第一話「朝」――その一
亜紀雄にとって、眠りから目覚める瞬間というのが、人生における唯一の至福のひと時である。
夢から目覚めたばかりの刹那。現実を現実と認識できずにいる一瞬の混乱。これが夢なのか現実なのか、分からなくなる。この意識の空白がこの上なく心地いい。何者にも変えがたいほどに……代えがたいほどに……換えがたいほどに……気持ちいい。掛け値なしに、これこそが至福である。
――この心地よさは、現実が受け入れがたいほど大きくなる。
あの苦痛も、あの困難も、あの後悔も、あの絶望も、すべてが夢だったんじゃないか? 幻だったんじゃないか? 現実ではなかったんじゃないか? そう思う。そう思ってしまえる。
――そう思うことで、わずかばかり心が楽になる。
ぐるりと現実世界の自分の身辺を見回してみても、安心できることなど一つも見つからない。目に入るすべてのものが自分のことを敵視し、否定し、攻撃し、嘲り、篭絡しようと虎視眈々と観察している。恵まれていれば舌打ちされ、恵まれていなければここぞとばかりに叩かれる。被害妄想などではなく、経験則からそういう結論が導かれるのだ。そういう結論しか導かれないのだ。
――輝かしい微笑の裏側で、毒づかれていたこと。
――友情や愛情だと信じていたものが、完全なまやかしだったこと。
――人一倍の好意で接してみたが、拒絶されたこと。
――頑なに守っていた自尊心を、恐ろしいほどに踏みつけられたこと。
そんな経験は数え切れないほどある。数えるのが馬鹿馬鹿しくなって数えていないだけだ。むしろ今まで十六年間を生きていて、そんな経験しかない。そんな経験しか思い出せない。それ以外の記憶が、脳に刻まれていない。
――すべてがすべてが、敵だった。
そんな環境に晒されて、一体どうやって生きる希望を見出せと言うのだろうか? 偽善者が謳う気休めに似たキレイ事など、本当に無責任だと思う。残念ながらこの世界は、自分が生き易いようにはできていない。なるようになってできたという、ただそれだけ。それだけでしかなく、それだけでしかない。自分を救うのは自分だけ。自分が救うのは自分だけ。自分を慈しみ愛しむものなど何もないのである。そんなもの、最初から存在していない。
あるいは現実だけでなく、眠りについている最中だって同じだ。
現実と切り離されているはずのその時間でさえ、悪夢に苛まれることなど多々ある。現実が荒んでいればいるほど、それに比例して――あるいは対数的に――夢さえも荒んでいってしまう。何の救いにもならない。夢は救いなどではないのだ。
――だからこそ、だ。
だからこそ、亜紀雄は目覚める瞬間を至福と据えるのである。この一瞬だけ気持ちが軽くなる。心が軽くなる。頭が軽くなる。このひと時がなければ、自己などとうに崩壊していただろう。それほどかように、亜紀雄にとって重要な瞬間なのである。
だから、もう少しだけ、このままで――
――ガシャララーンッ
いきなり、耳をつんざくようなドラの音が鳴り響いた。
これは決して「ドラのような」ではなく、正真正銘のドラの音である。
日本国内の中流家庭が住むような家屋内でドラが鳴るなど通常は考えられないことであるが、しかし否定しようもなくこれはチャイニーズ・シンバル――つまり、ドラの音であった。それを確認するのは、亜紀雄にとって造作もない。首を回して、部屋の入口の方に目を向ければいいだけである。
そこには、右手首からドラの紐を垂らした、すでに制服に着替え終わっているスズランが立っており、
「亜紀雄様ぁ―、朝ですよぉー」
――ガシャララーンッ
「う、うるさイ!」
亜紀雄は飛び起きた。
「……く、何でドラなんか持ち出すんダ……!」
「だって、亜紀雄様、フライパンにオタマというコンボでは、なかなか起きないんですもの」
――ガシャララーンッ
「わ、分かったから、もう鳴らすナ!」
耳を塞ぎながら声を張り上げる亜紀雄。
こんな朝っぱらから、しかも住宅街のど真ん中で大音量を奏でるのは近所迷惑だろう――なんていうツッコミは、亜紀雄が昨日に済ませている。これに対するスズランの返しはというと、亜紀雄の知らぬ間に壁に防音シートを満遍なく貼ってあるのだそうだ。言われて見回してみると、確かに壁の色が少し違っていた。元々白かった表面が、前日よりもいくらかクリーム色がかっている。
だからいくらかき鳴らしても平気です――とスズランはにんまり笑顔で言ってきた。確かに感心するほどに用意がいいが、それよりも他に方法があったのではないか? 他に頑張ることがあったのではないか? 優先順位が間違ってるんじゃないのか?
