねば」
スズランの発言に、いよいよこめかみが痛くなってくる亜紀雄。
「……いや、でもネ? そんな人を騙すようなことをして、スズランがその人たちに恨まれちゃうし――」
「心配ございません。駒共には亜紀雄様のあの字も出しておりませんゆえ、亜紀雄様に害が及ぶことはありません。確かに私にはいくらかの危険はありますが、私は精霊ですので、滅多なことがない限り消えてなくなることはありません。亜紀雄様の最後を看取るまで、お側に仕えさせていただく所存にあります」
「み、看取るって、一体何年後まで――」
「――コホンッ」
背後から咳払いが聞こえ、亜紀雄は振り返った。
そこには口元に拳を当てているまいみ。みけんにしわを寄せ、
「そういうのは別のとき、別のところでやってください。今は委員会の時間です。ほら、早く持ち場に行ってください!」
しっしと手を振る。見ると、他の生徒も席を立つところだった。いつの間にか会議が終わっていたらしい。
亜紀雄は得心がいかないままスズランを引っ張り、すごすごと教室を出て行った。