第一話「朝」――その二
スズランが請負っている役目というのは、亜紀雄の世話をすること、ただそれだけである。
何でも、亜紀雄の曽々々祖父にスズランが大変お世話になったそうだ。礼を尽くさねば返せないほどの恩。その恩を返すために、スズランはこの界に留まっているのである。
それほど大事な恩ならば、本来恩を受けた本人に返すのが筋だろう。
しかし、それは三百年前の話。この三百年の間精霊界に縛られていたスズランは、つい一ヶ月前にようやくこの界に降りてくることができたのだが、本人が生きているわけもない。なので色々迷った挙句、その恩を受けた人の子孫たる鞘河亜紀雄のために身を粉にすることに決めたのである。
亜紀雄にとっては驚愕の惨事だった。
それはそうだろう。いきなり見ず知らずの女の子が玄関から尋ねてきて、
「初めまして。これからあなた様のお世話をさせていただきます」
とお辞儀されて、驚かないわけがない。
亜紀雄は最初、スズランを新手の勧誘か押し売りか、もしくは詐欺の類かと考えた。そして当然のようにろくに相手もせず、返答も早々にバタンと扉を閉め切ったのである。ここまで冷たくすれば、どんな強引な売り込みも引き下がるはず。経験上、亜紀雄はそういう予測をもってそのような応対をしたのだった。
しかし、それは甘かった。
スズランのアタックは、犯罪のボーダーラインをまったくと言っていいほど考えていないものだったのである。
玄関を閉め切っても窓を割って進入してきたし、一一〇番しようとしたら電話線を切られたし、携帯電話を取り出したら粉々に割られたし、近所に助けを呼ぼうと叫ぼうとしたら猿ぐつわよろしく口にタオルを詰め込まれたし、走って逃げようとしたら両手両足を縛られたし、それでも暴れたら背中から電気ショックのようなものを当てられた。納得したわけではなくむしろ要求を拒もうもんなら殺されるんではないかという恐怖に負け、結局亜紀雄はスズランを家に置くことを了承したのであった。
後になってから、何であんな強引なことを、強盗歴四十年のプロでもこうはいかないだろうというくらいに手際よくやってのけることができたのか聞いてみたところ、
「いえ、まあ、いきなり見ず知らずの精霊が押しかけてくれば、普通の方は驚くでしょうし、亜紀雄様も例外ではないでしょう。私もきちんとその辺りの常識はわきまえておりますので、亜紀雄様があのような行動に出ることは十分予想できておりました。だからこそ私も私でそれに対する準備を万全にしていたに過ぎませぬ。全部当初の計画通りです」
と、スズランは困難なプロジェクトを如才なくやってのけた敏腕の女性プロデューサーのように微笑んできた。確かにあそこまで読みきっていたのならそれはそれで素晴らしいことではあるが、やはり頑張ることは他にもあっただろう、と亜紀雄が思ったことは言うまでもない。
スズランの人となり(精霊となり?)が分かってきた現在、今さら出て行ってくれと言う気にもなれず、また同じ目に会う可能性もなくもなかったので、結局スズランのお世話は継続中なのである。
では、スズランの言う「お世話」とは、具体的にどういったものなのか?
簡単に言えば、亜紀雄が快適に生活できるように働くことである。朝起こしたり、朝食や夕食を作ったり、掃除洗濯をしたり。それ以外にも何かないかと、常に亜紀雄の側を着いて回るのである。
――だからこそ通学の電車にも、お供するように亜紀雄と一緒に乗る。
亜紀雄とスズランは並んで座っている。
ロングシートの車両。その座席の中ほどに、二人は何をするでもなく収まっているのである。そして電車がゴトンッと揺れるたびに体が傾いて、二人の肩がぶつかり、その感触に慌ててスズランがさっと体制を正す、というようなことを繰り返している。まるで付き合い始めたばかりのカップルのような、この上なく初々しい風景。亜紀雄のクラスメイトが悔しがって地団駄を踏むようなシチュエーションである。
しかしながらそのツガイの片割れである亜紀雄は、隣のスズランよりも車両内の状況を気にしていた。
日本のどこでも見られるような一般的な車両であるが、しかし亜紀雄はこの上ない違和感を以って周囲を見回している。ためすがめす観察している。そしてゆっくりと口を開き、澄ました表情で隣に座っているスズランの方に顔を向けて、
「……あのさ、スズラン? 気になってるんだけど……」
「は? 何です、亜紀雄様?」