亜紀雄の頭の中には、昨日もそして今現在も、そんな疑問が浮かんだ、浮かんでいる。しかし――
「――では、早く身支度してください。遅刻いたしますよ」
そう言ってスズランはドラを抱えたまま部屋を出て、たったかと階下へ降りていってしまった。甲高い鐘の音に耳を塞ぐのに忙しく、亜紀雄は完全にツッコむタイミングを逃した。昨日の二の舞である。
枕元の目覚ましを持ち上げると、七時ジャスト。もう十分くらい寝ていても余裕なはずだ――実際、一ヶ月前まで亜紀雄は七時十分にアラームを合わせていた――が、すでに目は覚めてしまっている。今からもう一度布団にもぐったところでまどろむことは叶わないだろうし、もう一度ドラを鳴らされるのはご免だ。
亜紀雄はため息をつきながら立ち上がり、クローゼットを開いて制服を取り出した。
階段を降りてリビングに入ると、テーブルの上にはトーストとサラダ、コーンスープが並べられていた。
「あ、亜紀雄様。ようやく起きましたか」
入ってきた亜紀雄に気付いたスズランが、顔をこっちに向けながら言ってくる。
制服の上にエプロンといういでたち。冷蔵庫の下の部屋をのぞいている姿勢である。当然のごとく、もうその腕にはドラは掛かっていない。どこかにしまったのだろう。亜紀雄は、学校から帰ってきたら即刻そのドラを見つけ処分することを脳内のスケジュール帳の今日の予定に加えた。
しかし、そんな亜紀雄の脳内秘書の動向など知る由もないスズランは、相変わらずの無邪気な顔を浮かべながら冷蔵庫からヨーグルトを取り出し、ドアをぱたんと閉めて向き直った。そして、取り出したカップを亜紀雄の目の前、テーブルの上にコトンッと置く。
「さ、早く食べてくださいまし」
そう言いながら、亜紀雄の指定席たる椅子を引くスズラン。その動作に促されるように、
「あ、ああ……」
亜紀雄は座った。
トースト、ベーコンエッグ、サラダ、コーンスープと、亜紀雄の目の前には結構な質と量の朝食が並んでいる。一ヶ月前まではとうてい考えられないものだった。あの頃は毎朝トーストを焼いてマーガリンを塗るだけ。栄養もへったくれもなく、ただ昼間で腹が持てばいいというだけだった。
ドラで起こされるのは勘弁だが、こういう利点もあることにはある。
はぐらかされたような気分になりながらも、幾分かの満足感を以って亜紀雄は朝食に手を伸ばした。そしてたどたどしくも、パンやレタスを口に運んでいく。
多様な料理、多彩な味覚。
食事一つでもこれほどまでの快感を味わうことが出来るのか、と亜紀雄が感心してしまうほどだった。「朝食は一日のエネルギー源である」なんていう文句は家庭科教師が鬱陶しいくらいに言っていたが、その真実味を改めて実感してしまう。口に入れるたびに脳が活発になっていくのが、亜紀雄自身にもよく分かった。
朝食を食べ終わると、時間は七時四十分。そろそろ家を出ないと遅刻だ。
亜紀雄は、
「……さ、そろそろ行こう」
と言いながら椅子から立ち上がった。そして隣の椅子の上に置いてある鞄を手に取ろうとした時、
「あ、亜紀雄様。待ってください」
空いた皿をシンクへ運んでいたスズランが振り返る。
何で呼び止められたのか分からず、亜紀雄が棒立ちでつっ立っていると、スズランは亜紀雄の目の前まで近づいてきて、
「ネクタイが曲がってますわよ」
と言って首元に手を伸ばし、制服のネクタイをキュッキュと締め直した。
淀みないスズランの動作に、なすがままになる亜紀雄。
スズランの額を眼下数センチ先で眺めることになり、何とも歯がゆく気まずくなるが、首を押さえられているので思うように顔が動かせない。どうにもこうにもならずに、亜紀雄が半ば困ったような気分でスズランの絹のような髪を見つめていると、ほどなくして首から手が離れて、
「はい、できましたわ。さあ、でかけましょうか」
と、ポンッと胸元を手の平で叩かれた。そしてスズランは目を細め、新婚の新妻でもそこまではできないだろうというくらいの、愛おしむような微笑を亜紀雄に向けてくる。
亜紀雄は、やけに眩しいその笑顔を直視できずに、
「……は、早く行こう」
ときごちなく言って、鞄を担いでそそくさとリビングから出て行った。