亜紀雄の方に向き直り、首をちょこんと傾けるスズラン。
亜紀雄はその口をやや突き出した表情に向かって、
「いや、あのさ、今って朝の八時じゃン。それって、学生にとっては通学時間だし、社会人にとっても通勤時間なんだよネ」
「ええ、そうですね。大勢の方が眠そうな顔で歩いてらっしゃいます」
「そう。つまり、電車とかバスとかはさ、一日で一番混む時間だと言っても過言ではないんダ。通勤ラッシュなんて言葉もあるくらいだし」
「ええ、その言葉は聞いたことがあります」
「でさ。僕たちが乗ってるこの電車も例外じゃなくてサ。この路線の沿線には会社も学校も数え切れないほどあってさ、そこに属している人の大多数がこの電車を利用するもんなんダ」
「そうですね、だからこそこの路線も成り立っているのでしょう」
「……ええと、つまりね。以上のことを踏まえた上で聞きたいんだけどさ」
亜紀雄はぐるっと車両内を見回し――
「――何でこの車両、僕たち以外に誰も乗ってないノ?」
恐る恐るそんなことを聞いた。
「だって、おかしいでショ? 一ヶ月前までは、僕もぎゅうぎゅうに押しつぶされながらこの電車に乗ってたんだヨ。背広とドアの間に挟まれながらさ。なのにこの一ヶ月、人ごみどころか人っ子一人いないよ、僕ら以外。ほら、見て、隣の車両。あそこでは見覚えのあるオシクラ饅頭が繰り広げられてるヨ。みんな苦しそうな顔で電車に揺られてル。なのに、どうして僕らはこんな余裕で座ってられるノ? しかも――――ほら! あのサラリーマンの人! 何だか青ざめた顔でこっち見てるヨ! 何であの人、あんな目で僕らを見てるノ? 何であんな顔してるノ? 何でこっちの車両に移ってこないノ?」
「……そうですね。わざわざ自分の功績を説明するなど、家臣としては恥ずべき行為なのですが――」
スズランはうつむき加減で、
「――ですが、亜紀雄様が疑問に思うなら、お答えしないわけにはいきませんね。…………ええと、ほら、見てください。あの入り口のところ。両脇にお札が貼ってありますでしょ? あれにはですね、通った人間を識別する機能がついておりまして、あそこでこの車両に乗ったのが我々なのか、それ以外なのか、判断しているのです」
「……やっぱり君だったのか。…………というか、判断してどうしたの? それだけじゃ、他の人がこの車両を避ける理由には――」
「亜紀雄様」
スズランは、亜紀雄の言葉を遮るように言ってきた。そして目を伏せて、ふるふると首を横に振って、
「……あなた様は、上に立つ者。我々を導く者。どうぞ前だけを見てお進みくださいまし。あなた様の先祖である隆久様も、それだけの風格を伴って一国をまとめてらっしゃったのですよ。あなた様も家臣のことなど気になさらず、ご自分と、そして国のことだけを考えて生きてくださいまし。私も、あなた様に危険がないように、あなた様が安全に生活できるように、日々最良の選択をしているに過ぎませぬ。だから、どうか私を信じてください。そしてどうぞ何も気にせずに、亜紀雄様の生活を送ってくださいまし」
「……い、いや。そう言われると逆に気になって――」
と、スズランの真剣な眼差しにたじろぐ亜紀雄。その圧力に負けるように上体をそらし、隣に置いてあった鞄に腕をぶつけた時、
――カランッ
と、何かが床に落ちた音がした。
筆箱でもこぼれたのかと思って亜紀雄が振り返ると、床の上には携帯電話くらいの大きさの白い筐体――――いや、まごうことなき携帯電話の筐体であった。亜紀雄が一瞬その判断を迷ったのも無理はないだろう。その携帯は、まるで高熱で溶けたかのように形が崩れていて、まるで燃やされたかのように表面が焦げていて、まるでハンマーで叩かれたかのようにあちらこちらが欠けていて、まるで高圧をかけられたかのように外形が歪んでいて、まるで刃で斬られたかのように刀傷がついていて、まるで電気ショックでショートしたかのように黒い煙を吐いていた。
――何、これ?
この疑問の答えに対していくらかの予見を持ちながら、亜紀雄は油が切れた機械のようにぎちぎちと首を回し、スズランの方を見る。
「…………」
「…………」
目が合ったまま、固まる二人。三拍ほどそうした後、スズランは妖しいほどのやたら満面の笑みを亜紀雄に向けてきて、
「どうぞ、気にせずに――」
「いられるカァーっ!」
――とまあこんな風に、スズランは日々亜紀雄の世話をしているのである。